1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. 「悪い上司はここには居ない」..
2024-10-17 36:37

「悪い上司はここには居ない」とわかれば安らかに眠りにつける【1072】

「悪いおっぱいがある」から「おっぱいはない」まで。
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おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1072回をお送りします。
えっと、10月の…何日だ?10月の17日木曜日、朝7時16分です。早いですね。しかも今日は何故かやや暑いというね。
昨日のほんと気温は出がたいなと思う。ほとんど同じなんだと思うんですけど、なんか暑いんですよね。
まあいいや、時間が今日は短めに切り上げなければならないので、この後出かけるんですよ。
お知らせ、軽くですね。ようやく第8期の3ヶ月チャレンジ、公式スタート、公式募集スタート、一般公募スタートいたしましたので、
PTXの方からですね、気になるという方はお申し込みいただくと一番ありがたいんですが、私にTwitterで、
あっとの牙のDMを、ダイレクトメッセージをいただければ、何でもお気軽にご相談いただけますんで、
これに関するお問い合わせをいただければと思います。
これで言っておいてきたぞってことは、1回か2回しかないんですが、とりあえず1回か2回があったんで、このように申し上げておけば、
さすがにですね、Twitterはご存知なんじゃないかと、私のXですね、私の軒場は知ってるんじゃないかと、
NOKIBA、ローマ字で打てるのがいいというのを人に習ったもんで、軒場が問題で、BAなのかVAなのかで悩む方もいらっしゃるかもしれませんけど、
ノバとかじゃないんで、BAです。これについての説明をしている暇は今日はないので、
ハッキーのですね、3ヶ月チャレンジは、10月の10、27日、最終週の日曜日から、26だったか27だったかから、2月の最後の土曜日までということになっておりますので、
実質、11月、12月、1月の3ヶ月ということになります。内容は詳しいところは告知文に書いてありますけれども、これと同じです、基本的には。
これは僕が一方的に喋ってるだけですけれども、参加した方の方からお話を伺い、軒庁なのって言われるかもしれませんが、もちろん軒庁ですが、
軒庁ってのは、そこで当然やらなければならないことという意味であって、狙ってるところはですね、渋滞しているコンテインドを何とかするための必ず通過しないわけにはいかない手段の一つなんですね。
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要は、自由連想やってるわけでは必ずしもないので、結局自由連想っぽくなるんですけれども、仕事をする気がしないとか、働く気が起こらないというのは、私の考えでは、何らかの意味で心の機能が、かなり抗議の捉え方してますが、機能不全にある程度陥っていると考えているわけですね。
生まれながらの赤ちゃんもですね、手とかは握るわけですよ。指ですけどね。
心というのは、そういう機能を持っていると、私は生まれながらにして、経験と関係なく、まず動きたがる。動けなくなるというのは、やっぱり体に問題がないならば、心の機能不全ということになると思うんですね。動きたがるわけですから、生まれた赤ちゃんは。動けないの。動く能力は全くないのに動きたがる。
不快なら泣くわけですよ。つまり、不快なのに一言も発せないというのは、やっぱり何らかの意味で心の機能だと思うんですね。声が出せないという機質的な問題がないならば、必ずこの条件は入りますけれどもね。
あと赤ちゃんは誰に習うこともなく眠るわけですよ。だから眠れないというのは、何かがディスターブされているわけじゃないですか。何か余計な邪魔が。寝すぎて眠れないは別で。眠れない。眠いのに眠れないってことになってくると、やっぱりそれは、眠るのは栄気を養うとか脳を休めるとか関係ないわけですよ。赤ちゃんが寝るんだから。赤ちゃんはまだ脳を使う前から寝るわけですから。
で、栄気とか別に赤ちゃん養っているわけじゃないからね。眠るんですよ。人は。理由なんかなく。それができないということになってくると、理由があってもできなくなるというのは、やっぱり何かがそこで混戦していると。
