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おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、【1071】をお送りします。
10月16日、水曜日、7時39分です。
今日が、今日最高ですね。これが一番、多分年に3回とかしかないポッドキャスト日和の気候。
外気21.3度で、薄曇り、だから日が差してないってことですね。
これが一番いいな。これなら1時間、1時間喋りませんが、1時間でもいけそうだという感じがします。
ここで頭が上気してくると終了となるわけ。
どうしようかな。本当は本題に入ってからにしたいんですけど、
今日お知らせ2回するかもですね。第8期の3ヶ月チャレンジですね。
10月の最終週から2月の最初の週まで、100日になっちゃうんですけどね。
でも実質11月、12月、1月の3ヶ月、2025年1月ですね、の3ヶ月になります。
確かですね、僕の記憶している限りこの辺りから始まったんですよ、3ヶ月チャレンジって。
2月にスタートしたんだったっけかな。あれは本当に思いつきでしたね。
第1期とか言ってはいましたけど、1期で終わるんじゃないかなぐらいに正直思ってましたから。
誰もいなくなってしまってね、やっぱこういうのはダメなんだな、みたいに思って終わるだろうぐらいに。
少なくともその可能性は十分あると思ってたんで。
まさか8期までいって、基本、お辞めになる方もいらっしゃるし、そうでなければよくないと思うんですけど、
数は増え続けているんで、実質的には。横ばいだったことありますけどね。
正直ちょっとびっくりしております。
いや、ありがたいことなんですが。
その8期の3チャレをですね、やるわけなんですが、ようやく形が整ってきたとはいえ、
結局これは何をやっているのかを、上手くまだまだ全然全く上手く伝えられていないんだということを、
どう捉えられたにせよ、先日の日曜日に神保町でやった1day、3チャレ1dayみたいな、
3チャレ1dayでするというのは土台無理なんですが、あれもまた考えなければいけないなと思ってますけれども、
なんだろうな、精神分析的なレクチャーみたいなのを平気的に月1でやっていけばいいのかなって思うようになったんですけどね。
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だけどそれだと、やっぱりここをどのようにPRするかなんですよね。
そういう意味ではちゃんと仕事なんですよ、ビジネスなんですけど。
だけれども、実に難しいんですよ、これがね。
僕の中では何をするのかも、ようやく8期に至ってようやくかって毎期毎期言ってる気もするんですけどね。
何をするかは、1期の時から意識ははっきりしてましたし、やってることも原則変わってないんですよ。
洗練はされてきてるとは思いますが、知識もすごい増えてるってわけじゃないですよ。
細かい部分増えてますけど、知らないことが急にここ数期で知ったようになったってことは起きてないんですよね。
だけど、どこを使って、どこは使わずにただ自分が持っておけばいいかみたいなことは、
それだってわかりませんけどね、今後の展開次第では。
でも、なんとなくつかめてきたんですよね。
認知行動療法的な面ももちろんあるんだけど、それはどういうことなのかもですね。
もちろん、何て言えばいいのかな。
分かってなかったとは言いませんが、分かってたとも思えない。
やってみなくちゃ分かんないことばっかりなんで。
お知らせついでになんですけど、これが本題であれお知らせであるといういつも通りの流れですね。
定義なんですよ。昨日も話した通り定義なんです。
昨日のちょっと聞いてみて、全くうまく話せてる気はしないなと思ったんですが、
言ってることは今日もそんなに大きくは変わらないと思うんですね。
定義というのはですね、そもそも定義を扱うのか。
扱わないってことはできないと私は思うんだけれども、
遊ぶってこと。言い方を変えるとですね。
ウィニコットが一番ここを強調して、言葉に直して強調したと。
みんなやってることなんですけどね。遊ぶんですよ。
どうやってどの程度遊ぶか、そして遊べるかということなんですね。
これは誤解を招く言い方ではあるけれども、
やっぱり成人病水準の人にとっての難しさは遊べないってことなんですね。
水準がきつくなればきつくなってくるほど、
神経症水準だとしても遊べなくなってくるということが言えると思うんですね。
だから僕は定義をあからさまには扱うことができないし、
またあんまり扱いたくないという気持ちもあるんですよ。
一方で店員を扱わずに済むはずがないとも思ってるんですよ。
遊ばずに済むはずがないとも言ってもいいんですけど、
ここに矛盾があるわけですよ。
遊ばずに済ませられるんだったらば、それは一番いいわけ。
先送りと、僕はやっぱり先送りから入るんですけど、
この入るって言い方は何を意味してるのかというと、
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先送りだけ扱って先送りがなくなりました。
っていうのが一番意味に決まってるんですよ。
なんか自動車直しに行くようなもんですよね。
あのちょっと重油ランプのところおかしいから見てくれるって言って、
はいわかりましたって感じで見てくれるわけですよ。
あのトヨタとかディーラーさんとか行けばね。
そして直してくれて、あの直りましたってことでお金払って、
めでたしめでたしなんですよ。
このモデルケースを僕らは持ちすぎちゃってるから、
何でもかんでもこれでいけると思っているようなところがあるわけね。
それが先送りなどのビジネス書あたりに一番適用されている、
僕からするとスーパー大誤解なんですよ。
無理が無理、無理筋にも程があるという。
今の自動車のようにやれるっていう前提を持っちゃうことがおかしいんだけども、
