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2023-05-11 42:55

【781】精神分析を日常に活かしたい

精神分析を本だけでは学べなくても、知識を扱っていくことはできる
外出しての収録と仕事の時間の読み方
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
えーと、5月の、たぶん11日ですか。
11日の9時です。
えー、ちょうど9時ですね。
昨日、これを収録できなかったんですけど、もうこの時間には電車に乗っておりまして、日比谷に向かってたんですね。
めったにないことでしてですね、日比谷でちょっと収録兼取材のようなお仕事がありまして、こういうお仕事がですね、毎月1回ずつあると本当にいいなって思うんですけれども、なかなかそういうわけにもいかないんでしょうね、やっぱりね。
昨日はちょっと気合い入れて、一応気合いの入れた格好をね、奥さんにお願いして、それ気合い入ってるのかと言われると困るんですが、家にある洋服の中では気合いのまあまあ入った方で、えーと行って、朝早くから日比谷に行ってですね、収録をして。
しかもその後、今度は相模大野というところに移って、フラズノケイゾーさんとドアヨスTVを撮って、で、この時間にはもう早くに家を出ていたのに、帰ってきたらもう夜の7時という、もうサラリーマンみたいじゃんと、サラリーマンの方に怒られるかもしれませんが、そんな1日でした。
ので、これをやる余裕がなかったということですね。
えーと、もうそういう日ってやっぱりさすがに、僕あんまり外出まくってないから、ふたふたになってるわけですよ。
家に戻ってきて、充実してんなーみたいな、よくわからない、勘違いした感覚を持って、えーと、昨日は終わったんですが、今日はね、この分というのか、それほぼ家から出ない1日になりそうなのでわかんないんですけど、
まあ、仕事はないんで、外の仕事ってほんと無くなったんですよね。久しぶりでした、あの感覚。外の人に会って名刺をいただいて、そこで仕事をして、その人たちとはおそらく二度と会わないであろう、そういうことって、めったに今はないんで。
ありがたいなぁと、ありがたい限りだと思いましてですね、こういうのが、まあ毎月ってのはさすがに贅沢の極みなので、半月にいっぺん会ってくれると本当に嬉しいなぁというですね、まあフリーランスってのはそういうところはあります。
はい、で、まあその話はいいとしまして、あの、今日はですね、昨日プラザのさんとお話をしているうちに、やっぱりこう、この無効10年、60になる前には何とかしてこう、一つ思ったのがですね、
時間のスパンの読み方について
最近ずっとある程度形になってきたこの、100日チャレンジ編でもなければ、グッドファイブス編は混じっちゃってますが、グッドファイブス編とイコールでもない、何編だかわからん編なんですけどね、結局。
水目金の中で2日は喋っている、精神分析編ではないけれどもを、日常生活と仕事に生かすというこの話がようやく少し形になってきたんで、これをまとめてしまいたいというのが、無効10年もかかるのかっていう話もありますが、いろいろややこしいんですよね、この精神分析の世界というのは。
なので、無効10年ぐらい最終的にはかかるのではなかろうかと、最近この時間のスパンの読み方がちょっと昔と違ってきたんですよね。
こういうことを昔は無効1年でやるぞみたいに平気で思ってたんですが、できた試しはないわけですよ。
タスクシュートだって、教会みたいな話は、実に今年、去年とかに初めてやったのは結局そうなったわけですけど、それでもじわじわと時間は経ちつつあるじゃないですか。
このタスクシュート教会は昔から、実はJさんも考えてはいなかったわけじゃないらしいですし、私と大橋さんは2回ぐらいはトライしてる。
明らかに私はこういうものを作りましょうよと大橋さんに申し掛けたのが数年前だったんですよね。
そしてやるかみたいな話あったんだけど、なかなか時間が経つ割には形にはなかなかならずですね。
何か途中までは行けるんだけど、なかなか進まないと。
やっぱり今回は協力している方の数が今までに無く多いので、それでここまで来られていますよね。
そういうのっていうのも大変ありがたいし、やっぱり若い頃の時間の読み方はあまりにも大雑把すぎて全然ダメだったなと。
今もかなり勢いでやってるところもあると思うんですけど、勢い大事ですからね、こういうことでは。
ただやっぱり昔に比べれば、どういう風なところにどのくらいパワーがいる、時間がいるっていうのがわかるようになってきたんでしょうね、やっぱり。