で、それを一番理解する上で、脳神経がいいっていうのが今の主流なんだけど、一方で精神力度という考え方が精神分析がありまして、力度っていうのは、ユングも入ると力度。もうちょっといろいろ入るんですけどね。
イフロイトだと精神分析だけど、ユングも入ると精神力度。サイコダイナミックスですね。精神分析はサイコアナリシスですね。
つまり、力度的に言うと一番わかりやすいのが僕はコンテーナーという考え方だと思います。心というのとコンテーナーはほぼほぼイコールだと思いますね。
ここであえてグッドバイブス、倉園圭三さんのね、最近ちょっと久しぶりに言ったけど、倉園圭三さんのグッドバイブス時に言うと、愛っていうのがコンテーナーですね。
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愛はコンテーナーだけじゃないと倉園圭さんには言われると思いますが、コンテーナーは愛ですね。これはもう確実だと僕は思います。
自己啓発に寄せて言うならばそういうことになりますね。だってお母さんが赤ちゃんのお餅とっかえの愛じゃないですか。
めんどくさい子供、眠い時もあるけどとっかえてくれるじゃないですか。愛があるってことですよ。そしてさらに、そこで言葉までかけてくれるじゃないですか。
で、眠くてうるさいという気持ちが入ってくると、これがコンテインドなんですけれども、それをお母さんは自分の中で解釈していくわけですよ。精神分析家がやるように解釈していくわけですよ。
眠くてうるさいのにこの子はなぜ泣いたんだと考えるわけですよね。赤ちゃんは自分では考えられないからアンソートソードになってしまうわけですね。
今私がしゃべっているのは、東方カイトさんの雨の日の心理学の1ページを連想しながらしゃべっているわけですよ。
で、お母さんは、つまりその赤ちゃんの泣き声やら、むずがっている様子からお餅が濡れているのかと解釈し、その前に考えて、考えられない赤ちゃんに代わって考えて、
そして解釈を与え、お餅が濡れているからあなたは騒いでいるという解釈を与え、ここまでなんですが精神分析だったら、さらにお餅まで変えてくれる。
ケア、それも身体的ケアをそこに付随させる。
そうすると赤ちゃんは、つまり不快になったら、この不快という表現をするという発想はまだありませんから、不快を外に出したという気持ちになっているんですけれども、
不快を外に出していくと、何らかの形でそれが身近にいる人という認識はありませんが、受け止められて抱え込まれて対処がなされ、自分がその問題を解決した気になれる。
これが自己愛ですね。自分しかそこにいないから自己愛ですね。
そしてこれが妄想分裂ポジションですね。なぜならば自分は何もしていないのに、泣いただけなのに、すべて一連の行動が滞りなく動いたように感じるという意味では、妄想していますね。
さらにグワーって泣くというのは、相手は自分の最大の味方なのに、そこに向かって攻撃を加えてしまう。
分裂していますよね。こういうことを実際に社会人が社会の場でやるということはですね、そこに悪意はないということです。
これがもうめちゃくちゃ大事なんですよ。そこに悪意はないんですよ。
でもここに悪意がないと言われるだけでも、ものすごく釈然としなくなるという方はですね、やはり同じように赤ちゃんが苦しんでいるように苦しんでいるということが言えると思うんですね。
だから妄想分裂ポジションは引き出しやすいわけですね。
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相手の余裕が十分でないと、つまりコンテイナーの機能が十分でないと、相手は抱えてくれないんですね。
泣いたら怒鳴り返されるということが起きる。赤ちゃんだってお母さんにそれをやられる可能性が結構あるわけですよ。
これがここでいきなりミニコットになっちゃうんですけど、ミニコットの言う失敗なんですが、失敗という経験がどっかで必要になってくるし、それは大抵失敗という経験はなされるに決まっているわけです。
お母さんは完璧じゃないし、いつもいつも余裕があるわけじゃないし、あるいはいつもいつも存在すらしてなかったりするからなんですね。
これを妄想分裂ポジションである赤ちゃんは絶えず攻撃と捉えがちなんですよ。
