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2024-07-24 43:58

何度でも投影に気をつけたい【1025】

「悪いレッテル」を周りに貼るのはなんとも言えず損くさい。
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おはようございます。
働く人に送る精神分析チャット、第1025回をお送りします。
7月24日水曜日、朝9時3分です。ちょっと遅くなっちゃいましたね。
相変わらず、これの撮り方がですね、もはやこれで定着してしまうのではないかと懸念されるぐらい、
まだ打開策に至っていないという。
大体この辺で覚悟を決めるしかない感じになってきたんですけど、
ちょっとね、いろいろ踏ん切りがつかないと言いますか、踏ん切りがつかなくはないんだけど、
ちょっと困ったもんだなぁと思っています。
お知らせをしたいと思いますけれども、
お知らせはですね、7月28日日曜日にタスクシュートジャーニーの第6回というのを開催して、
こちらは私とJ松崎さんで開催する一連のタスクシュートを一応テーマとしたトークショーみたいなやつなんですけど、
ゲストを毎回お招きしておりまして、今回は古川武さんというですね、
なんて言いますか、週刊課の本で売り出しでベストセラーが書かれている方です。
最近では各迷走という本がかなり絶賛発売中でして、
あれに危かれるといいなぁと思っていなくはないんですけれども、なかなか各迷走と先送りゼロではちょっと違うんでね、方向性が。
タスクシュートではないんだけど、先送りゼロもですね、もうちょっとここでもう一踏ん張りできないかなと、
日々夜寝る前に悶々としておりますが、ただ悶々としているだけっていうのも見えなくもない感じです。
あとはお知らせではないんですけど、おかげさまで来期の3カ月チャレンジは本当に好評で満席となりましたので、
ここからはですね、1回あたり9000円プラス税の枠を1週間の枠空けている、空いている枠をGoogleカレンダーで提示しているあれですね、
あちらのサービスをもしよろしければ、これはですね、8月、9月とも続けていきたいと思っております。
3カ月チャレンジの途中から入っていただくことはできないので、ここはもう1回きりになってしまうんですけれども、
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何回か連続して使っていただける場合には割引するっていうのは、これから必ず作っていこうと思っておりますので、
それでもって1on1は多分最後かなと思ってます。
そろそろ枠も限界地点に差し掛かり始めたので、これ3カ月チャレンジ始まってからですね、
8月になってから、おいおいそういう最終的なところに拡充していきたいかなと思っております。
個別セッションもですね、一つのフレームワークかなと思うんですね。
私が提供するという意味でのですね。
他の仕事でやれそうなことをやっていこうと思ってるんですけども、時間的に割といっぱいいっぱいかなという気もします。
季節ごとに大変さってありますよね。
夏は夏で今は大変だし、冬は冬で私は得意じゃないしということでですね。
できることには、やっぱり肉体には限りがありますので、肉体をギリギリまで濃くしろとは私には誰も言いませんが、
そういうところから、もう一つぐらい考えていこうかと。
もう一つやってると本を書く余裕は、いよいよ難しいんじゃないかなと最近思うんですよね。
その本の話を、本の話じゃないんだけど、今回出したto-doリストは捨てていいの?話をさせていただこうと思いますね。
昨日、一昨日、東映という話について改めて深掘り、私なりの深掘りをしてみたつもりなわけですが、
これは結局ですね、誰が悪いんだ問題というものを著しく分かりにくくするわけですよ。
それが故にこの東映という話は、結局のところは個人セッションの場に限られていくようになっていき、
つまり臨床に限るみたいな話になりやすいし、そうであるべきだという部分ももちろんありますし、
しかも何かと社会活動の社会正義という、社会正義なのだろうか、難しいですね。
ムーブメントというものはでもあると思うし、またそれは必要なものだと思うんだけど、
そのムーブメントというものから見ると、東映という考え方は実に邪魔臭いものなわけですよ、多分ね。
先端的な方々はおそらくもう社会ムーブメントの中に東映は絶対十分検討し、
かつただ邪魔にするってことはないと思うんだけど、
ムーブメントには様々なものがあって、その中から見ると、やっぱりそういう側から見れば、
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東映というのはもう本当に一歩落ちると、何て言えばいいんですかね、欲参戒的な、
そこまで言ったら言い過ぎだと思うんだけどね、ものに見えかねないと。
例えば非常に分かりやすいところで、きのう一昨日もお話しした奥さんに向かって旦那さんがですね、
部屋片付けようか僕が大変そうだからねって言うとするじゃないですか。
