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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
まだ引き続きこの話かって思われるかもですが、先日6月4日に橘武さんとクロストークをやりました。
結構まとまりの良い回になったと思うんですね。
割とスルスルっといけたなって感じがして、お話も盛り上がったんですが、
あれのアーカイブが発売になっています。
要するに、セミナーの動画を撮ったものを販売しています。
引き続き同じところからご購入いただけますので、もちろんリアルタイムに質疑応答とかはできないわけですけれども、
見てわからないというか、ここが深く疑わしいというようなところがあったら、
橘さんにでも私にでも、DMなりに送っていただければ対応しますので、
よろしければ、購入の方を考えてみてください。
今日はですね、これもちょっと前から取り上げたいと思っていたのですが、
なぜかのびのびになっていまして、小説が読んだんですよ。
先月読んだんですけどね。
異人たちとの夏かな。すぐタイトルとか忘れちゃうんですけど、
たぶん異人たちとの夏だと思うんですけどね。
山田太一さんという方の小説で、今Amazonで調べているので間違いない。
しかも実はプライムビデオにもなっている。
これ、いかにもドラマ化しやすそうなものですね。
山田太一さんってもともと脚本家か何かでいらして、
作家だけやっていたわけではないので、
そういう感じなんですけれども、この異人たちとの夏。
これはですね、私が、私がじゃないな。
どいたけおさんが前の構造で書いているテーマにまさにこれだっていう小説なんですね。
短編なんで、私のこの話でしかもネタバレを含むんですが、
聞いているより読んだ方が早い気もしますが、
まあ、しゃべっちゃいますし。
今時、これも結構昔の小説かなと思うんですよね。
高みの感じからして、携帯とか出てこないですからね。
出てきても良さそうな内容なんだけど出てこないので、
結構古い小説なんじゃないかと思います。
私なんかは、子供の頃はまさに日本ってこうだったなと思うので、
発売年が1991年、まさにそんな感じなんですよ。
こういう世界だったなっていう印象で、やや懐かしい。
本当にやや懐かしいなんですね。
Windows95直前です。
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私が大学に入る直前ですね。
あの頃は確かにああだった。
なんかね、今と何も変わらない風景のように見えて、
例えば東京ドームとかあったし、風景のように見えて、
今とは全然違うんです。インターネットがないからね。
全くなかったわけじゃなくて、一部あったような気もするんだけど、
まだそういうものが一般家庭とかに出回っている時代ではなく、
どちらかというとあれですね。
テレビ録画が流星を誇っていた時期だったような気がします。
あとバブルとか言っていた時代かな。
そんな感じの時代の話なんですけれども、
主人公は48歳なんですよ。
これがいいですよね。何がいいんだって言われると困るんだけど、
私49歳で、つまりこの辺の歳って、
この番組でも言う、中年の危機を迎えている頃なんですね。
それは何でなのかということを、
体が弱るからとか、お医者さんやっている方なら、
いろんな言い分もあると思うんですけどね。
この番組の趣旨に照らして言うならば、
心の中の親の年齢を超えちゃうせいなんです。
例えば、これを内的対象としての母親とかって言うんですけど、
生きているにせよ、死んでいるにせよですね。
うち母は生きてますけどね、父も。
心の中の父母の年齢は70とかじゃないんですよ。
これは当然で、内的対象としての母親などというのは、
自分が幼児だった頃の母親を言っているので、
そこから記憶が繋がってくるから、
いろんな年齢の母親を含むんですけど、
例えば私で言えば、40前なんですよね。
この山田太一さんも1991年に48歳であるという主人公を描いたので、