おむつが濡れてるのは攻撃であると捉えがちだし、お腹が空いたのも攻撃であると捉えるし、何でも攻撃になってしまう。
お母さんが怒鳴ってきたのはもちろん攻撃だってしまうわけですね。
でも精神分析ではそのようには原則考えてないと思うんですよ。考えてる節もありますが、おそらくそうではない方面から攻めてる感じ、アプローチしてる感じがするんです。
つまりおむつを買えてくれないのはお母さんがいないのであって、いやそこにお母さんいるかもしれないけど、買えないんだったらいないんですよ。
これはもういないということになるわけ。最初はそれは攻撃とみんなしていたんだけど、それは実は不在であるというところまで認識を施行することによって認識を展開していく。
必要があると考えているわけですね。だから不在っていうのが最重要キーワードの一つになる。
ちなみにさっきの暗さの警察さんのグッドバイブスで言うとですね、あなたは何を失ったとか、実際にあなたは攻撃を受けているのかっていうのを絶えず問うっていうのはですね、精神分析では直接そのようなことはしませんが、目指しているところはとても似たところがあると自分は思っています。
つまり、無いものは傷つけないって蔵野さんはおっしゃるんですよ。少なくとも昔何回も私はそれを聞いたんですね。今もおっしゃるかはわかりませんが、無いものはあなたは傷つけない。
まさに物理的にはその通りですよね。ナイフが手を傷つける。これはナイフというものがあるからそれができるんで。よく言葉の暴力で心が傷つくとかあっさり言っちゃうんだけど僕らは。
それが果たして本当なのか。言葉というものが心というもの、物じゃないんでいずれもね。言葉は物じゃない。心も物じゃない。だから傷つけるってことが果たして本当にあるかってこと。これは非常に大事。不在論について喋っていらっしゃるわけですよ。
無いものは傷つけない。でも我々は無いものによって傷つくっていう現実があるわけです。夜は怖い。夜は何にもないんだけど夜は怖い。傷つく気がする。夜に一人で放り出されると非常に恐ろしい面に遭い、何かに襲われる気がする。自分の心が作り出すんですよ。この点赤ちゃんと変わらない。
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おむつが濡れると悪いおっぱいに攻撃されている気がするというのは赤ちゃんの空想です。夜放り出されると何か得体の知れないものに襲われる気がする。それはその人の空想ですね。だから空想が自分を傷つけると思っている間は無いものがあるものになっちゃってるから悪いおっぱいがあるっていうわけですよ。
でも悪いおっぱいがあるっていうのが一番、これはもちろん比喩なわけですね。アレモリーなんですよ。本当に赤ちゃんが悪いおっぱいで苦しんでいるのかどうかは知らんのですよ。そんなことはどうでもいいことで。我々はこの水準でしか思考できなくなることがありますが、そんな水準でも思考にはなっているんですよっていう含みがフラインなり、ミニコットなり、ビオンなり、その他いろいろ。
フェアバーンとかローゼフェルドとかそういう人たちが言っている話で、日本ではあまりメジャーではない。でもこの考えが難しいはずはないと思うんですよね。これは赤ちゃんでもわかるからこその良いアレゴリーなわけです。これより簡単です。無理でしょ。悪いおっぱいですからね。めちゃくちゃ子供っぽいじゃないですか。これより現象の思考って考えるのはかなり難しくなってくると思うんですよ。
むしろ逆に。我々の思考はあまりにも水準が高度になってしまったので、そんな悪いおっぱいが私を攻め立てるなんていうことに煩わされていると思うのも難しいわけですよ。でもそういうことは起こってしまうんですよね。悪い上司が家までくっついてくるっていうふうについつい考えてしまう。悪い上司はもうとっくに昔に会社帰ってどっかで飲んでるはずなんだけど、だからアレですよ。
そいつは今頃パフェでも食ってるよってことになるんだけど、私はあまりにもあの人に酷いこと言われたから、眠る直前でもまだ頭から離れないって、これはまさに悪いおっぱいがあるってことなんですね。だけどその人は多分そこまで具体水準、もの水準って考えてないから、ものだから心が傷つくっていう、倉園さんがおっしゃったのは本当にある意味似てるんですよ。
