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おはようございます。 佐々木正悟の自由連想第1415回をお送りします。
お早くもなんともないんですけどね。 11月8日、水曜日、夜22時35分です。
はい。 まあ、いつもとはちょっと環境が違うわけですが、
朝、本当は収録しようと思ってたんですよ。 しかし、まあ、ちょっと全然全く無理で。
で、まあ、 気がついたら、もうこの時間というぐらい、今日は慌ただしくてですね。
まあ、 ここのところね、異常に慌た…あ、そうそうそうそうそうそう。まずこの話をしておきましょう。
私、タスクシュート協会の一応、似合いもせん理事というね、 肩書きでやっておりますが、
この度、これはもう一般公開されている話ですからいいと思うんですけど、 理事3人しかいない理事のうちの一人が大会されまして、
J松崎さんという、まあこの界隈では一番ビッグネームなんですが、 という流れになりましてですね。
まあその、タスクシュート協会の話をするわけではなくて、 その話はもう協会の方で色々と動いているんですけど、
私は精神分析でこの問題を考える人間なわけですね。 で、そうすると、
これはつまり、対象喪失ってことにはならざるを得ないでしょう、 っていうことなんですね。
対象喪失というのは、まあ非常に難しい話だなって私最近思うんですよ。
というのは、まあ私がよくまだ分かってないせいなんですけど、 モトメランコリーっていう有名なフロイトの、
フロイトの論文は全部有名っちゃ有名なんですけど、 五大省令とかですね。
結局モトメランコリーは中でもやっぱり有名な方だと思うんですが、
これにですね、対象を喪失することによって人は鬱になっていくっていうのが、
多分そんな話がやっぱり、あのように合理的に説明されていた話としては、
当時としては画期的で、今読んでも画期的だよなと。 あそこに書いてある通りかどうかはともかくとして、
あのようなことはあるでしょう実際っていう感じが、まあするわけですね。
失礼。なんか今日くしゃみ出そうな日がしてきた。
ここで喋ってるとやっぱりね、他のところで喋るのはわけが違うんで。
ちょっとこの問題を今取り急ぎ、解決しなければならないような気がしまして。
えーと、
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まあ要するに、なんて言えばいいんですかね。 モトメランコリー。
いきなり立ち止まってしまいましたけど、 まあその
対象というのは、 そもそも内的対象と外的対象ってあるじゃないですか。
考えてみると内的対象を喪失するだろうかって考えると、 ちょっとよくわかんなくなってくるわけですよね。
母親対象とか言うけれども、まあ私は一般に、もちろんそれは現実にいる、外在する母親を指してもいるわけですよね。
対象として。 しかし同時にそれは間違いなく自分だって重要な人物だから、記憶の中に宿ってるわけだから。
で、現実の母がたとえいなくなったとしても、お亡くなりになったとしても、 内界の母はいなくはなってないわけですよ。
対象喪失っていうのは結局、 まあ内外が不一致になることを言うのかと思うんですけど、考えてみると
内外が一致するってこと、あり得ないんじゃないですか。考えてみると。 そうすると対象喪失って一体何を言ってるんだろうなぁって、
中の対象を喪失するってことは、どういうことなんでしょうね、と思うんですね。 ただしかし今回のような事件が一つ起きてみますと、重要人物なわけですね。
で、もちろんジェームス・ザキさんが亡くなったわけじゃないんで、 単に教会を退回されたということであって、それ自体が対象喪失という問題を引き起こすとは思うんですけれども、
でも本人はいらっしゃるわけじゃないですか、生きていらっしゃるわけじゃないですか。 対象喪失とは何なんだって考えると、でもこれはある種対象喪失だなって思うんですよ。
対象喪失というものが、 まあもちろんそれはモドメランコリーとか読み直せばいいのかもしれないけど、私なりにやっぱり悩んでみますとですね、
対象喪失というのは、 一つの欠損だなって感じがしますね。
これまで教会に理事が3人いるというこの状態を十全十分だとするならば、
理事が2人になったわけだから、この2人になったという感じが実際に2人になったわけです。
ただ大事なのは実際に2人になったことそれ自体は依然として十全じゃないですか。 考えようによっては。
ところが心の中では、まあ少なくとも現段階ではまだ3人いるはずである。 シュッとの世界ですね。3人いるべきである。