で、奥さんの対応は両局に分かれたと、換算してもっと局はありますけど、
まあでも両局に分かれたというところから、本当にひどい旦那だっていう人から、
とってもいい旦那だ、夫だっていう人までいるわけですよ。
これは東映の結果なんで、いいとか悪いっていうのは、自分の心の中の良し悪しについて言っているのであって、
夫について良し悪しは言ってないというのが、倫理省の考え方だし、私が基本的にとっている考え方なんです。
というのは、これは対人関係だけに適応する話ではありませんから、
対人関係だけに適応したとしても、やっぱり僕は東映だと思うんだけど、
いやいやそれは東映じゃなくて、旦那が悪いか妻が悪いかのどっちかなんだっていう観点を取らないとですね、
なかなかこう、正義などという話はできやしないわけですね。
主観的な東映が、その人をどう見せているかが変わっていくとか、
力動的にどう動いていくかというのを追っていくって話をしているとですね、
どっちが悪いかという話は、とても操りにくくなっていくわけですよ。
ただ、ただですね、何度も言いますが、私はそうは言っても、
どれほど世の中には社会というものがあってという話を、つまり社会モデルでどれほど見ていこうと、
徹底したとしても、人は夢を見るということをしているのでね、
ここをないがしろにというか、外して考えられないじゃんということはありますね。
だから、その夫がいい夫だろうと、ひどい旦那だろうと、DVだろうと、もらはらだろうと、
あるいはすごくよくできた今時の夫であろうと、その夫を本当に見ているのかっていうね、
そこに夫は本当にいますかっていう問いは、私は本当は社会正義であっても、
欠かせない部分だとは思うんですよ。
人は幻覚を見る能力を持っているし、夢の中で夫にすることを言われることもあるわけだから、
その時の夫はどういう夫だったのかっていうのは、自分で決めてるとしか言いようがないんでね。
ここが最大の私は山場かなと、だから夢判断っていう本は読みにくいですけれども、
やっぱり僕にとっては一種のバイブルになるわけですね。
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バイブルだから常に片手に持って、夢判断のこのページによればとかやってるわけでは全然なくて、
一回読み通すのもヒーヒー言ってたというのは実情ではありますが、
でもやっぱりあれを学術的に見ていこうという考え方は、間違いなくこういう背景を持ってるはずだと私は思いますね。
だから夫が片付けようか、大変そうだからねと言ってくれた、とてもいい夫だという投影もあればですね、
本当にね、私が動けなくてひどい目に遭って困ってるのがわかっていながら、
あの夫は片付けようかなんて白々しいこと言って片付ける気もないくせに、
私をとことん罪悪感を持たせて、結局は私を動かそうとしているんだと。
本当にひどいやつなんだよという投影をするか。
僕はこれは投影だと思うんですけれども、
旦那がどういう人間かはこの段階ではまだ語られていないと、私には見えるんですよ。
見えるんだけれども、そういう観点は取りませんという話は当然あります。
夫がいい夫か悪い夫かどっちかなんだと。
正義でいい相性なんだと。
でも大体の場合はどっちかなんですよ。
多くの人にとっては投影とは現実なんですよ。
なぜなら我々は現実を知覚するために、残念ながら投影を使わないことができない生き物だからなんですね。
ここが我々の精神病部分なんですよ。
つまりこれはないですって人は、私に言わせればいないんですよ。
これがないです、ブッダはなかったかもって言うんだったら、そうかもしれないけど、
私にはその証拠を集められないのみならず、
あれは3000年近く前に生きていたとされている人の話なので、私はその話はちょっとカウントしない。
少なくとも私が知る限り、人が投影抜きに自覚しているというケースは見たことがない。
し、自分自身が投影しないで自覚できたということも経験がない。
あるっていう人に反対はしません。
別にそれはいいんです。
私にできたことはないってことですね。
お前にもあったっていうのには私は同意しません。
私にはなかった。
投影抜きの自覚というものができた、できたというかあり得たということがなかった。
それは私からすると当然のことであって、残念なことではないです。
これが残念に見えるのはですね、私たちが多分ガリレオの頃に非常に論争になったガリレオではないか。
まあでもあの頃に論争になってますよね、すでにね。
その後もずっとデカルト、デカルトです。
論争になってます。
つまりコギトとか言っているってことがですね、客観的な真理というものは主観的な投影とは別なんだっていうふうに、
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ある程度ここを頑張るっていうのは大事なんですけど、そこをすごい頑張ってエポ系って言葉が出てくるんですけれどもね。
つまりフッサールですよね。
現象学ですよ。
しかしマトリックスという映画もそうだったんですけど、ここは頑張るってことはできても、たどり着くってことはできないんですよ。