ものだから傷つくわけですよ。もの水準で考えてしまってるから。もう一歩でも抽象化すると、この上司は私の空想だと、なかなかそうすらおっしゃらないじゃないですか。心が傷ついたっていう話をされている方は、私を上司が苦しめてるのは確実だって感じを持ってるじゃないですか。
13時に会社にいたときはそうだったかもしれない。100歩譲って。言葉が直接傷つけることはないけど確かに上司はそこにいたから。13時の段階ではそうだったかもしれないけど、22時の家にいる段階ではすでに上司はどう考えても目の前にいないんですよ。上司は自分の頭が空想してるんですね。
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でもそれを私はここで言ってるのが、たぶんこう誤解されるからみんな怒りだすんだけど、これを聞いてる人で納得いかない人はですね、これは自業自得だって言ってるわけじゃないんですよ。自分で空想していることは確かに確実だと思うんですね。
これがつまり、ない悪いおっぱいがある状態ですね。ないものを空想して作ってるんで、まだ上司はいないにまで行きつけてないわけですよ。まだない、いない悪い上司がいるになってるんですよ。ない悪いおっぱいがあるというのはそういう意味なんですよ。ないことは分かってんだけど消せないってことなんですよ。
幻覚と夢の最大の違いは、幻覚は消えない、夢は消えるってことなんですね。だからこの人にとってはもっとギリギリの水準なんですよ。いないことは頭では分かってんだけど消せないっていうわけじゃないですか。これは夢から覚められない時の夢の水準に近いということですよね。
これが幻覚になるのは何としても阻止したい。幻覚になったら精神病水準だし、どこまで行ったらやっぱり今では精神科に行きましょうっていう正式な言い方をするとそういうことになる。そういう意味では、おそらくその消せない悪夢にうなされるっていうのはボーダーラインと呼ばれる水準に近いんだと思うんですよね。
ボーダーラインというのはつまり、神経症と精神病、健常者と精神病を分けるラインなんだけど、このラインが細くないということを発見した人がカンバーグだったかな。ちょっと名前はいい加減ですが、そういう人がいたわけです。細くないと思ってた人はたぶんいっぱいいると思うんだけどね。
ボーダーライン水準というのは一つのそこに病気のグループがいて、しかもそこをさらに細かく見ていくことができる。そのあたりにパーソナリティ障害と人格障害とかつて盛んに言われていたビジネス書でも登場していた一群がいるわけです。
精神病水準、ボーダーライン、もしくはパーソナリティ障害水準、それより軽い神経症水準、そして健常者という風になっている。この場合、ボーダーラインは非常に大事なんです。ここにないおっぱいはある状態がたぶんあるんですよ。ないおっぱいがあるんだと。
それが私たちはないことはわかっているはずなんだけど、心が納得してくれない。物のように、物って消えないじゃないですか。目をつぶって物を見ないことはできても、物がそこにあることは確かだと我々は思っているわけですよ。物は消えない。物に近ければ近いほど、あるなしが不自由になってくるわけです。
上司はいないというところまで行き着けば、私たちは心安らかに眠ることができるわけですよ。それがいる、いないんだけど頭からは消せないとかね、そういうことになってしまう。この上司の悪いおっぱい、悪い上司というものがコンテインドなわけです。
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コンテインドは要するに私たちはこれがたぶんね、少なければ少ないほど、空になったらオウなんですよ。美音はオウっていう言い方をしていたと思うんですけど、禅でいうところの丸書くんですよね。禅の王法三世のね。何もないぞっていうことをね、盛んに言いたいわけ。心というものを一番軽くするなら、中身が空っぽであるのが、つまりオウであるのがいいわけですよ。
ビッグオウとの出会いですよ。私、絵本を推奨しているわけではないですけども、ビッグオウですね。つまりとにかくないってことです。だけれども、私たちは別に悟ったり禅やったりしてないんで、ないっていうことはないだろうって感じがするわけです。
毎日、それは電車とかに乗るだけでもね、いろいろコンテインドが入ってきちゃうわけですよ。コンテインドは中身。コンテナーは器ですね。コンテナーは心です。コンテインドは何だろうな、世の中の人はこれをストレスと呼んでますね。もちろんストレスだけではないですよ。
