1. 人生相談のための精神分析的ラジオ
  2. 巧く生きるから私たちは「窒息..
2024-12-03 45:12

巧く生きるから私たちは「窒息」する【1100】

偽りの自己の分厚い雲。
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00:06
おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、1100回お送りします。
11月…違う、12月3日火曜日、7時50分です。
うーん、1100話、次がいいですかね。
まあ、11では終わり切れますけど、あまり意味があるような気もしないですね。
11と言って思いついたんですけど、1111には何かをやってもいいような気もしなくもないんですけどね。
まあ、そう簡単にいけない数字のような気もしますし。
1111回、でもあと11回しかないんですね。
あの、突然思いつくのがいけないと今思いました。
あとは何だろうね、1234回とかですかね。
これは現実的にはたぶんたどり着く数字なのような気はしますからね。
1234、あまりこれに何か意味があるかというとちょっとよくわからないですけど。
まあ、切り番ってやつですね。
切りがいいわけじゃないけど、1100回は切りがいいか。
はい、あまりいろいろ変化はつけずお知らせですが、12月14日のですね、
タスクシュート総決算、あっと銀座です。
これを聞いている方がですね、ぜひご都合が合えばこれで私とチャレとか精神分析とか、
ポッドキャストについて話に来てくれると何しろ長いんで大変嬉しいと思います。
なんかもう午後からとか、でも私は一向に構わないんで。
なんなら朝早くからとかですね。
そんなに私朝早くから駆けつけられないかもしれませんけど、眠い方なんでね。
でもまあ、ぜひ一つお願いしたいかなとこれは思っております。
せっかく年末ですし、アマゾンフライデーでもブラックフライデーでも言ってますけど、
今年1年頑張ったご褒美と。
なんかよくわかんないこと言ってますけどね。
私も今年1年頑張ったご褒美ということで、最後にタスク集と総決算で楽しく過ごせればいいかなというふうに思っています。
今日は、昨日はかなりグダグダだったんですが、
今日もまあ基本グダグダだとは思いますが、
今日はですね、やっぱり久しぶりにこの、久しぶりなつもりなんですけどね、僕の中では。
野良カウンセリングについてお話ししたいなと思いますね。
まあ、いいことだというふうに思っているわけでは、私だって別にないわけですけれども、
まあ、なくなることもないだろうなと。野良カウンセリングというものは。
そして、なくすべきだともあんまり思いません。
03:03
ただ、素晴らしいことですよというつもりも別に、たぶんそういうふうに言いたい人って多くないと思うんですけどね。
簡単なところからいきますと、Xでもね、正規と野良の違いは要するに確率の違いなんだよ、統計的な差だよっていう言い方があるんですよ。
私、これがですね、納得いくような気もするけれども、当事者的でない感じもしますよね。
まず、当事者は確率だよと言われても納得はできないと思うんですよ。
私、実際、アドピーだったとき、いや民間両方が正規は結局確率だよと言われても、
治るか治らないかしか基本的に意識できないぐらいそれで困ってる人はですね、
確率論に語られてもそれで納得できるわけではないんですよね。
当事者ってやっぱりそういうもんですよ。
言ってみて、治るか治らないか確率ですって言われても、いやそりゃ治らなかったけど、
それはちょっと確率的に低かったんだって、大概の人は治りますから正規いいですよって言われても非常に納得いかないじゃないですか。
それが私のアトピーだったときの体験にすごく表れていて、やっぱり確率は高いんです。
6割この薬で治りますけど、あなたの場合はその治らない、運悪く4割に入っちゃったんですよっていう、
それで納得するかっていうね、それが正規の答えだったから民間療法には頼りませんってなるかっていうとならないですよ。
と思いますね私はね。
まあ命に関わらない病気でもこうはならなかったから、命に関わる病気ならましてならないですね。
だからしょうがないんだっていう気持ちに、それでも正規に従っておいて治らないままいようというふうにはならないじゃないですか。
なんか違うことを考えますよね。
その時にやっぱり民間療法というものが厳然としてあり得るという話だと。
一つはね、そう思いますね。
で、これは非常に簡単な話、確率論というのはわかるけれども、確率論で割り切れるわけでは当事者的にはないと。
あとはこれはですね、私もう一つ思うのは正規とノラが本当に確率論だけでいいのかっていうのもあると思うんですね。
正規の人はいや確率が高いだけですと言われて、それで正規の人は果たして納得するかなと。
納得するっていう謙虚な方もいらっしゃるかもしれないとは思いますが、いっぱいね。