精神分析を生活に生かす取り組みについて
これをちょっと考えながらこの話をしてみたいなと。
昨日、倉園さんとそういう話をダイレクトにしたわけではないですけど、僕の中ではそういうお話をいただいたというか、そういう風なことを喋った感覚を持ったのですね。
そしてその後、夜にセッションもありまして、そこでもそういう話を不思議といただき、
そういえば、先日ツイッターでもこんなようなつぶやきを、私の中での解釈ですけどね、人は解釈で歪めるんで、人の話をどうしても。
バイアスかかりますからね、そういう風にいただき、何となく本当に数名の方なんですけど、これも大変ありがたいことなんですが、
私がこう、密かにやりたいなと、もしかしたらできずに終わるかもしれませんが、一生が。
でもやりたいなと思っていたことを、そういうものは、そういう話が伝わり始めたといった感じがするんですね。
僕が言っていることの意味が何となく了解されつつ、数名の方であっても、おそらくこれを聞いてくださっている方の中にはもっといらっしゃると思うので、
多分100名はいないかもしれないけど、2桁には乗りつつあるんじゃないかと。
2桁でもちょっと驚くべきことなんですよ、これは。
そういう話って、多分5年前には発想することも難しいみたいなところがあったんですよね。
それもそれで変なんですけどね。
何が言いたいかというと、要するに言ってしまえばですね、
フロイトを始めとした、特にフロイトが主に5割以上は、5割以上だからではないね、フロイトが体制を占めていて、
その後対象関係論という考え方で発展してきたこれを臨床じゃなくて生活に生かそうという発想。
僕がやっているのは今はそういう取り組みになっているわけですね。
精神分析とグッドバイブス
加えて、そのベースに僕の感覚では、僕にとってはですけどね、そのベースに僕にとってはグッドバイブスがあると。
これがなければ多分この取り組みに取り組もうという気には絶対になっていない上に、
今でもそれをやろうという気にはなれなかったでしょうねっていう話。
これを全部はできないかもしれませんが、伝えていければいいかなと思うんですね。
グッドバイブスと静心分析も似たところがないわけじゃないんですけど、
ここは別にそこで整合性を強引に取らなくてもいいんですよ、私の中では。
グッドバイブスをベースにして様々な活動ができるっていうのがこの話の頑目なんです。
もう一つは私はですね、タスクシュートも結構ラディカルなことを思い切って、
思い切ってラディカルなタスクシュート論というのを自分の中で一応自分には納得させられつつあって、
これをやるのにグッドバイブスはかなり僕の中ではベースになってるんですね。
これはもう全くですね、タスクシュートとグッドバイブスの整合性を取ろうとかは考える必要はないなと、
最近は私は思うようになっているんですよ。
別物として扱っておけばいい。
ただ、ここまで大胆にといいますか、
私の中でのタスクシュートというものがしっかりと形になったのは、
やっぱりグッドバイブスで思い切りがついたっていうのが大きいんですよね。
グッドバイブスは僕の中では三振してもいいから思い切って振ってこい的な世界なんですよ。
スクシュートライトとUIデザイン
そういうことグラノさんが言ったわけじゃないんだけど、
そういう心で踏ん切りがつくっていうかね。
ダシャーだったらそういうことを思うことは絶対あるわけじゃないですか。
三振してもいいから思い切り振りたいとか、
三振してもいいから思い切り振ってこようって本人が思いそうになることは絶対あるんですよね。
でもそれを監督に言われるかどうかは違うんですよ。
その監督に言われた感みたいなのがグッドバイブスなんですね、私にとって。
このタスクシュートについて言えば特に。
だから、私最近過去の仕事なので書いた記事ですね。
他に日経ウーマンというところでも書いてたんだけど、
このタスクシュートにまつわる話を読み直してみると、
驚くほど言いだらってるなと。
今私が形に直したものについて言おう言おうと懸命になってて、
中には結構はっきり言い切ってるのもあるなっていうのがあるんですよ。
だから、ほうがみたいなほうがって言いますけど、目みたいなものはあって。
ただ、グッドバイブスでこれを言っていいんだということを確信した。
いいんだってことを確信するってですね。
それについてそんなに気を回してるのもどうかと思うんですけど、
昔の記事を読み直してみると、私の気持ちとしてはまさにそういうところにあったんだなってのがあるんですね。