いいこともコンテインドです。悪いこともコンテインド。いいおっぱい、悪いおっぱいはいずれもコンテインドですね。赤ちゃんの存在そのものがコンテインドで、お母さんはコンテナーです。お母さんはでも赤ちゃんに授乳をしたいと思うようになる。そうするとおっぱいはコンテインドになりますね。
それを吸い込む赤ちゃんはそれを包んでるわけだから、つまり供給される側はコンテナーでもあるっていう状態がここで実現するんですよ。だからおっぱいに吸いつく絵の方が本当はいいわけです。美音はそっち描いてる。
でも岡田海人さんは今回、門川さんから出した雨の日の心理学は、もっと洗練されたビジネス書として、やっぱりおっぱいの絵は描きたくなかったのかもしれないですね。だから彼はおむつをとっかえる話に切り替えたわけです。うんこの絵とかも当然描いてないわけですよ。品が良くなる。品が良くなるとしかし何が起きるかというと、話が抽象水準に上がってしまうんですね。
我々はみんな具体水準の思考で苦しんでるってことを忘れちゃいけないんですよ。それを思い出させるために美音、美音というかクラインは良いおっぱいだとか悪いおっぱいだとか一生懸命おっぱい言ってたんだけど、まあ遠方海人さんもあの講義の中で、講義中こんなにおっぱい言うのもどうかと思うんだけどっていう言葉を入れてましたね。だからどうしてもそういうことになるわけです。フロイトが品がないという風に攻撃されてしまうももちろんそういうことです。
脱線にちょっとなるんですけど、それにしてもですね世の中、私はフロイトが全て性欲で説明したのはナンセンスだっていう話はわかる気もするんだけど一方で世の中の何割かの事件、それも相当の割合を占めてしまう事件は性に絡んでるじゃないですか。我々が性をコントロールしきれてると思うというのもよっぽどどうかと思うんですよね。大人だからと言ってですね。
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かなりの割合ですよ。性に絡まない、絡む事件。もろん金に絡む事件が一番でかいんだけれども、それ取り除いた場合、つまり金銭の欲求が満たされている人にとって次に問題になるのはほとんど性なんじゃないかっていう気もしなくもないんで、そもそも大半の人が性に相当の程度コントロールされていると考えることがそんなにナンセンスな感じがちょっともしないんですけどね。
まあそういう脱線しているとまた短く切り上がらなくなるんで、このままいきましょう。このコンテインドを減らしたいわけです。働く意欲を取り戻すということはつまりですね、コンテインドを何とかできるようになるっていうのが最終目的になっていくわけなんですよ。
今日は3ヶ月チャレンジの8期のCMですからね、これは。ずっとCMをしながら本題に入っているわけですが、そのコンテインドが大量に積み上がり積載2トンまでなのに、もう8トンぐらいまでになっちゃっているっていう状態がいけないわけですよ。で、なぜ重いかというとそれは部隊水準のままだからですね。
私たち、抽象化できればできるほど悪い上司がいない。これが一番いいわけです。悪い上司はいない。私がなぜ今も眠れずにいるのか考えられてますよね。考えることができている。
それは昼に時系列がきちんとしていて、昼に私と相性の良くない上司があまり良くないことを、いろいろ理不尽なことを言ったからだ、以上ってことにすればですね、心の負担がぐっと軽くなる。
この後継が浮かんでしまうと、今のは1センテンスなんで、多分数キロバイトの世界なんで、後継になってしまうとマルジュメディアになっちゃうんで、それがすべてイメージだったとして、JPEGですよ。
途端に容量増えるじゃないですか。そうすると容量圧迫するわけですよ。心のコンテナーは広いんだけど、無限だと思うんですけどね、ある意味で。
でもそういうものに煩わされているときというのは、やっぱり容量食ってるわけです。だからつらいわけ。
でもまだこれが後継であるうちはJPEGで済むんですよ。
これが音声付きで動画になってくると、上司が喚いている。それを私は聞いている。ちゃんと動きもあって、アニメーションなわけですよ。
そうするとファイルがなんだか知んないけどMOVとかになってくると、途端にもっとデカくなってくるんですよ。
