1. グッドモーニングボイス
  2. 【782】東京ライフハック研究..
ウィニコットのことを考えました
東京ラフ研究会のランチ会
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日は日曜日で、これをいったいいつ出すのかまだ決めてないんですが、
5月14日日曜日、朝9時半回ったところです。
つまり日曜なわけですよ。
これを月曜用に事前収録とするか、標準に出してしまうかをまだ決めかねている感じですね。
たまたまこのタイミングが使えそうだったので、グッドモーニングボイスにしてみたわけですね。
ただ、日曜なんで、時間としては非常に、撮ってる側の私としては気分をよくとってるんだけど、
これをやるとですね、うまく回らなくなることも今まではあったわけで、
先週あんまり上げなかったんで、その分日曜に上げちゃうというのでもいいかなと思ってるんですけどね。
グダグダ喋ってますが、でも短くもしようってですね、無理なことを考えつつ、どうしようかなと思ってます。
今日はですね、一応ネタはあって、ネタはあってって言っても、
ただ昨日、久しぶりに東京ラフ研究会のですね、ベックさんとを囲む会とか言って、
昔ながらの人たちとランチしてきたわけですよ、言ってしまえば。
これがつまり、コロナ明けだからということなんだけど、コロナ明けだからやったのか、
ベックさんのアクスフォークリエイティブライフが15周年ということで、
おめでとう会でやったのか、あるいはベックさんの回帰をみんなで祈る会みたいにしてやったのか、
その辺はめめめが勝手に決めればいいかなっていう会だったわけですけどね。
そういうのをやってきて、やってきましたよというのがネタなんで、
喋っちゃったからこれで打ち切れば2分で終わるんですけど、
オンラインとリアルの違い
どうしようというのがまだ今のところ白紙状態なわけですね。
そういうのを久しぶりにやれて、コロナ明けてよかったなと思ったわけですよ。
明けたちとも5塁になったっていう話で、私あんまり詳しいことはそこから先は分からないんで、
5塁になったから、やれやれということで食事ぐらいはいいでしょうという、
皆さんもっと前から動き回られていたし、
昨日も渋谷になったんですけど、予約をしておいてよかったとつくづく思うぐらい混んでいたんで、
もう世の中はすっかり違う情勢に入ったんだなと、
そんなことは私も一応仕事外でしてたから知ってはおりましたけれども、
昨日もそういう食事会みたいなのを久しぶりに、
あの規模って言っても7名だったけど、
この数字ぐらいで食事会を一応それだけを企画して、
セミナーの懇親会とかではなくて企画してやったっていうのは、
本当に多分5年ぶりぐらいになってくると思うんで、
刺しで食べたみたいなことは今までもありましたけどね。
なので、予約かなという感じがします。
このまま行くといいですよね。
で、こうやってぐずぐず喋ってるのはすまり白紙状態だからってこともありますが、
今週の土曜日に録書会というのを初めて企画するんですね。
これオンラインの方ではもう何名かの方にご参加いただくことは決まってるんですけど、
まだオフラインがいらっしゃらないので、もし神保町でやるんですが、
これはもういざとなっても僕は神保町に行ってやっちゃおうかなと思っておりますので、
リアルで参加いただく方は当日ドタ参加可能なので、
よろしければぜひご参加いただいたら面白いかなと思います。
昨日ですね、ある方がお子さん連れてきて、
お子さんとしてもまだ2歳という感じのお子さんで途中からだったんですけどね。
それを見ていてつくづくですね、やっぱりこれはリアルじゃないとなと。
そもそもリアルじゃないとお子さんが参加しないじゃないですか。
オンラインでもお子さんが横にいるってことはあるかもしれないけど、
多分参加はしないと思うんですよ。
でもですね、昨日つくづくお子さんが参加したような雰囲気になってですね、
これがリアルだよなと思ってこの話をしますね。
環境としての母親
この時に私はすっごいミニコットなんですよね、
ドナルド・ウィニコットをずっと意識させられて、
彼はやっぱり小児科医だけあって子供っていうのがよくわかってるよなと思ったわけですね。