そこを言ったのが、私は基本デカルトが言ったと思うし、フッサールも、何ならメロロポンティとかも言ってると思ってるんですけれども、
まあそれはいいとして、もう手図学とかになってくると私はいよいよもんがり館ですから、そこはいいとして、要はたどりはつけないんですよ。
私たちはやっぱりリトバス試験師じゃないんで、賛成は絶対いつも私たちは赤く反応しますってことはできないんですよ。
私がこれをですね、一番体感したのは実に面白いことに、アメリカの留学中に整理心理学っていう心理学をとってたんですけど、
ある部屋に先生がね、台本の先生が招き入れてくれて、この部屋にある色は君たちが見ている色とはおそらくずれているっていう部屋なんです。
で、非常に面白いことにですね、オレンジ色に見えてる光があるじゃないですか。
ぐーっと近づいていくと、青から青紫なんです。すべての色がそうなんです。
その話はつまりコーンっていうのかな、目の中にあるそのやつで変わっていくっていうのをその先生は否定するためにその部屋を失来てるんですけど、どういうことかというと、
コーンの考え方っていうのは結局のところ、色の錯覚の話をしているに過ぎないですね。色温度とかそういうものを使って。
でもその先生は色というのはそういうもんじゃないんだと。
私たちは絶対音感と相対音感というじゃないですか。ドレミファソラシドがなしドレミファソラシになったとしても、絶対音を持っている人はこれが今言った僕の気持ち悪く聞こえるはずなんだけど、相対音の人はドレミファソラシドっていうのをずらされると全部ドレミファソラシドになっちゃうんですよ。
これが相対音感ですよね。光もそうなんだっていうのがその先生が一生懸命やってた世界で。
光というのはつまりどの波長にどういう色になっているっていうことではなくて、それにコーンがこう対応するとかああいう発想は全部インチキで、すべては相対的に決まっているのであって、相対という関係をずらすと、我々はいわゆる音の相対音感みたいになってしまうように光も相対的なものに見えてしまうのでずれていくんですね。
そのずれをわざわざ作り出そうという光の当て方をすると全然違う色を我々は見てしまうわけですよ。間違いなくすべてそこに来ていた生徒さんの中でそうじゃなかった人はいなかったんで、この先生は非常に妥当な研究してんだろうなと思った。
私にはそれほど当時興味が持てたわけじゃないんですけど。オリバーサックスが色のない島っていう本に書いていることと似てますね。あまりにも光が照度が強い島に行くと赤道直下でめっちゃ眩しいみたいなところですね。何もかも真っ白になっちゃうんで、白と黒しか見えないわけですよね。
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課長の問題じゃないってことなんですよね。これはね。これは結局課長の問題当然あるんだけれども、課長の問題をすごくその差異を見ているのであって、我々はその差異が非常に分かりにくいところに行くと、我々はその差異の捉え方が変わっていくので、同じ色は同じ色ではないということだと思うんですよ。
こういうふうにできている我々はね。だから寒いという時には暖かいものが著しく暖かく感じるようにですね。温度直接とは関係ないわけで、そういうのっていうのは全て東映と密接に関係があると思うんですよ。
だから、あのある種の人にとっては、罪悪感というものを常に喚起されているような、昨日の話した中ではですね、一番厳しそうなのが、例えば空腹に罪悪感、空腹というものはないから、ゼロ歳児にとって空腹らしきものに、罪悪感らしきものを覚えさせられ続けてきた赤ちゃんは、あらゆる事柄についてそういう状態に心理的になりやすいので。
だから、良い夫も悪い夫もなるんですよ。その夫が本当は良いのか悪いのかという問いは、無意味なものだと僕は思うんですね。だから、もらはら夫という言葉は、私の中では相対的に変換されざるを得ないんですね。
このシチュエーションにおいて、その人の言動は、もらはら的なものを投影されやすい立場に立たされた夫なんですよ。でも、その夫が善人だというわけではないんですよ。その夫は、そういう投影を異常の悪人である可能性もあるんですよ。事実とはずれていると言っているに過ぎないのであって。
しかも、私たちは投影をそれほどまで強烈に投影投影投影していれば、投影同一化が必然的に起きていくので、あなたは私をまた苦しめるために掃除しようなんていう白々しいことを言うんでしょうと夫に言うとするじゃない。言わないにしてもそういう態度を出すとするじゃないですか。そうすると夫は、そういう夫になってもいくので。
投影されれば投影されたようになってもいくので、ますますその夫は本当はどういう夫かという問いの意味が全くなくなっていくという話を私は一生懸命しているつもりでいるわけですね。そうするとどうなっていくかというと、つまりその人にとって、つまりその投影をしている人にとってどういう世界が出現するかが大事なんですよ。私にしてみればね。
その夫をどうすれば正すことができるとか、モラハラをやめさせることができるとか、モラハラの人間を減らすことができるとか、それも大事なんだと思うんですけど、そういうことではなくて、どういう世界がその投影している当人にとって出現してしまうのか。