さっき最初数キロだった。テキストに直せば数キロで済むところが、写真になると数メガになり、あるいは数百メガになり、今やギガになろうとしてしまうわけですね。
しかもそれが長くなってくるとなってくると、もうそれだけになっちゃうわけ。心の中はですね。
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それでもまだこのわーって喚かれている、すごいつらい、でもこれは空想だからって思えているうちはまだいいんですよ。
ボーダーラインなわけです。これが完全にありありと見える。上司はそこにいるんだになってしまうと、
つまり毒親はそこにいて、今も私を怒っているってことになってくるとですね。
これはもうメガとかギガとかいう単位ではなくなるわけです。もちろんテラとかいうわけじゃないですよ。
これはリアルなんです。データじゃないんです。幻覚なんですよ。
もう外に出ちゃったんです。心の外に出てしまって。心が作っているもののはずなのに、知覚と区別がつかない。
私はもうそのすでにここにいる上司と話をしている状態になる。これが精神病推准ですね。
本質的に話が違うってことです。本質的に。だからボーダーラインと精神病推准は本質的に何かが違うはずなんですよ。
もはやそこにいる人を消すとかいうことはあり得ない。目の前にあるiPhoneを消すってことはあり得ない。
iPad miniの新しいのが出るらしいですけど、iPad miniの新しいのだったらこうしてこうしてこうする。全部空想ですから。すぐ消えます。
でもiPad miniそのものは絶対消えません。売りに行ったりしない限り。
売りに行ったって消えるわけじゃない。僕の目の前から視界から遠ざかるだけで。
この水準になってしまうと、もはやコンテイナーに包むことによって抽象化するなどということはなかなかおぼつかなくなるわけですね。
だからそうなる前に一生懸命抽象化する必要があるんですよ。おむつがうんこでまみれているときはそれはリアルな出来事じゃないですか。
データ化できてないわ。あなたはおむつが濡れているから気持ち悪い。これは文章ですよ。
全然要領が違う。これをやってくれるのは誰か。母親ですよね。
つまり母親というものはこのようにリアルをデータ化しデータを圧縮してくれるんですよ。
それが解釈というものなんですね。これをやってくれる機能というものが母親機能であり、
繰り返しこれをやっているうちにこれが快感を生みますから、おむつ取り替えると気持ちいいじゃないですか。
つまり行動科学でいうところの報酬系が回るわけですね。
コンテイナーが機能、コンテインドがあり、コンテインドが苦しむ。
するとコンテイナーが機能して最後には報酬が回っている。事態も良くなる。
このサイクルを自分の心の中に入れるのを成長と言うんですよ。発達でもいいですけどね。
だから発達障害というのはこのどこかにディスターブがかかるってことなんだと思うんですよね。やっぱり。
で、私もこれを目指しているわけです。
こうして心のコンテインドで積載量満タンになってしまっている方のコンテインドをまずお話を聞くと。
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最近サイコセラピーを独学するという本を読んでいて、非常に僕がうーんと思ったところがあって、非常に興味深い話だったんですけど、話が拡散していくからの話なんですね。
カウンセラーのところに来て、最初この話だったのにいつしか奥さんの話になり、やがて社会問題になっちゃってるけど、また何か会社の上司の話になってるし、
一体この人いつになったら自分と向き合うんだろうと思ってるうちに、自分と向き合う必要があるし、そのためには今やってるように各週ではちょっとダメで、毎週にするのはいかがでしょうか。
そうしないと、2週間も空けたまま自己自分と向き合うと心の負担も大きくなりますしって言ったら激怒されたって話があってですね。
僕は作り話じゃないかと、どうしてもカウンセラーさんが書く話は作り話問題があるんですよ。
まんま書くとプライバシーの問題が云々ってことになるんで、作ってるんじゃねえかって思っちゃうんですよね。
会社員の男の人は怒りだして、ふざけてるんですかって言って、なんでこれでふざけてることになるんだろう?ってなったら去ってった。