みんな持ってるわけですね。
だからビジネス書には荒らぬ批判が飛んでくるわけ。
一つは、いやこれ全然役に立たないじゃんっていう批判ね。
そうに決まってるじゃないですか。
おかしいと思ってほしいわけ。
それは批判してる人は分かって言ってると思うんですよね。
一方で、じゃあビジネス書のようにやっても無駄だからどうやるんだっていうと、
そんな解は多分ないんですよ。
俺だったらこうするよっていう答えを出してくる人は、
ビジネス書そっくりのことを言い出すんですよ。
それは意味ないとは言いませんが意味はあるんだけど、
それに意味があるならビジネス書になってありますよ。
で、そんな解はあるはずないんだっていう言い方もあるんだけど、
それは僕はダメだと思う。
それは、そんなに喧嘩してるばっかりいる夫婦なら離婚しないよっていうのと変わらなくて、
全然そこに遊びがないんですよね。
だから、この種の問題ってのがある。
つまり、自動車整備をするようには、片付かない問題がある。
それはどういう問題かというと、人工的でない問題ですよ。
自動車は人工的だから直し方が決まっているわけ。
で、学校の、よく言われる通りなんですよ。
学校の問題には常に答えがあるわけですね。
だってそれは人が答え先に用意してるんだから、
フェジナンみたいなもんなんで、
あれですよね、やめよう。
とにかく答えがあるわけですよ。
どういう結婚相手がいいですかみたいな問題には答えがないわけですよ。
答えなんてないんですよ。
この2つを同じもののようにしちゃいけないということで、
流行ったわけですよ。
答えがあるものと見出しましょうという考え方が流行ったわけですよ。
ビジネスショーやライフワークの世界というのは、
その流行りを受けたわけ。
で、この人と結婚したらいいかどうかを決める、
そういう答えの出し方があるんだと。
この人と離婚した方がいいかどうかを決める。
喧嘩したら何をすればいいかを決める。
そういう偽善で答えが出るんだということに決めたわけですね。
あまりにもこの答え方式がうまくいくように、
人間、社会は結局猛烈にここのところ進歩したんで、
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なんだ、こういう問題も自然の問題も全部答え出せばいいんじゃんってことになって、
答えが出ることに決めてみたわけですよ。
それは大変うまくいくように見えたんで、
みんながそれが猛烈に流行って、
先送り問題みたいなものもあたかも答えがあるかのような顔をして、
答えが述べられている。
で、うまくいく限りにおいてそれはそれで結構じゃないですか。
それでいいわけ。
だけれどもうまくいかなくなる場面はこれは自然のことなので、
本来は答えが原理的にないものだから、
ここが同意できないっていう人は、
このポッドキャストは聞かないほうが絶対いいと思う。
ここは僕は、このポッドキャストをしゃべっている私は、
原理的に答えがないと思ってますから、
散々パラ答えを提供して、
そこが僕の攻撃される部分でも非難される部分でもあるし、
当然だと思うんですよね。
だって私は答えがあるという過程にのっとって、
その流行りにのって答えを出す方式の本を書いて、
それで売れて成形立ててきたわけですから、
それでローンを組む必要があったけど、
家まで買っちゃったわけですからね。
そのローンまだ払ってますけどね。
だから当然僕がそれについて攻撃されるのは当たり前のことであって、
何らおかしなことではないんですね。
でも僕はずっと答えを提出してきて、
いや佐々木これダメだよ、答えになってないよって言われて、
いやそれは当然なんだよ、答えは元々ないんだからさっていうね、
これはいわゆる代理の答えなんだから、
答えがあるものと仮定するとこういう答えになってますって話であって、
ないんですよそりゃ、元々究極の答えは。
でもずっとそれをやっていて、
これは究極の答えないなと。
それで悩んだわけですね。
そしたらどうしたらいいんだろうと。
この種の答えはあるはずないんだけど、
答えを求め続ける気持ちは残り続けるという、
このケースはどうしたらいいんだろうと。
だから悪いおっぱいというのは、
良くない、良くないというか悪いおっぱいというのは、
そこで止まることはできないってことなんですね。
悪いおっぱいは分かりにくいと思うんで、
ちょっとこの言葉を使ってみましょうね。
悪いおっぱいって毒親のことですよ。
最後の結論を考えてみてほしい。
悪いおっぱいとは、ない悪いおっぱいがあるにこれを変換する。
それはいない毒親がいるなんですよ。
ここで止まっちゃうというケースはすごく多いわけ。
いない毒親がいる。
だってもうお父さんお母さんたかいした。
少なくとも一緒に住んでない。
すぐ目の前にいるわけじゃない。
直接攻撃はしてこない。
でもいる気がするから私は何とかかんとかっていうのは、
いない毒親がいるもんね。
これを変転させて、毒親がいない。
ほら、悪いおっぱいはないになったじゃないですか。
ない悪いおっぱいがあるから、悪いおっぱいがないまで変転させる。
ここには2段階ある。
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悪いおっぱいがあるという世界から、ない悪いおっぱいがあるという世界から、悪いおっぱいはない。
だからそれは毒親が私を攻撃した。
悪い毒親がない、いない悪い毒親がいる。
その次が悪い毒親はいないになる。
ここまでいかないと、だって目の前にいないんだから。
ここまでいかないと、症状機能水準に入れないっていう課題なんですよ。
そしてこれがそのまま転移なんですよ。
そしてこれが遊べるかどうかってことを決めるわけですよ。
遊べないわけですよ。
ササキが毒親がいないとか言ってるっていうのだけでも許せないことになって、
