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2022-06-08 29:45

【612GMV】自己を発信する

発信以外の素材を整えても動機づけもリスナーも得られない
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月の4日、つまり先日ですね。
橘竹志さんとクロストークで、一つ時間管理というテーマ。
私はこれはタスクシュートについて喋って、
あとTikTikってですね、最近ちょっとハマっているタスク管理ツールなんですけれども、
カレンダー表示ができるんですよ。
これの話もしました。
その後、情報発信というテーマで喋って、
結構ですね、意外なくらい橘さんと私の、
特に情報発信系の発想って似てて、
実は時間管理の発想も似てるなと思ったんですけれども、
一部結構違いますけど、それはもっと違って当然だというぐらい、
似てるっては似てたんですね。
その情報発信についてなんですけれども、
今のはまだアーカイブを販売中なので、
6月いっぱいまでアーカイブ販売してますので、
よろしければチェックしてみてください。
その情報発信なんですけどね、これも情報ですが、
なんで私たちはこう、
何て言うんですかね、情報発信というものについて、
何の実は基準も示されていないのに、
安易に基準というのか、
最低こうでなければいけないでも安易に持ち込むんだろうというのが、
割と私は昔から気になっていたんですね。
例えば冒頭で自己紹介しなければいけないとか、
なんか突然それは世の中のルールであるかのように、
その方が親切だというのはわかりますが、
必須かというと、私は結構微妙だと思うんですね。
例えばこれだって毎回最初に聞いた人もいるかもしれないとか、
佐々木がどういう人間かわからないということはあり得ると思うんですが、
私毎回毎回ここに自己紹介を入れるのは、
全くいいことのような気がしないのでやらないわけですね。
他にもいろいろあるわけですよ。
編集をするべきかどうかとか、音楽を入れるべきかどうかとか、
私はある程度初期の頃に、
これ初期の頃って相当前になりますが、
固まってしまってからはこのスタイルを全然いじらなくなっているんですが、
なんでここにもともとあったわけでもないルールを持ち込みたくなるんだろうというと、
それは恐れと不安以外あり得ない気がしますよね。
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というものを満たしているものが、
情報発信としてパッケージングしていいものなんですという決まりがあれば、
それさえチェックしておけば安心だからって言いたいんだと思うんですよ。
でもそれは品質保証の何かみたいなものであって、
要するにこの食べ物は食べても死にませんっていう、
ああいうのは大事だと思うんですよ。食べ物だから。
でもこれはそうじゃないと思うんですね。
これは聞かなければそれで事足りるはずなんですよね。
この言い方は出す側が喋っちゃまずいんでしょうけど、
でもなんかそれでいいんじゃないかと、
私結局親しい友達だろうと聞いてって言われれば一回聞きますけど、
そのうち聞かなくなってしまうんですよ正直言って。
それは相手のせいじゃないと思うんですね。私のせいなんですよ。
なんでこの観点じゃまずいんだろうと思うんですよね。
聞きたくないのに無理やり聞くことはないと思うんですよ。
聞いてしまって大変大きな実害を受けましたということがあったら申し訳ないと思うんですけど、
まあそれもあんまないと思うんですよね。
食べて食当たりになったみたいなレベルと比較すればね。
だからいいと思うんですよ。自分の好きにやるので。
ところがここに好きにやるっていう話になると、
途端に恐怖に駆られて何もできなくなるという話をよく聞くんですよね。
私はそれが不思議でしょうがないんですよ。
どうやってもいいんだから一番無理なく簡単にできるはずだと。
そこの観点さえ見落とさなければ、絶対これが難しくなるはずないじゃんと思うんですよね。
別に休んだっていいわけですから、平日日間とかにながら昨日も私はノーノーと休みましたし、
それでいいと思うんですよね。
ダメだっていう人はいるかもしれませんが、無視すりゃいいじゃないですか。