この失敗を考察しようみたいな。これ失敗かな?ってまず僕はちょっと思ったんですよね。
そんなにいろんなことをとりとめもなく話してくれてるというのは、やっぱりラポールって俗に言うけど信頼関係と無縁ではないと思うんですよ。
やっぱり話していいと思ってるから話してるわけじゃないですか。
だからまあそれは失敗だと本当は思ってなくて失敗だって書いてるだけかもしれないし、そもそもそんな事例はなかったのかもしれないしとか、
いろんなことを考えてるうちにもやもやしてきたんで、先を読み進めているわけですけど、
この放散する拡散するというのは話を聞きすぎてはいけないっていう話にこれはなってるんですけど、
でもそれは系帳とどうやって両立させるんだよという、おそらく心理師さんあるある問題をここで、
割と諸学者向けの本ということで面白かったんですけどね。面白いんですけど、すごく生々しいわけですよ。
だってなんかね、各週を毎週にしましょうって言ったらブチ切れられて来なくなったみたいな話って、
なんかちょっとその中途半端さ、いきなり中断された感がすごくリアリティがあるじゃないですか。
ずっと映画見てたらなんか36分目あたりで、ここだってところでずっと終わって、はいおしまいです、エンドロールみたいな、
すげーびっくりするじゃないですか。そこが映画とリアルの違いですよね。
だからリアルってのはやっぱりこうなんて言うんですかね、着前としないわけですよね。
着前としないことが起きちゃう。起きちゃったわけですね。
だけど僕はあれですね、いやこれはうまくいったんじゃないかって感じもしないわけではないんですよね。
ここからユーザー目線で考えるとですよ、やっぱりこう放散し取り留めのないことをうわーっとしゃべる機会を得て、
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そして改めて考える機会になるんですよ。
そのきちんとしたきれいなカウンセリングの集結としてああであってはいけないっていうのはわかるんだけど、
カウンセリングってのはやっぱり教科書に書いてある通りじゃないことを書いてあるからこそ、
これやっぱりサイコセラフィーを独学する。本来独学しちゃいけないっていう話ってあるじゃないですか。
サイコセラフィーはスーパーバイザーがつかなきゃいけないとか、
文能官のちゃんと習ってない人についちゃいけないとか、正式でないとダメだとか、
すべて教科書的であれってことですよね。
でも教科書的じゃないからそんな独学するとかいう本が出てくるわけじゃないですか。
しかも教科書的に進まないっていうことを示すために、
わざわざこういう中断半端のところでズバッと切れてしまった、
自分はダメなカウンセラーだみたいなことが書いてある。
ダメだってことはつまりこれじゃダメだってことですよね。
それがダメだっていう事例が書いてあって、
なぜダメなんだろうって考えるっていう話になってるわけですよね。
でも私はそれはダメなんだろうなと思いつつ、
でもこれはやっぱり成功なんじゃないのかなと。
つまりそれはコンテインドに踏み込み始めれば、
どうしたって取り留めのない話になってしまうわけですよね。
よくよく取りまとまっているんであれば、
赤ちゃんはつまり取り留めのない話してるわけじゃないですか。
何がうわんだ、全然わかんないじゃないですか。
フギャーフギャーフギャーとか言ってるけど、
何言ってるのか全然わかんないじゃないですか。
これを取り留めのある話にするのがコンテイナーの役割じゃないですか。
お母さんがおむつが濡れているんだねってのは、
これはまさに取り留めがあるじゃないですか。
話せばすぐわかる。しばらく頭にも残る。
なかなか頭に入ってこないとか、
何の話してるんだか道筋を失うとかいうのは全て、
言ってみればフギャーフギャーフギャーなわけじゃないですか。
あれは頭には残らないじゃないですか。
だから赤ちゃんの声っていうのは耳にばっかり残るわけですよね。
耳に触るわけですよ。
私のこれもそうですよ。
聞いていて、言うのをやめればいいのにって思ってる人は、
この私のA等がいちいち邪魔になってくるので話が入ってきにくい。
私のこの話は取りまとめが非常に良くなってるという風には、
私は全く思いませんので、
ああいう話になってみたり、こういう話になってみたり、
コンテナの話になってみたり、ビオンの話になってみたり、
クラインの話になってみたり、