納得しないという人も、いやそれだけじゃないでしょうっていう方もいっぱいいらっしゃるとは思いますね。
公認心理師なんだけど、佐々木よりも成果が出るのは単に確率が少々高いだけで、
佐々木の場合は51%で、正規だったら52%ですみたいな、そういう話じゃないだろうとは言われるんじゃないかなと思いますね。
06:07
今のは極論だけど、簡単な方からってことですね。
確率論は普通に出てくるでしょうけど、確率論だけで納得できないところに民間療法の存在感ってあるだろうなっていうのがあります。
野の医者ですよね。
私が一つ、ある意味こだわっていると言えばこだわっているのは、私はここは正規の心理師とは言い分が違うというところはですね、
成果については一定のこだわりも持っています。
つまり、よく言う私の力で直したんじゃないというのは、全くその通りそう言うべきなんだろうと思うし、
それはそれでとても謙虚というやつですよね。
謙譲の美徳ってやつですよね。
それもあると思うんだけど、謙譲の美徳ということはつまり本心ではそう思ってないというニュアンスも感じますが、
私のような人間はそこは感じますけどね。
悪いことではないと思うんだけど、私はむしろこだわりたいというふうに多少は思います。
というのはですね、ここをこの自分の力でと言わなくてもですね、成果が上がったか上がらなかったかに、
これは正規の人がこだわっていないとは私は全く思わない。
ものすごくこだわっていらっしゃるに違いないと思っています。
口で何と言おうと。
もちろん正規の人っつったって山のようにいらっしゃるわけですから、
いろんな人の考え方があって本当にこだわってないんですっていう人もいらっしゃるとは思いますし、
それが丸々嘘だと思ってるわけじゃないんだけど、こだわってはいるんだ、いるはずだって思いますね、正直言うと。
で、私自身が受けた経験からしてもこだわってないはずはないし、
ここに自分の力がかなり関与しているとも、本心の内々心ぐらいでは相当自負があると私は思います。
それは自己愛と言われるのが嫌だからっていうのもあると思うんだけど、
嫌ってことは自己愛もあると思うんですよ。
で、それは私は千田っても申した通り、いいことだとむしろ思うんですね。
最終的に自己の利益を度外視している人の言うことっていうのは、何にせよ私はとても不安にさせられるところがあると思うんですよね。
人間ってそこまで期待していいもんではないと思うし、その期待のかけ方はやや上記を逸しているような気もするんですよ。
やっぱり生活費稼ぐ必要は普通にあるし、自己愛というものを満たす必要も普通にあると思うんですよね。
そこが最終的な目的になっている人のお話は、私は安心して聞いていられるし、
人を安心させるためにこの論文を使うってことも普通に生きてて非常によくあることですよ。
09:00
私と一緒に仕事させてもらっているある方が、実はすごい優秀で、すごいいろんなところを発展してくれるっていうか、助けてくださるんですよ。
その人を見ていると、でもやっぱり私なんかはある意味怖がりなのか、
大橋哲夫さんがこの種の言葉でよく心配される方の心が配れる。
心配って心配りなんで、心が配れるっていう感じで、
そんなにその人を働かせて大丈夫って言った時に、その心配をどうやって打ち消すかっていうと、
あの人にはあの人のメリットがあるっていうことがはっきりすればいいんですよ。
そうじゃないですか。私はそうだと思うんですよね。
実はあれだけのことをやっているのには、こういうメリットがあるはずなんですっていうのがわかればですね、そこまで心配しなくて済むんですよ。
これがエゴイスティックで寂しいっていうのは、私はですね、やっぱり何か母子関係ってものを考えてしまうんですよね。
母親に昔依存できていない心象の現れだと。
私なんかがまさにそうなんだけど、ついつい人が自分へのメリットを意識しているだけでも不安になると。
松木邦さんの接触障害でよく出てきますよね。
先生はどうせお金のためにやってるんでしょうとかっていう、つまりもう全面的に私のためであってほしいと。
全面的にピュアな愛情そのものが全てであってほしいと。
でも実はそれは現実社会においては、人をとても不安にさせる事態なんですよ。
だから松木さんが書いている通り、すごくものすごい接触障害で大変な女の子が登場したときに、本当にいかにも息苦しそうに、本当はどうだったかわからないですけど、テキスト上ではね、いかにも息苦しそうに愛情もあるんだっていうことを言うと。
これがなかなか厳しいわけですよね。
伝わりにくい人には。
常識的には当然なんですよ。
医者がお金ももらうけど愛情もありますっていうのが当たり前だと思うんだけど、この当たり前が全く当たり前ではなく見える、聞こえてしまう世界ってのがあるわけですよね。
これは話としては別に精神分析とか勉強しなくても、ある意味ごくごく常識的な話だと思う。
よくやってるじゃないですか。
もう古いドラマだから皆さんご覧になってないかもしれませんが、でもこれ聞いてる方はご覧になってるかな。
