2021-09-13 36:56

【GMV 457】グッドバイブスとかの何がいいのか?

知ってるだけでも大違いなこともあります
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
日に日に、再生回数が減っていますね。
最近のタイトルがいけないなというのは、薄々感じてきたんですけど、
敵面に下がっていて、再生期に比べると4分の1くらいまで落ち込んでいるという、
全然構わないと思う一方で、構うべきなんじゃないかと思うところもあって、
グッドバイブスですね。
今日はなんとなくそういう話をしそうなんですけど、
グッドバイブスと精神分析と、私はそれを寄り合わせるようなことを喋っているんだけど、
一体これは、こいつは何のためにそんなことをやっているんだろうというふうに思われているかもしれないんですけど、
私の役には非常に立っているんですよ。
私の問題の全部ではないんですが、結局ね、全部の問題解決してないんですけども、
9割、7分くらいは解決したんですね、私にとっての問題は。
この2つを寄り合わせるような考え方を持って。
こうなってくると、これをやっぱり伝えた方がいいだろうなというのを思うところがあるんです。
最近読んでいる本で非常に面白い、この人の本は面白いですが、
遠畑海斗さんの「心はどこに消えた?」という文春から出ている本なんですが、非常に面白い。
ですけれども、前に野の医者を笑うを書いた人なんですね。
その話もこのポッドキャストでしましたけど、野の医者を笑うを読んだ時よりも数段面白いんですね。
何でかというと、私がグッドバイブスを身につけている度合いが上がっているせいなんです、一つは。
もう一つは、精神分析を最近しゃべりまくっているように読みまくったからなんですよ。
あの本に書いてある「心はどこに消えた?」に書いてあることは、この下地があると断然理解しやすい。
手に取るように分かるなという感じのところが何箇所かあって、分かんなくても面白いんですよ。
だから売れているし、読まれているし、好評なんですよ、多分。
分からずにみんなが読んでいるという意味ではないですよ。
分かんなくて面白いようでないと、これらが分からなければ面白くないようでは絶対売れないと思うんですよ。
だってグッドバイブスと精神分析が分からなければ面白くない本では売れっ子ないですよね。
グッドバイブスと精神分析も今そんなに読まれているわけじゃないんだから。
だから面白いんですが、私はやっぱりこう、二重三重にこれは面白いんだという感じを抱けるとですね、
03:03
やっぱりこういうものって必要とされているんだなと思えるんですね。
これが面白いと思って以来、誤解されても構わないから広範囲に伝えようということを考えるようになりました。
一方でタスクシュートですね、大橋一夫さんとやっている。
あっちは誤解なくいきましょうという一応方向性があるので、あれは方法論とツールですからね。
もちろん開発人の性格というのも関係あると思うんですけども、誤解なくいきましょうという。
一方で私自身の方向性はグッドバイブスはちょっとオフにしても置かないんですけど、
結局こっち側の方向性は誤解があっても構わないから幅広くいこうというふうに思ったんですよね。
つくづく戸畑さんの本を読んでそう思いました。
やっぱり誤解なくこれをクローズだけでいこうとすると、書きられた人だけにきちんと伝えようみたいにしているとすごく狭くなるしかない。
どうせ最終的にはカウンセリングに近い話だから1対1になっちゃうんですよ。
1対1というのは高くつくし、どんなにセッション安いって言ったってセッション1000円ってわけにはいかないと思うんですよね。
安い床屋さんじゃないんで、そんなスピードではどうにもならないところがありますから。
戸畑さんも精神分析ではないのかもしれませんが、彼は臨床心理師と名乗ってますから。
でも多分かなり年数かけてるなっていうエピソードが出てきて、ほとんど精神分析に接近していくんだなっていうのは、
その辺が昔と違って読み込んでいく時の楽しみの一つなんですね。
このカウンセリング10年近いんじゃないんだろうかっていうことに、
昔は正直まず10年近くかかってるっていうところを割と読み飛ばしていた感じがあるし、
それがどういう意味を出すのかっていうのはあんまりよくわからなかったんですけど、
今はわからないですけど、私は10年もカウンセリングしたことはないんで、
ただ、どうしてこれがそういう長期に渡らなければならないのかっていうことは、