直ちに炎上しましょうみたいなのは遊べてないわけですね。
なぜ遊べなくなったかと言いますと、それは答えがあることになっちゃった。
いや、毒親というものはいてはいけないのだと。
だから社会が毒親を管理しようみたいになると、遊ぶ余地がどこにも全くなくなるんですね。
で、これはそこの発端は強い善意。
よく言う善意と正義とその危険性みたいな話なんですけど、
要するにポリコレみたいな話なんですけどね。
この話はポリコレみたいな話に当然発展しますけれども、
僕らがまず第一義的にというのか、少なくとも私が第一に感じることは、
そこは善意でスタートしたに決まっている。
つまりそれは娘さんを、2歳か3歳の娘さんをですね、
悪いことをしたからといって水風呂につけてどっか行っちゃってはいけないんですよ。
いけないのは確かなんですよ。
それはとても可哀想だと思うのは当然だと思うんですよね。
次に、ではそういう親からその娘さんを保護して、
社会で管理しましょうって話になったら、
そこにどんなにそれが善意で発想されたものであっても、
なかなか厳しい世の中になったな、ぐらいは思うと思うんですよね。
普通に育てられた人間の感覚からすると、
その社会が子供を代わりに育てるんだっていうね、
感覚に恐怖に近いものを感じるのが自然だと思うんですよ。
だけどこの問題は古くて新しい問題であって、
昔からずっとあるわけですよ。
昨日今日急に毒親が発生するはずないんですよね。
子育てがいい加減だった親なんて、
平安時代から鎌倉時代から江戸時代からいたに決まってるじゃないですか。
で、そのような子供を保護しようという発想だって、
多分僕が思うに平安時代からあったと思いますよ、発想それ自体はね。
心優しいとか善意の貴族とかが、
そういうこと考えたって別におかしなことはないですよね。
で明治時代になればですね、当然福祉という観念のもと、
そういう発想は出てくるはずなんですよ。
私以前、中学か小学の頃だったと思うんですけど、
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テレビでね、戦後何とかの奇跡みたいな、
ああいうドキュメントみたいなのを社会の先生が、
社会の授業の代わりに見せるじゃないですか。
面白くまとまってて、あっちの方が授業よりは大体面白いんだけど、
まあそれはいいとして、
面白いなあと思ったのがあったんですよ。
アメリカですごく共産主義が接見してくるんですね。
共産主義の危険性を言ってるテレビだったと思うんですけど、
お母さんがね急に目覚めちゃうんですよ。
社会に目覚めちゃうんですよ。
私たちは間違った子育てをしてきたのよ、みたいなことを言って。
アメリカですからね。
いきなりお父さんが目が点になってるわけですよ、お父さんは。
何が起きたの?みたいな感じで。
お母さんがすっかり宗教的になっちゃって、
社会主義って宗教的なところあるんで、
うちの子はみんな人民寄宿舎学校に入れますみたいなことを言い出して、
何何何?みたいなことを言ってるうちに、
身支度を始めて家出てっちゃうわけですね。
という劇なんです、これは。ドラマなんですね。
でも、社会が子供を育てた方がいいんだって発想はこういうことですよね。
究極的には、最終的には。
親は完璧じゃないんだから。
結局のところ、親が子供をちゃんと育てられないんだったら、
子供をいい布団に寝せましょうとか、水風呂に出るのやめましょうとか、
それ全部社会がやったらいいじゃんってことになるじゃないですか。
時々親は子供に会いに行ってね。
これをどう考えるかってことなんですよね。
最終的にはですよ。
それは、ヤバい親だけを話せばいいんだって言うでしょうけど、
ヤバいかどうかを決める人にとっての基準が絶対変わるじゃないですか。
だから今ここの線は自動相談所兼、合わせてすごい難しいんですけども、
アメリカは一段と難しいですよ、日本より。
全然アメリカって家に入ってはいけない国なんで。
だからあのようなドラマをアメリカでやってたってことはすごいんですよ。
ああいうことあったんだってことですよね、アメリカでもね。
今もあると思うんだけどね。
で、日本でも当然同じような、遥かにマイルドになりますけど日本の場合、
つまり社会が手を入れていいって思われてる部分がでかいんで、日本の方が明らかに。
昔から言うじゃないですか、
昔はね、近所でみんなで子育てしたもんなんだよ。
同じじゃんって僕は思うんですよね。
近所だって社会じゃないですか。
昔は親戚のおばさんがねって。
それも社会じゃないですか。
つまり、それが嫌だから社会が入ってこられないようにしたわけじゃないですか。
それを、例えば信田先生のような方が、それは危険なんだと。
心理師の方はおっしゃいますよね、心理師の方は大変な目に遭っている人を見てますから、
当然そういう方に傾いていくはずなんですよ、ある程度。
善意があれば特に。
やっぱりどっちかといえば、誰だって同じですよ。
それが水風呂にずっと詰めつけていて、半死の状態になりましたって話を聞けばですね、
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その上良くないだろうって思うじゃないですか。
そうした場合に切り離そうっていう話に、切り離さないまでも、やっぱり社会の手を入れなければダメだと。
家庭ってのは無法自体なんだとか、アナーキーなんだって話になる。
アナーキーのは大局にあるわけですよ。
大きな政府ですよね。社会が面倒見ましょうという。
社会が面倒見るってことは、社会が介入するってことじゃないですか。
今こっちの方向に話がぐるっと流れているわけですけれども、
つまり今SNSはやっぱり意見偏ってると思いますけれども、
どっちかというと親が育てるのは危険なんですよ感の、そういう声が強くなりやすいですよね。
親に育てられれば大丈夫だってみたいなことを言ってると叩かれるわけですよ。