ミニコットはフラインの弟子なのかな、
なんかちょっと非常に不思議な位置づけで、
この辺は大学の講義みたいになっちゃうんですよね。
図を描いてこの人がクラインで、
こっちにミニコットとかフェアバーンとかビオンとかみたいな話をして、
独立学派っていうのとアンナ・フロイトの自我心理学派がいて、
この三派が微妙な均衡を保ってですね、
独立学派っていうのは独立派がトトを組んでるんじゃなくて、
独立派独立派でみんなが独立しているんだけど、
そういうみんな独立グループみたいな。
グループは組んでないと思うんですけどね、独立派だから。
クライン派とアンナ・フロイト派といて、
仲良くなかったわけですよ、簡単に言えば。
だけども、たぶんその三勢力が一人一人を交互にですね、
精神分析協会会長を出すということで、
精神分析協会っていうところがたぶんね、
回ってたというか成立していたという、
そういう微妙な時代があったんですね、イギリス。
で、ウィニコットは独立学派の人になる。
独立派の人になるんですよね、結局。
対象関係論の対象っていう言葉はすごく大事で、
それに対してウィニコットは環境としての母親って言ったんですよ。
これが昨日僕がすごいずっと感じてたことなんですけど。
あれですよ、そのちっちゃな子がいるところの空間には、
環境としての母親が、実際のお母様もいらっしゃったんだけど、
私とかベックさんとかも環境としての母親になってしまうんですよね。
だからこそ彼女は、そのちっちゃい子はその中に参加できるんですよ。
これが環境としての母親だと僕はすごい思うんですよね。
だから母親っていうのは別に、実の母親である必要も、
女性である必要もないんですよ。
そして、都度都度空間っていうのは、空間って変わりますよね。
昨日みたいに劇的に変わると、通常そういう子は家にいると思うんですけど、
あるいは保育園とかね。保育園に行くと空間変わるじゃないですか。
そこでの環境としての母親は、おもちゃであったり、
おもちゃは意向対象ですけど、おもちゃであったり、
お母さんであったり、お夫さんであったり、
他にもいろいろな人いますよね。
そういうところにいる必ずしも大事、
違うスタッフもすっごく大事なんですよね。
子供の引きこもりと一人になる能力
バスの運転手とかね。
環境としての母親なわけですよね。
だから私、環境としての母親というのは仕事のことを指すっていう風に、
仕事というのは環境としての母親をやるってことだと思うんですよね。
そうなってない時には働きにくい条件というものが動き出すんだと私は思うんですよ。
話が一気に進んでしまったんですけど。
要するに、その子を見ていて思ったのがですね、
この子が引きこもらないようにすることが大事なんだっていう風に、
みんな直感的にわかるんですよね。直感的に。
この子がそっちの手になって大人だけで話に表じるというのもあるし、
そういう時間も必要じゃないですか。
ずっとみんながその子にかかりっきりになるっていうのも、
昨日の回の趣旨としてはおかしくなっちゃうんで。
そんなことを細々と考えなくても大体そういう風になるんですよね。
その子が急に主人公。
この主人公って言葉も、これは善の言葉なんだけど、
すごく大事で、
こういう小さい子は特に主人公にならないといけないなって思うんですよ。
そうしないとやっぱり引きこもってしまうんですよね。
これは実はそこにいるみんなに言えることなんですよ。
一人になれる能力っていうのが、
ミニコットのキーワードだと思っているんだけど、
その子が一人になれるってことが非常に大事なんですよ。
その子にしてみると、
私一人、私一人主人公っていうのが一番いいじゃないですか。
幼児だったらそうですよね。
それ以外の参加の仕方、多分まだ無理なんですよ、2歳児でも。
これを大人はできるんだけれども、
でも大人でもできなくなるから、
引きこもっちゃうんですよね、その場で。
その場で引きこもってしまうと、
一人になる能力がないんですよ。
ミニコットの一人になる能力っていうのは、
日本語の一人になる能力でよく言うところの、
一人でできるものになっちゃうと思うんですけど、
そういう意味では全くないと思うんですね。
一人でいる能力というのは、
みんなといる能力なんですよ。