非常によくわかるような気がするんです。
そういうところから精神分析とかカウンセリングについては一般教養だなって思うんですよ。
この番組で言わせていただければグッドバイブスも一般教養だなって思うんだけど、
多分そういう風になる時代はやってこないと思うんで、
やってこなくはないかもしれませんが、ちょっとイメージしにくいんで、
精神分析はせめて一般教養にしたいなと。
06:04
昔私、大学時代、心理学っていう一般教養があったんですけど、
正直心理学は幅広すぎてですね、その中で語られる心理学っていうのは、
どの心理学なんだってやっぱりあるんですよね。
行動主義だったり、教育心理っぽい、児童心理っぽいなんかだったり、
あるいは社会心理、社会心理学であることが多かったな、
多分今はそして行動経済学であったりするんでしょうね。
それはどれなんだってのが本当、行動経済学と精神分析では、
関連してくるところがないわけではないですが、
一般教養として聞いたら全く異なるものに聞こえたろうなと思います。
例えばですね、今回読んで、これはグッドバイブス、
そもそも心はどこに消えたわ、考え方の根本が少し違うところがあるんで、
そこはしょうがないんですけど、これは本当にグッドバイブスだなと思うところが随所に来るんですよね。
これだけでも臨床心理とグッドバイブスは関係が深いんだって思える。
そして精神分析なんだな、これはって、
これもそうは全く書いてないんだけど、間違いなくそうなんですよ。
精神分析そのものだっていう感じがするところがほとんどなんですね。
それを読んでいくと、私は非常にこれで大丈夫だって感じになるんです。
実理的な話をするならば、例えば仕事の先送りって私はもう無くなったんですよ、事実上、消滅したんですね。
消滅したって感じがいいんですよね。
こうすれば先送りを防げるとか、こういう工夫はありだとかいうことではないんですよ。
先送りしたいという気持ちはないんですよ。
もともと無かったんだっていうグッドバイブス的に言うとそういうことになるんですよね。
もともとあれはイリュージョンだったんですよ。
何も工夫とか努力とか習慣化とかはいらないんですよ。
先送りしたいという気持ちが発生しないならば、先送りってしないんですよ。
ただそれだけなんですよね。
そういうことっていうのは、やっぱり心理学で伝えるっていうのは難しくて、
やっぱりどうしても習慣化と行動科学みたいになってしまうんですよ。
報酬計とかね、これをやると報酬がとか、
先送りをすることが報酬になっているとか、そういう言い方になっちゃうんですけど、
精神分析だったらまずそういう言い方はしない。
表面に現れている行動というのは、何かしらの抵抗とか行動科って呼ばれることになるんだと思うんですけど、
あるいは反復脅迫みたいな感じになると思うんですよ。
この番組でしゃべっていることで言うと、そういう感じなんですよ。
怖い、何かが怖い。
例えば昔、ある種の人を内心で批判しちゃったみたいな、
09:05
わかりやすく言うためにでちあげちゃいますけれども、
例えば、私が昔タスク管理をしていたんですけど、
内心で悪く思っちゃったと、
そうするとGTDの紹介を書こうとしたときに、全然違うことをやりたくなる。
本人はGTDのことを少しでもよく書くと、自分の中の整合性が崩れるということが怖いんだけれども、
そんなことを思い出せないので、
例えばGTDの紹介を書くときに、
そういうことが起きたときに、精神分析的に追わないと、
ここで最初からTwitterの設のアプリを立ち上げておかないとか、
そういう工夫が必要になると思うんですよ。
そういう時に、
例えば、
そういうことが起きたときに、精神分析的に追わないと、
ここで最初からTwitterの設のアプリを立ち上げておかないとか、
そういう工夫が大事だと思っていると、
永遠に何かそこを書こうとしたときの怖さが、
意識もされないまま浮かび上がってきて、行動を妨げるという結果になる。
しかもそれに、自分は気づくことすらできないということが起こるわけですね。
そういう意識じゃないですか。
恐れと不安ですよね。
精神分析的ですよね。
無意識の行動化という意味で。
全然行動科学的ではないということです。
こういうことを随所に、
こういうことが本当に頻繁にあちらこちらで現れて、
それをことごとく消していくと、
こういうこと自体が起きなくなっていくんですよ。
これが実理ですよね。