どうしてそれができないのかっていうのが僕にはよく考えてみたんですが、
やっぱり不思議だなと思います。
そこまで恐れる理由が全くない気がするんですね。
言い回しを整えるとか、あのーとかえーを言わないとかあるわけですよ、いろいろとね。
いいと思うんですよ。言わなければより良くなり、言ってもいいじゃないですか。
嫌だっていう人がいたら、やっぱりその人が聞かないというのが一番いいと思うんですよね。
そういうことをまず考えてたんです。
これを言うとですね、なんか突き放してるようだって思われるらしいんですけど、
それはですね、僕にはよくわからないんですよね。
ここに別に聞きたくないという人の自由が最大限保障される方がいいに決まってると思うんですよ。
たとえそれがどれほど編集がきちっとされ、整えられていて、言い淀みもなかったとしたって、
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これ例えば、私が喋る以上、どこかの国の将軍様のように、
一言一個聞き漏らしたら、なんかもうひどい目に遭うとか、嫌じゃないですか、そんなのは。
でも結局、自由がないというのは、とことん進むとそういう話にしかなりえなくて、
自由だってことは聞いても聞かなくてもいいってことなんですよ。
聞いても聞かなくてもいい方がいいに決まってると思うんですよね。
それは、むしろ近代以前の方が自由だった気がするんですよ、ある意味では。
そういう意味ではですね、異常に成立が整ったり、何かを絶対しなければいけないって話になってしまったのは、
明らかに近代国家以降、好んでやるようになった、依然として続いてますけど、
あれ多分ですね、やってて、本当にやってる人の中にも、見てる人もみんな、
あれは嫌だろうと思ってると思うんですよね、心の中では。
別にあえて反対するとかじゃなくても、異常に不自然じゃないですか。
自由じゃないっていうのは、非常に不自然な事態を生み出すもとになると思うので、
本当にそれをやりたい人はいないだろうって思うんですよね。
よっぽど人の自由が気に入らないっていう人もいるんですよ。
でもそれは、何かやっぱり強い恐怖感があるんですよね。
人を自由にしておいたら、本当にひどいことになると。
もう世の中破滅すると。
それぐらいの感覚がなければですね、人が自由にしてるのは事実、当然のことだから。
だって特定の一人の人間がですね、
まっちり自分が思ってる通りにコントロールって言うわけなんですよね。
この話はやっぱり不自由だから、コントロールというところに結びつくんだとは思うんですけれども、
コントロールというのが、何か相手が幸せになる理由がないような気がするんですよね。
コントロールすることによって。
コントロールされるということが、ものすごい好きだっていう人も中にはいるのかもしれないんですけどね。
なんかですね、私にはごく普通のことのような気がするんですよ。
歩きたいところを歩いて、食べたいものを食べるというのが。
食べるものも歩き方も食べ方も全て指図されている通りがいいというケースって、
やっぱり相当独特の関係性の中の話だと思いますね。
特定のある人とある人の関係の中では本当にそれがいいんだと。
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多分ですね、他人をとことんコントロールしたい。
それ自分じゃないわけですからね。
したきりは自分をコントロールすればいいと思うんで。
他人をコントロールしたいというのは、よっぽどそこに強い恐怖感があるんだと思いますね。
そこは脅迫神経症以外の何物でも説明できないほどの強い恐怖。
これ以上は言いませんけどね。
気持ち悪い話になっちゃうんで。
そういうことを考えながら昨日ですね、鎌倉に行って、
妙に洗練されたカレー屋さんに行ったんですよ。
食べログで3.69かな。
非常に美味しかったんですね。
私はそこで不意に、小田原にぶったん屋というラーメン屋さんがあるんですよ。
もしあんまり出くわさないと思うんですよね。地元の人以外は。
という場所にあるんだけど、熊本ラーメンで行ってみることをお勧めしたいんですが、
この2つが対照的なんですよ。
というのは、ぶったん屋はベタベタしてるし、汚いし、店は悪臭を放っているような感じがあって、