多分その辺、まさにそうなんですよ。
36、7、8、9といったところなんです。
つまり、私より年下なんですよ。ここ大事なんですね。
親の、親のっていうのかな、イメージとしての親の、
つまり心の中の親の年齢を超えてしまうということは、
ここから先の指針がないですよっていう意味にもなるわけですね。
今までは、言ってみれば、精神分析的に言うところの自立というのは、
内的対象としての親に頼れるようになりましたっていう意味なんですよ。
ニードとニーズの話はまさにそうで、
つまり私がうーってなったときにミルクを出してくれるとか、
温度調節してくれるとか、それは実際の母がやってくれたんですけど、
父かもしれませんけれどもね、周りの人がやってくれたわけですね。
これが環境としての母親ですよね。
で、そのうち自立できるようになるということは、
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これを自分でやるんですよ。
だから相変わらず自分の中では一人二役やってて、
うーってなってる自分がいるんだけど、
そうすると、うーっとなってる自分のために水を飲んでやったり、
バナナ食べてやってみたり、胃薬飲んでみてやったりするわけですよ。
それが全て理にかなってるかどうかはまた別の問題なんだけど、
自分で自分のケアをちゃんとしてあげるよというふうにして、
自分で自分に安心感を与えられるのが自立なんですよ。
ところでこの親役をやってる自分っていうのは、
モデルがいるわけです。
で、そのモデルは多分内的対象というふうな名前になってるわけですね。
このモデルの年齢は36から40くらいだと言った場合、
で、私の実年齢、私今49歳。
年下になっちゃってるんですよ、モデルがね。
ここに大きな問題が、この矛盾がですね、
ミドルクライシスというものを多分生むんだろうなと。
まさにそういうテーマなんですね、この異人たちとの夏は。
途中でまさに内的対象としての父と母が、
そしてですね、これは小説なんで、実に都合のいいことにですね、
親はもう死んでるんですね。
つまり実年齢としての親っていうのはいないんですよ。
もうこの仕掛けからしても、内的対象としての父母が問題だってのは、
まあ美容によってはですけど、はっきりしているわけです。
親死んじゃってるということは、
死んだ年よりも先に親は進んでいかないんですよ、実際。
だから私のようにですね、内的対象としての父母が、
たとえ30代でも、実際の父母はちゃんと70代でもあるし、
50代の親も60代の親も知っているというのとは違って、
この異人たちとの夏の主人公は、親は自分が生まれてから
12歳の時でストップしちゃってるわけです。
ここで、あの例のあれです。
土居さんのように、甘えられない問題というのが出てきちゃうわけですね。
12歳で、それ以降、親は更新されないわけだから、
自分の内的対象としての親というものに、
しっかり頼るように育つわけですね。
ということは、すっごく自立心が強いという意味になるわけです。
全く頼るということを、すべての人に頼るということを
しなくなる。
全部、自分の内的対象に、内的対象でというべきなんだろうな、
心の中のお母さんが機能するように、
かっちりやっていくわけですよ。
そうすると、自分で自分の面倒を片目から見れば、
完璧に見られる少年が、やがて中年を迎える。
その頃に、冒頭の一文が聞いてくるんだけど、
妻子と別れたので、仕事場を生活としての家にもした、
みたいなことが書いてあるわけです。
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正確じゃないですけど、妻子と別れたわけですよ。
ここら辺に、妻子というものに甘えられない中年男性というものが
いるわけです。
何しろ、自分が12歳の時に、親は突然ですね。
これも非常に設定が効いてくるわけですよね。
妻子が、突然交通事故で一瞬で失っているわけですよ、両親を。
だから、完全に内的対象としての父母というものが
かちっと固まってしまったところで、固定化されてしまうんですね。