お前の親が良かったんだよ、お前はただラッキーなんだよ、親がしゃがんだよってことでバンバン叩かれるわけで、
そういう人はバカバカしいと自分では感じちゃうわけ。
自分は困ってないんでそんなに。だから何も言わなくなるじゃないですか。
必然的に、いかに危険な親がいかに危険なことをしたかという話の方が、
いろんな意味で字幕をさらいますからね。
その話が集中してくるということは、
やっぱり社会の介入というものが必要なんだっていう方向の意見の方が強まってきやすいわけですよね。
そういう世界、そういう集合体の中ではですね。
だからその話が膨らみやすくて、結果としては最初は善意であり、
そういうところから保護するっていうのは一時的に先を保護する。
そしてお父さんにもカウンセリングを受けてもらうみたいな話って、
一見何にも問題がなくてとてもいい話のように聞こえるんだけども、
どう考えたってそれは社会が介入してくる。
家族という状態、プライバシーというものがその分減らされるっていうことを、
案に言ってなければ何を言ってるんだろうって感じがするわけですね。
ここには、私の反転ですよ。
ここまでは世の中一般の流れであって、
何が炎上しやすくてどういう話になってるかって話でしかないんだけど、
ここからは私の観点であって、
つまりこれを取り扱うか取り扱わないかということは、
遊べるか遊べないかということに直結すると僕は思うんですよ。
ある方が先送りで困ってますって言ったときに、
先送りの話だけするというのがまさに全く遊ばないってことなんですよ。
全く遊ばない。
トヨタに行ってここ直してください。
他に一言も発さないってことが遊びゼロってこと。
これがかなり言ってされてきているのが私たちの社会なんですよ。
社会の向かってきた方向なんですね。
だから僕らは遊べてないわけですよ。
これを精神化に当てはめるとどうなるか。
私は会社に行くのが大抵辛くて朝起きられなくなりました。
一言も発さずに、はい幸福財。
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自動販売機みたいなところでボタンを押して、
こういうの望ましいって思う人はいるわけじゃないですか今の時代は。
幸福財みたいなのも国が発行したカード、デジタル大臣とかいますからね。
スマホをかざすとその人がうつであることが証明されてガコンって出てくるわけですよ幸福財が。
遊びどこにもないじゃないですか。
これが究極形態ですよね。
全くどこにも遊ばないっていう。
何が言いたいかというと逸脱がないってことなんですよ。
トヨタに行くと佐々木さん最近どうですかとかって言ってくれるわけですよ。
これが遊びでしょ。
これ無駄じゃないですか。
無駄だっていう人いるじゃないですか現実に。
そうやって10分の間に筋トレと読書をしたほうがどんなにいいかっていう理論は。
理論じゃないなこれはな。
価値観はあるわけじゃないですか。
この遊べなさがですね。
遊べなさにもう相当根を上げてきているわけ。
私も根を上げてきているわけですよ。
この遊べない世の中には息づかが詰まりそうでとてもやってらんねえと思う人はいっぱいいるわけですよ。
多分ね。
僕はそう踏んでるからこの仕事してるんですけどね。
じゃあどの程度遊べるかってことなんですよ今度。
ずーっと遊んじゃダメなわけだと思うんですよね。
先送りで困ってる。
うつで困ってる。
でもなんでもいいんですけどあるいはサムデイリストがでかくなってきました。
サムデイリストっていうのはGTDってやつでね。
気になっていることを全部洗い出してみるといつかやりたいことが出てくるわけですよ。
何がいいかな。
なんでもいいんですけどいつかやりたいことが出てくるわけですよ。
だいたいねあれなんですよね。
ごっちゃり溜まってる何度を綺麗にしたいとか何度って今言わないか。
皿がぎっしり溜まっていて目も当てらない棚をどうにかしたいとかそういう話なんですよ。
サムデイリストに載ってくるのはね。
でこれを何とかしたいっていうのが主訴ってんだけど主に訴えるから主訴なんだけど。
さっきのうつと同じですよ。
逸脱しちゃいけないんだったらその話だけしなきゃダメですよね。
どうすれば片付くのかいついつまでに片付けるつもりがあるのかとか何でもいいんですけど。
逆算を使ってもいいし行動療法を使ってもいいし何やってもいいけど
とにかく逸脱すんなってことですよ。
で明らかにここでサンチャレのCMですよ。
私たちのサンチャレでは逸脱しまくるわけですよ。
それは遊びなわけ。
なぜならば精神科に行った人の少なくとも私が信じる控えめに言いますよ。
4割は話がしたいと思ってると思う。
少なくとも自分がどうして今こういう状況で苦しんでるのかについて
手短にでもいいからこの手短が1時間とかになるんだけど
手短にでもいいから話したいと間違いなく思ってると思うんですよね。
でもそれは逸脱なんですよ。
話し始めてみると必ずわかるんですけれども
全然いつかやりたいことの話にはならなくなる。
あるいは少しずつ少しずつ話は逸れていく。
いつかやりたいことを私はいっぱい持ってるんだけど
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全くできてないと。
どうして自分はやりたいことができないんだろうって話になっていって
そういえば昔お父さんは私を水風呂に行って話に
私が聞い始めたら相当ずれちゃってるじゃないですか。
でもこれは私はこの逸脱がないと話にならないと
話にならないんだけど
だから話をしない方がいいっていう意見の人とは
私たちがやってることは全く逆なんですけれども
ここで遊びっていうものが
遊びって逸脱ですからね。
遊びってものが起こってる。
昨日の定位の話、定位とは遊びなんですよ。
定位が遊びだと思えないという人が
精神分析を一番受ける人なんですけれども
定位は遊びなんですよ。