三年美組金髪先生もやっているテーマはある意味全部それじゃないですか。
先生どうせ私のことなんかどうでもいいと思ってるんでしょうっていう。
先生は自分のことしか考えてないんでしょうっていう。
言ってはためしたがる子供たちがそんなことはないんだって言って、何か時々殴ったり怒鳴ったりして。
いかに愛しているかを伝え合うみたいな、そういう非常にベタな作りになってますよ。
これをベタだと僕らは感じるということは、このテーマ実はベタなんですよね、非常に。
12:05
でも僕らはこれをしょっちゅうやっちゃうんですよ。
本心ではどう思ってるんだろう、本心ではどう思ってるんだろうって。
本当は内心ではこの人は自分のことなんかどうでもいいんじゃないだろうかと。
でも僕は心の奥底で、その人が最終的に自分のメリットを担保できてるっていうのは、とても信用できる話だと思うんですよね。
だからいろいろやってくれるっていうんでないと、むしろとても不安にされると。
本当に情けの便宜以外のことは何も考えてませんっていう人と接してしまうと、それは僕は理想化だと思うんですけど。
いつそれが完璧な形で逆転するか分からなくなりません?やっぱり。
どう考えても。やっぱり人はかすみ食っては生きていけないっていうのは、これもベタな言葉ですけれども。
その人のメリットが全然ないところだけでずっと活動されては困るわけですね、結局のところは。
現実社会を生きている者同士としてはですね。
だから私はちょっと長くなってしまいましたけれども、自分のメリットにはこだわりたいと。
そのメリットは2つあってですね。
1つは収益的な話、収支ですよね。
結局の順益はどうなってるのかってことにはこだわる。
だってその順益で少なくとも娘が学校にやるとか、奥さんの特にうちはエンゲル係数が高くなる傾向にあるんで。
あとやっぱりどうしたってものがやや高い。
最近まして上がってきているんで、このことは考えないわけにはいかないというのが1つと、もう1つは自分の達成ということですね。
この自分の達成にはもう1つ大事な意味があると思うんですよ。
ここをややクリアにしようという意識を持ってないと、
あまりにも僕みたいな人間がですね、正規のトレーニングも正規の知識も少なくとも正規のルートから得てない人間がここを曖昧にしてしまうと、
全部患者さんの力ですみたいな感じになっちゃったり、
私は特にこれといった成果を出していないんだみたいなそういう謙虚さにこだわりすぎるとですね、
逆に全部が成功になってしまいかねないんですよ。
基準がないわけですから、あの事例、この事例はうまくいってる感じがするっていうのがあってこそ、
だからあの事例はうまくいかなかったんだっていう判断ができるわけじゃないですか、感覚的に。
結局これは最後は感覚的にするよりもがないんで。
事態の進展がですね、その後経過が良くなりましたみたいなのは全部は全部報告を受けたり、
事後を追っていければ別ですけど、そうではないわけですから。
事後ではね、もうボロクソ言われてたり、めちゃくちゃその結果悪かったりするということだってあり得るわけですから。
15:03
人生なんていうのは真理だけでできてるわけじゃないわけですからね。
だから何が起きてるかなんてわからないんで、しかもその後全部を終えるわけじゃない。
すいません、あの途切れました。
別にここ先で何か喋ってたわけじゃなくて、
昨日からなんですよ、この十数分のところでグツッと切れる。
何かあるのかなと今思いながらちょっと聞いてた、喋ってたんですけど。
話の脈絡を少し失ったんですけれども、要するに、
自分なりの基準作りたいということです。
上手くいきつつあるのか失敗しつつあるのか、断点は結果としてはできないんだけど、
少なくとも自分としては上手くいかせたいという気持ちがないと、
失敗したくないという気持ちが十分になってしまうと思うんですよね。
野良だからこそだと思うんですよ、ある意味こういうのは。
野良カウンセラーじゃないけど正規じゃないから、
この基準をスーパーバイザーとかに指摘されるわけにいかないんで、
そこは自分で持っておくしかないと思いますので、ここにこだわると。
この話はもう一つ膨らむんですよね。
これが今日のメインテーマなんだけど、
迂闊って言葉あるじゃないですか。
この商売の因果なところの一つは、
必ず自分が迂闊な失敗をやっぱりするっていう。
私はこの正規でも何でもない割に、
ウィニコットの失敗というのがすごく重大な指摘だなって今は本当に思うんですよ。
で、最近になってやっぱり繰り返し頭に巡ってくるから、
この概念は大事なんだっていうか、意味のある概念だったんだなと思うのが、
贅沢な悩みっていう戸畑海斗の言葉なんですね。
天気の心理学で今話題の野の医者が笑うも彼だけど、贅沢な悩み。
贅沢な悩みっていうのは一言で言うと、
現実的に適応できているのになお悩むって意味ですね。
でもこれは当たり前じゃないですか。
現実的に適応できてたって悩むに決まってるじゃないですか。
適応できてるかできていないかなどというのは、
