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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいま9月29日、10時25分ですね。
なんて言いますか、グッと急にズレるタイミングがあるんですね。
別にそういう風にいろいろ考えてるわけじゃないんだけど、気がつくとこうなっているというか。
でも今はいつも通り一番いい環境で撮ってはいるんですが。
まずはお知らせをしておこうかなと思いまして。
前々から申し上げている通り、橘武さんとノーセカンドライフというブログで有名な橘武さんですね。
逆算の乗り越え方という第3回目のクロストークを10月8日土曜日14時から17時というところでやろうと思っています。
やろうと思っているというか、よっぽどのことがない限りやります。
私はこの日もそうなんですけれども、前々から言っていた中年の危機について話をしようと思っていて。
最近ですね、体調不良がちょっとあって、なんだかよくわからない例によってのジンマ神経炎で悩まされたんですよ。
昨日、今日ではないんですけど、先週あたりですね。
わかんないんですけど、なんとなく収め方が身についてきたかなという、非常に不思議なんですがね。
たぶんこういうのが世の中では、ものすごくできる人になってくるとスピリチュアルって話になってくるんだろうなって感じがします。
身体症状なんで、全くそれがあらゆる意味で無意味じゃなくて、その原因が身体にないってことは決してないと思うんだけど、いわゆるストレスで済まされてしまうんですよね。
たぶんこれがあったからそうなったっていうようなものがほぼ何にもない。
しかもですね、放っておくとでかくなったり、放っておくっていうのも変なんだけど、どんどん増えていってしまう時があるんですね、僕の場合。
ところがこれに気づいてからですね、こうすればいいっていうのがあるんですよ、私の中で。
身についたんですね。
クラソノケイゾーさんのおかげをもってっていうところも大きいんだけど、直接こうやりなさいっていうのを彼に習ったってわけじゃないので、その時は出てなかったりしますからね。
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とにかくこう、クライシス以来、納め方というものがなんとなくわかって、最近は意識的にやるんですよ。
意識的にやらないと、結局悪化するんでね、悪化することもあるんで。
そうするとですね、そうだな、早ければ3、4時間で消えていくんですよね。
怪しいじゃないですか。
でもこれ怪しくないというのとはまた別に、だったら病院に行くほうがベターなのかどうかが問題なんですよね。
僕病院行きまくった間からね、全く治んなかったんで、悪化の意図をたどってた時期もありましたから、3時間で消えてくれるんだろうですね。
どんだけ怪しくてもそのほうがいいわけですよ、僕にとっては。
こういうことってあるじゃないですか、世の中には。
愛の遺伝子っていう漫画でですね、AIの遺伝子って書くんですけど、
私は科学を信頼しています、でも私は科学のために生きているわけじゃないんですっていう、怪しげなセミナーで壺を売ってるような教祖みたいな人がですね、
そういうふうに言うんですよ、追求してくる新聞記者みたいな人。
女性っていうことになってるんですけど、非常にこういうことなんですよね、ある意味ではね。
私は科学を信頼しています、でも科学のために生きているわけじゃない。
別に僕はそういうことを言いたいわけでもないんですけど、これを人に広めようっていう気がさらさらないですかね。
これ自分で治めてる限りにおいてはどんなに怪しくても何も問題はないわけですよね。
ここで喋るということになってくると停職するのかもしれませんが、停職するって何に?っていうのもあるじゃないですか。
そんなこんなで、今日お話しするのとも少しかすめるんですが、8日にはですね、どうしてこういうことが私に、
私こういうこと絶対できない人だったんですね、できないと信じてたところもあるし、でもこれも不思議なんですよ、考えてみると。
例えばアトピーって痒いんですね。
書いちゃダメって言われることもあんまり言われなくなってるんだけど最近、子供の頃言われてたんですよ。
この書かないってのは、こんな言い方はできませんけれども、この書かないって実はスピだなって思うんですよ。
書かずにあれでいられると思うかってまず言いたくなるのと、でも書かずにいられるようになるんですよね。
これスピなんですよ、私に言わせるとね。
寝てる間も書かないんだから、これが無意識ってものを使わずに説明しようとするとスピっぽくなっていくんですよね。