まるで悪いこと言ってるみたいなんだけど、そういうのではなくてですね。
私はこれで一番役に立つと思ってるんですよ。
ついでにちょっと話がこれに関連して少し脱線するんですが、
先日現在製作進行中のスクシュートライトというものがあるんですね。
今私使ってるんですよ、それ。
のUIの話がありまして、つまりデザイン的な話ですね。
私ちょっとこの辺も詳しくないんですが、いろいろと議論が出まして、
私はこれもありがたいことにオブザーバー的なポジションで話に加わらせてもらってるんですけど、
非常に活発に、製作者の方もいますから、活発に意見交換があって、
その中で私は心の中では、何にも自分はUIがないみたいなUIを実は望んでるなみたいな。
あとこれは別にこうなって欲しいってことじゃないですよ。
これはライトワンで初心者向けなんで、私がイメージした通りのものを出しちゃったら、
多分分かりにくくてしょうがないものになりますから。
無刻印、無印キーボードってあるじゃないですか。
私が望むものってそれに近いんだなと今タスクシュートでは。
もう本当に何にもなくて、今やってること、前にやったこと、次にやることっていうこれがですね、
これがそもそも議論になったのがですね、
完了したものをどのくらいはっきり示し、
未完了のものはどれくらい現在やってることと分けて表示するか。
こういうのがやっぱり面白いなと思ったのは少しグレーなんですけどね。
少しグレーにするとか背景をやるんだけど、ちょっと変えると全然違って見えてしまうんですね。
だから例えば今やってるタスクっていうのはタスクシュートでは大事じゃないですか。
でもだからどう目立たせるかっていうのは色々難しいわけですよ。
バッジをつけるとか、枠で囲むとか、囲まないとか、そういう話ですよね。
で、これってやっぱり感覚の話になってくるんで、
意見は人の数だけある意味あるわけじゃないですか。
で、なるほどなと思いながら聞いてて、自分はふとですね思ったのは、
なんかこうどれも同じ状態が一番良くて、しかもそれが全くね、
線もなるべく色がなく、セクションの分割もなければなくて、
ただ前、今、次っていうことが位置的に示せていればいいっていう感じを抱いているんだということが、
なんとなく自分のイメージにはあった。
ちなみにさっきも言いましたが、あとそうだ。
このタスクってこの見積もりで行くと何時になるのっていう、
これは乗り換え案内の表示と非常に今思えば似てきているんだけど、
これもですね、ワンタップでその時刻が消えたり出たりしてくれるとすごい良いなとかって思ったんですよ。
ワンタップでっていうのはどこか、例えば時刻そのものを押すと消えるとか、
そしてまたそこを押すと現れるとかね、そういう感じだなって思ったんですよ。
僕にとって今、この話してると百舌鳥になっちゃうんだけど、進んで終わらせますね。
この僕にとってタスクシュートの今、時刻、見積もり時刻と、
アドレスと時刻の関係
そうすることによる予測実行時刻っていうのはアドレスなんですね。
時間ってのは私にとって完全に空間についている番地であって、
ここを通過する時にはどういう時刻の表示になるかみたいな話なんですよ。
バス停のバスの時刻表ってそうじゃないですか。
あれは時間の私は一側面をはっきり表してると思うんですね。
もちろんそれによって何分かかるってことを計測することはできるし、
そうしてる人もいるんだけど、いるに決まってますけど、
私はつまりバスの時刻表ってしかも結構ずれるじゃないですか。
ある空間を通過するにあたって、
私がその時に何時という時刻を見得るかみたいな話なんですよ。
このアドレスが唯一私にとってのタスクシュートの時刻なんですね。
これを締め切りという時刻に合わせることができればそれでいいはずなんですよ。
あるいは締め切りという時刻に合わせることができればそれでいいはずなんですよ。
で、これは私はそのつもりで常に動いていれば容易にできることだと今では思うんです。
これは容易というのがね、いろいろあるんだけど、
なかなか信じてはもらえないという場合もありますが、
その辺はもうある意味では議論をすればいいんですよ。
そこで話し合えばいいわけなんですよ。
で、これを締め切りという時刻に合わせることができればそれでいいはずなんですよ。
あるいは約束の待ち合わせということに合わせることができればそれでいいはずなんですよ。
そこで話し合えばいいわけなんですよ。
それが合うか合わないのか、
そのアドレスが一致するのかマッチするのかしないのかということについて議論をすればいいはずなんですよ。