全く関係のない話がここで展開されていく。
なぜか親子関係の話をしてしまっている。
ずっとやりたいことをやってないんだって話を聞けば
私はそれどのぐらいの項目あるのでしょうかとか
どういうことがやれてないんだろうかとか
そもそも何でやりたいことをすぐやらないみたいな話をしたときに
私やりたいことを子供の時すぐやらせてもらえなかったところが
実は思い出してみたら全然やらせてくれなかったって話に
私が興味を持って話聞き込むじゃないですか。
このようにして話がどんどん逸れていき
時間をどんどん使い始めていき
その人が何で困っているかというと
時間がないってことで困ったりするわけですよ。
矛盾がそこにあるわけですね。
で、このことをやっているうちにですよ
例えばその人が自分がどれほど酷い目にあったかということを
僕に節々と語り始めるとするじゃないですか。
でもまあその話は3回ぐらい言ってね。
3回ぐらいっていうのはすごく少ないんだけれども
精神部生はこれは毎日やるから
露骨になってくるんだけれども
露骨に時間無駄にしてるなって感じ
お互いが抱き始めますからね。
そこで露骨になってくるんだけど
露骨になる何が起きるかというと
分析している側が少し焦り始めるかもしれない。
この焦りは何でしょうね。
なぜ私が、私は分析家じゃないけど
話を聞いていて
あれこの話またずっと始まったんだけど
時間無駄にしてるから元に戻さなきゃと思って
ところであなた何しに来たんですかって言ったら
佐々木さんって酷い人ですね。
なるかもしれないじゃないですか。
これは非常に大事なポイントですよね。
この酷い人ですよねというのは何をやったかというと
私が親になっちゃったってことですよ。
そのやってきた人にとって
これはもう一般の話してますからね。
さもサンチャレの話してるように言ってますけど
僕はある意味ではそんなことはなくて
このような展開そのままは
サンチャレではむしろ起きにくいというか
起きなくは全くないかもしれないけど
それは将来のことは分かりませんけど
起きにくい。
なぜならばそこまでがっちりした構造を作っていないし
首相に戻らねばみたいなプレッシャーが
そこまでかかるように作られていないように
というか僕が作ってないから。
27:01
でも精神分析では毎日
今やってないかもしれないですけど
少なくとも週に半分は会うと
週3回は会うと
断続的に同じ話が始まると
精神分析家が焦り始めるというのは
焦らさせられているはずなんですけど
それがだから訓練を積んだ分析家なのに
私が興味を持っちゃうのは
もしかすると私の事情かもしれない。
でも分析家はそうでないように
訓練されているはずなんで
ブランクになっている。
ブランクにはなれないと思うけど
でもブランクになっているとすると
焦らせられている。
焦るようなことを焦るようなことを
クライアントさんがここに無意識が入ってくるわけ。
無意識のうちにやっている。
いやその話もういいから
ちょっと先送りしている問題に
集中しましょうみたいな。
いやそうすると
精神分析の人は言われるわけですよ。
あなたはとてもひどい人だと。
私のことが何も分かって
私がどんなにひどい目にやってきたかが
全く分かっていない。
というのはつまり
あなたは親と同じことをやっているという
非難を受けられたわけですね。
この非難が超重要なわけです。
これが遊びなんですよ。
だって親子ごっこじゃないですか。
親子ごっこ遊びじゃないですか。
遊びで親子ごっこができるなら
しかしそんな深刻な話にはならないわけね。
普通にというのかな
親子関係がマイルドなものならば
親子ごっこがそんなに
張り詰めたものになるはずがないですよね。
親子ごっこ始まりました。
いきなりもう一触即発ですってことになってきたら
遊びなのに遊べてないっていう
矛盾がそこに発生するわけですよ。
この矛盾をある意味引き起こそうとしているのが
多分精神分析なんですよ。
私はこの矛盾を引き起こそうとはしていないから
精神分析じゃないつもりなんですよ。
ここに一線があるわけですね。
この矛盾を意図的に作り出すような構造
ありとあらゆる意味でこの構造が
厳格化していくと
この矛盾が猛烈に高速に引き起こされてくるわけですよ。
そしてそれに耐えられるようでないと
分析化はやれないってことになってるわけですよね。
だってですね
週に3回会うとか
あと長期の休みが始まるんですよ。
ヨーロッパだったからってこともあるんですけど
週に3回も会ってて会ってて会っててですよ。
話を聞いてうちの人は本当ひどい人でみたいな
夫の話をずっと聞いてあげる人がいて
すごいいいカウンセラーさんが見つかった。
本当私のことがよくわかってくれる。
バタッと会わなくなる。
めっちゃ会いたくなるじゃないですか。
連絡もできない。
手紙も出せない。
電話にも出てくれない。
すげえひどいやつって感じがするじゃないですか。
この構造を意図的に作り出すことによって
この自分が会えないときに
会いたいときに会ってくれない。
役もありますよね。
そういうふうにひどい人だと思ってるのに
始まりましたからまた週3回来てください。
この非常に不自然な構造が
会いたくもないのに
毎日毎日会いに行かなければならない。
会わなくたって金は取ると。
なんてひどい話なんだろうってなるじゃないですか。
30:02
さっきまではなんて素晴らしい人だったんだろうって
思ってたのに
今やなんてひどい人だろうってなってるじゃないですか。
こういうふうによくあるパターンなんですけれども
総極的になっていくわけですよ。
理想化と脱価値化が始まるわけですよね。
このクライアントは
すごい素晴らしい人だと思っていた
私の中の良いクライアント像と
私の中の最悪のひどいクライアント像が
2つ分裂する。
つまりその人の気持ちは分裂する傾向を
ここで露呈しているわけです。
クライアントはカウンセラー、精神不適化