その日その日違うぐらい違うものであって、
実際に適応できてる人がある日突然適応できなくなるということはいくらもあるわけですから。
ここになんでさっきの迂闊って概念が出てくるかというと、
現実的に適応できているっていう感じそのものがすでに迂闊なんですよ。
だって翌日にはもうできてなくなってる可能性が十分あるわけですから。
どんなにこれが予防できると思うのが甘いってことなんですよ。
でもこれが予防できると思ってなければ僕らやってられないんですよね。
18:03
よく言う、僕も時々口走っちゃいますが、
1秒後に何が起きるかだって僕ら本当は分からず生きてるんだけど、
分かってると思ってるじゃないですか。
しかもこの分かってると思ってるのはいいことだと思うんですね。
この辺のことは本当にウィニコットだなって思うんですけど、
1秒後に何が起きるのか分かってないのは現実かもしれないが、
1秒後に何が起きるかは分かってると自分で思い込んでる。
大概は1週間ぐらいもこのまま平穏に無事に生きられるぐらいに思ってる。
この迂闊さこそがウィニコットが言う万能感の維持なんですよ。
これが必須だろうと。
例えばカレンダーは移行対象だと私は思う時があるんですね。
あれを見ているからこそ母親があなた大丈夫だからと。
このあなた大丈夫だからに別に意味はないんですよ。
何か保証してるわけでも担保してるわけでもない。
でも赤ちゃんはこれを信じるじゃないですか。
これを信じないで赤ちゃんがいると多分赤ちゃんは発狂するんですよ。
精神病になってしまう。
そこを扱ったのがメラニー・クラインだと思うんですね。
だからメラニー・クラインの心のモデルとウィニコットの心のモデルはやっぱりどうしても大きくずれるんですよね。
このずれはだから私たちは両方を保持するしかないんだと思います。
違うモデルを心に当てるのは非常に混乱のもとなんだけれども
こうしていかないと病理的になった時の心の状態と
健常に生きてきた時の人の心の状態との違いというものが
統一モデルだとむしろ壊れる、扱えなくなってしまう。
統一モデルってすごく喜ばれますけれども
統一モデルっていうのは使いにくいものなんですよ。
混沌としているし、どんどんどんどん要素増えちゃうじゃないですか。
モデルを統一すれば統一するほど。
ある意味それだけでやってはいけないけど
日常はそれだけでやっていけるニュートンの万有引力のモデルはシンプルですよね。
でかいものと小さいもの、物と物が引き合うというシンプルですよね。
だから引力が発生して物は落ちてくる。
だけど漁師の世界だと物が落ちてこねえじゃないかっていう
落ちてきたらみんなペッシャンコになってこの世の中の物が全部なくなっちゃうじゃんっていう
こういう話をここにねじ込むとすげーややこしくなるじゃないですか。
だから大統一理論みたいなものはどうせややこしいと思うわけだけれども
そういう統一的な理論、相対性理論とかね、だんだん複雑になってきますよね。
で、心のモデルではそういうのって多分役に立たないんですよ。
人の話聞いてるときにモデルなんて想像して
この人の場合長直がこうでSがこうで環境としての母親だとするとこうこうこうなってみたいなのを
考えながら話聞いてたら聞くのに耳に入ってこなくなりますもん。
だからお話うががってるときはこういうモデルは一切意識から外して
聞くのが一番いいと思うんだけれども
そうするとそれこそ野良の世界では野の医者的な世界ではですね
21:04
手鶴が何にもなくなって困るわけですよ。
だから私は3ヶ月チャレンジではだからってわけじゃないんだけど
結果として3ヶ月チャレンジではこの心のモデルについて話し合いを続けるというのを
一つの手鶴にしているわけですね。
それだけやってるわけではないし
それだけやらなきゃいけないというルールは決めてないんだけど
いざとなったらここに戻ってくることによって
気がつくと自分の悩みを必ずここに
自分の心を自分の臨床例として
いろんな心のモデルについて話し合っているうちに
必ず自分の悩みを象徴的に扱うということがスタートするはずだというのが
私が勝手に編み出している勝手なやり方なわけです。
それはそれでそうだとして
非難豪豪かもしれないけど構わずとりあえずやるとしてですね
私がそこで迂闊になる必要があるというのは
情報が足りないからってことと
僕らやっぱり万能感の中で生きてるからなんですね
この万能感は僕はウィニコットに基本賛成で
保持していかなければ我々は生きていくことは難しくなってしまう
かなり精神病水準に近づいていってしまう
そういう生き方できないので
我々はやっぱり正気を保って現実原則で生きていかなきゃならないし
お金もいりますし
自己愛も大事ですしということになってくると
やっぱり万能感はいるんですよ
自己愛なんてね現実には役に立たないもの
というか普通用しないものですからね
私が何より大事ですと
まあ売ってまあいいややめよう
とにかくそういうことは必要だということですね