みんなといるのになんで一人でいるっていうのかって言うと、
僕らって主観の中では自分が中心になってますよね。
この座では自分が中心者じゃないってことを知ってても、
主観的には自分が中心ですよね。
神座に、神座って日本には昔あったみたいだけど、
神座とか床の間にいる人が偉いんだとしても、
その偉い人を対照的に見るじゃないですか。
その偉い人を対照的に見るというのは、
偉い人を見る私が中心ですよね。
私の意識世界の中では。
この言葉で多分通ると思うんですけどね、
僕らが通常持っている意識、そういう状態だと思うんですよ。
中心者が、たとえ総理大臣だとしても、
総理大臣の中心感覚の中に私たちは同化しないじゃないですか。
あ、有形なこと言ったな。
さっきのやつも説明の方がいいと思いますね。
要は、大谷翔平がバッターボックスに立っているときは一人でいるんですよ。
そうなっていなかったら絶対打てないと僕は思うんですよね。
一人でいる。みんなといるし、投げてくる人がいるのはもちろん知ってるに決まってるんだけど、
あくまでも一人でいる。
一人でいればそういうことなんですよ。
これができない人は、自分の中に引きこもってしまうしかないんですね。
辛いんで。
だから、引きこもりというのは、みんなといるときに起こる一人きりになってしまおうと頑張るための努力であって、
そのときは我々は一人になれないからそういうことをするんですね。
一人になれないというのは物理的な意味ではないんですよ。
仕事と一人になる能力
心理的な意味なんです。
他の人が自分の心の中に入ってきて煩わせるということが、どうしてもうまく対処できないので遮蔽してしまうんですよね。
それが引きこもるってことなんですよ。
だから、私はグッドバイブスの文脈からして、引きこもるっていうのは分離の選択なんですよ。
避けたいってことなんですよ。
そうではなくて一人になる必要があるんです。
そうすると一つ意識が方向に向かえるから。
一つ意識に入りつつあるときに、僕らは一人になれるっていう感じがするんですね。
私もこの問題は子供の頃すごくいろんな場面で体感して、すごい面白いなって思ってたんですよ。
うち、ほら、寺だったからいろんなお坊さんが来るわけですね。
たまたまそのお坊さんの部屋の中に入っちゃったときに、引きこもりたくなるんだけれども、
うまいことですね、僕のことをその空間に入れてくれるお坊さんがいると一人になれるんですよね。
自分が主人公になれるんですよ。
そして周りの人を環境の母親にしちゃうことができる。
お坊さんばかりだからあんなの人いないんですけどね。
これが仕事なんだと僕なんかはいつも思うんですよね。
うまいに仕事してる人は必ずこの一人になる能力というのが絶大に高くて、
なんか異常にそういうのがうまい人っていうのがやっぱりいて、
例えばですね、会社の飲み会、僕ほとんど行ったことないけど、
場の中心でとうとうと喋ってる人っているじゃないですか。
なのにそのとうとうと喋ってる人の話を面白くもなさそうに聞いているんだけど、
そういう面白くもなさそうな人まで含めてその中に入れてしまうことができる人っているように思うんですよ。
で、それができないとその面白くもなさそうに聞いている人が引きこもってしまって、
その場の意識の上では外に出ちゃうんですよね。
これが異常に講じると言いますか、
僕はだから引きこもりの定義っていうのはこういうもんだと思うんですよ。
人と一緒にいるときは人と一緒にいちゃう人なんですよね。
その人にとってうまいこと他人っていうものを、
ここも言葉として言うと、
僕はまさにそれが正しいと思うんですよ。
他人をうまく使えるんですよね。
だけど、これはね、
人を利用してやるみたいな言葉と日本語だとかぶるんだよ、ニュアンス的に。
なんか感じの悪いことをやっているように思うんだけど、
昨日の例えばやってきたちっちゃな子がですね、
人を使用しているんですよ。
遊びと可能性空間
だから、その人にとってうまいこと他人っていうものを、
氷入りのコップを、これもまたミニコットらしいんだけど、
氷入りのコップにストローをガチャガチャやって、
要するに音が出るじゃないですか。
ああいうの子供が好きなんですよね。
楽器代わりにして遊ばせるっていうのをやると、