1人しかいないんだから
2つの像を持ってるっていうのは
そもそもにしておかしいわけですけど
僕らは往々にしてこれをやるわけですよ。
例えばJさんとうまくいってるときは
良いJ松崎像が私の中にあり
Jさんとこじれてくると
こじれては来ないけど
こじれてくるとしましょう。
そうすると冷たいJ松崎像とかでいい。
でもJ松崎は1人しかいないんだから
2人いるってふうに思うってことは
僕の心がおかしいわけですよ。
現実と乖離しちゃってるわけですよね。
これが妄想分裂って言われる状態なわけですよ。
こういうことってしかし
往々にしてめちゃくちゃあるじゃないですか。
こういうことっていうのは
実際にJさんと会ったときに
良いJなんだろうか
嫌なJなんだろうかって
考え出すことそれ自体がすでに
僕が心の中で遊んじゃってるってことなわけですよ。
現実のJ松崎と相対してないわけですね。
僕の心の中のやりとりだけでやっちゃってる。
この状態を自己愛
全然自己愛には
自己愛らしさはないわけですよ。
自己愛と言ってるのは
自分の心のお庭の中から出られなくなってるっていうか
関心が全部自分の心のお庭の中に
集中しちゃってるわけですね。
よくこういう僕がフォトキャストやってて
関心される方がいらっしゃるんですけど
時々関心するようなことは
僕は何もやってないんだけれども
関心されるほどのことはね。
お風呂の中で
お風呂の中じゃなくてもいいですけど
私はセミナーをやる前はですね
2時間、3時間かけて準備をバッチリして
僕が今も言いましたけど
あのーとか江戸とかに絶対言わないようにして
フィラーって言うんですけどね
フィラーないようにしてますと
その人は心のお庭の聴衆と相対して
喋っているわけですよ。
心のお庭の中には聴衆のイメージ層がいっぱいいて
大体厳しいこと言うんでしょうね。
それに対してこのように言ってこのように言って
いや矢字が飛んでくると
引っ込めみたいな感じなんで
それに対して原稿を書き換えて
より完璧にする
このお庭への執着心がものすごい強いという意味で
この事前にものすごく準備しなければ
リアルに出ていけないというのは
でも褒められることもあるんですけど
ものすごく精神分析的で言うところの
自己愛っぽさっていうものがあると思うんですよね。
だからこの心のお庭の中で
33:00
その人が頭が没頭してしまって
リアルな人と遊べなくなっているっていう状態を
リアルな人とも遊べるようにするために
なんていうんですかね。
精神分析お庭を作ってあげるってことが
構造化って呼ばれているものなんですね。
私はその手法に非常に感心して
いつかやりたいことができないんですって
いつかやりたいことをやるための
百の処方箋みたいなのを出したって
遊びがどこにもないんでそこには
その人の問題は遊べないことだと思うんですね。
サムデイリストなんて
売っちゃっておけばいいわけじゃないですか。
何もかもが深刻になっていく。
親子関係も深刻になっていく。
なぜなら深刻だったから。
水風呂の話一つとってもですね
この水風呂に入れられたっていうような話は
なぜか精神分析でもカウンセリングでも
それこそ時々SNSでも出てくるって
見ちゃうんだけど
これはですね、どう捉えるかで
めちゃくちゃ話が変わるんですよ。
パパと一緒に2歳の頃に水風呂で遊びました。
通るじゃないですか。
パパが水風呂に接管のために入れて
そのままいなくなりました。
通らないじゃないですか。
遊びかそうでないかの境界線ってのは
すっげえ難しいんですよ。
でもパパといつも仲良くして
2歳の頃も3歳の頃も
水風呂でキャッキャしてました。
14歳になってもキャッキャしてました。
なんか通らなくなっていくじゃないですか。
遊びなのかどうなのかってのは
誰が決めるのかっていうと
当事者が決めるより他ないんですよ。
そして当事者がそれを遊びでないと
遊びだと思えなくなった瞬間から
それは遊びではなくなるわけですね。
さっき言った通り
ここには分裂が必ず
まあいいや、分裂の話は一旦置いといて
すぐに転移が始まっていきます。
つまり遊びということができない
ここに面白いというか
まあ当然のことでもあるし
矛盾があるんですけれども
遊べない人であればあるほど
カウンセラーを遊び相手にしてしまうんですよ。
つまりいかにその人が
それまで遊んでもらってないかってことを
よくよくこの話は表しているはずなんです。
で、僕の考えですよ。
僕の考えでは現代人はみんな
遊んでもらえてないんですよ。
遊んでもらえてないからこそ
私はサンジャレを作ったってことなんですよ。
これは遊びの中でしか
解消されない問題だと思うんですね。
どんなによくできたプログラムだろうと
ダメだと思うんですよ。
先送りゼロプログラムであれ
サムデイリストゼロプログラムであれ
僕はそういうものは
それがすなわち
それを作り出すってこと
それ自体が自動販売機だと思うんですよね。
処方箋が正確であればいいっていうのって
自動販売機じゃないですか。
先送りゼロプログラムボタンを押して
36:01
手に入ればいい。
今だったらクリックして
それがダウンロードされればいいわけじゃないですか。
まさにそうなってきてるじゃないですか。
SNS見たってそうですよね。
機嫌が悪い人との対応するための
10を絵でまとめましたっていう
素晴らしく私から見るとね
グラレコがれいれいしくなっていて
いかにもこれ人気出そうだって見ると
なんかいいね2万とか書いてあるわけじゃないですか。
これがまさに遊べないってことだろうって
僕は思うわけですよ。
一瞬で終わっちゃうんじゃないですか。
そこには何のやり取りもなく
SNSに人がいる必要すらなく
ボットで十分じゃないですか。
それだったらね。
それがバズるということによって
お金がチャリンチャリン入ってくるっていう
この非常にスマートな構造は
どこにも逸脱がないわけですよね。