赤信号は止まるべきなんですよ
象徴機能は大切だということですね
その
とはいえ
いきなりそのモデルが壊されることが起こるわけですね
私は話をしていて話を伺っていて
ここがつまり贅沢な悩みと抵触していくんですけど
どんなに現実に適応度がよく見える方であっても
一時過程は持っていらっしゃる
し温存もされている
この辺はミニコットでもクラインでもいいところだけど
ここはクラインの方が分かりやすいケースが多い
つまり妄想分裂ポジションはその人の中には
どんな人の中にもある
私はここあんなフロイトには全然賛成できない
ここをなんかこう心理的教育とかで乗り切りたいとは正直思わない
なんかその方がいいケースがあるはずだっていう話も
いつか説得されるかもしれませんが
今のところ私はやっぱり自分の中の妄想分裂ポジション
24:02
一時過程
一時なる沈む
これはクラインは認めてないですけど
平心病部分というのはあると思いますね
間違いなく僕の中にはある
僕現実には適応してるじゃないですか
現実適応は私はしてると自分みんなしてるんですよ
現実のことは分かってると
質検討式は大丈夫だと
ただ妄想分裂ポジションはあります
だからそいつが活性化することもあります
で温存してるという部分もあります
自己愛の病理もあります
だから並行してるんですよ
なんていうのかな
無意識というわけじゃないけど
水面下に置いてあるわけですね
最も出してまずい場所には絶対出さないようにするけど
そういう時こそ出ちゃうんだけど
出さないようにしてますけど
あることあるんです
しょうもないことにこだわってみたり
明らかに現実的でない恐れを抱いてみたり
してるわけです
してるわけですよ
することもあるじゃない
常にしてるわけ
してない顔はしてるけど
これがウィニコットの言うところの偽りの事故ですけど
本当の自分というものがそこで
ある意味圧殺されてるわけですね
本当の自分だったら
こういうことはしてたくないことをしなきゃ
久しぶりに書いていただいて思い出したんですけど
お好み警護さんがね
だと思いましたけども
プロ野球ニュースを中継を聞きながら
学会のシンポジウムをやる
しかも彼は
司会者をやってるのに
横では巨人のラジオ中継をつけている
すげーなって思う
非常に面白い話なんだけど
つまりこれは独特ですけどね
その後継はおそらく
でもお好みさんとしてはやっぱり
学会のシンポジウムでは偽りの事故なんですよ
彼は本当は生き生きと
それをやってられないんだと思うんですね
本当に彼が生き生きとするのは
ジャイアンツがどうなってるか
っていうことに興味を持ってる時だ
少なくとも彼はそう信じてるんだと思うんですね
会長がですよ
だから校長先生が校長先生のお話をしながら
セーブライオンズの試合の中継を
ラジオで流してるようなもんですよ
普通じゃ絶対無理でしょ
どっかから絶対
家からすぐ何かが入ってきちゃいますよね
でも校長先生にしてみると
朝の挨拶をちゃんとしましょうとか
喋ってる時の自分は死んでるんですよ
ある意味で死んでるんですよ
それじゃダメだろって言われても
それじゃダメだろっていうのが
普通の社会かもしれないけども
やっぱりそれじゃ
自分は生き生きとはしてないんだと
今セーブ4対3で勝ってるんだけど
ワンラウト満塁なんだけど
ちょっとこれやっぱりこっち気にしてる自分が
本当だよねってことなんですよ
本当の自分っていうのは
27:03
いろんな意味で圧殺されているんだけど
本当の自分が本当に死んじゃうと
例えば鬱になったりするんですよ
きっと我々はね
だから二次過程で生きるというのは
二次過程でだけで生きちゃダメだと
というのがここにあるんですが
大概の人は少なくとも
3ヶ月チャレンジに入っていらっしゃるような方は
みんな二次過程はOKなんですよ
だったら問題ないことになるじゃないですか
二次過程OKなのを目指すわけだから
二次過程がOKなら
問題ないってことになりますよね
でも一次過程があるんですよ
ここをなんとかしながら生きてるのが
みんな同じなんで
その悩みをカウンセリングに持ち込むのは
贅沢なんじゃないのっていうのが
遠畑海斗さんの概念の
提起している課題問題なんだけれども
でもやっぱりここを扱わずにいて
どうするんだって話なんですよね
特にウィニコットのが
ここが扱いやすくなるのはですね
ウィニコットはやっぱり
正気の人たちをまず見たから
彼は小児会だったから
お母さんが連れてくる子供たちを見てきたから
母子一人でいる赤ん坊などというものはいない
彼の名言は
精神分析の場のことを言ってはいますが
彼が見た現実なんですよ
99%は子供はお母さんと一緒にいる
少なくとも2、3歳児未満以前はね
でも世の中そうじゃないよね
っていうのは確かにありますよね
3歳児が家で留守番してたりするケースはあるわけだ
だからそれはつまり精神病水準が
強烈になってくる可能性が高い
でクラインはそっちの方の子供たちを
まず中心に見たんですよ
だから母親と一緒でない子供の心というものを