私はこう痒いところ書かないということが意志力でできるって言うんであれば、それはもうすでに科学とは言い難いんじゃないかなって思うんですよね。
科学だったら、例えば神経に作用して痒くなくなるとか、実はこれ難しいんですよ。
できるんだったらとっくにそうしてますよね、ある意味。
なぜこの程度のことをしてないのかというと、できないからなんですね。
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これもなんかスピっぽくないですか。
私は長らくアトピーに悩まされてたんで、アトピー関連の医療にはスピっぽいところが多分にあるなっていう。
実際壺売ってくる人もいますからね、アトピーの人に。
これが果たして、何て言うんですかね、今そういうことを話題にすると問題になるからやめておきますけれども、
果たして治せないものを怪しげな手段で治すというものは悪なのかっていう、治した場合の話ですけどね、
どっちみち治らないというケースの方が普通ですから。
ケースの方が普通だっていうのも、でもこれもまた微妙なところで、
全く何の効用もないというケースって実は少ないんですよね。
これもこの種の病気にかかってみるとわかるんだけど、プラシーボ効果というのは絶大なんでね、
医療が医療としてそれを治せしきれないというケースの中ではですね、
プラシーボがどこまで関与しているのかというのは、あんまり探らないほうがいいんじゃないかなって思うことも私なんかには少なくなかったですね。
今はアトピーの治療がすごい進んでるんで、治らないところが改善もしないなんてことは決してないんで、
お医者さんに行くのが絶対いいですよ。
霊感療法とかに行くのは全然いいと思いませんけれども、
ただ世の中には絶望という問題に対して、
意外にいろんな人が言う話というものは当人になかなか役に立ってはくれないという問題が
なってみないとわからないことがいっぱいあるんですよね。
見え方が違うんですよ、どうしてもね。
まあまあ、そんな話です。
今の話は微妙に聞こえたと思うんだけど、もう少し微妙な話を続けますが、
昨日一昨日のようなところでお話した、自我心理学的に見たところの、
これも戸畑先生のところにミッキーさんという女性がね、
あれ仮名だと思うんですけど、いらっしゃったという話があったじゃないですか。
ものすごくお怒りに最後なって、
そこで戸畑先生は踏みとどまって考えるということをするんですね。
これを自我心理学的にお話をしてみたわけだけれども、
もちろんグッドバイブスの文脈も昨日は10タブに入っていたというのは、
知っている方はよく分かると思うんですけれども、
これを自我心理学的に考えるということをするんですね。
こういう比較をわざわざしているのはですね、
別にこういう学問的考察がしたいというわけではざらざらないんですよ。
私、これの学問的考察は何度も言うとおりする資格を持っていないからね。
ただ、これをですね、比較対処理について、
自我心理学的に考えるというのは、
別に何度も言うとおりする資格を持っていないからね。
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ただ、これをですね、比較対処してみることによって、
私の頭の中ではすごく複雑になってくるんだけど、
非常に不思議なことにですね、
一見わかりやすい自我心理学から、
私は人に傷つけられるとか、喧嘩して苦しくなるっていうのは
あまりないんですよ。だって私、自我心理学はアメリカの留学でがっちり習ってきたわけですよ。
あそこ結局、自我心理学を教えずにはいられない国なんですね。
アメリカで心理学やっちゃったら。
それは認知行動療法や行動科学がすごく進んでますと、
脳科学も大事ですっていうのがメインに来てますよ。アメリカですからね。
でも根底にこう流れているのはですね、完全にアンナフロイトなわけですよ。
そこに読んでみると、私はアメリカに行って結局アンナフロイトを学んできたんだっていうのがわかるんですよ。
だから最初からアンナフロイトのそこまで明確にじゃなくてもね、
アンナフロイトを受け入れる、それを習いに来ましたって人にとっては、
留学生活はスーッとうまくいくんですね。
もう一つあるのがキリスト教なんですよ。
クリスチャンの日本人ももちろんいらっしゃるじゃないですか。
キリスト教ってなってるんですね。私のように仏教徒で、
仏教徒じゃないけどね、まあまあでも寺出身で、
キリスト教ってわけにいかないなっていう人間が、
しかも自我心理学を学ぶつもりもないぞっていう人間が心理学を勉強しに行くと、
えらいハードル高くなるんですよね。これはもう全てが終わってからわかりました。正直言って。
そうは歌ってないし、何もわかってなかったですね、僕なんかは。
UCLAだとかいう都会中の都会の超有名校に行くと違うと思うんですけど、