誰かがしゃがり気になって間に合わせるって話ではそもそもないだろうと思うようになりました。
もっと先へ行けばもっと面白くなってくるんですけれども、
とりあえず今日はそのぐらいにしておこうと思います。
精神分析ですね。
精神分析をっていうのは精神分析的によろしくないのであれば、
精神分析の本に書いてある知識を日常生活に生かす。
私これはできるんだってことを最近認識しているんですね。
これは精神分析は本を読むだけでは学べませんということと、
両立するし整合性もとれるということを最近ようやく納得できるようになったんですね。
精神分析自体を本だけで学ぶのは無理ですね。
それは私もその通りだと思います。
精神分析の知識の日常応用について
でも私たちは患者さんを見るわけでは大事に、
クライアントさんというものと精神分析的に接触するわけでは決してないというのが一点。
もう一つが、これはもう好みですけれど、
好みって言ってはいけませんが、その人その人の選択ですが、
精神分析にかかるわけでも必ずしもない。
そしてこれは良くも悪くも現状はそれに近いんだからしょうがないと思っています。
できないんですからね。その通りのことはなかなか。
例えば都内にお住まいの人は、
まあまあ、都内なんで精神分析にかゆうってことも本気でやろうと思えば多分、
ある程度の覚悟でできますが、
例えば私の実家の方では無理ですよ。
それなど無理に決まっていると思うんですよね。
いないんだし、いたって無理ですよ。
そんなに簡単じゃないですよ、同じことをするといったって。
そういう生活を支えるには全くなってませんから。
どうするんだとかね、いろいろあるわけですよ。
少なくとも誰にでもできることでは決してないですよね。
あれはね、もともとブルジョージなものだったので、
お金すっごいかかりますから。
いずれにしても、無理な状態、条件というのはあるわけですね。
だから、本を読んだだけでは学べない。
でも、現に本は堂々と出ていて、
分析家の手による本も新書でですよ。
専門書じゃなくて。
仮に専門書だって、手にも入るんですから、
やっぱり数千円かかるかもしれませんけど、
数万円かかるわけじゃないですからね。
私数万円かかる本はほぼ持ってませんから。
まして数十万円かかる本はないわけです。
なくはないのかもしれないけどね。
そういうことですよね。
知識として持つと、
それを日常に応用するっていう形になってないんだけれども、
形にすればできなくはないと思うんですよ。
現に私はできつつあると思うんですよね。
そしてそれは、それについても、
北山治虫さんも書いてましたけど、
有害だっていうふうに書かれることもあるんですが、
こういうところを私は気にしているんだけど、
有害な使い方も十分あり得ると思うんですけど、
これもね、それを言ってしまったら、
なんだってとは言わないですけど、
相当いろんなものが現にそうなっちゃうんですよ。
お酒とかそうじゃないですか。
有害な使い方をしようと思えば、
めちゃくちゃ有害なものになり得るけど、
普通にコンビニで入手できるのも確かなことなんですよね。
そういう話は別に面白くもなんともないんで、
いくらでもできちゃいますから、
コンピューターもそうだし刃物も、
当然昔から言われている通りそうだし、
意味がない議論に近いと思うんですよね。
ある意味。
使い方に注意が必要ですなどというのは、
意味はありますよ。もちろん意味はあるんだけど、
それは常識だろうと思います。
それで、何よりもまず、
この段階では使い方によっては有害であるっていう話、
よりはこれはつまり、
どういう風に本になっている、
そもそもの意味は何なんだろうっていうところから始まって、
どういうところでは特に活用しやすいのかという話と、
言葉の専門性と日常生活への適用
どの辺をどういう風にいじれば、
今の形のままでは日常に生きてこなかったというのは、
歴史が物語っているといえばそういうことになると思うので、
どういう風にすればこれが日常に生きてくるのかなということを念頭に置きつつ、
喋っているわけですね。
一つは、これは方々からちょこちょこですけど、
方々からというか数名からご指摘いただいた通り、
言葉があまりに専門的すぎるということがあるわけですよね。
だからこの言葉を直すというところで、
また昨日相模大道で蔵園さんと言葉をひねり出すというのかな。
英語でコインって言葉がありますが、
コインするってことなんだな、これはと思ったんですよね。
コインってコインの裏表のコインですね。
あれに言葉をひねり出す的な意味があるんですよね、確か。
あった気がする。
これなんだけど、