心のモデルにする
でもこの心のモデルが
一般に通用するはずがないじゃないですか
だから贅沢な悩みの方では
このクラインのモデルって極端なんですよ
その人がよっぽど上手くいっていないときの
心のモデルの説明としてはいいんだけど
上手くいってるときは
明らかにクラインのモデルっていうのは
何かが何かが突出して
歪んでる感じがするんですね
でも例え贅沢な悩みだとしても
どれほど現実に適応して見えている人でも
ひとかわ向けば
クラインのモデルの方が見やすかったりもするわけ
だからこのウィニコットのモデルと
クラインのモデルっていうのは
いつもどっちかを採用して
どっちかを採用しないっていうのが難しくて
大体対象関係論の中では
どちらもとても大事なんだけど
相互には矛盾しますみたいな
そういうある意味困ったモデルたちなわけですね
で僕はこの話で最近は本当にでもウィニコットって
やっぱり最初僕すごいウィニコットピーキだったんです
やっぱり自分が正気に近いんですよ
で途中からすごくクラインに入っていったんだけど
30:03
それはやっぱり
自分の病理についての説明を始めると
なんとなくウィニコットのでもいけるんだけど
クラインの言ってることの方が
なんかこういろんな意味で
なんて言うんですかね
病んでるなーって感じはするものの
でもそうだよなーって感じがするみたいなので
話としては追いやすい
でも今ウィニコットに戻ってきてるのは
けどやっぱり我々は
現実適用というものの下に
こう非常に難しくなってる事態っていうのは
並行して進行中で
これは贅沢な悩みと言われちゃうかもしれないけど
適用できてない人にしてみればですね
でも贅沢とは言えないと思うんです
いつそうなるか分かったもんじゃないっていう意味においては
でその緊張状態を記述するものとしてのウィニコットは
非常によくできてるんですよね
偽りの事故偽りの事故で上手くやってますと
やや脅迫的かもしれないし過度に心配しようかもしれないし
結局のところ引っ込み事案に人はなってしまうと
不活なことは言いたくない
不活なことはしたくないっていうことだと
一歩間違えたら何にもしないってことになってしまう
それはつまり非常に抑鬱的になってみたり
万能空想に浸る引きこもり型の人生になってしまう
でもそういう人今とても多いですよねっていう指摘は
方々から入ります
つまりウィニコットのモデルって役に立ちますよねって
それは言い換えてもいいわけです
引きこもりが上手く説明できる
万能空想に浸り切る人生を上手く説明できる
偽りの事故で毎日会社に行って上司のご機嫌取って
やりたくもないことをやりたいですって
言ってみたりしている人の心の緊張状態が上手く記述できる
これはフラインより間違いなく
ウィニコットのモデルの方が記述として上手くいく
でこのウィニコットを意識する
モデルを意識するってことがですね
私たちの迂闊さというものの重要な意味を
よくよく物語ってくれるんですよ
我々は迂闊でなければ生きていけない
ウィニコットのモデルってのは
我々はどうしたって迂闊に失敗するってことを言ってるんですよ
だって偽りの事故でいいんだっていうのは迂闊じゃないですか
偽りの事故でいけば最後必ず破綻することは目に見えているわけですよ
つまりもっと大きな文脈というものに
僕らは取り囲まれているのに
ウィニコットの言うところの万能感を保持した
迂闊な生き方
偽りの事故で身を固めているという
この一見賢そうなとても迂闊な生き方は
いつもいつも重要な
現実の重要な側面を基本的にはスルーする
だいたいそれで上手くいくけど
基本的にはスルーする
世はいつか死ぬ
っていう話を実質スルーする
永遠に生きられるかのような顔をしている
だから世界を狭めるわけですよ
例えばこの世に宇宙があることは忘れる
33:01
アマゾンでポチポチやっていれば人生うまくいく
お金があれば人生うまくいくっていうのは
世の中から宇宙は占め出すことにしてるんですよ
宇宙空間とか関係ない生き方をすることになるじゃないですか
死というのも無視するんですよ
死ぬってことがあんまり想定されてないですよね
つまりこれは子宮の中にいる赤ちゃんの生き方なんですよ
万能かもしれないけど
その外がスルー無視されてるわけですよね
でもだからこそいいんですよ
赤ちゃんは子宮の外があることを知ったら発狂するんですよ
僕らもそうなんです結局は
真っ直ぐ死ぬかもしれないと本気で思ってたら
ほぼ発狂状態になってしまう
だから僕らは万能感を保持するという
迂闊な生き方を捨てることはできない
だからいずれ必ず迂闊な失敗をしなければいけない
これをしないで生きるってことは
死んでることと何も変わらないっていうのが
ウィニコットの逆説なんですよ
こうしないと生きられないのに
死んだような生き方になってしまう
これをコトン突き詰めると
おそらくその人は心理的には死んでる
心的な死っていうのがもう一つの
すごく重要なテーマですよね
だから一見すごくうまく生きてるような人は