逸脱がなければないほどいいわけ。
ここであの
いや機嫌が悪い人がいてね
そうなんだみたいな
でもその人ってなんか
そんなに機嫌悪くないんじゃないとか
言っていて
うちの奥さんもさーとか
逸脱だらけじゃないですか。
無駄ばっかりでしょ。
そしてそんなに3時間も4時間も
新橋の飲み屋で話してあげく
何の解決も見ないわけですよ。
これがいいわけ。
これしかないと思うんですよね。
この真逆をやっていて
うまくいってないんだから
うまくいってる人はいいんですよ。
うまくいってる人はいいんです。
うまくいってないんだから
私はこれをやるしかないと思うんですよね。
これを意図的にやる。
これを逸脱している世界でやるってことが
に任されてきていたはずなんだけど
逸脱しない世界が出来上がってしまったので
出来上がりつつあるので
少なくともそっちの方向に向かってるんで
やっぱり私は精神科ってところに行った時に
起こる現象が
今どうであるか知りませんよ実態は
リアルは知りませんが
なんとなくなんだけど
東京無職日記ってのがあるんですよ
時々読み返すんですけれども
気分落ち込む漫画なんですけどね
大学とか会社とかに
いつしか行けなくなる人のお話なんですよ
辛くなってくるわけですよね
そこで彼は鳥畑さんっていう主人公がですね
放っておくと非常に引きこもってしまいそうな方なんだけれども
何かっていうと結局のところ
いろんなことを考えてるわけ
いろんなことを考えてるわけですよ
一つたりともそれが遊びになってくれない
っていうのが僕が感じる
僕の視点を通すと
そう見えるわけですね
例えば会社に行くわけですよ
バイトとして行くんですけれども
大学は途中で辞めましたと
今会社に来ましたとなると
社長と仲のいいナンバー2みたいな人が
めちゃくちゃ怒り出すわけですよ
君は親のことなんだと思ってるんだみたいな
そんな中途半端な人間に
何ができると思うんだみたいなこと言って
めっちゃ辛いっていうことになるわけじゃないですか
遊べないんですよ
いやいや
ナンバー2がそういうことを言ってきたって
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ちょっとおかしくないっていうので
流してしまえばいい
流してしまえる人もいっぱいいるわけじゃないですか
そういう人はそういう目になかなか会いにくいんですけどね
社長はそういうタイプなんですよ
いやいやいいと思うよ
全然いいと思うよみたいな感じで
遊べるんですよその社長はね
だからそのナンバー2の人を
雇うこともできるわけですよね
そういう遊べない人を雇い入れて
仕事では役に立ってもらうっていうのは
遊びなんですよ
矛盾してるじゃないですか
自分と同じような人ばかり取るんだったら
そういう人取る必要って別にないわけですよ
でも一方で鳥畑さんみたいな人も
平気でバイトで雇うと
こういうのが遊びってものだと思うんですよね
要するに逸脱がいっぱいあるってことなんですよ
転移ってまったく逸脱ですから
間違いなく逸脱なんで
私は転移を起きると思ってますけど
起きないように色々あれこれ
手を打とうとしてるわけですね
思いっきりあれが精神分析みたいになってしまうと
構造がまるでなってないので
多分非常に崩壊気味の現象を起こすと思うんですね
なるべく早い段階で最初の手相に戻ると
でも手相に戻っても手相に戻っても
手相に戻れば手相が取り扱われて
例えば片付けたいですって話に戻れば
私たちはここにもともとは片付ける
っていう目的に行きましたよねっていうのを
確認はするんだけど
確認したからといって
私は別にそれに対する処方箋があるわけでも
レシピがあるわけでも
解決策があるわけでも
あると思った時には言いますけど
基本的にはないわけですよ
だって私はそんな経験があるわけじゃないし
それに対して何が言えるってほどの
ものがあるわけではないんで
でもどうして片付けられないのかという話から始まって
いずれ転移っぽい展開を見て
逸脱が始まって
話が全然片付けと関係ない方向に
ずるずるずるずると流れていき
時間を空飛していくというこの感じは
必ず味わうことが
それを味わってどうするんだって
思われるかもしれませんが
どうするのかって
今言ったような理由でこうするわけです
私たちはその
逸脱できないんですよ
逸脱だけで成り立てばいいようなところすら
逸脱できなくなっているんですよ
あの
よくあるじゃないですか
友達がいないとかっていう
そういう訴えも
かつてサンチャリでいただいたことがあるんですよね
訴えじゃないやっぱりそれも逸脱の中で
考えてみると友達がいない
例えば何の目的もなく
遊びに行けないと
誰かと何か打ち合わせをする商談をするっていう人はいっぱいいるんだけど
何の目的もなく会うことができないと
何の目的もなく会おうと連絡するのは怖いと
これはよくあるんですよね
昔私も
昔こそいろんなイベントをやりました
42:00
東京ライフ研究会とかが一番分かりやすかったんですけど
ライフハックのために
仕事に役立つ術を学ぶために集まろうってやって飲める
これまあ僕がそう思ってただけで
主催者はそう思ってなかったと思うんですけど
僕はそう思って
あれはすごく大事なことだと思うんですよね
今の時代って特にそうで
ヤジさんとキタさんみたいに
何の意味もなく集まるのが
いっぱいいらっしゃるわけですよ
特に生産性が高い人ほどそうなわけで
そういう人にとっては
何でもいいから
効率を見つけては集まるということをして
集まった先では
もうその主催者はどうでもよくなっているというのが
僕は一番その人の心の健康の役に立つと思うんですね
それをどうやって増やすかだけを
今私は考えているんですよ
サンチャレはこの問題が
もっと深刻な人方向けなんで
さっきの精神分析に少し近づかざるを得ないんですね
精神分析に近づくというのは
今私が言っている文脈は
つまり遊べない人が