すごくしっかりした少年が出来上がっていく。
周りを恨んだりせずに、叔父とか祖父とかに育てられるんだけど、
そういう人たちにもきちんと感謝して、
やるべきことをやって大きくなっていく。
極めて危険な、そういうふうには現代社会では
誰もあんまり言わないわけですけど、一部の人を除いて
そういうことを言わないんですけど、極めて危険な育ち方をするわけですね。
人に特に情緒面で頼らないという性格が形成されていくわけです。
でも、そういう経済は一切まずも書かれることなく、
いきなり妻子と別れたので、自分の職場で仕事場にしていた。
この人ライターなんですけど、この時代そういう人多かったと。
今でもいらっしゃるんでしょうね。
都心の居住空間としては全く不向きなマンションの一角を借りては
そこで物を書いてたんだけど、そこを生活環境、生活としての家にもしたというわけですよ。
相変わらず自己完結感が強いじゃないですか。
新宿の環状8号線という通りがあるんですけど、夜とかひどいものなんですよ。
特にあの時代はトラックがガンガン走っていて、排気ガスいっぱいだし騒音も激しいわけです。
でもそこで仕事をするわけですよ。
いかにも中年男性的なわけですね。
完全に自己完結的な生活を送っていて、割と自由な感じもするわけです。
妻子とも別れたしね。
ここでですね、ちょっとCMを挟むというのも変ですけど、
昨日書き上げ塾というのがあったんですね。
私と倉園さんでやっている書き上げ塾というのがあります。
本を手紙書籍ですけど、一冊書き上げるというスタイルというか趣旨の塾ですね。
ここで倉園さんが毎回第1回目に必ず出す課題として
のでからを使わないというのがあるんですよ。
Bコースですね、英語で言うところ。
AだからBとか、AなのでBという表現を禁止にすると。
同じことを別の言い方はできるわけですよ。
Aです、〇、そしてBになりました、みたいな。
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何でもいいんですけどね。
何でこれを禁止にするかというのは、塾にご参加いただきたいんですが、
この異人たちとの夏の冒頭で、
祭司と別れたのでという表現がいきなり出てくるんですね。
書き上げ塾に入ってしばらく経っている人ならここで引っかかるはずなんですよ。
いきなりので、別に山田太一先生は書き上げ塾の生徒とかじゃないんで、
のでを使おうとからを使おうと全然いいし、もちろんどんどん使うんですけれども、
でも作家があれほど書き慣れている作家さんがですね、冒頭にのでを使っておいて、
のでを使ったときに、それこそ私みたいに、
なんか意識せず使っちゃいました、みたいなんではないんですよ。
そんなことは考えられないですね、小説家の小説の第一文で。
のでを使っているということは相当意味があるはずで、
何を使ってでも意味があるんですけどね。
トンネルを抜けたら雪国だったみたいなもんで、冒頭の一文は極めて重要ですから。
一番重要かもしれないんでね。
で、祭司と別れたのでっていったときに、書き上げ塾でいうところのですね、
私たちは本当のことを知らない。
本当に祭司と別れたので、マンションの仕事場の一角を居住空間にしたのかと。
ここは非常に重要なんですよ。
この本の全テーマが凝縮されていると言ってもいいぐらい大事なんです。
祭司と別れたのは確かなんですよ。
ので、仕事場を居住空間にするっておかしいじゃないですか。
別に祭司と別れる前から居住空間にしてもいいじゃないですか。
あるいは祭司と別れたんだから、もうそんなところは畳んじゃって、
別に家を手に入れればいいじゃないですか。
この人はお金に不自由しないとまで言えないんですけど、
テレビドラマの脚本家でちゃんとした収入源を持っていて、
しかも今後は一人になるわけだから。
で、48歳ということは、まだいきなり仕事を失うような年ではないのだから。
で、それまでも新人さんじゃないんですからね。
それなりにやってきているわけですよ。
これらの諸々を考えると、ここを居住空間にするっておかしくない?