みんながそれに何となく注目する。
そうするとその子はすごい嬉しいんで、
主人公になれるんですよ。
そういう子供が好きなんですよね。
そういう子供が好きなんですよね。
そういう子供が好きなんですよね。
そういう子供がすごい嬉しいんで、
主人公になれるんですよ。
この時、彼女は我々を使うんですよね。
うまいこと使って、
その場で一人になれるっていう言い方をするんです。
その時に出てくるこの楽器が、
つまり意向対象ってずっと僕は思うんですよ。
可能性空間って言葉があるんだけど、
この空間が可能性になるんですよね。
なんて言うんですかね。
他のものにすることができる。
コップに氷が入っていて、
ストローが刺さっているのがコップであり、
何かの飲み物ですよね。
という意味付けがされてますよね。
よく食べ物で遊んじゃいけませんって言うじゃないですか。
だから遊ぶんですよ、あれ。
遊びができる、遊べる空間とか、
遊ぶっていう言い方をするんですよね、
ウィニコットはね、やっぱり。
つまりそれは可能性空間だし、
意向対象だし、
なんて言うんですかね。
可能性に満ちた対象なんですよ。
これがVRとかだと難しいなって思うんですよね。
Zoomとかでも。
意味付けせずにはやり取りが難しいんですよ。
やっぱり情報が限られてる。
できないわけじゃないんですけどね。
目の前にあるコップを楽器代わりにするってこと。
楽器代わりにするじゃないですか。
楽器代わりにするということは、
私たちが仕事でよくやることなんですよ。
だってほら、野球場でもですね、
なんてことない、
ただの布の資格をベースだとかって
言いまくるっていうのかな。
はばからないじゃないですか。
あれは基地人名もなんでもないけど、
あれをベースだっていうわけじゃないですか。
一類ベースだとかっていうわけですよね。
引きこもりと空間利用
だからそういうのっていうのが、
つまりコップを楽器に見立てるのと
全く同じことをやっていて、
これが僕らの仕事をするっていうことの
意味なんですよ。
昨日だか今日だか分かりませんけど、
藤井聡太さんがやってるじゃないですか。
あれも全くそれなんですよね。
将棋っていうのは、
完全に見立てている世界だし、
彼にとってそれは仕事だし、
しかも彼はですね、相手がいるんだけど
一人きりになれる能力が
また絶大に高いと思うんですよね。
そうでなければ、
まず絶対あの世界では勝てないと思うんですよ。
一生もできないと思うんですよね。
引きこもるなんてとんでもないじゃないですか。
相手から引きこもる、
つまり相手がいることにずっと
煩わされなきゃならないってことで、
最悪だと思うんですよね。
あれですよね、
受験とか試験勉強の時に、
みんながカリカリと鉛筆の音が
カリカリってやるのが気になって、
自分の勉強、
自分のテストが進められないっていうのが
まさに引きこもる時の心理なんですよ。
一人になれないんですよね。
テストをやってる時は、
他の人がいるのはもちろんみんな知ってんだけど、
一人になれる人が強いんですよ、やっぱり。
その一人になるってことが
みんなといられるってことを
同時に意味するような一人になり方。
その時必ず僕らは意向対象と
可能性空間ってところで生きている。
人間ってのはそういう生き方しかない。
そういう生き方をするもんなんだっていうのが
イニゴットが言ったことなんですよね。
これができないっていう人が
要するに引きこもるわけですよ、
心理的に。
その時にもエスカレートすると
もはや物理的に引きこもらないと
心理的に引きこもることすらできなくなるっていう人が
つまり、いわゆる社会的引きこもりって言って
部屋の中に入っちゃうわけですよね。
この部屋の中に入っちゃうというのは
エスカレートした二次的な現象であって
第一次的にはやっぱり人といる時に
その人の心理状態の中で
意向対象と場所の関係
自分を
なんて言えばいいんですかね。
他人をうまく環境化して
自分の世界に入れないみたいな
そういう問題を抱えていると。
多分そういう問題を抱えることになった
主要な原因に
お母さんなりとの関係っていうのは
多分あるんでしょうね。
お母さんが親友的すぎて
自分一人でいるっていう
お母さんをうまく環境として使うってことが