先送りをしたいという気持ちそのものがなくなるというのは、
実理として大きいと思うんです。
そうすると仕事が早くなるというよりは、
仕事のことで悩まずに済みます。
つらさもなくなるしね。
あとは例えば、奥さんと全然喧嘩しなくなったとか、
喧嘩をしても苦しむことがなくなったとか、
これはやっぱり東平同一科が一番説明として簡単だと思うんですよね。
母親と子どもになっているとか、
特に奥さんの側からそれを私に投影されると、
私としては身動きが取れなくなるまでやらされる。
とてもつらいと。
このからくりから考えて、
身動きが取れなくなるまで抵抗せずに、
その役に入っちゃえばまず大事。
たとえ喧嘩したとしても楽なんですよ。
このからくりを理解するとですね、
彼女がこの東平同一科に訴えずに住むように示唆すればOKと。
これってグッドな様子なんですよ。
彼女の恐れと不安を取れば大丈夫。
完全に同じことになるんですね。
12:01
戸畑さんの心はどこに消えたの中で、
面白いエピソードがあって、
お母さんがいなくなったということで、
それ以来この息子さんが幼稚園で暴れると。
やたら友達に暴行を加えるので、
父親がそれを心配して、
戸畑さんのところに連れてきたというようなエピソードがあったんですよ。
これも例えば、行動科学だけで見ることはさすがに今はしないと思うんですけど、
しちゃうとですね、
例えばそうやっておもちゃの刀を振り回さなければご褒美あげると。
先日お話ししまして、
アメリカではそういうことを現実にやるんですよ。
チップをあげてチップ10枚になったらドーナツあげるから。
それでやむこともありますよね。
それはそれで済むこともあります。
非常に目に見える現実を追っていけば、
そういう考え方もあると思うんです。
でも多くの場合、
お母さんがいなくなったから寂しくて
ああいうことをするんだろうなってみんな思うじゃないですか。
ここまでは漢字として精神分析に接近しているんですけれども、
接近したところで止まるんですよね。
少なからずそういうふうになる気がするんです。
そういうふうになるんだろうなと。
みんなで、
それはそれなりに
そのやり方は良くないというわけでも何でもないんですけど、
知っていると大きいと思うんですよ。
こういう時に。
遠端さんがされたようなアプローチというのがあって、
それを我々がやれるわけじゃないんですけど、
知っていると違うと思うんですね。
要は刀振り回すという話は、
トイレ侍という話に切り替わるんですよね。
要するに、
トイレトレーニングの真っ最中にお母さんがいなくなったんですよ。
だから、
トイレ侍なんですよ。
殴っているのは超自我だということなんですね。
この番組の、
この番組の表現ではないですけど、
戸端さんが使っていた刀を
使うなら超自我というものがそこには介在している。
非常に彼は上手く書くので、
そのようなことを知らなくても
別に何の問題もないように書いていますけれども、
そうすると、
トイレ侍によって切られるのは
うんこマンなんですよ。
これ、トイレトレーニングですよね、完全に。
そのど真ん中でお母さんがいなくなったから、
その子は必死になってですね、
刀振り回すというのを
お母さんというものを失わないために
頑張るわけですよね。
これはグッドバイオス的じゃないですか。
恐れと不安があるわけですよ。
当然ですよね。
だってお母さんがいなくなっていることに
恐れない年ではないですよね。
おそらく4歳とかだと思うんですね。
4から6。
一番恐れるっちゃ恐れるかもしれないぐらいの年頃で、
当然お母さんを失いたくないという気持ちが
そこにあるわけですよね。
で、お母さんが最後におそらく
その子に一生懸命やってきてくれたことは
トイレトレーニングだったから、
15:01
その子がそのトイレトレーニングを
その場を借りて、どの場を借りてでもやるんですよね。
実演していくわけです。
これは東映ドイツカですよね、完全に。
その子の中には母と子があって、
母親ユニットですよね。
ウィニコットが居所の母と子で一つなのです。
だけど母はいないから、
自分の中にある母と子のユニットを
外で実演すると。
その人は、お母さん役はトイレ侍で、
子供役がうんこマンなんですよね。
だいたい周りにいる子供は
みんなうんこマンの役をさせられて
殴られまくると。
当然嫌われますよね。
だから戸畑さんがうんこマンの役を
やるんですよ。
切られて殴られると。
すごい痛いと。
だからここはもう、
何て言うんですかね。