かと思うといきなりクラウドの形状とかが出てくるし、
わけわかんないよねっていう、
このまとまりの無さこそがコンテインドなわけじゃないですか。
つまり私のコンテインドを聞いている皆さんは、
コンテナとして包み込んでくれてるから、
私は喋っていられるんですよ。赤ちゃんみたい。
これが大事じゃないですか。
私はこれしか大事なものは人間の営みでもはやないと思ってるんですよ。
これが大事だと。
だから私はこういうことをしながら、
私のコンテインドをコンテナしてくださいっていう方から、
時間分のお支払いいただいて、
あとはひたすらコンテナになることに全力集中すると。
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そうすると、私がすぐにコンテナになれるぐらいだったら、
その人は多分私に物を頼まないんですよ。
周りの人に向かって、わーわーって言っていればですね、
周りの人がなんとかしてくれたり、
あるいは自分の心に向かって、わーわーって言っていれば、
自分の心がなんとかしてくれるわけですよ。
これが適応ってものであって、
非適応的になるときには、
他の誰か、しかも自分の身近にはいるとは思われない誰かに向かって、
これをやらなければならなくなる。
だから私は大変非適応的な人間なんですよ。
これを私が身の回りだけで事足りるんであればですね、
私はこういうことをしないんですよ。
でも非適応の人間がいるからこそ、
新しいものって出てくるっていう面もあるわけじゃないですか。
こういう精神分析的ポッドキャストとか、
頓珍感で衰強なことやってる人間は、
そういうものではないんですよ。
不思議なことですけれども、私からすると。
で、聞き手の人というのも、
多くても、スタンダードFMで見ると多くて30人、
少ない日は5人とかになると。
これがまさに現実なんですよね。
でもコンテナーになってくれるんなら、
5人って多いじゃないですか。
1人だって十分じゃん。
私はひもてだったから、そういう話はしましたね。
コンテナーになってくれる女の子、
1人探せば人生はもう天国だと思ってたんですよ。
5人も聞いてくれるんならば、
言うことないじゃないですか。
だからフォロワーっていう考え方っていうのは、
現代的であって、
私はコンテナーっていうふうに捉えるように、
今はもう完全にフォーカスが移ったという感じがするんですよ。
もちろん、やってる活動とビジネス内容が変われば、
先日そういう、昨日そういう話をまさにしたんだけど、
もっとフォロワーって考え方を取らなければならないフェースもありますよね。
そういうビジネスも私の中にもありますが、
これはそうではないんですよ。
これは1人、2人、3人、4人というのが、
ものすごく大事な意味を持ってくる。
その分どうしても格安とかただ同然とかではやれなくなる。
つまりフリーミアムは効かなくなるんですけれども、
でもそういう世界なんですよね。
でもやっぱり私はコンテインドとコンテナーってことだと思うんです。
ある意味では、あくまでもこっちの味方に無理やり立てば、
つまり力動的な味方に無理やり立てばってことですけど、
こう打つ代だってコンテナーの強化なんだと思うんですよ。
コンテインドしきれないという。
2トントラックに8トンになってしまってますという状態のとき、
緊急的に例えばタイヤパンクしないようにするとか、
なんとか囲いを高くするとか、
それが薬のやることだと思うんですね。
実際何やってるのか分かりませんよ。
だけどそういうことだと思うんですよ。
基本的にカウンセリングしないと、
積み荷を減らすとか、そもそも積まないようにするとか、
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積んでるもののいくつかを圧縮して減らすとか、
そういうことはできないんですよ。
それをやるためには母親がそうしたように、
カウンセラーがそうしなければいけない。
受け止めて、受け入れて、
防衛同一化を引き受けて解釈をし、
それによって相手が報酬を感じられるようになっていく、
という必要があるんですよね、と思うんですよ。
こういう考え方でやってますということです。
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