私が言ったように寺出、非常に田舎ですね。
田舎の標準的なアメリカの文化の中で標準的なアメリカ人が行く、
標準より以下、ちょっと落ちてるかなみたいな大学に行った場合は、
今みたいなのはハードルになる。でもそんなことは誰もそうは思って別にいないし、
私もそう思ってなかったから幸いにも。
自我心理学を勉強したつもりはなかったけど、でも途中からありましたね。
あれほど露骨にやれればそうなりますよね。勉強してきたのは自我心理学だったんですね。
気がついてみれば。それだけではないですけど、それは非常に思想的に重要っていう感じがあったんですよ。
それは2000年に行った私の事情で、今行くと違うと思いますけどね、またね。
その私が結局それによって、ミドルクライシスもそうですし、その他様々なものも、
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何にもそれに対応できるところまでは行かなかったのは多分なんですけど、
やっぱり私にはいくらか欠けてるキーがあって、のうちの一つがグッドバイブスみたいなものであり、
のうちのもう一つが対象関係論なんですよね。
結局私の中ではこの二つは半ばをくっつきつつあるんだけれども、
そこのところが抜けてるとあんなにわかりやすくて、
納得もしてたのにもかかわらず、よくわかってないというこの奇妙な感じが、
多分ね、私これからもし精神分析でも受けると、またガラッと感覚が変わるんだろうなっていう予感は何となくあります。
私結局本で読んで、意味の苦しみというものとの格闘の中で、
これを理解している感じなので、またそれとは違うじゃないですか。
本当にカウンセリングにかかるということをすればね、
すればきっとまたいろんなことがわかってくるんだろうなとは思うんですけど、
今何しろ暇もなければお金もないので、本読んでるしかないんですよ。
本だって高いな、高いな、高いなと思って買ってるわけなんですよ。
高いんですよ、こういう何かよくわからない表紙がですね。
表紙に何のうるきもなさそうな精神分析の本とかは、
名著と言われているものは平気で6,900円とかして勘弁してよって思うんですけど、しょうがないですね。
我慢して買って読んでます。
で、えっと、そう。
豊田海人さんははっきりと層は書かれてなかったんですけど、
三木さんという患者さんにですね、
ここに来たのは全部無駄だったと怒鳴られると。
そして、あなたは何も話を聞いていないと言われると。
あれが東映ドイツカっていうものだと思うんだけど、
これがですね、対象関係論では不思議な表現をとるんですけど、
考えと言うか、考えと言うか、考えと言うか、
という表現をとるんですけど、考えというものは中空を漂ってるみたいな表現なんです。
これちょっと正確じゃないかもしれないんで、
美音とか対象関係論みたいなのを読み直していただければ、
まあでも読まれないと思うんであんまり。本高いし。
美音みたいなのがキーワードですね。ユニコットもなんですけどね。
とにかく中空を考えられていない考えっていうんですよね。考えられていない考えを漂っていて、
それを考えてあげるというのが思考なんだみたいな、
そういう非常に独特の発想が、これ前もこの番組でも喋ったことがあるんだけど、
あるんですよ、そういう発想がね。で、これ変じゃないですか。
普通我々は考えるということを頭の中でやるものであって、
考えというのをですね、そのアイデアとかね、
頭の中から出てくるというふうに考えるじゃないですか。
でも美音の言い分は違うんですよ。
美音とか対象関係論はみんなああいう発想を取ってるなと思うんだけど、
中空を漂ってるんですよ。考えられるべきことっていうのは中空を漂っていて、
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それはまだ誰にとっても考えられてはいないから考えになってないんだけど、
それについて誰かが、よし俺が引き受けようというふうに思った人が考えてあげることによって、
その中空を漂ってるまだ考え未満のものが考えと、
思考の結果みたいにして、そこで初めて考えられたものになるという発想を、
アンソートソートとかソートソートとかそういう言い方をするんだったような気がするんですけどね。
なんでこういうわからんことを言うのかというとですね、
でもこれは人にご相談をしばらく受けていて、
しかもその方にですね、ある意味しっかりとしがみつかれるみたいな感じ。
しがみつかれるって感じを抱いたことが例えば恋愛とかであった場合、
女性に多いかと思うんですよね。男の人がしがみついてくるみたいな、
ストーカーみたいな話になりますけど、
こういう時にこの発想って実は正しいなって思うと思うんですよね。
思いません?