現実になってしまうんですよね、それが。
だけれどもそういうことをやっているうちに
その子は幼稚園では
切ったり暴力を振るったりせずに
住むようになるわけです。
これはすごく当然言うまでもなく
精神分析だと私は思うんですよね。
内的母親だし、
対処喪失への不安があるし、
とえどいつかですよね。
どこから見ても構わないんですけど、
長寿がといったっていいですよね。
どの表現をとっても構わないんですけど、
まさにそういうことが起こると。
最後の話が非常に印象的で、
廊下の中でその子は急に
わざとらしいぐらい
変わって妙にしょんぼりした感じになると。
どうしたのというと、
今トイレ侍が消えていくっていう、
つまり変身が終わったっていう言い方をする。
これも完全に投影ですよね。
完全にその何て言うんですか、
これをだから長寿がという派閥もあるんでしょうし、
内的対称という言い方をする。
この二圏五さんなんかも内的対称っていう表現で、
子供はライオンになったりするんだけれども、
いつしかそれが恥ずかしくなってやめると。
それに限りなく近い変身という表現をとっているのは、
完全に同一化ということになると思うんです。
同一化をやっている場面と、
やめる場面というものが、
それが廊下の途中で、
やってくると。
だから廊下の途中で、
同一化をその子が手放すと、
何が起こるかというと、
お母さんがいなくなるわけですよね、完全に。
さっきまでは自分がお母さんだったから、
お母さんと一緒にいられたんだけれども、
お母さんがいなくなると。
こうやって人は分離というものをしていくんですけれども、
当然そこには強烈な不安があるので、
しょんぼりするわけじゃなくて、
18:01
こういう話というのは精神分析だし、
私の頭の中ではグッドバイブスでもあるので、
それがどういう意味を成すのかというのは、
一言では容易に説明できないんですけれども、
まずこういう現象が少なくとも書いてあれば、
分かりやすくはなる。
戸畑さんはすごくて、
東映ドイツカとも内的対象とも一切書かないんだけど、
それについて書いていることは、
知って読めば明白なようにもなっているし、
知らずに読んでも面白くなるようにはなっているわけです。
こういうのを読んだときに、
これはみんな知っていたっていいはずだとやっぱり思うんですよね。
だって常にそういうことって起こらないんですけれども、
やっぱりその年頃の子が、
身の回りにいる子でもあっても、
お母さんを失うということは怒りうることですよね。
男の人とどっか行っちゃうということも、
怒り得ない話ではないわけじゃないですか。
自分の奥さんがそうになるということも、
あり得ない話じゃないと思うんですよ。
自分がそれをやるわけにいかないとしても、
今のようなことを、
でも知っているのと知らないのとでは、
何かちょっと違う気がするんですよね。
自分が父親だった場合ですよ。
たまたまそれはうまいこと、
そういうことを知っている人のところに
連れて行くということができたから良かったですけど、
できないままっていうケースもあるわけじゃないですか。
私はやっぱり、
それはどういうケアであっても構わないと思うんですよ。
ちゃんとしたケアっていうか、
なんていうんですかね、
適切という幅広いと思うんですね。
つまりグッドイナフですよ。
グッドイナフなケアであれば、
何だっていいと思うんです。
別に精神分析でなくても、
臨床心理でなくてもいいと思うんだけど、
でも何か必要だろうとやっぱり思いますよね。
全くこれにケアがないというのとか、
ただ暴力的だというふうに見なされるということになると、
かなり辛いと思うんですよ。
これは実はだと思うんですけれども、
これがそっくりそのまま私たちにとっての比喩になると思うんですよ。
そういうことなんだと思うんですね。
精神分析っていうのは。
このままのことが私たちの実生活と実人生のど真ん中で起きるはずなんですよ。
暴力振るったりトイレ侍になることはまず考えられないと思うんですけど、
誰か大事な人を失うというタイミングになったとき、
非常に長寿が暴力的に動くと、
その男の子にとってはトイレトレーニングでお母さんがすごく好きだったと思うんですが、
そのお母さんが疎走したときに対して、
お母さんがトイレトレーニングをするときに、
トイレトレーニングが好きだったと思うんですが、
21:00
そのお母さんが疎走したときに対して怒るというのは、
すごい厳しかったわけじゃないですか。
だからトイレ侍なわけじゃないですか。