おかしくないっていう話なんですよ。
つまり野手じゃないんですよね。
でも本人は祭司と別れたから、ここを居住空間にしたと思い込んでいるわけです。
この思い込みがですね、非常にちょっとはしょっていってしまうんだけど、
ノイローゼの始まりなんですよ。
甘えられないということが限界地点まで来ているわけですね。
12歳の頃に甘えを封印したらしょうがないですよね。
ご両親を失っちゃったんだから。
甘えを封印したということは、自分で自分に甘える術を完璧に身につけていくわけです。
自分の心の中の両親というものにしっかりと頼って、
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それ以外のものには究極的な意味では頼らないようにして生きていく。
そんなことをしていればですね、それは奥さんやお子さんは嫌になっちゃいますよね。
だって相互には不審感があるっていう意味ですからね、これは。
相手に完全に頼りきることができないということは、
いざとなったら頼れるのは自分だっていうあの考え方が
強烈にこの人の中では確立しているわけです。
つまり、いざとなったら他の人がいなくても生きていけるようにしておくわけですよ。
それがまさに他の人から見ると、
つまり自分は信頼されていないんだなという態度以外の何者でもないんですね。
現にパッと離婚してみると、
ちゃんとほら、職はある、金もある、仕事場もある、居住空間もある、これですよね。
そして別れたので、ここを居住空間にもする。
それは最初から検討してあったんじゃないんですかっていう話なんですよ。
それを最初から検討しているってことは、
いつでも奥さんと別れられるようにしてあったって話でもあるように聞こえるわけですよね。
これが最始と別れたのでの意味なんですよね。
しかも、実際この居住空間と新しくなった環状8号線沿いのマンションはものすごい騒音なんですね。
ここからすぐに主人公はこのマンションは静かすぎるということに気づくんですよ。
これは人が孤独になった時に急に言い出すことですよね。
騒音でうるさいはずなのに静かすぎるんですよ。
つまり初めてこの主人公は最始と別れた実感がこの辺で芽生えてくるわけですよ。
うるさく言う人がいなくなると途端に静かになりすぎるんです。
勝手なことを言っているようなところでもありますけどね。
別れたくて別れておいて寂しくなるわけです。
でもこれは甘えられないという人に起こる極めて典型的な神経症で
本人もこの段階で極めて自覚が強い主人公として描かれているので
自分にこういう弱さがあって神経症気味になり始めているというのは認めたくないことだというようなことが最初から書いてあるんですね。
つまり山田太一さんはある程度こういうことを含み込んだ上でこの小説を進行させていくということがこの辺でわかるわけです。
そこにですね、今日はこの話は膨らまさないんですけど
突然女性がシャンパンを3分の1くらい開けたけど飲みきれないとか言って押しかけてくる。
これはいわゆる鶴の返しですね。ユーズル的な日本的展開というやつなんですけど
ここでですね、主人公は非常にむしゃくしゃしているのでこの女性を追い出す。追い返しちゃうんですよ。
ここが全然ユーズル的でないところ、現代的なところですね。
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昔の日本人は女性に押しかけられると男性は一方的にそれに極端に言うとくみしかれる格好になり
素性も知れない相手とできちゃうんですよ。
つまり意思力が弱いんですね、そういう意味では。個人的な意思力ってやつですね。
西洋人と違うんでね。
ところが、現代的なこの人は、しかもこの人は自分の自己確率が強いので
こういう素性も知れない奴が、しかもその時非常にむしゃくしゃしてるってこともあるんだけど
来るというのが嫌でですね、気色悪くて追い返しちゃうんですね。
つまりユーズルが成立しないんですね、この場面では。
ここが一つの話の軸になっていくんです。
この女性と結局できるんですけどね。結局だから押し切られるわけですよ、形としては。
で、そうである一方ですごい孤独だから。
孤独だから当然女性が押しかけてきたら受け入れたくなるじゃないですか。
しかも離婚した直後なわけですから。
ここで頑張るというのはこの人の性格を非常によく表しているわけです。
一段と孤独が深くなっていく。
ますますこの人が孤立していくっていうことを主人公の原田さんなんですけど
原田さんがどんどん孤独になっているということがこの描写から伝わってくるわけです。