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ここにもっと共感と同情を寄せましょうよっていうのが、カムセリングの言っていることだと私は思いますし、私自身がやらなきゃいけないと常に思っていることですよね。
投影してるのはそいつが悪いじゃんってなりやすいじゃないですか。善悪の話しちゃうと。そうでは絶対ないと思うんですよね。だって赤ちゃんの時にですよね。空腹らしきもの、空腹というふうに思われる状況に対して、罪悪感というようなもの、罪悪感ではない。
罪悪感を知らないから。罪悪感らしきものを何度も何度も、全くそれに対して無防備な状態で晒されていた赤ちゃんが、将来投影をするという事態になったからといって、その赤ちゃんを責めるわけにはいかないどうかと思うんですよ。
その人を責めてもしょうがないというか、その人は責められるべき人ではない。でも、その人が誰かで構わず投影しまくっているうちに、投影同一化をいっぱいして、周り中モラハラの上司だ、モラハラの夫だ、パワハラの上司とか、パワハラの同僚とか、そんな人ばっかりに囲まれて、私は大変運が悪いですと言っている時に、周りの人間をどんどん正していったり、能力を高めていくというのは、
私はすっごく遠回りに見える上に、全然妥当性もかいという感じがするんですよね。で、ここで、いやでも、そんなモラハラ悪いじゃないですかっていう話に付き合ってしまうと、本当にモラハラかどうかを精査して、そうじゃなかった場合、今度投影してる方が悪いじゃないですかって話を始めるしかなくなるじゃないですか。
始まっちゃうじゃないですか。これを始めるのは、ますます事態を悪化させているように私には思えるので、そうではなくて、一旦モラハラのことは置いておこうと。ここが許せないって話にすぐなりやすいんでね、でもここは一旦置いておこう。
で、投影をしているという話はもう避けられない話なので、相手の人がその投影している以上の悪人だとしても投影はしているというのは避けられないので、この投影をするということ自体を何とかできないかを考え、そのためにやっぱりその人に対してもっと寄り添わないといけないと思うんですね。
その人がそれまでどんな目に遭ってきたから、まあトラウマといえばトラウマなんですけど、投影ということに走っているというか、投影が止められなくなっているのか、ただこれは一般的には難しい話なんですよ。だからカウンセラーは専門家なんだけど、一般的には難しい話なんですね。
この一般的には難しい話なのですが、でもこれは少なくともその人は投影して苦しんでるんだろうなという想像を巡らすことはできるんですよ。自分らもしてるから。私も間違いなく連日してますから、投影をすると。
例えばですね、人だと時々わけわかんなくなるというか、今のようなややこしいいざこざがいっぱいできてしまうので、人ではなく、庭とか例えばしてみるんですよ。私は庭にももろん投影をするわけに。害虫がついているという言い方、これはもうすでに投影なんですよ。害虫という虫はいないんだから、本当に今年はヒデリで困るとか、そういう事実はないわけですよ。
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ヒデリで困るんだけど、ヒデリで困っているのは私が庭の背をしているからなわけですね。こういうのは全部投影なわけです。で、非常にガーデニングってそうだなと思うんですけど、ガーデニングはやっぱりですね、仏教やってる人が好きそうな話ですけど、ガーデニングは心を無にしないとうまくいかないんですよ。
つまらんこと喋ってるのは我ながらと思うんですよね。こういうことばかり言ってる坊さんが私は嫌いだったんだけど、あんまり子供の時好きじゃなかったんですけどね。でもね、やっぱりこれは正しいんですよ。
投影の追いつくのが起きるんですね。つまり害虫にやられるガーデンというものを、いつも害虫でやられるガーデンのことばかり考えてると、やっぱりいろんな薬剤を使いたくもなるじゃないですか。このようにして現実というものを少しずつ少しずつ私が投影しているのに沿った動きに変えていってしまうんですね。ガーデニングなんて私の庭だから、まさに文字通り私の庭だから、好き勝手に変えられるんで。
だから私の心をものすごくよく反映したちなんですよ。もちろん植物には植物の育ち方と彼らの自由がありますからあるんですよ。私の投影で全部が決定するわけでは無論ないです。機構もあるしね。ただし私の投影の影響を猛烈に受けるというのは全く間違いないんですね。だからやるならいい投影に限るんですよ。
このことが仕事に非常に強い影響を及ぼしている。人はもっとこれを受けますから。植物なんかよりも。植物が私の投影を受けるなんつったって植物には目もなければ耳もなく、おそらく知覚もなければ脳もないんで。植物が私の投影の影響を受けるのはただ受けてるだけなんだけど、人はそうはいかない。人が私の悪意を受ければもう悪人ですよ。相手は攻撃的になってきますよね。