だから他の子を斬っちゃうわけじゃないですか。
刀っていうのはすごく、
ある種の精神分析の人たちならファルスって言うんでしょうけれども、
切断力っていうのが大変ありますよね。
その子がお母さんと切断されたわけですけれども、
刀と切断というのはありきたりすぎるぐらい、
フロイトの話にはいろんなところで出てきますが、
やっぱり僕らは男の子って話ですよ。
私これをチェンジズっていうところで書きたいんですけど、
刀好きですよね。
この後に及んでも、この後時世になっても、
仮面ライダーの一番最新作では炎の刀みたいなのが、
去年のかな、ありましたけれども、
そういう世界ですよね。
刀好きですよ。
オリンピックでも野球のチームはサムライジャパンとかって言うじゃないですか。
棒を持ってね。
男の人はとかく棒とか刀持ちたがりですよね。
何をするのかというと切断なんだと思うんですけど、
切断すると寂しいわけじゃないですか。
こういうことってすごくケースバイケースだとは思うんですけど、
非常に暴力的に出ることがありますよね。
持っているのが棒なだけに。
どうしてもそれを暴力的な用途に使ってしまいかねないことが、
長寿がって警察ですから、警察で持っているものが棒となってくると、
どうしてもそれを使って何か禁止に逆らうやつは罰を与えるっていう。
これができないわけですよ。
できないじゃないですか。
そうやって幼稚園児ですらそうですよ。
自分の正義のもとに刀振り回していたらみんなが去っていくわけじゃないですか。
これをでも割と平気でやるという人はいっぱいいるような気がする。
街中で棒振り回す人はほとんどいません。
稀にいると大ニュースになっちゃうほどいないですよね。
でもこの棒に相当するものを警察の棒みたいなものに振り回すし、
しかも蔵園平塚さんとのぶっちゃけ相談でも定期的にいただけますよね、
この種のご相談は。
私は人を罰したくて、人が許せないんですって話は定期的にいただけます。
もはや好きでやっているわけじゃないわけですよね。
でもきっとこの男の子だって好きでそんなことをやっていたとは言い難いと思うんですよ、
このシチュエーションから考えて。
もうやっちゃうんですよね、つまり。
夢を見ている人に罪はないって蔵園平塚さんおっしゃいますけど、
24:02
まさに夢を見ているんですよ。
ついでに言うと、やっぱり失いたくないものがあるわけですよね。
お母さんがこの男の子にとってはそうですよね。
お母さんを失うというのは大変なことなわけですよ。
だから考えようによっては遠畑海人さんがお母さん役を買って出たんですよね。
切られる側でしたけれどもね。
お母さん役を買って出た。
これはもうミニコットそのものだと思うんですよね。
環境供給が途絶したんで、代わりに環境供給してくれる人が必要だったんです。
お父さんが全部できればいいんでしょうけど、大概そうはいかないです。
子供の方もお父さんとお母さんは別の人と認識していますから、
まず無理ですよね、完全な形では。
だからグッとイナフなんですけどね。
だから環境供給というのはある程度のところまで来て、
それを途絶えてしまったらやっぱり誰かがケアしてあげるしかないところがあって、
それは私たちが大人になってもやっぱり続くんだと思うんです。
許せばいいんですけれども、やっぱり棒を持っているし、
自分の中には警官もいるし、どう見てもこれは見逃すわけにはいかない。
できれば棒でぶん殴りたいっていうことが起こるけれども、
そこで棒でぶん殴ると自分が逮捕されると、本当の警察に。
実にこの長寿が問題というのは自分の中で苦しみがあって、
それなのにどうしてこの人たちは自分がこんなに苦しんでいるメッセージを
自分がこんなに苦しんでいる目の前でそういうことをやるんだろうと。
例えばこの綺麗な景色の中に空き缶をポイ捨てするんだろうと。
そういうことなんだと思いますよね。
あるいは一生懸命タスクシュートとかいう話をしているのに、
何か役にも立ちそうにない、何かよく分からない新しいツールを
世に広めて大儲けしていると。棒でぶん殴りたいと。
棒でぶん殴りたいと。
この棒でぶん殴りたいと思った瞬間に自分の頭が棒で殴られるわけじゃないですか。
二重に腹が立つというか、これが腹が立つということなんだと私は思うんですけれども、
こういうことを私は全くこの問題で苦しんだり悩んだりすることがなくなったわけですね。
それがグッドバイブスだったし精神分析だったので、
最初はもう大学の一般教育レベルでいいから、