もちろん一番いい例として東英かな。東英と東英同一か。
あるいはですね、
境界例という言葉でしょうかね。
境界例なりしは、
当局。
当局はつまり、これも専門用語としては変な言葉ですが、
いいおっぱい、悪いおっぱいでしょうね。
この言葉のままだと使うのに抵抗ある方も多くいらっしゃると思うので。
特にフェアバーンが言った意味ですね。
物事のラベリングと依存性
いいおっぱいとかいうのは全然いいわけじゃないってことですよね。
刺激的になってしまう。
つまり依存的なものになってしまう。
一番わかりやすいのはやっぱり、
いいおっぱいからアルコールが出ると思うのがいいと思うんですね。
いいおっぱいと悪いおっぱい。
悪いおっぱいというのは出ないとか、
あるいはこう、いろんな意味がここで出てきてしまうんですけど、
破滅するとか、悪いと思って壊しちゃうとか、
そういうような意味があるわけです。
おこなぎけいごさんが新書の中では、チョコレート大好きな子供がいて、
このチョコレートというのも非常に私閉気的なところがあるじゃないですか。
チョコレート私閉気までは言い過ぎですけど、
チョコレートが大好きな子供がいると。
食べるとなくなっちゃう。
これが悪いおっぱいですよ。
いや、それわけわかんなくねって思うかもしれませんけれども、
この散々から説明はしているつもりですけど、
そこにおける情緒が問題なんですよ。
そういう気持ちになるっていう問題なんです。
食べればなくなるのはわかりきったことだと、
そんなことで悩むなよってことかもしれませんが、
でもそれで悩んでる人って現にいらっしゃるじゃないですか。
食べたらなくなっちゃうのよとかって言ってる方、いらっしゃいますよね。
あとこういうことなんですよ。
よくあんまり僕はこの種のセリフも変だなって聞いてて思うんだけど、
恋人で食べちゃいたいとかっていう表現を取る方いらっしゃるじゃないですか。
いるのか現に。
ドラマとか本とかでは出てきますよね。
いわゆる観音系でも出てきますよね。
僕これ怖い表現だなって思うんですよ。
実は可愛いすぎて食べてしまいたいって表現を聞くと、
必ず僕が思い出すのが、
高階陽子さんのキシボジンの話なんですよ。
あれ可愛いもの食べちゃう話じゃないですか。
こういうふうにスポイルするではちょっと済まないような、
ある種の抱え込んで壊してしまうというような問題ってあって、
この種の人間関係を、人間関係なんですよ。
つまり結局はチョコレートではないってことです。
チョコレートの場合もあるんだけど、
良いと思うものに端的に溺れて、
その良いと思うものを吸い尽くしたり、
ここに専門用語ではないと思うんだけど、
環境としての母親
精神分析では鈍欲って言うんですよね。
よくスプリットして鈍欲になっている人みたいな話をするんですよ。
良いと悪いに。
現実のものっていうのは、
いかなるものも良いだ悪いだというラベルはついてないし、
良いと悪いと分かれるわけじゃないんですよね。
同じ人間を2つにパカッと割って、
良い人、悪い人。
この人は同一人物なんだけど、
良い時もあって悪い時もあるじゃなくても、
その人にとっては良い人か悪い人かのどっちかしかないっていうケースが、
認識のケースがあるわけですね。
こういうのを日常に生かすことは難しくはないと思う。
難しいかもしれないけれども、
やりようによってはできるとは思うんですよね。
最近私が非常に自分でもよくやってるなと思うのが、
奥さんの長児が奥さんの心にストレスを作り出すという、
そういう流れをはっきりと認識できればですね、
必ずその時にやるべきことがあって、
それが私が環境としての母親のほころびをシェアするってことなんですね。
これは僕が精神分析の文脈を借りなければ、
まず思いつくこともなかったなと。
少なくとも今みたいな説明は精神分析的にしか出てこないから、
奥さんの長児が奥さんのストレスを作り出すと。
ここで終わってしまうと、
それは奥さんの問題でねってことになるんだけど、
そうではなくて、
なぜ長児がストレスを作り出すのかというと、
僕はそれはグッドイナフマザーに過ぎないからだと思うんですよ。
環境としての母親というのは。
環境としての母親というのは私たちにとって、
多分ウィニコットが言った通り必須のものですが、
日常がホテルみたいにはならないじゃないですか。
高級ホテルみたいには日常は。
でもものすごくケアするためにはエネルギーがかかっておりますよね。
基本的に。
タオル掛けに関するストレス
タオル掛けには、つまり手洗って水がついたら、
横に布が置いてあるわけですよ。
これってすごいことだと思いません?