無理やり遊ぶということをやると
実際にはカウンセラーを激しく責める
みたいなことが起きるわけですよね
あなたは全然分かってないとか
尾形カイトさん責められてましたよね
カウンセラーのくせに
そんなことも分からないなんてあり得ない
あり得るんですよ
それが分からないからこそカウンセラーなんですよ
カウンセラーとは
心の悩みが手に取るように分かり
私の心がどう
私がこう言った時にどう思っているのかが
はっきりと分かり
比較なアドバイスをしてくれる
それはカウンセラーでも何でもないですよね
ただの出来の良いAIになってしまう
そういう苦しみを抱えているから
尾形さんに会ってるんですよ
でもそういう人が
そうやって尾形さんに会いに行くと
尾形さんを責めまくるっていうパターンを
すんじゃうんですよね
それが変異だし
それが遊びなんだけど
遊びを遊ぶことができないので
遊びで人間関係を
破壊すれすれまで持ってくるんですよ
尾形さんは優秀なカウンセラーさんなんできっと
少なくとも訓練済んでるんで
これが遊びであるということに
気づくことができるわけですよね
そこでこのすれすれのところまで行って
だってそんな責められる理由
何にもないじゃないですか
尾形さんはすでに
お金も多分印税とかでいっぱい稼いでるし
ウェイティングリスト増しの
クライアントさんも
いっぱいいらっしゃるんだろうから
そこまで責められるんだったら
そもそもその話私と関係ないから
これで終わりにしましょうって
一言言えば済むわけじゃないですか
これで遊びが打ち切られてしまうじゃないですか
絶望的ですよねそんなことになったら
でも私が思うに
この絶望的な状況を
僕らは生きてると思うんですよ
だからそこで尾形さんは堪えるんだけど
堪えるということは
つまり遊びを継続しますと
こんなにつらくてこんなに責められている
っていうこの遊びを継続します
っていう意味なんですよ
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これもよくあるんですけど
このポッドキャストなんかでも
そうなんですけどね
何回かそういう
お便りなのかコメントなのか
いただいたんですけど
尾形さん全然分かってないと
傷つく人の気持ちが全然分かってないと
だからこれは遊びなわけですよ
ですよね
だって聞かなきゃいいじゃんって
僕が言ってしまったら
もうぶち壊しじゃないですか
分かってないんですよ
分かってないってことを言う
分かってないことを言う
そして分かってないと言われる
という遊びなんですよ
言われることに必然性は何にもないですもん
私は何だろうな
サムデイリストが片付かない人の苦しみというものを
心の底から真剣に考えて
サムデイリストをゼロにするために
各排説レベルで頑張りますとは言ってませんから
言うつもりもないですし
つまりこれは
そんな人のことは本当のところ分からないんですよ
分かるふりをする
つまりごっこ遊びなわけです
分かるふりをするってことを
してくれないことになりつつあるから
分かるふりをする人がいなくなっていくんですよ
変身家に行っても
分かるふりすらしてもらえなくなるわけですよ
私は家族関係こうで
親はこうで
会社ではこうで
ハワハラで
そんな話を聞いてくれるのには
40分50分もかかるじゃないですか
なのに診療時間は5分だったりする
1分間違ったら3分だったりする
無理でしょ
できることとしたら
病理を到底して薬剤を出すと
でもそれを飲めば
その落ち込む気分とか
もやもやした気分がなくなっていき
会社に行けるようになったら
それでいいじゃんって
絶対になるじゃないですか
常識的に考えて
親がそんなに問題があるならば
隔離分離して保護すればいいじゃん
すでに全てが
その甲斐が与えられている世界では
このようになって
行かざるを得ないはずだと思うんですよ
フリをしたりごっこをしたりするという
それに何の意味があるんだってことですよね
分かるよあなたの気持ち分かるよって
お友達がお酒飲みながら話を聞いてくれるのは
無駄だって
よくあっちこっちで
2014年の頃には言われてたじゃないですか
そういうことです
だからこれを
無駄なんだけど
無駄なくやるんですよ
無駄なことを無駄なくやるんですよ
だからどうしてもこういう言い回しになっちゃうんです
これは言葉で説明するからこうなるんですよ
リアルではみんなやってることなんです
リアルではね
これをだから私がトヨタのディーラー行くと
コーヒーもらいながら
佐々木さん最近どうですかってやってくれるわけですよ
あれがなくなってしまったらもう
世の中絶望的だと思うんだけど
まあなくなりはしないですよ
でも余裕がないという名のもとに
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ああいうものは削られていきやすいんですよ
余裕がないっていうのは
余裕を
余裕をなくしたいんですよね
余裕がないことにしていきたい
深刻にしていきたい
そうすることで選択と集中を確実なものにしていきたい
そして僕らは
天意というものを許さない世界というものを
作っていきたいわけですよ
ここにあるのは親子関係ではありませんという
ここにあるのは
医者と患者という関係ですとかね
ここにあるのは
ビジネスコンサルタントと
そのクライアントという関係ですとか
そこから絶対逸脱しないようにしましょう
長い時間は持ちませんから
当然それは
長くても5分
できれば秒で
だからこそ自動販売機が
ベストということなわけですよね
この世界で先送りは僕は
先送りだけじゃないんですけどね
夫婦の不仲とか
解決できない
甲斐のない問題というものが
取り扱われなくなるだろうと
で、まあ
酷いんですけど
取り扱うのの一つが
さんじゃれなんですよ
その方法論って僕は
精神分析が一番
宛になると思っている
ということですね