耳にしたことがある人の数を増やしていきたいというふうに思うようになりました。
誤解されるとかはこの件に関しては全然問題じゃない。
私にとってはクラゾンさんのグッドバイスについてどう思うかではないですよ。
これは私がこの寄り合わせたようなグッドモーニングバイブスについて、
人が聞いてどう感じるかというのは私の手の外にありますから、
27:01
これは全部そうなんですけどね。
自分の手の中にあるものなんて意味がないので、
全部自分の手の外にあるに決まっているんですけど、
つまりそれをコントロールしたいとは全く思わないんだけれども、
ただ、聞く人のこれを広めるという手段が
私にとってSNSぐらいしかないというのが非常にあるだけマシなんだけれども、
そうなんだよなというところですよね。
私は今やっているのは結局分析そのものじゃないし、
臨床心理師じゃないので、
それを伝えるんだけど、
それに意味があるのかなというのはずっと思っちゃうところなんですよ。
でも今回、心はどこに消えた?を言って、
意味があるんだなと思ったんですね。
やっぱりこれを知って読むぐらいのところまでは行けると思うんです。
臨床心理になって自分がやれなくても、
精神分析というものを自分が本当に理解できていなくても、
これを理解して読むことぐらいはできると思うんですよ。
それだけでも結構違うなって思ったんですね。
さっきの某もそうですけれども、
つまり私たちがのばたしになっているとか、
このままでは私の大事な環境が失われるとか、
母親というのはそういう意味です。
環境が失われるとか、
先日クラゾノさんとオンラインセミナーで
地球を信頼しているかという話が出たんですけれども、
そういうことなんですよね。
地球というのが母親ですよね。
環境を供給してくれる相手、
これが失われるという妄想に私たちは取り憑かれることがあるんですよ。
地球環境問題じゃないですよ。
地球環境問題もそれに近づいてきていますけれどもね。
環境供給というのは私たちの心理の中で途絶することが、
途絶というのはつまり、
失われることが本来的にほぼない。
たまに先ほどの男の子のように運の悪いことはある。
トイレトレーニングの真っ最中でお母さんがいなくなるみたいな
そういう運の悪いことが起こることはありますが、
多くの人にとってはそういうことはそうは起こらない。
環境というものは空気みたいなもので、
空気なくならないじゃないですか。
なくなるという恐れについて言う人もいますが、
まあなくならないと思っていますよね。
通常はあること自体を忘れていますよね。
あること自体を意識するようになると、
過去境みたいな状況が起こるんですけど、
これが環境供給の途絶とすごく比較されています。
ミニコットのことを一番私は分かりやすく書いてくれている人に、
30:00
オグデンという人がいるんですけど、
オグデンさんが、彼はすごく優しい人だと思うんですけど、
やっぱり環境供給の途絶については、
かなり踏み込んだことを書いていて、
ちょっとこの番組じゃないとそういうこと、
だからこういうところなんだろうな、
クローズとか、これクローズじゃないんですけどね、
聞いている人が少ないというだけで、
すごく踏み込んだことを書いていて、
私も書き上げ塾に福祉の仕事をされている方が何名かいらっしゃる、
生徒さんでいらっしゃって来たりしてくれるんですけども、
その中でも何度かこの話があったことがあって、
拘束という問題がありますよね、
つまり言ってみれば縛ってしまうと、
暴れないようにとか、死んでしまわないようにとか、
いろんな理由があるにせよ、縛ると、
それって基本的人権的にどうなのって問題なのか、
絶対に出てきちゃうじゃないですか、
拘束という問題は、
さっきの男の子だってそうですよ、
人のことを幼稚園で考えると、
人のことを幼稚園児が刀で切りつけるというときは、
引き離されたり、どこかに、
はがいじめにされたりするけれども、
本当のところこの問題というのは、
人の行動を何らかの理由がないのに、
無理やり止めてはいけないというような問題って、
どこかに出てくるんですよね。
私、この番組でも申し上げましたけど、
ホールディングって問題はやっぱり、
この子の自由にさせるわけにはいかないってことを、
意味的に含んじゃうと思うんですよ。
だって自由にさせたら誤解から落ちたりしますから、
自由にはさせられないですよね。
だから、はいはいここまでよとかもそうなんですよ。
あれは言ってみれば立ち入り禁止なわけじゃないですか、