つまり私の悪い心というものを相手に投げてしまえば、相手は悪いものになっていくんですよね。よっぽどできてきた人でもない限り。だってひたすら相手の嫌なことを言いまくって罵りまくってれば、相手は嫌な人になるに決まってるじゃないですか。それはどれほど私に利があろうと、正義があろうと関係ないですよね。関係なくそうなっていきます。相手の人ができていようと、そうでなかろうと、そうでなければもういよいよですよね。
このんで私は喧嘩を振ってるのと何も変わらないことになっていくわけです。特に何もしてるつもりはなくてもですね。そんなもんだから、投影同一化というものには、私の考えではですね、これはやっぱり精神分析の用語として、タームとして、ひとくされているぐらいな感じに僕には見えてきているわけだけど、隠し通されているべきものではないんだと思うんですよね。
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これを僕らは日頃から特に仕事で扱う。僕は投影同一化だけで仕事術の本を、オグデンという人が書いてるんですけどね。投影同一化って本、そして結構難しいんで、こういう本書けないかなと思いながら、ああいう本を書く必要はないんだけど、下手なこと書くのは嫌だなっていうのはやっぱりどっかにありますからね。
ただ、私は昨日も先送りを何故するのを繰り返すのかというと、それは投影同一化の結果なんですということを要するに言いたかったわけですよ。我々は投影せずに資格はできないので、どうしたっていい仕事と嫌な仕事というものを作り出してしまいます。
つまり、ただ仕事というものを純粋にリトマス試験紙のように機械みたいに、例えばこの税務申告、例えばこの健康課金、例えば今で言うと認定トレーナーさんの試験とかやってるわけですよ、私は。
また、タスク集団協会の理事とかなんでね、タスク集団協会の理事という仕事、あるいはそうですね、先日やったようなタスク集団ジャーニーのセミナーとか、いろいろあります。一つ一つの仕事が全て公平に見えているかというととんでもないですよね。
やっぱり良い仕事、悪い仕事、突き詰めて言えばですよ、そんなに単純なものではないけれども、絶対に僕は投影というものを通してしまう。私の心の中の嫌な部分というものは、やっぱり分割排除というほど単純じゃないにしても、嫌な部分を自分の中に置いておくっていうのは、やっぱり一つの努力を要するわけですよ。
不意に離れていってしまう。不意に外に出したくなる。少しでもね、少しでも、ああ、なんかこの仕事かったるいなみたいに思うということは、すでにやっているわけですよ。自分の中のかったるいという部分を切り離し、外に投げるということをやっているわけですよ。
人のせいにしないなんていうのは、人は簡単に言うけれども、ものすごく難しいことなんですよ。人のせいにしないなんてのはですね、人のせいばっかりですよ。人がそうしなければうまくいくって僕らすぐ信じるんで、気で入れなければもっとトマトはきれいに育つって、事実そうではありますが、でもやりようはあるわけで。
つまり、投影をトマトにしなければ、もっとうまく育てられるんだけど、しちゃうんですよ、どうしてもね。40度はないよなーとか、40度はないんだけど、40度って本当に枯れるんですけれどもね。でもまあ、やりようはあるわけですよ。とことんどこまでもやろうと思えば。
日出りになりそうだったら、どんなに重いプランターでも日陰に移すとか、あるいは日焼けを作るとか、僕は工作苦手なんですけどね。そういうことをとことん、とことん、1日中トマトの世話になっちゃうけど。でも、グラゾンのケイゾンさんのグッドバイブじゃないですけど、時間は、時間というものはないわけですから。
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一つのことにどこまでもやってもいいわけですよ。それが悪い結果を招くはずはないって、心の底からこの世の仕組みを信じるとかやっていけば、なぜか3ヶ月チャレンジのセッションと、このアホみたいなトマトの世話も両立できなくはないわけですよ。まあ、その間にはグラデーションがありますけどね、当然。
投影というのは我々はでもしますよね。優先順位とか仕事の重要度なんていうのは投影そのものです。そうすることをすれば、必ず僕らの中のちょっとお腹の調子がゴロゴロしているってのはすでに投影を始めてますからね。それは悪いことなんじゃないですか。なるべく自分から排除しようとするじゃないですか。だから我々はトイレに行って、なるべくそれを排除する。
早い段階でビオフェルミンか何かを取り込む。つまり良いおっぱいからの需要分を取り込み、悪いものを自分から吐き出すことで、自分はいい状態が保てるっていう、この快不快原則という、分割排除による良いと悪いを分けてスプリットオフするというこのやり方でですね、我々は原則的に生きているわけですよ。
そしてそれは心にもあっさり投入してしまうんですね。てか分けられないんですね。心と体を分けられない段階で得たスキルなので。そして我々は、例えば人にこうバッシングされる書き物とか原稿とか本を書くという仕事は悪い仕事だと。少なくとも私に害を成し得るという投影をするんですよ。そうすると、そのようにした気持ちで書いた文章には必ずバッシングが来るというね、面白い現象ですよね。これは面白いというか、まるでオカルトですよね。