なぜなら3人であることで十全であったんだから、2人になったらやはり1人が欠けている感じがするわけですよね。
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これが不在という問題であって、つまりおっぱいが不在だって話は散々してきましたけど、不在っていうのは
直ちにそこが悪いものによって埋められがちなわけですよ。 いなければいけない人がいないということは、ただただそこ、いないってことはですね、
基本的にはそこに空隙があるだけであって、つまり何もないわけであって、何かがあるわけじゃない。この話散々してるんですけど、我々はよくこれをやっぱり、
というか人間は概念上ですね、ないことは悪いことであるっていうケースが実際あり得るわけですよ。
例えば、そうですね、自分家が亡くなりました。 これは、あ、もともと家なかったよね。では済まないわけですよね。
家が亡くなった、例えば火事で亡くなったってことになったら、あるべき、ここにあったはずの家が亡くなったって話になる。
でもそれは本当はおかしいわけですよね。あったはずだとか、前まではあったとか言ったって、それは記憶の話であって、現実にはないわけですよね。
でも人間はそうは捉えない。現実にはただないだけであるっていうふうには決して捉えない。変化というものを捉えてしまうわけですね。
だからここにあるべきであるものがなくなったって考えるわけですよ。そうすると、いやしかしあるべきであるから、
これはあるべきであるものがないってことは悪いことが起きたのであるって考えて、悪いおっぱいが発生しちゃうわけですね。
これがつまり、夜のトイレに出てくる花子さんなわけですよ。 そこに本当は誰もいないんだけど、子供にしてみれば、そこに自分を励ましてくれるお母さんとか、
一人でトイレに行っても大丈夫だと見守ってくれるお母さんがいるはずである。いるべきである。それがいないということになってくると、それは恐ろしいものがいるっていうふうに、あまりにも怖いからね。一人でトイレ
に行くのは。
大人の人はそう思わないって言うかもしれないけど、そんなことはないですよ。
たぶん大人の人でも廃屋になった学校のトイレに、夜たった一人で行かなきゃならないってなると、トイレの花子さんがいることになっちゃうと思うんですね。
ここが、いないものがいないというのは、ただ存在しないのであるではすばされずに、悪いものがそこにいるのであるになっちゃうわけ。
で、だから悪いおっぱいっていうのは、なんかデカ悪いおっぱいとかそういう話をしてるんじゃなくて、恐ろしいものがそこにありますって話をしてるわけですよ。
良いおっぱいがあるっていうのは、死状なんですよ。ユートピアなんですよ。
1歳児とか0歳児の話ですからね。良いおっぱいがあるっていうのは、ユートピアなんです。
悪いおっぱいがあるというのは、もう地獄なんですよ。だから天国と地獄なんですよ。
それは0歳児の心の世界なわけですね。ここに対象喪失、対象喪失はつまり、悪いものがまず発生するってところからスタートするわけです。
だから対象喪失というと、やっぱり最もですね、我々がよく知ってる世界で言うと喪失ですね、喪失。
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喪失こそまさに対象喪失に対する我々の物作業の社会版なんですよ。物作業とは喪失のことを言ってるわけです。
喪失の時に決まってやるのはですね、まあこれは皆さん誤解されているケースが多いと思うんですけど、
霊を鎮めてるっていうことになってるわけですよ。霊を鎮めてるというのは何のために、喪失ってそもそも何のためにやるのかと。
喪失ってそもそも誰のためにやるのかと。死者を弔ってるって言うんですけど、どう考えてもあれは生きてる人のためにやってるわけです。
生きてる人は何をしようとしているかというと、この人がいないというのは現実にいなくなっただけなのであるというか、いなくなったことを受け入れるしかないのであると。
それは当たり前じゃんって思われるかもしれないけど、そんなことはないわけです。喪失するインパクトというものは私たちの心に欠損という恐怖を呼び覚ますわけですね。
それは本当はなきゃいけない。なきゃいけないものがないのは大変なことになるでしょ。
例えば水がなきゃ我々は生きていけないのに水がない時に水がないだけですとかって言わないじゃないですか。
大変なことになったから早く自衛隊から水をなんか供給されなければ大変なことになるということで、多分暴動とか起きますよね。
つまり欠損というのは恐怖を引き起こすわけですよ。