出られないようにすると。
だからどうしてもその人のためだからと言って、
抱えるということは、
考えるによっては自由を奪うということに必ずなるので、
それはどういうときにどこまで許されるのかって議論はあるわけですよね。
ところが、環境を途絶しましたってことになると、
やっぱり人は恐怖感から何しするか分かんなくなってくるわけですよ。
小さい子だからいいわけじゃないですか。
お母さんがいなくなったとしてもプラスチックのおもちゃですよね。
致命的なことにはならない。
だから拘束しないで済むんだけれども、
これと同じ心境に一定の年齢以上の人がなった場合、
やっぱりそれは拘束って問題が出てきちゃいますよね。
ホールディングってウィニコットが言ったとき、
それは抱っこって意味では抱っこなんだけど、
抱っこと拘束が同じような意味を持ちかねないところってのが出てくるわけですよね。
で、オグデンが書いてるんですけれども、
だけれども、このギューっと、
簡単に言うと拘束されること、縛られたりすることが、
33:03
この人にとって身体的な安心感をもたらすんだっていうことを書いてるんですよ。
この辺が踏み込んで書きにくいところのポイントだなって思ったんですね。
結局、精神分析もそうなんですけど、臨床心理とか、
全部そうだと思うんですけど、
この問題が出てくるときがあるわけじゃないですか。
地球が信頼できませんってなったら怖いですよね。
居ても立っても居られないんで、
その人は夢を見てるのと何も変わらないような心理状態になると思う。
その時に、どこにも行けないようにされるとか、
縛りつけられる、これは暴れたくなりますよね。
その時に私たちは、
例えば、かなり軽い方だけど、
でもそれでも本人にとっては非常に深刻な問題として、
パニック障害とか、向上恐怖症とか、
そういうことが起こるってくると思うんですよね。
閉じ込められなければならないシチュエーションなんだけど、
閉じ込められれば、もう出たくなると。
すげえ簡単に言うと、バスとかで運転手さんに向かって、
おろせーとかっていうことになったりするわけですよね。
普通に考えると、バスに閉じ込められたとは人は考えないから、
そういう時にパニックになったりする理由はないじゃないかって思うかもしれませんけど、
それは結局ほとんどのことを信頼しているから、
そういうふうにしてられるわけですよね。
バスの運転手はみんなも一緒に心中しようとしているわけじゃなくて、
バスの運転手はみんなも一緒に心中しようとしているわけじゃないとか、
当たり前かもしれないですけれども、空気があるのは当たり前かもしれないというのと変わらないわけですよ。
多くの人にそれは起こらないかもしれないけど、ある種の人には起こっちゃうかもしれない。
このかもしれないかもしれないで押していくと、
結局最終的にはイリュージョンが現実を圧倒していくんですよね。
ホラー映画みたいになっちゃうわけです。
だから、拘束というのは実際のところはホールディングであり得るというふうに、
そう言っておけば済むのかというとそうはいかないんですけどね。
やっぱり新聞とかにこの縛るのはどうなんだって書かれたりもしないわけじゃないわけじゃないですか。
それこそそういうことは絶対に議論の対象にはなってしまうんですけれども、
でも多分ある種の人にとってはぐーっと自由を奪われた感じになるということが、
実際にはお母さんにホールディングしてもらっているんだという感じをむしろ唯一、
唯一供給される形なのかもしれないということはありますよね。
私、何人かそういう子供の言い分を聞いたことがあるんだけど、
36:01
寝るときは毛布とかでぐーっと手足が全く動かないように固くやってほしいみたいに言う人っているんですよ、子供で。
そういう映画もありました。
そんなにこれは不健康とか不健全ではないですよね。
でも何かに似てるじゃないですか。
ホールディングに似てると思うんですよ。
だから自分が自由自在になってしまうということが大変怖いことだというふうに考えるってことはあり得ると思うんですね。
その辺のところまで、僕は遠畑さんの非常にふざけて書いたようなエッセイには常に含み込まれている感じがして、
やっぱりこれは一般教養だよなって。
一般教養じゃないですけれどもね。
でも一般教養であったらいいなと思うわけです。
36:56

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