本当はオカルトじゃないけどね。このように不安になっている防衛的な心というのは何らかの攻撃を絶対含んでいるので、というか人から見るとそう見えてしまうので、防衛されているということは信頼されてないということなので、そういう文章を読むと不快になる人というか、ある種の人たちのさっき言った罪悪感を空腹というものにすら罪悪感らしきものを覚えさせられた赤ん坊時代を過ごしたという人ははっきり言っていっぱいいますからね。
お前何腹減ってるからって泣いてんだとか言ってビンタするっていう人はいるわけですからね。世の中に。世の中広いですから。80億もいればそういう人は絶対いますからね。かなりの数いますから。そういう人たちは無意識の中に罪悪感というものを持っていますから、ある種の人が防衛的に書いた文章を読むと、こいつは俺のことを攻撃しているってことになり、Twitterでバン、いくら叩いてもいい対象とかに私がなってしまうわけですよ。
こうして東映は東映同一化されていって、そういうものがすっごく広まっていくわけですよ。時々ね。炎上とかするってのはそういうことですよ。
でもこれは誰が悪いって話を始めると、収集がつかないじゃないですか。私はそれを叩いた罪悪感でいっぱいの人は悪いとは思わない。それが悪いって言うなら、その親御さんが良くないってことになるんだけど、その親御さんは間違いなく赤ちゃんの鳴き声を聞くと猛烈な罪悪感に駆り立てられるので、早く黙らせたくて、これを脅迫的償いって言うんでしょうけど、
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なんか殴るなり怒鳴るなりするっていう。それは早く黙ってくれないと、私があまりにも酷いことをしてる親みたいじゃないかって思ってるから、あまりにも酷いことをする親になってしまうんですよ。東映同一化なんですね。ここに起こってるの。
こういうふうにして僕らは、ああ、そんなこと、こんなことまで考えるんだったらもういいや。原稿書くのは今日はやめておこう。明日お腹がゴロゴロしなくなってから原稿書こうって思うじゃないですか。これが先送りですよね。つまり先送りとは東映同一化なんですよ。
その仕事というものは重い仕事だとか、たるい仕事だとか、無能な人には誤解される仕事だとか、そういうふうに思えば、そういう仕事になっていき、そんな仕事には近づきたくないじゃないですか。
したがってその仕事は遠ざけるべき仕事ということに認識され、遠ざけるべき仕事は遠ざからんです。実によくできているわけですね。だから東映同一化というのは随所に限りなく毎秒ごとに起こっている出来事で、それは私たちが随所に限りなく知覚ということをするからで、知覚してますでしょ。今もしてますでしょ。
知覚をやめることができないですよね。目をつぶって音が聞こえてきますよね。常にそこに東映が入ってくる。しかもその東映というのはどうやって入っているかというと、分離で入っているんですよ。私たちは良いものと悪いものを分けるというのをこの世で一番最初のスキルとして学んだので、これを入れずに知覚できないんですよね。この知覚したものは私にとって良いものか。
乾いた、干したばっかりのタオルで良いタオルだし、つゆどきで地滅した時にビショビショになってて悪臭を放っているのは悪いタオルだって、こういうことを私たちは瞬時にやるし、瞬時にやらないと生きていくのが困難になるから、やめるわけにいかないし、やめようと思ってもできるものではないですよね。
その濡れタオルを濡らしたのは誰だ、自分だってことになると罪悪感がわけにできているんですよ。これも面倒くさいから放っておこうと思うと罪悪感が募るでしょう。そのタオルを面倒なら俺が片付けておこうかって言われるとものすごく腹が立つわけですよ。おかしなことでは全然ない。でもある種の人は本当に良い夫だって言うんですよ。だから同じ人物が良くなったり悪くなったりコロコロコロコロ変わるんですよね。
というようなことがもう全域にあります。生きている限りあるし、永遠にあるんだと私は思うんですよ。ここで我々にできることは、これを一から全部やめることじゃないと、そんなことは全然現実的じゃないと思うんですよね。そうではないわけで、私たちにできることはですね、この罪悪感を持つためになった最初の出来事に対しては、
寄り添っていくという視点がいると思うんですね。おちんちん切られますよって言われた男の子はビビる。まあ親父は殴るだけなのかもしれないけど、ビビりますよ、殴られるんだって。
当然、私はだから訳のわからん棒とかで棒を打たれたことがあるんですけれども、ビビりますよね。今ならビビらんけど、この人頭おかしいなっていうぐらいに思いますけれども、ていうかこの人は非常に不幸だなって思いますけれども、でもそれはある意味非常に感じの悪い感じ方でもあるわけです。子供がそう感じたら実に感じが悪いわけですよ。