だからどなたかが亡くなったということは、ただ亡くなりましたということでは済まされない。
それは我々はないことを受け入れなければなりませんよこれからはということで、弔いということをしなければならないわけですね。
弔いをしなければならないということになると、まずは悪いものがそこに発生しましたという物語ができるわけですよ。
それがつまり霊とか幽霊とか死霊とかそういうふうに言われているものですよね。
でまずその死霊というのは死者のせいにされるわけですよ。我々が勝手に死霊というものを見てる癖してですね。
あるいは幽霊ってものを見てる癖して、そこにはまだ天国とか極楽とかに行き着くことのできずに彷徨っている霊魂があるのだっていう、これが悪いおっぱいってやつですよね。
ないから、トイレの花子さんもそうです。悪いおっぱい、だからホラーに近いんですよその世界。悪い○○はホラーに近いわけです。
不在だって言ってんのにお亡くなりになったんだからいなくなっただけに決まってるわけですよ。
なのになんかこう迷ってしまうわけですよ。死者の国に行けず迷った生者の魂がそこら辺にいるってことにするわけですよ。
実に都合のいい話なわけです。だから非常に霊っていう幽霊とか死霊とか呪いとかいうものは我々のナルシシズムをよくよく表しているわけですね。
我々の都合なんですよ、あれは。我々がないってことを受け入れられない。いなくなったら急にいなくなると受け入れられないじゃないですか。
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まだ生きているような気がします。まさにこのまだ生きているように気がするっていうことこそが霊魂ってやつじゃないですか。
まだ生きているような気がしているのは死んだ人の方じゃないんですよ。生きてる人の方の記憶としてそういう意識があるということだと思うんです。
どう考えでもその方が辻褄が合ってると思うんですよね。死者がまだ自分生きてると思ってるぜっていうのはいかにもおかしな話であって、
でも生者の方が死んだ人がまだそこに生きているような気がすると全くおかしな話じゃないので、いかにもおかしな話と全く変じゃない話のどっち選択するかって言ったら
合理的には全くおかしくない方を選択する方がいいわけですよ。ただ受け入れられない。
したがってお亡くなりになった人がまだ実はお亡くなりになったんだけれども、生者の世界に彷徨っているので、だからこれはPSポジションなわけですね。
Dポジションになったらこの霊魂を生み出しているのは自分の心であるというふうにわかるんだけど、多席してるわけですよ。死んだ人のせいにしてるわけ。
死んだ人が彷徨っているからまだここにいるような気がするんだ。そうなんだ。じゃあこれはやっぱりありがたいお経でも唱えてあげなければいけませんねということ。
その人のせいにしてあげる。その人のためにお経をあげている。そうすることによってその人が鎮魂されて、あの、めでたくというのかな、穏やかにあの世に旅立ってめでたしめでたし。
私たちもそれを受け入れられるようになりました。というのにかかる日数が49日だから49日ってことになるんでしょうし、ケースによっては1年かかるから1回帰り、1周期なんでもいいんですけど、1周期だね。
1周期を迎えると。で、これはビジネスになるぜってことがわかると、今度はあの戸村雄法もいやいやまだまだあのまだ
さまよってますからということで、3回帰りとか7回帰りとか、だんだんすごくなってくると14回帰りとか、あの100回帰りとかやるわけですよ。
これにはあの坊さんが儲けたいという理由ばかりではない。大体そのあれですよ。多くの人は100回帰りとかしないですからね。
やっぱりこれはですね、あの生きてる人のためにやるのがお葬式なんで、みんながみんな葬式のお題をあのけじりたいと思ってるとは限らなくてですね。
親戚同士で集まって、飲めや歌いやしたいっていうこともありますんで、この時だけはあの亡くなった人がまた戻ってきてくれるのが達績なんですよ。ここでもね。
生きてる人の都合が常に優先されているということです。これは当然ですよね。だって生きてる人のための催しのものなんですから。
で、このように考えてみたときにいくつか考えざるを得ないことがあると思うんです。
まあその葬式のビジネス云々は置いといて、この葬式というものはですね、基本欠損を受け入れるための儀式なんですよ。
これはもう確実だと思うんですね。お亡くなりになっているんだから欠損はあります。欠損があるんだからそれに対して何かをしているということは、欠損を受け入れられないから何とか欠損を受け入れようって話だ