太古の昔、我々が樹上生活者みたいな時だったら考えられないレベルですよね。
たったこれだけのことでも環境としての母親は機能してるんですよ。
でも私先日NHKの特集を見て、
キリンさんたちだって環境としての母親という機能をちゃんと持っているんですよ。
これが本当のお母さんであるケースが日本では今まで多すぎたみたいな話は当然あるにしても、
みんな頑張ってたことは間違いないわけですよ。
タオル掛けってものがそもそもそこにあるわけですよね。
でもこれは完全ではない。
ヒルトンホテルみたいなわけにはいかない。
かかってないこともあれば、かかってるんだけれども濡れてることもあるし、
折れてたりすることもありますよね。
ここにほころびというものがあるんですよね。
環境としての母親というか、その母親の作った環境には完璧ということはありえない。
だからそこがほころんでるときにストレスが発生するわけですよね。
多くの場合。
現実というものに直面しそうになって、
特にそれを管理責任の立場に置かれてる人は、見ただけでストレスになるケースがあるわけですよ。
あと使い方とかね。
タオルをぐちゃぐちゃにするとか、濡れた手のままバッチリ拭くとか、
そういうことをやるから環境としての母親がキーッとなっちゃう。
つまり対象としての母親になってしまうわけですね。
パーフェクトマザーの観念
そのときに長寿がってものが出がちなんですよ。
起こるでしょ、そういうときには。
失跡する。
だからあなたのやったことは悪いことだってことになって、
クラザの殺戮の言葉を使うと、
そこでその言葉を使うほどのことじゃないけど、
あなたのやったことは罪悪だって話が出てくるわけですよ。
だから失跡の対象になるでしょ、ですよね。
そのときに長寿がというものが現れるわけですよ。
だから長寿がが現れるときは、長寿がを現して、
長寿がを一般用に直すかどうか問題というのは、
この長寿がに対応する言葉をコインするべきかどうかって問題はありますよね。
グッドバイブスでは正しさって言いますが、
正しさは新しい言葉じゃないですけどね。
正義感じゃここはおかしいですもんね。
しつけみたいな話も含む、でも確かに正しさ、ルールなんですけどね。
ルールがあるからルール破りがあり、
ルール破りがあるからストレスがあるわけですよ、その人にとっての。
それを感じたといったときには、
ほころびが起こっていると認識されて、
環境としての母親はパーフェクトでは絶対にいないので、
パーフェクトマザーではないので、パーフェクトマザーはいないのでこの世にはね。
こういうことのパーフェクトマザーはいませんよっていう話だけでも
役に立つって言ってくださった方が少なくとも3人もいらっしゃるんですよね。
環境不全から起こる現象と母親のケア
だから僕はやっぱりそれをですね、
完璧主義とあなたはあるがままでいいんですよという本だけでは、
物足りないというならば、ここはもう精神分析を持ってくるしかないんじゃないかと思うんです。
精神分析持ってくれば、なぜパーフェクトのマザーはいないのか、
でも観念状できてしまうのか、
そしてパーフェクトでなくてもあるがままでいいんですというのはどうしてなのかの説明が一応なされているじゃないですか。
ミニコットがしてくれた、実はベースにヒロイトがあると。
そういうことが言えるんですよ。
そうするとつまりどういうことかというと、
少なくとも臨床の場にやってくる人はそういうことでみんな悩んでいる。
何万人、何十万人、何百万人と悩んでいる。
だからそういう人たちには一つ一つの悩みは違うでしょうけど、
同じ心の構造があるということはわかるわけですよね。
自分だけ特別、完璧主義に異常にこだわっている変わった人なわけじゃないってことですよね。
そういうこともお伝えすることができるのではないかと。
で、パーフェクトマザーというのは観念状の存在なんで、
実際はグッドイナフマザーしかこの世にはいないので、
ほころびがあり、そのほころびを湿石という形で埋めてしまおうとしがちだと。
というか世の中の多分ご家庭で起こっていることは全部そういうことだと思うんです。
ほぼ起こるってことが起きている時には9割9分はそういう話だと思うんですよ。
何かをこぼしたとか、お茶碗を割ったとか、
そういうのって全部環境が機能不全を起こした時に起こる現象じゃないですか。
その時環境を設置した人がストレスを覚えて湿石するのは、
子供にとっては長時間に起こられたっていう形をどうしてもとらざるを得ないですよね。
それがトラウマっぽいことになることもあれば、累積してトラウマになることもあるでしょうし、
累積しなくてもいきなりトラウマになっちゃうケースもあれば、
あんまり気にならずに平和に過ごされているケースもあるでしょう。
いろいろあるでしょう。
いずれにしてもそういうことは起こるわけですよね。
で、その時に環境としての母親をケアしてあげれば、
必ずこの長時間は収まるんですよね。