あのね、私なんか例えばですね、ずっと言われていることに
タスクシュートの記録はなぜ取れるのか、
私は到底取れないという訴えが、これ特定の誰もイメージしていませんよ。
そういうもう、例えて言うならばタスクシュートユーザーになりたい怨念みたいなものを感じるんですよ。
記録取れないぞーみたいなこうむにゃむにゃーっとした、
漫画家さんに絵描いてもらうと簡単だと思うんですけど、
そういう怨念みたいなものが上がってきて、なぜお前は取れるんだっていうね、
幽霊に恨めしいって言われてるそういう感覚があって、
幽霊に恨めしいって言われてるそういう感じを抱くことがあるんですね。
ていうか抱くんですよ。今やある種のところでそれを聞くたびに、
これが考えられていない考えなんですよ。
押し付けられちゃうんですね。
私が変わって考えなければならないことになってるわけですよ、気がつくと。
なぜ記録が取れないんだろう。
なぜこれらの人にとってはこの記録というそう難しくもないものが、
しかも時間管理ができるということならば、
どんな苦労も厭わないという感じの人にとって、
この記録ごときが難しいんだろう。
お金を儲けたいと思って帳簿付けないとか家計簿付けないとか、
あり得ないじゃないですか。だけれどもお金は欲しいんですけど、
家計簿が続かないんですっていう人がいて不思議はないですよね。
そうすると余裕で付けられる人からすると、
なぜこの人に家計簿ごときが続かないのかなと思うと思うんですね。
考えられていない考えが中空を漂ってる感じなんですよ。
代わって誰かが考える。
つまり考えられる人がそれについて考える必要があるんですね。
実際こういうことって非常に多いと思うんです。
私別に、仕事だからって言われればそういうことになるけど、
記録付けられません、続きませんということについて、
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考える必要って僕にはないわけですよ。
なぜなら僕は記録が続くからね。
苦労してるとか大変だとかつらいとか思うことも全然ないんで、
付けずにいるほうがタスクシュートについてはむしろ努力要するなっていう状況なんで、
なぜ記録が続かないのかということをあえて考える必要ってないわけですね。
だからこれは考えられていない考えがそこにある感じなんですね。
それをキャッチアップする、キャッチするしかないですね。
記録が続かないというそこにあるよ、
それについて考えられるやつ考えてみましょうと、
そういう感じがするんですね。
これが考えられていない考えなんですよ。
相談ごとってこういうことがとても多くてですね、
記録が続かないという話の中にはそれについて考えられてはいないんですね。
誰か考えとけよって話なんですよ。
これね、辛くなればなるほどこういう現象がどんどん進行していく感じがあって、
その戸畑さんの本の中の三木さんもそうで、
私は別に恋人が欲しいわけでも友達が欲しいわけでもなかったと、
ただ不眠を訴えてここに来たのにひどい目にあったからあんた何とかしろっていうか、
あなたのカウンセリングなんか受けるのやめるって言って激行しているんだけど、
それは結論かっていうと微妙な感じがするんですよね。
やっぱりこれは怒りをぶつけにやってきましたといった感じがして、
これについて戸畑さんがこのことは多分絶対意識されてると思うんですけど、
こういう書き方してるんですよね。
そのしばらく私は打ちのめされていたみたいな感じで、
あまりにも一方的だと思った。
とにかく自分が無能なカウンセラーみたいになってしまったような気がしたっていう、
要するにドーンとやられて落ち込んだ感じを書いていらっしゃるんだけど、
しばらく経ってみて考える力が戻ってきたっていう表現。
この表現が集まり、そこに持ち込まれた忠孝を漂ってるものすごいネガティブなもの、
名前がつかないんですよね。
考えられてないものだから。
ドーンとぶつけられたと。
それについて本当は当事者が考えればいいんだけど、
ここが精神分析やカウンセリングの場だっていう特殊性なんですよ。
カウンセラーが考えてあげなきゃいけないわけですね。
こうなっちゃったら。
多分カウンセラーがこれを放棄するとカウンセリングは成立しなくなりますよね。
だからこの苦しみがぐっときた中で、
どっちもこれは扱い兼ねると。
バレーボールみたいなもんでボールはポンポンポンポンいるんだけど、
取っちゃダメなんですよね。
ってか誰も取れないんですよ。
だからどんどん回し合うことになってくるんだけど、