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共感というのは難しいわけです。相手は共感してほしいとは限らないわけですから。ただ、にもかかわらず共感していくよりほかないんですよ。なぜかというと、その人は最初にそういう目にあったのは、私がそうであったように、別にその人が悪かったわけではないわけですから。
私が社教みたいな宿題をしなかったからといって、精神注入棒とかいう棒で叩かれたからといって、別に私が悪かったわけではないわけですよ。今ならそのことははっきりわかるんだけれども、当時はよくわからなかったから、恐怖と罪悪感を一緒に持っちゃうんですよね。
エリプス的なもの、その先生は男の先生でしたけどね。女の先生にもそういう人はいましたけどね、いくらもね。それはファルス的なものだと思うんだけれども、とにかくそういう目にあっているから、やっぱりそこは私、今は別にいりませんけど、それこそなくていいものですけど、そういうふうな私に対しては共感されて叱るべきだと僕は思うから、当然他の人に対しても共感して叱るべきだと思うんですよ。
最終的には先送りというものに、これも先送りって小さなことだからある意味ではね、こういうことを言うのも行き過ぎだとは思うんですけど、先送りというものに対して私たちはもっともっと共感的であるべきだと思います。
なぜならその人は多分やっぱり、これはジェン・松崎さんも繰り返し書いたことですけど、自責の念を持ってしまう。自責の念を持つというのは避けようがない。この文脈で言うと。知覚している。知覚にはスプリットが入っている。スプリットが入っているということは分量を促しているってことなので。
だから良い仕事と悪い仕事はなぜあるのか。それは良い人と悪い人が仕事を振ってくるからではなくて、この世の仕組みが資本主義的だからでもなくて、資本主義的だからってことは関係あるんだけど、でもなくて、直接の理由は私たちの心がそもそも知覚に分離というものを含めているところに自体の起因があると思うんですね。
悪いトマトは食べられないし、良いトマトを食べます。したがって良い仕事と悪い仕事というものはどうしたって生まれるんですよ。仕事というものを目にした瞬間から生まれるんですよ。それは家事でも全然構わないんですよ。そして私たちが悪いと思った仕事は悪くなっていき、遠ざけるべきだと思っている仕事は遠ざかっていくようになっているので。
これをやめるためには、私たちが分離を始めたんだから、この分離に客観的な根拠はゼロだというふうに思えればいいんです。あとはその仕事が本当は良いのか悪いのかというのは、社会的に検討していったらいいじゃないですか。感覚的な問題ですよ。手がつけられないという問題っていうのはですね。
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で、私は今回トゥードリストは捨てていいのをテミナーでも言いましたし、そもそもあの本がそうだけど、あの本、あらゆる努力をして私はあの仕事は悪い仕事だって感じることを排除したんですよ。すっごい簡単ですよ。あの仕事が悪い仕事だって考えるのは。非常に簡単です。あらゆる私の常識とかこれまでに受けてきたアドバイスは全てあの仕事をやるべきではない。身内にまでそういうことを言われましたからね。
でも私はそれを全部排して、この仕事は悪い仕事ではないんだと。なぜならば悪いというものは私の心が作り出すものですから。だから徹底的に排除すると。いい仕事だとか、やる気が湧くってわけではないですよ。そういうものはいらないんですよ。この際。それは良い投影をしているに過ぎない。いいおっぱいを仕事に見ているに過ぎないんですよ。
この仕事をすれば、お金もたくさんミルクとしてもらえて、名声もたくさんミルクとしてもらえて、いろんな人を褒めてくれて、親が褒めてくれるように。これをただ被せているに過ぎないんですよ。でもこの仕事は親が持ってきたものではないのだから、いいも悪いもない。いいおっぱいでも悪いおっぱいでもないんですよ。どっちかなのかもしれないけれども、私が判断できる環境を超えてきてるんですよね。私の外から来るものなんですから。
だから、悪いという。27日で賭けというのは悪いというとか、編集さんが無能だと思うとか、この無能って言葉はですね、非常に僕はものすごく暗示的だと思っておりまして、どこかでこれを真剣に取り上げなければいけないとは思っているんだけれども、僕らは無能って言葉が非常にこの時代の人たちは、この時代の人なのかな、文化なのか、好きです。とても好きです。
無能って言うと相手の罪を責めてないような感じがするから好きなんです。そして無能というと自分が被害に遭っているという感じを確定させるから好きなんですよ。ここは倒作が多くあると思っております。
自分が被害に遭っていることが好きだという人は本当はいないと僕は思うので、無能な人のせいで私たちは被害に遭っているんだと考えるのが好きというのは、実はそう思っていると自分が有能な感じが、もちろん有能なんですけどね、その人はね。有能だからこう思うんだけど、有能な感じがするし、しかも被害に遭っていて悪いのは自分ではないと思えるから好きなんだけど、それは大変、結果として倒作的な結果になります。