一定のレベルの中であればね。
そのままことがエスカレートすることは決してないんだというのは、
1回か2回そういう経験をすればもう十分なんですね。
私の妻は実家で間違いなくこのパターンで結構大変だったと。
何が大変だったかというと、やらされて大変だったわけではなく、心理的に大変だった。
やらされても大変なんだけど、心理的に大変だった。
母親の役割と環境の重要性
だからこのねぎらうことの大事さみたいなのにもつながってくるんですけど、
ねぎらうというよりは、まず環境としての母親は一人で担うものではない。
試みがあるのは、いくらでもみんなで収束というのか、
手当てしていって環境としての母親をサポートしていくことができるっていうその感覚を得られると、
長時間への依存性が下がっていく。
この形を作るだけでこと足りちゃうんですよ、多くの場合は。
それはでもね、結局はホテルヒルトを目指すことになって大変じゃないですかって思われると思うんですが、
実はですね、環境としての母親は一番、僕が思うにですね、一番大事なのはニードをニーズに変えることだけなんですよ。
もっと言うと、ニードをニーズに変えるニードというものに注目を払って、
そしてニーズを提案するトライをしてみようと思えればいいんですよ。
これを思えるか思えないかということが、その次の話にもかかってくるんですけど、
一人暮らしの寂しさというものに深く関わっていると僕は思うんですね。
そういうところもまた精神分析的に僕が説明するのが望ましいと思うんですよ。
一人暮らしで寂しいと言っている人が、私たちは性欲なのか、恋人が欲しいのか、
結婚がしたいのか、家庭を持ちたいのか、いろいろあるんですけど、僕は本当はどれでもないと思うんですね。
本当は環境としての母親を私は持ってないんですということで、
いつも長寿がと一緒にいるような不安と長寿がへの依存と、
そして先行きへの不安、長寿がへの依存。
環境としての母親が滅びを見せたときに長寿がを意識することが子供が多い。
長寿がを意識し続けているということはずっと子供でいるということですよね。
そういう心理状態が私は一般に一人暮らしの寂しさと言われているときによく現れると思うんですよ。
そのときにいいおっぱいに紙壁的になる。
精神分析の視点から見る寂しさとニーズ
つまりアルコールに依存してみたり、端的してみたりするってことが起こるっていう感じがするんですよ。
この話も精神分析の文脈だったら無理なく説明できる感じがするんだけど、
そういう説明にはならないんですよ、なぜか。
前にお話しした日モテの品格の杉田さんだっけ?
あの人が書かれているような文脈で、モテないからって話になってしまう。
このモテないって言葉の苦しみも、やっぱり母親の不在感ってところからアプローチする方が、
遥かに先行きが見通しやすいし、何すればいいのかが分かる。
何すればいいのか、簡単なんですよ。
自分のニードを握りずに変えるにはどうしたらいいだろうかって考えるだけでいいんです。
僕はこれを考えることを真剣にやれれば、その人の寂しさは消滅すると思う。
一緒にいる女性が欲しいとか、その次になぜその子で一緒にいる女性なのかっていうことについて考えれば、
展開としては十分だと思っているんですね。
これをニードの話を吸っ飛ばして、母親っていう観点すら吸っ飛ばして、
いきなり女性に向かって、しかもおそらくその女性に対しては、
ここでも精神分析ですけど、母親を問いしているはずですよ。
この部分も説明がいるじゃないですか。
投影という言葉は精神分析的だから。
結局母親を投影しているなどと言われると腹が立つと思いますし、
そもそも投影ってなんだって話にもなってしまうと思うんですね。
似てるか似てないかっていうような話にもなりそうなんですよ。
この言葉は浅く誤解されてますから。浅く広く。
いろんな意味で役に立つと僕は思うんですよね。
結婚できないとか、そういうことは結婚できた方がいいかもしれませんが、
この形のまま結婚だけしてもですね、トラブルの元じゃないかなっていう感じも。
もちろん結婚にはトラブルはつきものだし、
お前が言うなと私なんかはいかにも言われそうですけど、
一番それでトラブルを込んでいる。
ほとんどのトラブルはそれじゃないかと言われればそうなんですよね、私なんかは。
でも私はその結婚生活からこういう話を導き出したというか、発見していったわけですよ。
母親に似ても似つかないですね。
それに母親をなぜ見るのかって話ですよ。
似てないからこそ東映というのは猛威を振るっているレベルを感じるんですよね。
脅威ですよね、それはまさにね。ある意味ではある意味ではね。
ほとんど今日の話はそんなもんでいいかなと思うんですけれども、
要はほころびというもの。
なんでニードをニーズに変えればいいのかと。
それはニードってものを僕らは究極的にはわかってないから。
赤ちゃんが泣いてます。
なぜ泣いているのかの真の答えはこの世にありませんよね。