ふと考える力がですね、
戻ってきたという人、
つまりやっぱりこれについて考えようとする人はカウンセラーなわけですよ。
その人が考えるということをやって初めて、
その押し付け合いが止まるわけですよね。
このミキさんという人は、
その本の中ではタツヤさんという男性から押し付けられたわけですよ。
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タツヤさんには抱えかけて、
考えることができないという未満のものをミキさんに投げつけたと。
自分持っていると苦しいからね。
そしてタツヤさんの苦しみっていうのは、
あれに書いてあったところによると企業に失敗し、
会社を辞めたのに何もかもうまくいかなくて、
うんのんかんだと。
そういうのを抱え込んでいくと苦しいから、
タツヤさんに押し付けられたわけですよ。
そういうのを抱え込んでいくと苦しいから、
ミキさんという女の人に、
彼女ですよね、恋人に辛く当たるということで、
それを投げ出すんですよね。
それをミキさんを抱え込もうと頑張るんだけど、
やっぱり無理で投げ出して戸端さんのところに行くと。
これで戸端さんも泣けるということになると、
カンセリングじゃなくなっちゃうわけですよね。
だからここで考える力というものが大事になってきて、
押し付けられたものについて、
これは一体何なんだろうと言ったところから、
初めて考えるわけです。
これは記録が付けられませんと。
実は全く同じ図なんですね。
これがつまり、ウィニコットとかクラインもそうだと思うんだけれども、
みんなが言っていたところのニードとニーズってやつなんですよ。
ニードというのがつまり考えられていない考えなんですね。
未満なものですよ。
なんだか困ったネガティブなもの。
赤ちゃんが泣くというのはそういうことですよね。
何が起きているのか分かりません。
何をしたいのかも分かりません。
とにかく僕には何も分かりません。
泣きます。
これがカウンセラーでクライアントさんが投げ出すものなんですよね。
投げ出すわけですよ。
ニードがある。とにかく何とかしなければいけないという何かがある。
名前もつきませんと。
これに対してお母さんが解釈を与える。
それは何々だと。
本当はお母さんはやらないわけにはいかないけど、
本当はお母さんは赤ちゃんの問題なんだから。
その問題について問題を特定して、
それの解決について考える必要はないんだけれども、
考える必要はありますけどね。
少なくともカウンセラーとかになってくると、
お金をもらわない限りはなくなるじゃないですか。
そして我々の人間関係でもそうですよね。
ずっと愚痴を聞いてあげるけれども、
特にその愚痴について何もしないっていう人も
普通にいるじゃないですか。
親子でさえそうかもしれない。
ニードがニードのままになって投げ出されるわけですね。
そのニードっていうのは多分、
今たまたまその心を抱えている人のニードとは限りない。
めったにそういうことないんですよ。
どっかからやってきてるんですね。
いろんなところで巡り巡って、
最後に考えられる人のところに行き着いて、
その人が抱えて考えてあげると。
やったことをすることで、
初めてニードはニーズに変わるわけですよ。
あなたの要求とはこういうものなんですと言って、
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それに対してこういう提供の仕方があるんですと。
これがニーズにして戻すという話ですよね。
ニーズにしてその人が抱えて前へ進めていくと。
ここで初めて物事は多分前へ進んでいくんですよね。
私はこういう発想を取ったことは当然なかったので、
考えというのは頭の中から出てくるものだと思っていたので、
目の前に誰かが投げ出したものだという捉え方をするようになってから、
非常に思考するべき状況とそうでない状況というものの
区別がつくようになった気がします。
普段、昔は何かどうでもいいのに、
四六時中なんか考えていたんですけど、
そういうことを一切しないで済むようになったんですよ。
今ここに何かがあって初めて考えるべき状況というものが生まれて、
その時になって初めて思考を働かせるといったことが
必要になったり必要にならなかったりするということが
分かるようになったんですよね。
これ対照関係論というものを読んだ、
僕にとっては大きな、何て言うんですかね、
大きな得たもので、
それまで多分ずっと生まれながら、