洗練されてはいないんですよ、少なくとも。
でも繰り返し行きたくなるんですよ、一度食べると。
これと昨日のカレーハウスは、カレーが食べられるカフェなんですけど、
本当に対照的で、味もいいんですよね。
どうして両方とも何度も行きたくなるのか。
どっちも食べログの点が高いんですよ。
つくづくよく分かるような気がするんだけど、
要するに何が言いたいかというと、私はこの自分の情報発信はぶったん屋だと思ってるわけですね。
お金を取るからにはカレーハウスのようでなきゃいけないとは思えないんですよ。
カレーハウスは素晴らしいんですよ。
ありとあらゆる意味で高いですけどね、ぶったん屋とかに比べて。
だけれども、要はあれをやらなきゃいけないかっていうのは、お金を取るラインの話じゃないなと思うんですよ。
やっぱり僕からすればお金を取る取らないに、それはリピーターになるならないってことと関係があると思うんですけど、
リピーターにならせることが全てじゃないですけれども、お金が取れるというのは上手いってことなんですよ。
そうとしか思えないですね。
テーブルが清潔かどうかとか、従業員さんが気が利いてるかどうかとか、
キャッシュの時にペーペーで払えるかどうかとかいうのは、全部どうでもいいとは言わないけれども、
まあまあやっぱり二の次だと思うんですよね。
このコンテンツもそうだと思うんです。
言い淀まないとか、音楽があるだろないだろとか、時間が10分にまとまってるとか、
そういうことはどうでもいいわけじゃないでしょうけれども、
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編集されてるとかされてないとか、機材良いの使ってるかどうかとかね、
よっぽどひどくない限りは、そしてそのよっぽどひどいというのはですね、
売った部屋ぐらいまでは許されると思うんですね。
売った部屋ははっきり言って、店としてはよっぽどひどいレベルに入っている気もしなくはないんだけど、
何度も行くんですよ、上手いから。
で、この何度も行く上手いからっていうのは他の理由は一切ないんだなって思うんですよね。
駐車場止めにくいし、従業員のおばあさんは気が利いてないとは言いませんけれども、
地元のわけわかんないラジオとかをずっと聞かされるし、
とにかく料理以外の面で繰り返し行きたくなる要素はないんですね。
全くないんですよ。
でも料理という唯一の要素で何度も行くんですよ。
あれよりもその辺のことがちゃんとしているお店は近くにいっぱいあります。
歩いて行ける距離にもありますが、行かないですもん。
ラーメンがあれほど上手くはないからね。
しかもこの上手いが微妙で、癖になる味ってやつなんですよ。
私、つくつく自分のこのポッドキャスターぶったがや的だなと思うんですよ。
たぶん私のこれは聞いていて聞き心地がいいとかはないと思うんですよね。
ただ何か繰り返し聞いていただいている方は癖になっている系だと思うんですよ。
分かりやすくはないですし、専門用語を何の前触れもなく落として、
しかもその用語について私の理解が十分行き届いているとも言いがかたかったりするし、
何度も同じことをリピートしてしゃべっちゃったりもしているし、
しかもそれが生に得だったりもしますしね。
でも結局それはですね、まず他で似たようなものはきっとないんですね。
私、いろいろポッドキャストで有名なのを古典とかどんぐりとか聞いたりして見ているんですけども、すごいですよね。
FMとかで流れていたりもしますからね。
でもあれでこれの代替になるかというとたぶんならない気がするんですよ。
それは洗練度とかそういう話とは全く関係ないところでですね。
まず一つにはカレーハウスはぶったかやの真似をするわけにはいかないように、
非常に多くのリスナーさんがいるところがこういう話の真似をするわけにはいかないと思うんですよね。
知ってる知ってないだけでは話が済まされない気がするんです。
もっと精神分析についてしゃべるならば、多くの人が聞いても大丈夫なことにしなければいけないでしょうし、
言い方にしなければいけないでしょうし、もちろんわかりやすくもしなければいけないでしょうし、
その他様々あると思うんですね。
先日ヤフーの記事で、ヤフーニュースっていうのかな、宇多田ヒカルさん、間違っている可能性がありますので、