できないんだろうと思います。
大人になった場合は
意向対象ってものが
なんで必要とするかというと
自分なりの空間
自分を中心としている場合は
こういう風な空間として
ここを使いますっていう
そういう空間にする必要があるからなんですよ。
これってもうある意味
どこに座るかで
それがある程度決まるんだと思うんですよ。
いろんな人と一緒に何かをするって
どこに座るかってことは
すでにこの椅子は私のですと
実際それは私の椅子ではないわけじゃないですか。
この椅子は私のですとか
この机は私のですっていうのは
つまり意向対象なわけですよ。
こういうことを僕らは
自然にやるはずなんですよ。
だから私の椅子のところに
他の人が座ると
たとえそれが上司であっても
いやいやちょっと困ります
というような話になるじゃないですか。
そういうことが自然とできないと
他人もできなくなってしまうんですよ。
意向対象と可能性空間
そういう病理って確かにあるんですよね。
たまに誰かが椅子借りると
パニックが起きるみたいなので
これは意向対象というものを
扱えないっていう意味だと思うんですよ。
そういうことは現に起きるんで
私は目撃したこともありますから
会社でですよ。学校はしょっちゅうだけど
会社でそれを目撃するとギョッとするじゃないですか。
あれって思いますよね。
これはつまり意向対象というものが
その人の心の中では形成されないんですね。
そんなのは形成の仕方はどうするんですかって
聞くようなものじゃないんですよ。
まさに昨日2歳の女の子でもできちゃうんですよ。
というかやっちゃうんですよね。
怒られてもやってしまうのが
どっちかというと普通です。
たまにときにめちゃくちゃ怒られまくってると
できなくなるでしょうね。
難しくなる。できなくはならないと思うんですよ。
楽器代わりにすると。
そうすると人も
うまいこといくとですね
周りの人も
とってもそれに対して
微笑ましい反応を起こす。
これがニードがニーズに変わるってことだし
その子にとっては
大人のですね
大人がランチで
わからん話をしているだけの空間
そういう意識はないけど
だけの空間ではなくて
このガチャガチャってやる
手頃な楽器を使うと
みんなが自分に注目してくれる
そういう一種の舞台みたいな空間に
変換することができるわけですね。
それは心の中だけで起きることですよね。
だけれども他の人も巻き込める。
そうだね、使うというよりは
巻き込めるっていうのがいいと思うんですよね。
表現として。
でもどっちにしても
ちょっと日本語に直すと
卑怯的なものはここには何にもないから
卑怯的なニュアンスを取り入れて
必要は全然ないんですけど
なんかちょっと卑怯的になりますね。
言葉の上で。
巻き込まれるんですよね。
巻き込まれたらみんな
環境としての母親として
機能するわけですよ。
だから私たちは
環境としての母親にも
いつでもなれるっていう
そして他の人を環境としての母親に
いつでもしてもらえるっていう
そういうですね
独特のオーバーラップが
今の説明は
無理やり時系列を追うとして
たどたどしくやってますけど
これは同時に一斉に起きるんですよ
全てのことがね。
移行対象を見出して
移行対象を扱って
可能性空間をそこに展開させて
周りの人を環境としての母親として使用して
そして自分もまた
適宜環境としての母親として
使用されるという
この交換状態が
ダイナミックに
起き続けていくっていうのが
望ましいわけですね
もちろん
嫌になって引きこもっちゃいたくなる人が
そこにしばしば登場するかもしれない
あんまりその引きこもってる状態が続くと
多分私帰りますっていうことになると
これは帰るのが
全部心理的な原因だっていうわけじゃないですよ
用事があって帰ることは当然あるんだけど
やっぱりそういうことになり得るとは思うんですよね
状況次第では
帰る
そして
だから可能性空間っていうのはすごい大事なんですよ
可能性空間っていうのが
見出せないと
多分発砲塞がりってやつが出てくると思うんですよね
すっごくクライン的な世界になってしまって
お母さんがああいう人だったから
私はもう
全てを投げ出したくなるんです
この話がどう繋がってるんだって思うかもしれませんが