心的に死んでるケースが少なくないと
ないしは脅迫で懲り固めてしまう
いや私は死ぬことも分かってますから
宇宙も存在すること知ってますし
明日地震が来るのも知ってるから
地震の保険もバッチリ入ってますし
いつ死んでもいいようにこうこうこうこう
こういうふうにやってますっていう
すごく脅迫的な生き方になってしまって
ちっとも生き生きと生きてない
つまり本当の事故はそこでは
生きさせてもらってないわけですよね
それはただ保険の内側に
引きこもってる生き方なわけですよ
この生き方を続けていると
いろんな人が言い始めるわけですね
なんか自分は心配してばっかりいて
何がおかしいってわけじゃないんだけど
とにかく心配してばっかりいて
ちっとも楽しくありませんとか
あるいは人と付き合ってる人は
みんな決まりきっている人ばっかりで
新しい人と会話をするだけでも
自分はすごく怖い
これは対人恐怖なんだろうかとか
何にも別に問題はないようなんだけれども
なんか気が付くと涙が出てくるとか
こういった話にフラインをいきなり適用すると
つまりそれは本当にそうで
あるいはフロイトでもいいんだけど
メランコリーが対象の影が自我に
っていう話をしてもいいんですけど
おかしくはないんですよ
おかしくはないんだけど
でも多分偽りの事故が分厚い壁を作ってて
本当の事故が窒息してますっていう方が
見えやすいこの事態はですね
技術として分かりやすいわけ
そして問題じゃない方に光が当たってるじゃないですか
なんでうまくやれてるかの説明できてるじゃないですか
36:02
対象の影が喪失している対象の影が自我に落ちていて
メランコリックになっていて
あなたはうまくやってるようだけど
欲打つな問題があるんですってのは本当なんだけど
大抵の場合
あるいは一時家庭の方に温存していて
あなたがイチャイチャしているフィギュアみたいな
女の子のドールはそれと遊んでいて
そこに褒められることばっかり考えているっていう
依存になってますみたいなのも嘘じゃないんだけど
それって問題の方にだけ光当ててますよね
うまくやってる方は無視されています
うまくやってる方が
事態を悪化させているっていう話を無視しています
うまくやってるんですよ
偽りの事故がすげえ場合によっては
やたらうまくやってる場合があるんですよ
あの人本当に優秀だわっていう
その優秀さはその人の偽りだったりするわけですよ
だってそうじゃないですか
途中でお好みケーゴさんの話しましたけど
すごい上手にシンポジウムやってますと
もうなんかまさに天聖のシンポジウマーだわ
死にませんけどそんな人がいるかどうかはね
だけどその人は実は家に帰って
さっさと巨人戦みたいのかもしれないわけですよ
それが仕事ってもんでしょって言われるかもしれないけど
偽りであることに代わりはないってことね
だから偽りがものすごく有能になって
ってことはその偽りにものすごくリビドウが
いってるってことなんで
なんか俺すごい生きてて虚しいわっていう人が
めちゃくちゃ快活で
めちゃくちゃ有能そうでってことが起こるわけなんですね
この問題が非常に現代ではありえそうな問題なわけです
なぜならその偽りの事故をサポートするのが
文明の力なのである意味では文明の力が
ここまで発達してくると偽りの事故が
どんどんどんどんサポートされて
どんどんどんどん強化されていて
まあ僕ら要するに心的に死んでいくわけですよ
この人が治療室なりにやってきたとき何が起きるかと
偽りが駆動してしまうわけですね
カウンセリングの場でも
カウンセリングに対してこういう偽りの事故を
発達させた人は嫌でも必ずやり出すことがあるんですよ
このカウンセラーにバカだと思われたくないとか
このカウンセラーを知的に唸らせたい
私に対して感心させたいということで
非常に上手に自由連想を始めてみたり
非常に上手にカウンセリングにかかってみたりするわけです
いかにもそれっぽい問題をいかにも深刻に持ってきて
すっかりそれにカウンセラーがハマってしまって
それは確かに問題だと
例えば不眠とかね
そういうものに引っ張られていって
二人で偽りの治療を始めてしまうわけです
多分こういうことはいくらも起こる
これに対するモデルとして
39:01
私は偽りの失敗
うかつな失敗をしなければダメなんだ
という意味に言っていることが
すごく刺さってくる感じがするんですね
カウンセラーうかつにも乗るわけですよ
この人はこういう状況なのかそれは大変だよなと
どんなに上手く適応しているように見えても
やっぱり人は悩むよねっていう感じで乗っていく
いわゆる常識的で真っ当なんですよ
例えば人に絶対迷惑かけたくないと思って
一生懸命頑張っているんだけどつらいみたいな話に
やすやすと乗ってしまう
そしてその話をして
クライアントの方も意識水準では
本当にそれで悩んでますから
偽りの事故ってすごいんで
偽ってるから嘘ついてるってわけじゃないんで
変な話ですけどね
完全に問題に対してのめり込んでいって
2人で治療に熱をあげるわけですよ