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適当に聞いておいてください。気になる人は調べてください。
精神分析を受けたと。面白い話だなと思って読んだんだけど、これがわかりやすい説明ということだったなと思ったんですよ。
あの記事中、私がわかったのは、この精神分析では母親との問題があったということが明らかになったのと、
精神分析とは心理カウンセリングとは違うんだということ、それしかわからないんですよ。
2ページにわたる記事なのに。でも、そんなものなんだと思うんですよね。
普通にきちんとわかりやすく説明するということは、網羅できる範囲が非常に狭まると思うんです。
あそこの中にウィニコットだの、メラニクラインだの、出てこられませんよね。
そしたらあの記事ぐっと長くなるか、わけのわからないものになるか、どっちかになっちゃうと思うんですよ。
でも私はそれを平気でやってるんですよね、この記事、このフォトキャストでは。
というのはそうしないと面白くならないと思ってるからなんですよ。
あのように書くと、あの記事のようなことにすればですね、
それは確かに日常生活の環境の中でも理解できるし、
差し障りのないものっていうのはこういう言葉なんでしょうね。
になるんだけど、代わりにあそこから得られる情報っていうのは、
つまりこの歌手の人はお母さんと昔難しい関係にあったらしい。
そしてそれを精神分析で克服したようだ。
そしてそれは心理化の成果が全く違うものなのだ。
私はこれでは何にも聞いた気がしないんですよね。
でも世の中の一般的に広く聞かれたり、広く読まれたものって、
よく見ると情報量ってこのぐらいにとどめられているものなんですよね。
そうじゃないとわからなくなっちゃうからなんだと思うんです。
そして得体の知れない内容になっていくから、この番組みたいに。
つまりそういうものでしかないものを無理やり洗練させちゃダメだと思うんですよ。
私のこういうものが言いよどみの部分だけを整えるとか、
編集する部分だけを何とかするとか、
音楽のところだけをどうにかするとかいうことをやるとですね、
いよいよわけわかんないものになるじゃないですか。
情報量を絞るとかやっていくと、あるいは聞いていて心地よくはなるかもしれないけど、
何の意味もないものになったりするんですよ。
決して昨日食べたおいしいカレーハウスのカレーのようにはならないということなんですよ。
大事なのは。ぶったがやさんだってそうだと思うんですよ。
あの老夫婦が豚骨ラーメンじゃない、あるいは豚骨ラーメンでもいいんだけど、
握手があんまり漂わないようにしたり、テーブルをきれいにしてみたり、
駐車場を整えたりしていくうちにですね、
なんだかわけのわからない店になっていくことになると思うんですよ。
あれ以上は彼らには無理だと思うんですよね。
でもラーメンはうまいんですよ。ここが大事だと思うんですよね。やっぱり。
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自己発信というのは、ここで自己発信にようやく戻ってこれているんだけど、
情報発信じゃないと私は思うんですよ。
情報発信はやっぱり、それこそ大手の新聞.comとか、
それこそ大手の雑誌だったところのオンラインとか、
そういったものが、つまり組織力を使ってやっているからできるんであって、
それが情報発信なんですよね。ニュースがあって、コラムがあって、
知名度の高い人のエッセイがあって、スキャンダルもあって、
それも整えられた形で出てくると。
あれを真似ようとすると、わけのわからないものになっちゃうか、
本人が燃え尽きて死んじゃうと思うんですね。
あれ一人の人間、つまり極めて優秀な人がある特定の能力だけを発揮すればできるようなことを割り振って、
それにしても長い拘束時間とか、多大な労働力とか、
とにかく細部をきちんと詰めているから、ああいうふうに持っていけるはずなんですよね。
それがやっぱり鎌倉で3.69で高いお金を取ってお店を出せるという。
だって従業員さんがやっていることの中には、
華麗には全く携わらないという人がいるわけですから。
それも結構な人数が。
あのブッダラーヤは老夫婦2人ともラーメンに携わってますからね。
そしてそれ以外の受験、誰もいないわけですから。
多分この差はでかいと思うんですよね。