つまり
意向対象をうまく見出して可能性空間を作り出せる
そういう空間を
そこに
作り出して展開して
人と一緒に
人と一緒にいるんだけど
自分一人になれるっていう状態を
やれないと
辛くなるんですよ
仕事するのが
仕事するのも遊ぶのも何をするのも
だから人はめんどくさいっていうのが
多少あるんですよみんな
人をうまく使わないとならないわけだから
人はめんどくさいっていうのは
可能性空間の喪失がめんどくさいっていう話なんだけど
これでもできるわけですよ
そしてやれば非常に簡単だし
気持ちもいい
気持ちもいいっていうのも
言っててちょっと変な言葉だなと思うんだけど
でも気分もいいものなんですよ
気のご機嫌でしたもんその子は
だからこれができるということは
どこに行っても大丈夫なわけですね
仕事と疲れの関係
だからこれができるということが
仕事する上では僕は必須だと思うんですよね
仕事を多分だけれども
倉園さんがですね
ジャッジワークっていうふうにおっしゃっているやつで
僕がイメージするのはそういうものなんですね
これをやってる限り
疲れないとは言いませんよ
全然全く疲れないということはないけど
昨日の女の子だったら
最後は疲れちゃったと思うんですよ
そういうことをやってたって疲れるんですよ
引きこもる状態とストレス
だけれども
職場でやたら消耗するとかいうのとは
違うと思うんですよね
たぶん小さい子が
あれができない状態が続くと
絶対泣くんですよ
泣くか寝ちゃうかしちゃうと思うんですね
引きこもる時の
引きこもれないから2歳児ぐらいだと
引きこもる時っていうのは
2歳児だったら寝るか泣くかになるんですよ
引きこもれないから
大人になると
寝るわけにも泣くわけにもいかないから
引きこもるんだけど
同じなんですよ
ずっと泣いてる赤ちゃんみたいなもので
当然気分は悪いし
ストレスだし
仕事は消耗するし
人はめんどくさいってことになるんですよね
だからここをどうにかしたいと思うならば
やっぱり意向対象を常に
ただ意向対象というのは
可能性空間の理論
これを意向対象にするぞみたいに
するわけではないんですよね
昨日のまさにコップガチャガチャが
そうであったように
ふと思いつくものでないと
おかしいんですよ
オベックさんがふとこれを使って
ガチャガチャにやると楽しいよっていう
そういう流れに持ってくる
そういう人がいるし
またみんなできるんですけどね
こんなことは
誰でもできることなんですけれども
だからミニコットがお母さんになるのに
高い学歴や知識や教養は
一切必要ありませんと
子供はなぜ遊ぶのって
わりと強調してるんだけど
そういう意味なんですよ
これがでもできないって話が
出てくるんですよね
現実に
全く可能性空間に会社はなりませんと
常に人が侵入してくるので
私は引きこもるしかないんです
つまりその人は
一人になる時間がどこにも
どうしてもこの言葉を使うと
カフェにでも行くのかって話なんですが
そうではないんですね
みんなと会議してても一人になれるんですよ
会議に参加してる
むしろ程度が心理的な
コミット度が高ければ高いほど
一人になれるんですよ
そういう矛盾した感覚ってのが
あるはずなんですよね
なんつーのかなこれはな
難しいんですよね
簡単なことなのに
言葉で説明すると
ひどく変な感じになるんですよ
例えば田舎に
ももくん最近実家に行ったんですけど
田舎に行くじゃないですか
親類で知らない人ばっかりなんだけど
なんとなくそこで野球やってると
なんとなくそこにお菓子置いてあると
なんとなくその野球をみんなで見ながら
見るともなく見ながら
お菓子を食べていて
最近ちょっとあれですね
坂本調子良くなってきましたね
とか言うと
言うとね
これでうまく言葉が流れて
自分の気持ちもそこに流れると
一人になれるんですよね
これが
うまくいかなくて
ひどくギクシャクしちゃうと
人といることになってしまうんですよ
そのいる場所は変わらないし
やることも変わらないし
しゃべることも変わらないんだけれども
そこでのリラックス度だけは
ガラッと変わるんですよ
甘えいと可能性空間
っていうことが可能なんですね
それを可能性空間と言うんですよ
その空間の意味が変わるんですよね