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ということなんですよ。
この欠損を受け入れるということ、しばしば持ちこたえるっていう、だから赤ちゃんはおっぱいがないことには到底持ちこたえられないから大泣きに泣くわけですね。
排出するわけです。そのような恐ろしい考えを排出する。だからそれはですね、やっぱり例えばですけど、私だってそうですが、最愛の娘が
旅行中に不良の事故に遭いました。受け入れられないから泣くかどうかは別として排出しますよね。責任者誰なんだとかって言うわけですよ。
他責しないとどうにもならない。心が持たないということになるわけですよ。 だからそういう時のために、そういう時にまず最初にやることがお悔やみ申されるわけですね。
お悔やみ申し上げますと。私このお悔やみ申し上げますという言葉がですね、どうしても窓板卿はこれほど適切なことはないんだって書いてましたけど、甘えの構造の中で、どうしてもこのお悔やみ申し上げますというのは
男である気がするんですよね。まずは、第一例はですね。 もうこれはジェンダー的にバイラスがあるのかもしれないけど、なんかこれはね、おじさんが言ってる感じの言葉なんですよ。
つまり不正なんですよ。 つまり私は欠損というものを最初に認識するのが不正であるって最近考えてるってことなんですよ。
というよりも不正とは欠損を引き受けるものこそが不正の最大の役割であるって感じがするんですよね。
じゃあ、不正はっていうと、不正はやっぱり余剰というものを生み出すものであるって感じがする。
生み出すためには余剰がいるって感じがするんですよね。不正ってのは十分だって感じがするんです。
お母さんさえいればいいっていうこの感じを抱かせること、機能ではないんです。抱かせる存在、その存在感ってもの。
これが母性だと思うんですね。私はやっぱりこの点において、ある種、男性は女性に敵わない雰囲気を持っているって、これもジェンダーバイアスなんですが、
もちろん男性にも母性はあるんですよ。女性にも不正はあるんです。特に今の女性に不正はありますよね。
なんですが、特に母性ってなった時に、なんて言えばいいのかよくわかんないんですけど、お母さんさえいれば僕は大丈夫とか僕は十分みたいなこの感じが、
なかなか幼児にとっても父親より母親って感じがしちゃうんですよね。やむを得ず父親ってことは、私も父親やっててみて思ったんですよ。
僕がここにいれば大丈夫、OKだよねっていう感じを娘は出してはくれるんだけど、どっかそこには娘が頑張ってくれてる感じが否めなかったんですよね。
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奥さんがそこにいるって時に、なんとなく自然に充足感があるとに比べて、私がここにいるっていうのに対しては、
楽しいとか一緒にいるのが嬉しいとかはありそうなんだけど、十分であるとかたっぷりであるみたいな感じって、私は出てこないなって感じがする。
どこか二人でいるみたいな感じがする。二人でいる。なんかこう、ある意味では応一感って言ったらいいんですかね。応一感が不足している感じがするんですよ。
たっぷりであるみたいな。これが窒息感を生み出すんですけど、非常にしばしば。だから、弊所恐怖症と母性って僕は関係があると思う。
なんとなく私と娘がいても、弊所恐怖症までは到底行き着かないなって感じがするんですよ。
なんかどっかに二人で出かけて行っちゃうみたいなことになりがちなんですよね。やっぱりそれは欠損感が少しありますよね。
どっかに二人で出かけて行くなんてのは、大体においてそういうのって、食べに行くとか買い物に行くとか、何かを取り込みに行ってるわけですよね。
それはやっぱり欠損感を感じるんですよ。 なんか応一感が感じられないんですよね。そこにはね。
おのずとたっぷりである。一方違いと洪水につながっていくような、そういうたっぷり感が、なんかこうね、豊穣の秋みたいに言うじゃないですか。
ここは、豊穣感が足りないなって感じがする。で、ここに対比がある気がするんです。 やっぱり欠損を司るのが葬式であり、
豊穣を司めるのが生産であるって感じがするんですよ。 生産と母性、葬儀と父性みたいな。
ちょっとね、気性やってて、なんか面白みのない世界だとは思いますよ。はっきり言って。
やっぱりそれだったら、豊穣の方がいいに決まって。決まってはいないまでも、大事な役割だと思いますけど、葬式ねみたいな感じ。
でもやっぱ僕はね、葬式の同士はね、圧倒的に多くの坊主が男であることが、このバイアスに絡んでると思うんですけど、どうしても葬式は、
葬式仏教って言葉はあからさまに批判的ですから、葬式を司るのが男性であるということが何の名誉にもなっている気はしないんですが、