生まれながらではないけれど、
学校に行くようになってからかな、
ずっと考え事をしているという癖がついていたんだけど、
そういうことがピタッとここに止まるようになった気がします。
それはこういう事情があって、
目の前に考えるべきことというのが置かれて、
特に誰かが投げ出したり投げてきたということが
起こらない限り、
それについてあえて考えるということを
しなくていいんだなと。
害してこういう時になると
人は考えなくなるじゃないですか。
誰かから押し付けられて、
なんで俺がそれを考えなきゃならないんだとかって、
普段から考え事ばっかりしている、
考えること大好き人間みたいな人は
急に考えるのをやめてしまったりしますよね。
あれも非常に現代的な現象なのかもしれないけど、
逆でありたいとは思うじゃないですか。
僕なら逆であったほうがいいだろうなと思う。
だって、ただただ考え事をしているというのは、
特にこれといったものを生み出さないですよね。
何か頭の体操みたいになってしまう。
それが悪いわけじゃないですけれども、
そんなことしなくてもいいと思うんですよ、別に。
それで具体的に何かが発生した時には
考えるのをやめちゃうというのって、
なんだかちょっと奇妙な感じがしますよね。
時間もあんまりないし。
だから、投げ出されてしまった考えについて、
誰かが引き受けるっていうのが
大きな意味を持ってくると、そんな気がします。
ニード・ニーズに変えるっていうのはやっぱりそういうところで、
まずこれは何なのかっていうのを明らかにするところから
大体始まるんですよね。
車の例えは秀逸なんですよね。
車擦りました、ぶつけました、壊れました。
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ここにニードがあるんだけど、
車は何も訴えてはこないわけじゃないですか。
パソコンはちょっと訴えてきますけど、
実はあれは訴えても何でもないですからね。
それに対して抱え込める人が抱えるじゃないですか。
パソコンって敵面ですよね。
目の前のユーザーがうわーって言って、
ただうわーって言ってるだけで、
これだけの人っていっぱいいるじゃないですか。
なんか出てきたよ、みたいなことを言って。
抱え込める人がこれを抱え込む。
つまりこれに解釈を与えられる人が解釈を与えて、
これをニーズに倒して、パソコンは実際は何も要求してないわけですからね。
あれとよく似てるんですよ、この話は、実際には。
そのミキさんという人が投げた。
その前にタツヤさんという人が実はミキさんに投げていた。
実はさらにその前からミキさんという人は
親にしょっちゅう投げられていた。
つまり親の抱えている問題をミキさんに投げちゃうんですね。
これが私は、いわゆる虐待ではなくて、
いわゆる親子の問題っていうのはここにあると思うんですね。
本来逆ですよね。
子供がニードを発し、親はニーズにする。
これが逆になっちゃう。
親がニードを発し、子供がそれにニーズを与える。
でもこれね、非常に私は大事なことだと思うんですよね。
ウィニコットが解釈は間違うもんなんだというか、
これはやっぱり対象関係論では絶対に意識されていることだと思うんだけど、
ニードをニーズに変えた瞬間、もう間違ってるっていうのが非常に大事だと思うんですよ。
でも我々はそれを必ずニーズに変える。
その価値っていうのは損なわれることはないんですね。
解釈が正しいかどうかが重要なんじゃないんだと思うんですよ。
解釈を正しくやろうっていうのはすごく重要ですよ。
解釈どうでもいいやと思うのは非常に問題を生みます。
子供が泣いてればいつもミルクをあげるとか、必ず寝かすとかはダメだと思うんですよ。
でも当たるわけじゃないっていうのはすごい大事なことだと思うんだ。
百発百中がいいみたいにこういう時大体思われるんだけど、
それはとんでもない間違いだろうなっていう感じがやっぱりします。
だから親のニードを子供は絶対間違いますよね。
でも解釈してあげようとするっていうのは素晴らしいことじゃないですか。
だいたいカウンセリングっていうのはそうやって進行するものなんだと思うんですよ。
私のタスクシュートとかは絶対明快だけど、実際は違うんですよ。
実際は記録ができませんって言ってきた時の解釈は
記録ができないんですねでは全然正しくないと思います。
だからこの人本当に何を望んでるんだろうって誰もが考えると思うんですよ。
この種のことをやり始めるとですね。
これが大事なんじゃないですか。
ありがとうございます。