同じことができるわけはないし、
同じことをしようとするっていう発想自体が、
もうすでにダメだと思います。
私たちはこれをでもなぜかやろうとしがちな気がするんですよ。
情報発信にも出ちゃうとするんですよね。
それは表の雑誌を作ろう一人でっていうような、
なんかこう無茶苦茶な感じがするんです。
私たちが発信できるのは私ですよね。
だからブッダラーヤなんですよ、やっぱり。
あれはつまり、突き詰めるとあの老夫婦のラーメンなんですよ。
老夫婦そのものを、この表現ちょっとえぐいからやめとくけど、
老夫婦そのものなんですよ、のところに行っている。
なんかそういうお客さん多いですよね。
いきなりこうやってきて、よくわからない世間話を始めて、
まさにおじいちゃんおばあちゃんに会いに来た孫ですみたいな、
そういう感じ、本当にそうなんじゃないかなって思うような、
お客さんが何人かいらっしゃるんですけど、
そういう感じがします。
あの彼、鎌倉の何だっけな、
オクシーモロンか、名前からすでにそうじゃないですか。
しかもこれ英語で書いてあるわけだから、
そういうことなんだと思うんですよね。
あそこに行って身の上話を始める人は誰もいないですからね。
この差はでかいと思うんですよ。
私たちは、絶対鎌倉側を目指したら、
失敗するというよりも、
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自分を困惑させるような気がします。
この英都とかを取るとかですよね。
やっているうちに何のためにこれをやっているのかが、
非常に分かりにくくなっていって、
しかも面白くないものに多分なっていって、
それってコンテンツを歪めるわけじゃないから、
悪いことじゃないんですよ。
やっていることは悪いことじゃないんだけれども、
ある意味余計なことであって、
こういうところにも一つ一つに手を当てていくうちにですね、
それをしかも継続しなければならないじゃないですか。
唯一残された道が、
自分をいわゆる無色透明化していくことで、
ただ継続するという習慣を、
習慣化って言いますけど、
ルーチン化していって、
ギリギリ、それこそ寝てても繰り返せるんだというところに
持っていくっていうようなものになっていく気がする。
私は今はもうブログ論みたいなの流行らないし、
そもそもブログが流行っていないから、
こういう話は昔から私の界隈でも行われていて、
来伯界隈だけで行われているわけじゃないですけど、
こういう話があって、
結局でもそれをやっていくと、
何て言うんですかね、
朝のルーチントレーニングみたいになっていくしかないと思うんですよね。
そこに一定のストイシズムとそれによる報酬があり、
繰り返し繰り返しどんな日でもやると、
寒い日でも朝の4時にトラック一周してくると、
そこには一定の報酬がありますからね、続くんですよ。
ただなぜ続いているのかは、
もう本人にはよくわからないところまで来ていて、
そしてぐるぐる回っていると、
これをやるぐらいならば、
冬は休むとかしたほうが、
私はいいんじゃないかなというふうに思います。
つまり、自己発信になっていない状態、
でも自己発信以外の何物でもない状態、
そういうものにしちゃわないようにしたほうがいいんじゃないかと、
どこからも文句が出ないような、
ルッターハヤみたいな店って、
どこからも文句が出そうなんですよ。
でも今のところ私が知る限り、
私はつい最近ここに来たような人間ですけどね、
決して改善される気配はないわけですよ。
それがいいんじゃないかと思うんですよね。
あれは何かと言うと、
ストイシズムで続けているようなものとは違うような感じがしたんです。
まさにこういうものを出すことを継続するならば、
これしかないなというようなところにいる感じがするんですよね。
24:03
このこれしか選択できないなという感じを
自己発信する人は、
その納得度が高ければ高いほど、
自己発信ってうまくいくような感じがするんです。
先日ではなく、昨日かな、
ツイッターでパッとたまたま見かけたんですけど、
よく見るものなんですけどね、話の主張として、
今後本というものは、
自分の中に入って、
自分の中に入って、
自分の中に入って、
今後本というものは、
まるで地方の、
あるじゃないですか、
大手チェーン店ばっかりが幹線道路沿いに並んでいて、