やっぱりこう、どうしても葬式っていうものはですね、私は男の同士がやっている。だからその、
牧師もそうだし、坊主もそうですけど、天さんが葬式を同士することは当然今あると思います。
当然あると思うんだけど、イメージがピンとこないんですよね。 やっぱり母が産む、そして父が葬儀をする、だからこれがね、
これはジェンダーバイアスだって言われると、それはそうなんですけど、でも少なくとも産む方は今のところひっくり返しようがないじゃないですか。
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どうこうどうやったって父が母代わりをすることができたとしても、父が子を産むことはできないわけですよね。
だから、あの、 だから葬式をもちろん母がすることは、それはできますよ。もちろんできます。
しかし、なんとなくこの役割は不正の役割である。
たとえ女性がやってもやっぱりその時は不正的にある。少なくとも子供を産む時の対比だなって思うんですよね。
死者を贈るっていうことは。ここに痛みがあるわけですよ。 だから、愛祷と祷は痛み、痛むじゃないですか。
痛いわけですよね。 それは亡くなるから欠損の痛みだとやっぱ思うわけですよ。
で、欠損することを痛むときに、まずその後何をするにしても、欠損した人材を、だから今の我々の教会もそうですけれども、選択を迫られるってのがあるんですよ、欠損の後には。
このまま頑張るのか、誰かを引き入れるのか、新しい体制にチェンジするのか、いろいろありますが、それは何をやったっていいんですけど、大事なのは第一義的には、この欠損を認めると。
ここに欠けたものがあるんですということを認めて、認めてそのまま行くっていうのはそれでいいんだけど、認めずに行くっていうのはいかないと思うんですよね。
で、この認めるということが持ちこたえると言ってみたり、踏みとどまると言ってみたりするんだと思うんですけど、要は足りないままで頑張るっていうのが少なくとも一時的にはできるようにならないといけないんだろう
なと、人間社会はそれがないととても持たないところがある。
欠損は絶対発生しますからね。記憶がある以上、欠損というものに対する痛みもあるわけですよ。これを持ちこたえるっていう意識が持てないと、人間がやっぱり社会生活に営むのはおそらく無理だろうと。
今回のような経験をしてみて、やっぱりすくすく思うのはまずこれの衝撃を受け止めるってことをせざるを得ないですよね。で、この時にやってることは決して母性的なものは感じないんですよね。非常に不正的なもの、
何かが急速に失われていくのに対して持ちこたえなきゃいけないって感じがするわけですよ。
余剰からの生産をするって感じは全くしないわけですね、とりあえずは。大きく空いた穴みたいなものをそのまま納得するというのかな、認識する、少なくとも最低限の認識しなきゃいけない。穴ってのは、認識する
っていうのは、ドーナツの穴がまさにそうであるように、別に認識だけの問題なんですよ。しかし、そこに何かがあるわけじゃないんですよ。何もないわけですよね。
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ドーナツの穴っていうものはないわけじゃないですか。そこにドーナツがあるから穴があるわけであって、そこにはもともと何もないわけですよね。何かがあるのに対する対比でしかないわけなんですが、それが難しいわけ
ですね。欠損のように感じられる。もっと言うと悪いものが発生したようにすら感じられる。穴がそこにできたような感じがするわけですよ。穴ができたわけではないわけですよ。何かがなくなっただけなんですね。
で、この時に私は不正と物作業、つまり物作業は第一義的に不正のすることであるって感じがするんですね。なぜなんだろうってなるとやっぱり、母性が生み、不正が死を痛むからとしか言いようがないんですけど、別の言
い方をすると、生まれるんであるということがあるならば、やっぱり亡くなるということ、死ぬということがあるのであるとしか言いようがないわけです。
どっちを司る方がいい感じがするかというと、生む方だなって私なんかは思っちゃいますけどもね。やっぱり葬式を司ることは何かこう少なくとも喜ばしい話じゃないですよね。
葬式仏教って言うんですよね。本当に私ももう少し有無主義強かった時代に、うちは寺だったわけなので、葬式仏教って言葉は学校の先生にまで言われてましたよね。
けどですね、だから市民層とか友人層ってものが平成では結構出てくるんですけど、あの時やっぱりでもね、問題になるわけですよ。たかだか葬式しかしてないだろう、仏教って言うわけでしょうけれども、じゃあ坊さん