つまりそれは悪いおっぱいが好きだってことになってしまいますから。だからこの無能というのはすごく暗示的で、僕はローゼンフェルノの世界だってよく思うんですけれども、嫉妬と煽謗の世界に近いと思うんですけれども、いずれにしてもこの無能というターンは、まず一つは確実に言えることはですね、悪いというのと全く同じで、東洋ドイツかを招くんですよ。
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それも急激に招くんですよね。強烈に招く。無能だという投影をした相手は、相手がよくそのことに自覚的で努力をしてくれないと、確実に無能と化していきます。私にとってですね。これも絶対的に廃していった方がいいと思う。これをとことんやると何が起きるかというと、周りの人はみんなその人にとっては無能な人になってしまう。本当の意味でですよ。
つまり故郷奮闘をしまくって挙ぐ必ず抑鬱的な結末を迎える雨になるんですよ。つまり自分が無能になってしまうんですよ。これはとっても僕は恐ろしいというか、恐ろしいは言い過ぎなんだけど、割に合わないことをおびただしいと思うんですよね。
絶対やめた方がいいことの、私がですね、絶対やめておこうと。なぜなら、私は自分を有能だと思い込みやすい性格と家庭的文化に育っちゃったから。父が非常に、それほど有能じゃない父が、有能ということが好きなんですよ。
親が有能が好きならば、子供は有能になろうとしちゃいますよ。こうして私は無能という恐怖を手に入れてしまうんですよ。これはとっても損なんだなっていうのを、本当に40過ぎてようやくちらほら。
ちらほらだけなら、もうちょい前から分かっていたけど、少なくとも、私の中では全く分かっていませんでしたから。自分が有能なほど得を吸うという倒作ですよね。そうすると周りが無能なほど良いっていう倒作を生むんで、これ完全に倒作ですよね。
自分が赤ちゃんで親が無能だってことを考えても見てほしいんですよ。その方がずっと良いんだって考えるというのは危険極まりないことですよね。この熱中症が大いにもてはやされているというか、話題にされている時代にですね、親が完璧に無能な赤ちゃんっていうのはもう命にかかわりますよね。
無能な方が良いっていうのはものすごく倒作的な感覚であって、これは私たちの文化が非常に倒作的な文化に今入っているんだろうと思うんですよ。有能っていうことがすごく重要視される時代ですから。
例えばコンピューターの性能が有能っていう、優秀なコンピューターみたいな言い方しますよね。コンピューターですら優秀無能みたいなそういう区別が投影されていくわけですよ。それはただ機械なんだから演算処理が早いか遅いかであって、有能かどうかという投影は関係ないんだけど、こういうところにすら入っていく。車の性能が良いとかっていうやつですよね。
ああいうところから来るんだろうと僕は思うんですけれども、無能な編集と組んで仕事がしたいという人は、私はとても正気の作家だとは思えない。恐ろしく損臭いですよね。ありとあらゆる意味で。自分が被害に遭ったということが確実に言えるという以外、何にも良いこと起きませんから。
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だから絶対投影するならばですよ。しないのが一番いいんだけど、するなら有能な編集っていう投影をとことんする方がまだマシだって思います。これはこれで問題あるんだけど、でも無能だっていうレッテルを貼るぐらいなら、有能だってレッテル貼っちゃった方がまだずっとマシです。だってそういう人と組んでる方が少なくとも本売れる可能性ありますから。
本売れないほど良いって言うんだったら別ですよ。本が売れなくて売れなくて、貧乏して借金するのが自分好きですって言うならば、編集が無能な方が良いかもしれませんけれども、私はそこまで当作的な気持ちには浸れないので、優秀なほど当然良いです。
入手っていうレッテルを貼るのは色々難しいんですけど、少なくとも無能というレッテルは今回無能もそうですし、悪いですね。僕の場合は悪意があるっていう方がどっちかというと来やすいんですけど、そこを徹底的に排除するんですよ。そうすると少なくとも本は良くなっていくんですよ。これが投影ドイツ化なんですよ。
だからほとんどこれを排除するんですよね。客観的事実がそこに無いのに、主観的に自分に都合の悪い事実を貼り付けるのは何とも言えない行為じゃないですか。僕らこれやりますが、自傷に近いと僕は思うんですよ。この言葉もここで使っちゃいけないかもしれませんけどね。やっぱり自傷に近いなって思うんですよ、これではね。
なんかかさぶた剥がしてるみたいなことをやっちゃってると。これを我慢する。気持ち悪いかもしれないけど、ここを我慢することによって事実客観的に愚かな編集とかいないんで、その人は含む相手によって、だから相性って言葉を使っちゃうんですけど、本当は相性ではないと思う。本当は投影なんだと思います。
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