ちなみになんでむしゃくしゃしてたかというと、この前にマミアという男性が現れてきて
実はその奥さんに言い寄ることにしましたってわけわかんないことを言ってくるわけです。
そのマミアというのは仕事仲間で実に婚姻していた親友人でありかつ仕事の同僚みたいな関係なんですね。
こういう人が実は前々から奥さんとできてたんじゃないかという話をよぎりますよね、誰でも。
つまり孤独なんですよ。
親友兼パートナーみたいな人もそんなことを言ってくるし、奥さんとは別れてる。
別れた奥さんと親友兼パートナーみたいなのがくっついていたみたいな話なんですよ。
そこに女性が押しかけてきて、それは追い返すと。
もうめちゃくちゃ孤独ですよね。
これがこの人のミドルクライシスなわけです。
追い込まれていくと言ってもいいと思うんですが、
要するに自分の内的な良心にのみ甘えて生きてきている。
もちろんその良心はしかも他界しているときている。
もう現実に向かうべきエネルギーは全然ないわけですね。
人間不信の極みみたいなところにいる。
だからマンション全体から人気がない。
人気がないんですけどそのマンションは元々。
上にどんなに騒音が鳴っていても音が聞こえなくなっていく。
現実世界から離脱している感じというのが描写されているわけです。
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これが冒頭の最始と別れたので、仕事場を生活空間にもしたという話の中身なんですね。
ユングとか精神分析の世界だったら完全にここは対抗という問題になってくるはずで、
この人はここの方針で自立、大人になっていくという方向性は行き詰まりましたから、
内的対象としての良心。
39歳と36歳、35歳かなと書いてあったのでピタリですよね。
ピタリなんですよ。まさに10歳年下の良心に頼ってきたんだけど、
もうそういうことはできなくなってしまった。
つまりこの路線ではこれ以上は生きていけない。
となると人は子供に戻っていくしかない。
これが対抗です。
この対抗が急激に50前あたりで発生するのが中年の危機。
子供に戻っていっても対応できませんからね。
一歩間違うと命に関わりますよね。
とにかく対抗していくと。
対抗していくと人は子供になっていくわけだから、
非常に色々と不思議なことが起きたり、あるいは不思議な欲望を持ったりするわけです。
この原田という人は故郷の浅草に行きます。
そしてそこで良心そっくりの夫婦というものに出会いますが、
はっきり言ってそれは良心なんですよ。
つまり幻覚なんですね。
幻覚を見るとこういうことですね。
自分がずっと心の中に確立してきたし抱いてきた良心像をどこかに投げると。
現実に投げると。
そして現実をそっちで完全に塗り替えてしまうと幻想になりますね。
こうして良心と再会することができるわけです。
本人は良心はもうとっくに死んでいるんだから、
もう自分は病気になってきているんだと。
そういう自己描写をしながら、
でも良心といるととても安らげると、甘えられるというわけですよ。
こうしてこの描写が非常に上手で、
私はここでどうすれば自分自身に甘えられるのかみたいな話が出た時に、
こういう感覚になればできるって言いたいわけですね。
山田さんもそういうことが伝えたくて、一つにはこれを描いていると思うんですよ。
この状態に主人公を孤立させておいて、
死んでしまった良心というものに再会する。
死んでしまった良心は年下なので、
いかにも良心臭く偉そうなんだけれども可愛らしい。
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自分は40過ぎるまでこういう観点で良心を想像したことがなかった、
というような描写が出てくるんですね。
この辺が一番読ませどころですよね、この小説の。
すっかり死んだ良心に甘えると。
明らかにこれは異常なことだと本人も思っているんだけど、やめられないんですね。
これが対抗というものですよね。
これ以上この幻覚だと分かっている良心のところにいてもダメなんだけれども、
だからといってこの幻覚を振り切って、
いわゆる仕事場兼生活空間になったマンションに帰ったところで、
そこの人生には何もない、こういうことになりますよね。
だからそこに戻る気にはなれないわけですよ。
でもここでこの小説は、小説なんでよくできているわけですけど、
そこには押しかけてきた女性とできちゃったから、
そっちの女性がいるわけですよね、そのマンションには。
Kという女性として出てくるんですけれども、Kさんがいると。
だから一応帰っていくんですよ。
ここで板挟みが起きるわけです。