なかなかよくならないと
でも先生が悪いわけじゃない
これは全部自分が悪いんですと言ってみたりして
この人は抑鬱的だなと
なんでも自責しちゃうんだなと思って
メランコリーの話になってみたり
一生懸命頑張るわけですよ
でも全部騙されてるわ
そのことそのものが騙された状況
状況がすでに2人を騙してしまってるわけですよね
どっかで
これがオグデンさんの
性を取り戻すの全体のテーマだなと
全体のテーマを話すより他ないような本なんですけど
全体のテーマだなと
どっかで治療者は気づくと
結構恥ずかしくなってみたりしてですね
迂闊なんで
あー俺迂闊だったなと
すっかり騙されていたと
この治療全体が不毛だったわと
一方違うとその間数年とかですからね
お金もいっぱい取ってるし
時間もいっぱい経っちゃってるし
明らかに無駄なことをしていたと
でもこの無駄を2人でやってみないと
その無駄の一体どういう問題なのかがわからないわけですよ
お金をがっちり稼いで
ブラックライデーでいるものをがっちり買って
子供も育てて
いい会社に行ってて
健康に気を配って
この人生全部無駄だって感じがしている
のがその人の一番の本音にあるんだ
本音というか心の底の悩みなんだけど
見えてこない
本人には全く見えない
それが精神分析科にすら見えない
2人で一生懸命全然違うところ
すっかり窓外れなところに熱を入れていて
不意にね
不意にそのことに気づくんですよ
気づいたときに何かを見るっていう
よくわからない何かを見る夢を見たりするんですよ
でその話が始まって見たときに
ライアンドさんが言うわけですよ
先生は私のことを見放してるんだと思いました
つまりこういう無駄な治療を延期にやっていては
何にもならないじゃんっていうのを
心のどっかで知っていたっていう
告白みたいなものが起こるんですね
42:00
その時に2人して目が覚めるわけですね
迂闊だったっていうことですよ
現実はもっと外があるわけですね
文明が変わるって言ってもいいんですよ
この人が見えている世界を限定していれば
その生き方は最適でベストなものなんだけれども
ほぼベストなものなんだけれども
もう一歩外を
だからマドリックスなんですよね結局
外があります
あなたが生きている現実は
あなたが知っているようなものじゃないんですってことですね
これはですね僕は
自分の子を育てていて時々これに遭遇したんですね
で迂闊なんで奥さんに激怒されるんだけど
この激怒が後から考えるとすっごいいいんですよ
とてもめちゃくちゃいいんですね
その時は理不尽だとしか思えないんだけど
実際理不尽でもあるんですけど
ミニコットって本当に偉いなと思うんですけど
例えば熱が出ていると
インフルエンザのような熱だと
で我々は処理の対応の仕方も全て知ってるんで
熱だよなと思ってるんだけど
奥さんが激怒する
全然ダメじゃんみたいなことを言うわけです
何がどう全然ダメなのか
後から分かるんですよ
もっと深刻な病気だった
奥さんそんなことを分かってるわけじゃないんですよ
ただ何かを感知するんですよ
現実にあるのは
自分が知ってるような現実だけで
出来上がってるわけじゃないってことですね
感知するんですよ
いつもの現実的な対応を
現実的にやってるだけじゃ全然ダメなんですよ
で奥さんそんなことを
全部分かって喋ってるわけじゃない
全部分かって怒鳴ってるわけじゃないんですよ
そこで夫婦喧嘩になったりするわけですね
完全に浮かすじゃないですか
自分の子が深刻な病気になってるのに
病気そっちのげで
夫婦喧嘩してみたりして
でもこの夫婦喧嘩をするという浮かしさは
必要な失敗なんですよ
こうして僕らは自分の失敗に
直面することができて
赤ちゃんというものは
インフルエンザの薬を飲ませていたり
飲んだりをただやってるだけで
突然死症候群ってあるんですけれども
そういう現実に直面させられることが
起こり得るわけですよね
現実っていうのは
僕らが知っている
限定して知った気になっている
その狭さのその外側が
常に必ずある
という話なんです
その外は我々には分からないので
赤ちゃんに子宮の外があることは
分からないように
普段は覆い隠されていて
覆い隠されているからこそ生きていけて
覆い隠しているのは
偽りの事故なんで
この事故がなければ
生きていくことができないんだけれども
この事故ですっかり覆い尽くされてしまうと
僕らは心的には死んでしまうと
その生き方をずっとやっていると
息苦しくてたまらなくなる
その息苦しさというものが
治療室の中に持ち込まれて
二人して息苦しくなって
失速して
どうしようもない
このままじゃどうしようもない
なんでどうしようもないんだか分からないんだけど
とにかくどうしようもないという風に
先に治療者が気づく
これが正規の治療者の価値なんだ
45:01
というのが
多分僕はオグデンが言っていることだな
という気がします
45:12

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