自分にとって
その空間の意味が変わるんですよね
自分にとって
その空間の自分にとっての意味を
自分の心の中で変える
そうすると
なぜかそれを
人が共有してくれるようになるんですよ
ならないとダメなんですよね
一人だけでその空間を変えるってことは
できないんですよ
だから可能性空間が成立しないんですね
ついでに
この話と
先にはですね
先にはというか
並行してあるのが
土井さんの甘えいなところ
あったんですよ
そのちっちゃい子は
引きこもれないから
そして自分だけで
一家の移行対象を見つけることも難しいので
人に見つけてもらって
自分が主人公になって
みんなにある意味
ちやほやしてもらう
これが甘えいじゃないですか
甘えいの成立と
可能性空間というものは
僕はすごくオーバーラップすると思うんですね
同じではないですね
甘えいの方が
子供っぽさみたいなものが
少し強く
滲み出ますが
どっちにしても
必須なものであることは確実ですよね
子供にとって甘えいが成立することは必須なんで
さっきも言った通り
空間の組み込み
だから甘えいが成立しないと
泣くか寝るかになってしまう
大人にとって甘えいに近いものが成立しないと
引きこもるしかなくなる
他人に既に患わされて
引きこもってるつもりなんだけど
他人だ他人だみたいな
そういう
落ち着かないとか
落ち着かないとか
そういう感じが
ずっと続くことを意味するんですよ
隣の人の
なんかこう
足ガチャガチャがうるさいとか
支配するのは嫌だとか
そういうね
ある種のものを
うまく扱えず
無視する
無視するってのはやっぱり違うんでね
その空間の中に
組み込めなくなるんですね
その空間の中に
すべて空間にあるものは
組み込まないと
その空間からその特定の人だけ
取り除くとかってできないじゃないですか
我々は
いいことではないし
許されることでもないですよね
だからその空間にあるものは
すべてうまいこと
自分の心の中で組織化しないと
いけないわけですよ
野球場ってやっぱりそうなんですけど
証言もそうじゃないですか
なんか知らないコマが
許されないですよね
だから
空間にあるものは
全部組み込まれる必要があるわけですね
適切な意味を
持ってなければいけないんですよ
それは自分が作り出すものでも
あるんだけど
自分が作り出すものではないんですよ
将棋のコマを藤沢さんが
自分で作ってるわけじゃないですからね
そしてその意味も
人と共有されるのが
概ね望ましいわけですよね
その望ましいというか
それが
だから意味づけも
共有されないとダメなんですよ
そういうことが全部成立したときに
私は一人になれる
みんなと一緒にいて
っていう感じになるわけですよね
この辺のことをですね
昨日なんとなくずっと
これだよなと思いながらですね
直次会をしていたと
これがずっと維持されていると
後で楽しかったね
っていうことになるんだと
思うんですよね
その間引きこもっていたという
心理状態の人からすると
もう行きたくねーって
人間の空間認識
人はめんどくさいって
人がめんどくさいってのはですね
その人が嫌なことを言ったから
みたいな話を
後で意味づけをするために
人はするんだけど
そういうことじゃないんですよね
もちろんその中で
侵入的なことを言われるとですね
ガラッとそれまでの意味も変わって
しまうんだけれども
多分僕はそういうことでは
ないと思うんですよね
実際には
そこに自分なりの空間を
暗出できなかったというかな
創出できなかったか
っていうのが
課題になりやすいんだろう
職場では確かにね
いろんな意味で
たくさんの意向対象をある意味
必要とする空間ですから
職場というのは
その人のために
必ずしもあずらえられたわけでは
ないですからね
みんながみんな甘えさせてくれる
わけでもないし
でもやっぱり甘えと可能性空間
であることに
構造上というか原理的に
違いはないだろう
職場と家庭の比較
自作それは家庭も全く
変わらないだろう
家庭は健全に機能していれば
何も考えずともそうなるんですけど
逆に言うと何も考えないと
職場は引きこもりになりやすい
とも言えますよね
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