Kは不気味な良心のところに行くなと怒るわけです。
でもこの主人公は結局そのKの言うことを聞かずに旅々行っちゃうと。
この辺でホラー感が少し出ていて、
しかも山田さんはこれが100%幻覚であるという書き方にはしないので、
これが100%幻覚でないとするとこれはホラーですよね。
どっちとも取れるように書いているわけです。
私はどうしても分析側で見ちゃいますけれども、
でもあれこれと小道具を出したり、話の辻褄を合わせないようにすることで、
これが良心の幻覚ではないかのような読み方ができるようになっているわけです。
そうするとこれは霊ですよね。恩霊ってやつですよね。
現にこの主人公はみるみるやつれていくわけですよ。
ミドルクライシスなわけです。
みんなに病院行け病院行けと言われる。私も言われたんですけれども。
つまりそれをどう考えるかなんですよ。
私の場合は心身症なんですけれども、全身ジンマシンが止まらなくなっていったんですね。
そういう時期があったんです。
グッドバイブスを知るちょうどその頃。
これが私のミドルクライシスだったんですけど、病院行けって言われるじゃないですか。
私は病院にちゃんと行ったわけですよ、この主人公とは違って。
でも体に異常はありませんというありきたりなことを言われるわけですよね。
でもその中でですね、やっぱりすごく親身になってくれる先生と、すごく突き放す先生っているんだなっていうのは、
ああいう時にはよく感じますよね。
私の話をコンコンと聞いてくれる先生っていうのもちゃんといるんですよ。
それを出してくれる薬は異常のための効きもしない漢方薬みたいなやつで、
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飲んでもじっとも治んないわけですね。
むしろ飲むと出てくるぐらいな勢いで治んだわけですよ。
この辺もまた面白いなと今から考えると思うんですね。
精神科なんだか内科なんだかわかんないですよね。
今は診療内科なんて言葉もありますけれども、話をコンコンと聞いて、
そうかそうか大変ですねって言ってくれて、効きもしない薬を出す。
これは何なのかってことですよね。
効かないってことは多分わかってたんじゃないかという気がします。
この異人たちとの夏も、これはもっと劇的に、
主人公どう考えてもこの勢いだと死ぬなというところで、
そこにちょっといろんなからくりがあるんですけど、
それはもうただのネタバレになっちゃいますから、
この話では大事じゃないので飛ばしますけれども、
要はこのKという女性に引き留められる形で、
結局両親とは別れるという形をとるんですね。
別れるって言ったらそこに両親いないんですけどね。
両親と別れると、そこのところはグッとくるんですよ。
ここを読めばこの話を読んだ価値は十分ある。
そこまで読んだら最後まで読んじゃうと思いますけどね。
これが甘えるということなんです。
この主人公ができずにずっといたことですね。
この得体の知れない女性とくっつくというのもそうじゃないですか。
この主人公らしからぬ行動なんですよ。
最初は追い返したと。
それがこの主人公らしい行動ですよね。
得体の知れない女性とくっつくわけにはいかないんですよ。
それは非常にしっかりした人の考え方なんです。
でも得体の知れない人とくっつくわけにはいかないということは、
根掘り葉掘り調べ上げた上でなければ、
人とは付き合えないということになりますよね。
鶴の恩返しのテーマはまさにそれじゃないですか。
根掘り葉掘り調べたくなった途端に飛び去っていっちゃうという話ですよね。
よしに覗いちゃいけないというような話でもあると思うんですね。
この両親は自分の両親だから得体が知れているようなんだけれども、
実際には霊であったり、あるいは自分の心の幻覚だったりもするわけだから、
やっぱり得体が知れないわけですよ。
この得体が知れない方にある程度行くことが、
この主人公にはどうしても必要なんですね。
甘えるというのは、ある意味では死ぬことに近づくわけです。
きちっと生きていきたいと思ったら、極力人には甘えない方がいいわけです。
だからこの人は奥さんと別れなきゃなんなくなったんですよ。
結局、根掘り葉掘り調べ上げるということもそうです。
何でもそうですが、自分を決定的に安全なところに位置づけたいと思ったら、
何もかもが分かった状態にしておくしかないんですね。
ところで信頼というのはそういうものじゃないですよね。
分かろうと分かるまいと信頼しなければ信頼にならないわけです。
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ここのところが現代的な価値観と相入れないところでして、