の代わりに友人の中の誰かが同士になって坊さん代わりするかっていうと結構難しいわけですよ。
あのやっぱね、何て言うのかな、儀式は儀式でしかないんだけど、そこにはやっぱりそこに欠損がある。その欠損を持ちこたえるという儀式なわけだから、欠損が発生していますっていうことを、まあ大概の場合なんとなく
持ちこたえるわけですよね私たちは。
ただそうは言っても、やっぱり何て言うのかな、そこが専門家は専門家なんですよ。何の専門家であろうともですね、葬式仏教だとしてもですね。
で、やっぱりこう、普通の方がっていうのも変ですけれども、ごく普通の人が普通にお経を唱えるだけでは、こう、欠損を踏みとどまって、痛みとかお悔やみとかそういうものを、なんて言うんですかね、そこはまあプロ
はプロなんですよね。
何のプロなのかっていうと、なんだかよくわかんないんですけどね。まあその場にいるすべての人にとって不正として納得のいく存在って感じはやっぱりするんですよね、どっかね。全く納得いく感じがしない人がそれをや
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ると、できないわけじゃないんだけど、非常に場の雰囲気は変なものになり、で、その時だけ来た心類筋からすると、なんだあれって感じがしちゃうっていう話は、ものすごくよく聞きました。
それは私たちが聞いたからと言って、いやまあそれはしょうがないよねっていう話でしかないんですけれどもね。あの、そういう時はうちを呼んでくださいとは言わないですけどね、寺側はね。ただまあ、まあそういう感
想が出るのは出るでしょうねっていう感じはしちゃいますよね、やっぱりね。
当人たちはそれでいいと思っていてもってことですよね。その場全体にいる人たちにとっての不正って感じがね、全くしないケースっていうのは起こりうる。それは坊さんがやっても起こりうるんですけれども。
で、この欠損を受け入れるというか受け止めるといった時に、やっぱりこの物作業がそこから始まりますという、その物作業がこれから始まりますっていうことを、なんて言うんですかね、言える人、それは結局誰に
とって言えるのかって話になるわけですけど、言える人が、なんて言うんですかね、一緒にいる。
それが不正ってことの一つの意味なんだなって感じがするんですよ。
欠損が発生した時に、まず真っ先にその欠損というものを受け入れて認めることのできる人、受け止めて持ちこたえることが一番できそうな人が、特別な欠損がない時からすでにそこにいるって感じ。
これを不正ってものを与えるんじゃないかなって感じがします。
そうすると、うーん、そうだなぁ、ある意味では、一番それっぽいのがやっぱり戦国大名みたいな感じがしますよね。
戦国大名っていうのはもう、戦国時代っていうのは欠損の連続ですから。
人がしょっちゅう死んでるから。
で、欠損の連続で一番課長をやるという、家のトップをやるということは、ひたすら欠損を受け入れるということを強いなきゃならないわけですよね。
で、その人だったら欠損に一番こう持ちこたえてくれそうだっていう人が、何も起きてない時からそこにいるっていう状態。
そこにはストイックシズム全体出てきますよね。
ストイックじゃなかったら全くついていく気がしないですよね。そういうの。
だから信長とかそういう名前になってくるんだろうなって感じがするんですけど、
このやっぱり欠損が起きた時に、一番最初に、というかなんとかその人がいれば持ちこたえられる感じがするなっていう人が普段からそこにいることの意味みたいな感じですね。
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あとのことは、お父さんを越えるとかなんとかいう話っていうのは虚勢がどうのこうのって話は、それに比べれば二義的なのかもしれないって思うように最近なってきました。
つまり、究極母性というものが余剰を生み出すって感じであるならば、究極父性というものは欠損を持ちこたえるって感じかな。
で、その時に物作業がスタート。ここからこれができないと物作業はそもそもスタートすらしない。
昨日もお話ししましたけれども、フロイトの裁判年の論文ですよね。
で、藤山直樹さんがフロイトのやましさという論文を書いてるわけだけど、
基本的にフロイトは、ちっとも最愛の弟子との隔失とか苦しみというものを全然物作業をできてないっていうことを書いてるわけですね。
それはある意味正直なんだっていう考え方もあると思うんですけれども、いずれにしてもフロイトは父親という役割ですね、完全に。