個人商店が全て潰れている、
そういう風景に変わっていくんじゃないかという、
一種の残念さと失望感の懸念を示されていたんですけど、
田舎に住む者の感覚としては、そうはなっていないんですよね。
確かに一部そういう傾向を、
強烈に目の当たりに見せつけられるところもあるんですよ。
シャッター街ができていって、
東京ではむしろ見ないか、
川上街道沿いとかでは、
必ず見かけるようなお店がボンボンと立つ、
そういう光景は確かに出現するんですが、
一方でぶった屋さんみたいな、
極めて不思議な、
極めてローカルなものっていうのが、
地方ではもっと田舎に行くと難しくなるのかもしれないんだけど、
少なくとも仮想化していく、
よく言われる街でもこの現象はあるんですよ。
すごく独特のやり方で、
結構大繁盛しているお店っていうのは、
少なくともここの地元に住んでいると、
そういうこともあるっていうのは確かなんですよ。
これが自己発信で生きる人たちが考えるところなんじゃないかと思うんですよね。
決してあれは大手では真似ができないと思うんですよ。
どうしてかっていうと、
単純に言うと個性がないからなんですけどね。
個性っていうのが欠陥でもあるんでしょうけれども、
だから欠陥を埋めていくと、
よりPDCA的に良くなっていくっていう印象が持たれているんだと思うんですよ、
この話には。
だけれども、そういうもんじゃないんですよね。
そういうお店もありますよ。
個人がやっていて、
どんどんどんどん改善していくという個性を発揮する、
そういうお店も。
ただ、いずれにしてもそこにはですね、
これもグッドバイブス的になるな、表現がって思うんだけど、
27:03
恐怖からそれをやらないんですよね。
このままにしておくと客が離れてしまうから、
こうしようみたいなのがないんですよ、あんまり。
そうではなくて、
すごく独特のですね、ある意味勝手な、
例えば、昔ブログにも書いたんですけど、
うちの近くにお肉屋さんあるんですよ。
そこもそうなんですけど、
すごく店舗をきれいにしたりして、
なんかこう改善したように見えるんですけど、
実は何にも改善されてないんですよ。
そのお店に私が思っていた、
昔ながらの欠点はそのまま残ってるんですよね。
でも、来るんですよ、人は。
なぜなら、お肉が美味しいから。
これがすごい大事だなっていう感じがするんですよ。
で、そのお店の持っている最大の理由が、
肉が美味いってことなんですよ。
他のお肉屋さんで買うよりも、
明らかに美味いんですよ、そこは。
なぜそういうことがずっとできているのか、
よく分からないんだけど、
美味いことは確実なんですよね。
だから人が来るっていう、
そういう店なんですよ。
いろんな欠点があるんです。
行くとね、本当にスーパーじゃ考えられないような、
いろんな欠点があって、
しかもそれを大々的に改装したのに、
何にも改善されてないんですよ。
ただ店がきれいになっただけで。
でも客は絶対来るんですよ。
目につく、誰でもここの店を変えればいいのにと、
変えればいいと思うんですけどね、
変わらないんですよ、そういうところは。
ちっとも。
私もこのポッドキャストをやってて、
ずっと思ってます。
多分誰もがここを変えればいいのにってところは、
いっぱいあるんだろうなと。
でもめんどくさいんですよ、単純に。
私にとっては。
つまりこれって、
私が私である限りは、
このようなことを変えようというエネルギーを使うのは、
結構無理があるっていう意味なんです。
他の人から見れば、
簡単に改善できるようなところなんだと思うんですけど、
それが多分私にとっては簡単ではないんですね。
その簡単でないところに手を出してしまうと、
ちょっとしか良くならないのに、
私の苦労はふんだんに増えるんですよ。
で、こういうことをしないってことだったと思うんですよ、
ある意味では。
今のはやや消極的な話だったけれども、
でもそういうことをしないっていうことが、
この番組のらしさを担保している何かに結びついていて、
なんとなく私は自己表現とか、
自己発信というものをする人にとって、
一番核となるのは、
そういうものなんだろうと思うんです。
ご視聴ありがとうございました。
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