やっぱり元彼の元彼を知ってますかという話ですよ。
そんなことを言ったら、とことん調べていく。
これが一番安全だという話になりますよね。
その安全が問題なんです。
安全は安全なんですよ。
病気になりにくいとか、つつもたせにボコボコにされないとか、いろんな意味があります。
だけれども、安全にしていくためには不信感というものが常に付きまとわなければ
ならないですよね。どうしたって。
この生き方が行き詰まったから、彼は環状8号線の人気のないところで
音が全くしないという事態に陥って、そこから引きずり込まれていくわけです。
ある意味、内面の世界ってやつですよね。
千と千尋が行っちゃった世界ですよ。
彼女もそうでしたよね。
彼女はもっと幼かったし、甘えん坊さんだったから最初から甘えぎってましたけど
これは引っ越しうつですよね。
これから転校しますと、忘れないでねみたいな花束があったじゃないですか、最初のシーンって。
だからすっかり捨て腐れているわけだったじゃないですか。
甘えられないよっていう彼女の苦しみだったわけですよね。
それがあの場合は非常に極端にグッと対抗させられて、おばあちゃんの世界、
しかもおばあちゃんの裏側みたいな世界に引っ張り込まれるわけです。
得体が知れないこと、この上なかったですよね。
見てない人あれなんですけど、千と千尋の神隠しですよね。
神隠しにあうわけです。
この主人公原田さんも、人たちと夏野原田さんも神隠しにあっているようなもんです。
だって死んだ両親に会いに浅草に出かけているわけですから。
この時にもう一つ大事なのが、彼はテレビドラマのライターなんだけど、
この脚本が進むんですよ。
この話は昨日書き上げ塾ではしなかったし、
する方向性に持っていけないんですけれども、
方向性に持っていけないというのは、うまくはめられないからできないんですけどっていう意味なんですが、
進むんですよ。
物を書くというのはそういう時に、何でもいいんですけど、物書きじゃなくてもいいんですけどね。
つまり、言ってみれば対抗というのはなぜ起きるかというと、
これはユング心理学みたいなところの話ですけど、
内院的なエネルギーが枯渇しちゃっているんですね。
途中で出てきます。
奥さんにきちんとお金を払ったと。
息子は大学生で口も聞かないけれども、養育費みたいなのも払ったと。
で、その奥さんとの相手に、マミアという自分の仕事関係者がくっついていてよろしくやっていると。
それはそれでいいと。
別に自分がこれからその奥さんに未練があるわけじゃないんだし、
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それはそれでいいんだけれども、
仕事関係者としてマミアとうまくやっていくのはこれからは難しくなるという諸々を考えるのに、
もうすっかり疲れたということが書かれているんですね。
さらっとですけどね。
つまり、そうやってエネルギーを使い尽くしてきたから、
枯渇しちゃったわけですね。
だから、エネルギーのある方向に戻っていったわけです。
両親の方にね。
で、その世界は死の世界なわけですよ。
生きていくということは、結局マミアさんみたいな人もいるし、奥さんみたいな人もいるし、
木の繋がらない大学生の息子もいるし、
そういう方向に行くってのが生きていくってことじゃないですか。
深く疲れるかもしれないけれども。
で、自分を甘やかしてくれる方に向かっていってしまうということは、
つまり、死んだ両親に慰めてもらうような、そういう精神状態に戻っていくわけです。
これが私たちの日常生活でも、たぶん小さく何度も反復されている感じがするんですよ。
時々言う話聞きますよね。時々じゃどころじゃなくて、やたら聞くんだけど、
例えば論文を書こうと思っても、ついソリティアをやっちゃうとか、
発言こまちに見入ってしまうとか、YouTubeに行っちゃって先送りしちゃいます。
これはただ先送りというものの一つの現象として表現されていて、
こういう意思の良さをなんとかできないでしょうかって話を伺うんですが、
私はそれはつまり、小さな対抗が頻繁に起きているといった結果であって、
だから似たような話になるんですよ。
ちょっと子供っぽいところに入っているわけですよ。
発言こまちを見るだろ、YouTubeを聞くだろ、見るだろするってのは、
子供のやることですよね。漫画読んじゃうとかね。
つまり子供にならないとエネルギーが枯渇するんですよ。
私はそっちをなんとかしないで、この問題をタイマーとか、
子分けにするというふうなやり方で解決していっても、