精神分析がそもそも非常に父性的なものだったし、その上そのトップですからね。創始者であり、創始者ですよね。創始者としてトップですよね。
だから完全に精神分析の世界でも父性の象徴みたいな人だけど、でも最終的には彼は自分の後継者というものを痛むこともできずに苦しんだっていう。
それはつまり葬り去っちゃうみたいな感じなんですよね。葬り去っちゃう。自分の心の中でサラッと片付けてしまうと十分痛むみたいな話。十分物作業をワクスルするって言い方しますけど、徹底操作ってなぜか訳されて
たんですけど、日本語では徹底操作ね。
徹底的に痛むっていうことをできなかったみたいな感じなわけです。まあこれでもできないですよね。結局ね、今回の教会の騒動でも思ったんですけど、そもそもやっぱり痛むというのは難しい。
その悲しみを素直に受け入れるということになってくると、やっぱり自分が無防備になった感じが我々はどうしてもしてしまうので、
ついついどっちかというとですね、いなくなって生成したみたいな世界を作り出しだしなんですよね。ナラティブをって言ったらいいでしょうか。
いなくなったけれどもそれはしょうがないんだみたいにサラッと流したくなるわけですよ。そうしないとこの情緒を完全に受け入れてしまうとやっぱりすごく自分が情けなくなったり、
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みじめになったりするわけですよね。このみじめさっていうのをさらに乗り越えていくっていうか、突き抜けていくみたいな話なんですけど、
みじめっていうのは欲薄なんですけど、ここで終わるわけにはいかないんですよね。何かがないってことは必ずしも人をみじめにしないはずなんですよ。
実際はなかなかそうはいかず、あるべきものがないと実にみじめだって感じがしちゃうんだけど、やっぱりそれはどこかに依然として、それこそ死者のさまよいがあるわけですよ。
ないものは、何かがただないっていうことが存在しているものにとってみじめになる理由にはならないはずなんですよね。
合理的に考えるのであれば。実際にはそうはいかないので、まずはなぜ亡くなったって話になる。
結局という言い方はよくないと思うんですけど、これをやるとその人は不正的になる。
女性であろうと子供であろうと、これをやるということは人を不正的にする。つまり人間として生きるということは欠損を抱えることになる。
だから、不正的だということは十分だと。ここに全てのものがある。これだけで十分やっていける。こういう安心感を我々は一方ではすごく求めていますが、
我々は次から次へといろんなものを失っていくことをよく知っているので、最終的には自分の生命まで失うことまで知っているので、ここを納得して生きていくより他はどうしようもない。
失うことが不安になっていくわけですよ。それが奪われる場合だったらやっぱりそれはPS的な不安ということですよね。だから迫害不安ってことになる。奪われる不安。
で、無くなってしまったら無しでやっていけるんだろうか。私は自分がお金無しではやっていける気がしないとか、奥さん無しではやっていける気がしないとか、無しでやっていけないということは自分は不十分な存在で
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あるということだから、これ欲打つ不安ですよね。
この欲打つ不安の中で、確かにない感じはするんだが、やってはいけるのかもしれないと考え直すことができるっていうのがやっぱり不正的ってことなんだと思うんですよ。それは応一であるとか、私は十分であるっていう
そういう発想なんではないんですけれども、私には欠けているって感じがする。
なんだけど、欠けていてもどうにかこうにかやっていけるっていう感じ。どうにかこうにかのどうにかこうにかをどうするのかっていうのはもうその時その時。だからすごくある意味不正ってのは僕は臨機応変って感じも
するんですよね。
欠けていれば常にこのようにして埋めましょうっていう発想は、それがだからハックなわけですよ。なんだけどこれはですね、有効に作用することは当然あると思うんですけど、ちっともこれではうまくいかないっていうケ
ースも多々あると思うんですね。
まあまあ、気がつくと37分も喋ってたんだということに気づきまして、夜も遅いんで今日はこのぐらいにしたいと思うんですけど、いつもは母子の話が集中的に出がちなのがこの精神分析的な打弁なわけですが、今日は
この不正的な打弁の方をちょっとしてみたというわけです。
出先ですしね、そして夜ですしね、おはようございますというよりはおやすみなさいといった感じがします。