なぜ泣いているのか。
赤ちゃんにおっぱいを出して泣き止めました。
おっぱい欲しかった。
それはわからないですよね。
赤ちゃんはこれ正解ですよとは言ってくれない。
絶対言ってくれませんから。泣き止むだけですよね。
母さんは言語化した。することもできる。
その気になればニーズに変えた。
ニーズはニードに対する正解ではないです。提案ですね。
環境が寂しさを解消するわけではない
手がびしょびしょになった。
ここにニードはあるかもしれません。
でも気にしない人は気にしませんからね。
タオルがないぞとかってお父さんが昭和のお父さんが昔言ってましたね。
タオルがないぞはニーズです。一応ね。
でも本当に必要なのはタオルなのか。
本当にタオルが必要なだけなら自分で取ってくればいい。
だから環境としての母親というのは環境そのものではないんですよ。
ある人がお金をたっぷりかけて家をきっちり作り込んで
何なら出す金の人とかを業者さんにお願いして
部屋をヒルトンみたいにしても寂しい人は寂しいんですよ。
環境としての母親というのは環境そのものではないんですよね。
そういう意味でなぜそこでタオルがないぞって言うのかっていうことですよね。
なぜ赤ちゃんはただミルクをもらえればいいってもんじゃないと思うんですよ。
ペッパー君みたいなのがミルク持ってきてくれても泣き止まない可能性が高いと思うんですよ。
じゃあ空腹じゃないのかというと空腹ではあると思うんですよ。
ニードは何であるかの答えはないんです。
お母さんが欲しいって言ってもお母さんが抱っこすればそれでいいかって言うとそうではなかったりするんですよ。
抱っこだけでは泣き止まないとかいろいろあるわけです。
いずれにしても答えは言ってくれないからここに答えはないんですよね。
大事なのはニードをニーズに変えようとすることなんですよ。
寂しさってのはそこからくるんだと思うんですよね。
誰も私のニードに構ってくれないっていうこと。
そしてニードというものがあるだけでそれを手っ取り早く済ませようとする。
それが長寿がなんだけど。
泣くなとかね。
でも泣くなって言われて泣き止むということもあり得るじゃないですか。
赤ちゃんは無理だけどちょっと大きくなればあり得るんですよ。
ピタッとやん。
だから泣くなって言って欲しかったんだったらそんなことはないですよね。
でもつまりニーズを満たすということは何かが正解だってことじゃないんですよ。
正解があるってことになるとつまりパーフェクトがあるってことになっちゃうじゃないですか。
パーフェクトはないんですよ。正解がないから。
でもこういうことも言えるんですよ。
じゃあ間違ってばっかりでもいいのか。
来日にお母さん間違ってばっかりなんてことはあり得ないというのをウィニコットが言ったんですね。
これもすごく僕はいい話だと思うんです。
お母さんに学歴がなくても何なら学校に行ってなくても何をすればいいのかお母さんはわかってる。
これがニードニーズに変えるということとグッドイナフということと正解はないということを全部意味してると思うんですね。
簡単な言葉でですけどね。
彼は書いてるんですよ。子供はなぜ遊ぶのっていう本の中で。
そういう生かし方についての提案であるんだと僕は思うんですよね。
もともとあったんだと思うんです。
ただなぜかいまいち形になりきってないだけで。
ウィニコットの子供はなぜ遊ぶのって普通の人読んだことないんじゃないかと思うんですね。
いい本なんですけど。
そういう意味で満たしきれるものではない。
満たしきれるものではないということは満たしきれなくてもいいということじゃないですか。
私子供を育てててつくづくそのことを思います。
原則としてニーズを提供しようとしていれば間違いはないと思うんですね。
子育てはどうしたらいいのか論ってのはニードというものには正解があるっていう論になってるんですよ。
子育ての正解とグッドイナフ
だから間違っちゃいけないとかこういうふうに子供を育てると子供あぐれますみたいなそういう話になっちゃうんだけど。
そんなことあり得ないと思うんですよね。
絶対に正しいことがないんだから私がいつも心がけてるのはニードを見つけようと。
そしてニーズを提案しようと。
これをやってる限りは子供は普通に育っていくと思うんですよ。
この普通ってのはつまりグッドイナフっていう言葉とおそらく同じだと思います。
そういう意味では普通という言葉にコインすればいいのかチェンジすればいいのかもしれないですけどね。
でもなんか普通のなんとかみたいなのだと全く受けが良さそうな気がしないのでこの辺がやっぱりキャッチーでもなきゃいけないみたいな話にもなってくると思うんだけど。
そういうことを今提案もされたしリクエストもされてみたのですごく真剣に検討していきたいなと今は思ってます。
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