いずれは遠い将来かもしれないですけど、
原田さんのように行き詰まるような日がするんですね、今は。
この方法で捉えていくということは、深くつかれる方向に向かうんですよ。
なんで深くつかれるんだろうってところがまず大事ですよね。
不審感があるからですよね。妻子に対する不審感。
妻子に対する不審感。
そして真宮さんのように、しれっと仕事仲間のような顔をして、
奥さんで撮っていく人への不審感、でもでもですね。
そもそもこの不審感は最初からあったんですよ。
だからこの人は人に絶対に甘えない、その点は奥さんに後で通列に言われるわけです。
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そもそも最初から自分のことが好きでもなかったくせに、
好きであるかのような顔をしておいて、
でも一番重要なところでは、ギリギリのラインでは自分を安全なところに置いて裏切る。
これ一番最後にも同じようなことを言われるんですけど、
それはこの人が頑張ってきたからそういう結果になっているわけです。
で、原田さんは死んでしまった両親に最後別れ際に言われるんですけれども、
それでいいんだと、そういうことなんですよね。
これを言ってくれる人が欲しかったわけですよ。
これを言ってくれるってことが甘えさせてくれるということじゃないですか。
それじゃいけないと心のどっかで思っているわけですよね、この主人公の原田さんは。
マミヤさんとか奥さんとか、結局最後の最後のところで信じきれずに生きているっていうこの状態。
この辺は夏目漱石みたいなテーマですけれども、
完全に甘えるということができなかったから、結局こういうことになってしまうんだなと。
そのことを両親に言ってみれば懺悔するんですね、最後のシーンって。
ところがお父さんもお母さんもお父さんなんですけどね、それでいいんだと。
言ってくれるわけですよ。
これでもう一つ残る問題はあるんだけど、
これでやっていける感じというものを得ているときには、
すでに主人公は皮と骨ばかりになってしまって、すっかりみるみる消水して、
もう間もなく死にそうなところに引きずり込まれているんですけどね。
この辺が難しいところです。
ここまで劇的なことにはならないですけれども、
やっぱり対抗ってのはまずいわけですよ。
ずっとヤフー見てちゃダメじゃないですか。
ここが難しいところなんですけどね。
ずっと発言小町見てる。
発言小町ってのは私が思うにはこれは両親なんだと思うんですね。
両親っていうのは親ですよ。
良い心の方じゃない。
あそこの両親はちょっと両親としては微妙ですけれども、
でも叱られるんですよあそこに行くと。
この原田さんもそうなんです。
子供みたいに叱られるということがとても甘い。
甘い甘美感があるっていうことを何度か書いているんですけど、
そういうことですよね。
子供扱いされたいわけですよ。
そうしてこそエネルギーが出てくるっていうものなんですよ。
子供ってどういう世界に生きているかというと、
得体の知れない世界に生きていますよね。
生まれる前から生まれるところ。
最近よくツイッターで書いているじゃないですか。
いくらかの買い前の方で。
親ガチャって書いているじゃないですか。
親はガチャじゃないですか。
何もかも分かって素性を調べ上げて、
この親は学歴はいいんだろうか。
資産はあるんだろうか。
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子育てはうまいんだろうか。
そんなことを調べ上げてから子供は生まれてこれないんですよね。
ガチャですよね。
ゆうずると全く同じですよね。
相手の女の人の素性は知れないんですよ。
後ろからヤバい男が来るかもしれないんですよ。
など分かんないですよね。
子供にとっても。
つまり、この得体の知れない世界に
やってきても大丈夫だというふうな状態でないと、
私たちは多分やっていけないんだと思うんですね。
完全に調べ上げて、
絶対安全で、絶対安心なところでやっていこうとすると、
多分、環状8号線の人気のないマンションに
なんだかよく分からない理由で、
テレビドラマの脚本を書きたいわけでもないのに
書くようなことになってしまう。
それでは続かないですよね。
だからこの人は結局何度も何度も浅草に行って書いていると、
なんか驚異的なペースで書けると。
極めて危険なんだけれども、
こういう時期が多分人にはあって、
それはちょうど自分の何的にも
自分の何的なイメージの中の両親の年齢を
確かに自分は越しちゃったなという頃に現れると。
そういった小説です。