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2021-03-25 36:59

【346】本来の自分を生かす

思考してペルソナに仕事をさせていると虚しくなる
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。 昨日、久しぶりにでもないのかな?
収録したんですね。ぶっちゃけ相談のですね。 倉園圭三さんとやっているYouTube番組の方。
まあ100回超えているんで、まだ見ていないという方がもしいらっしゃったら、
適当に見つくろって見ていただければと思うんですが、
あの中で今回ですね、何度も同じ図が出てきたんですよ。
たぶんこれからもしグッドバイブスを セミナーなどでご覧いただくことがあったらですね、
よく目にする図になるかなと思うんですが、 要は
二重に円を描くというのかな。 内側が本来の自分って書いてあって、外側に、今はコーティングってよく説明する。
薄い、なんかこう、皮みたいなやつですね。 二重って言っても、
外側は薄いんですよ。この薄さはあくまでも 図式的なものなので、実際にこれがどのくらい分厚いかとかはあんまり
ないんですけど、まあただ、 これがやっぱりこの話の中ではね、分厚ければ分厚いほどあまり良くはないんですよ。
あのスイカの皮みたいな感じですね。 覆われていて、
この覆いが少しでも
取り払われていくと本来の自分の、 なんて言うんですかね、
輝きというのか、価値みたいなものが現れてくるという図式なんです。 で、えっとですね、
つい今しがた、あの、
なんて言えばいいんですかね、鳥見てたんですよ。 うちの庭にはウイスが時々来ます。この季節だと。
で、鳴かないんですけど、庭の中では。
野生の動物って偉い静かなんですよね。鳴かなかったりすると。 もうほとんど音も全く立てずに
そこらへんを歩いて回ってみたり、なんか餌をついばんでみたりしているんですよ。
で、実に静かだなと思って見ていて、こうふとですね、 あの
言ってみれば思考が完全に止まっている状態で、
一般的に多くの人は割と簡単に実現できるのかもわかんないんですけど、私、非常にこれが難しくて、
絶え間なく考え事をしている系なんですね。これはこれで、
珍しいのかもしれないんですけど、別に頭の良し悪しとかではないんですよ。 この番組では何度かお話しましたが、
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ジゾイド人間って
紹介しましたが、まさに私は、 敵用のタイプとしてもジゾイド的なんだけど、多分
気質が本来ジゾイド的で、困っちゃうんですね。自分の思考の中に。
そして、なんかですね、そこから、 そこにずっと引っ付いちゃうみたいなのが、こう
自然と発生するんですよ。だからもうずっと悪い意味考え事をしていて、
引きこもりの人みたいに、いや、一般的な引きこもりの人のどういう生活とかわかんないですけれども、
いろんなものを必ずしも必要としないんですね。 何もしなくてもいいんですよ。ずっと考えちゃうんですよ。
逆にこれをやめろと言われると大変困るタイプの人間で、 だからですね、割とスポーツが好きなんですよ。逆説的なんですけど、
ものすごく運動にのめり込むと、思考って止まるんですよ。 止めざるを得ないっていう感じになってくるんですね。
水泳とかでもそうなんですけど、 2キロくらい泳いでると頭空っぽになっていくんですね。
もう考えていられなくなるんですね、多分。体ずっと動かしていると何か、
そういう作用が起こるんだと思うんですよね。 で、
頭空っぽになるんですけども、まあその頃はかなり疲れてますけれどもね、
そういう状態が割と気持ちが良くて泳ぐんですよ。 あの
っていう状態が先頃ちょっとあってですね、この状態、 クラゾノさんが先日これは書き上げ塾という
本を書き上げる講座の中でお話しされてたんですけど、
これをこの頭が完全に止まった状態で何でもできると一番良いんだかなっていうのが
あるわけです。
この状態でセミナーとかできたら、さぞうまくいくだろうなと。何も頭の中にない状態。
とっても静かな時だと自分にも訪れるんだけど、 どちらかというとやっぱり都会とかでは私には難しくて、
喧騒の中ではですね、面白いことに私の脳内はえらい静かになって考え事がひた走り出すんですよね。
完全に何ていうのか、喧騒から自分の中に籠ってしまう。 これが良いっていう考え方もあるんですけど、
私はこれあんまり良いことだとは思わないんですよね。 結局この考えの中に引き籠っていくというのは、
少なくとも本来の自分というのとは結構違うんですよ。
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必ずしも弱いとか、しょうもないっていう感じとも違うんですけど、
何とも言えず、 孤立感があるんですよね。
孤立が良いみたいな感じになる。 この状態を維持するには環境的な保護というのが必要で、
こういうものを象徴的に指して倉園さんがカプセルってお話しされてるんですが、まさにカプセルみたいなもの。
私がUFOって時々言うやつですね。その中に入ってしまわないと安心してこれやってられないんですよ。
でこれの何が良くないのかって話はちょっと一旦置いといてですね。
これが止まると大変良いんです。 それはもう自分の中でははっきりあって、
この思考が止まった状態で 何でもできれば一番良い。
ただ私の場合これを止めること自体が実は意外に難しい。
セミナー中とかも。 だからですね、何がいけないかの一つこういうことがありますね。
セミナー中私がこの思考を 全開で喋ってると時々受けはいい時もあるんですけど、
実はあんまり聴衆の人に向かってないんですね。
あの引きこもってるんですよ。 人間ってずいぶん複雑なことがやれるもんなんだなと思うんですが、
こもっちゃってるんですよね。引いてしまってるんですよ自分の中に。
でも一種の仮面なんですけど、 セミナー向けのペルソナを作ってそいつにガッと喋らせるんですよね。
その時にやってる自分の思考とペルソナはマッチしてるんですよ。
だけど自分の本質は下がってる。 だからすごい不思議なんですけど、笑いとか撮るじゃないですか。
でセミナー会場ワッと盛り上がったりもするんですよね。
ところが僕はそれを結構遠くから眺めているような感触になっちゃうんですね。
引き下がってるから自分は。 ペルソナは笑ってたりみんなと一緒にいるんだけど、
私自身の本体はその場からだいぶ下がってるんですよ。
暗い感じ、自分がスポットライトの真ん中にいて外側は暗い、ああいう感じですね。
見えないんですよ、あんまりはっきりと。 だから緊張しないんですね、意外に。
自分の本体はもう大丈夫なところに下がっちゃってるんで、そしてワーッと喋ってるんですよ。
僕なんですがそれは。 少し距離があるんですね。
割と自分はこれが頻繁に、しかも半ば自動的に発生するんで、こうするためのあれこれ努力とかはいらないんですよ。
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しかもその時絶えもなく思考が動いてるんで、自分が話すべきことがわからなくなるとかいうことは起こらないんですね。
その時にはもう話すことはほぼ順序立てて決まってて、勢いに任せて喋ることが全然できてしまうんですよ。
で本体の自分はそこからやっぱり少し下がって、これがすごくジゾイド的なんです。分裂してますよね。
少なくとも自分二人いる感じがします。 これを良くないんですよ、やっぱり。良くないなと思うんです。
これでいいっていう話もあるんだけど、やっぱりこれはいいと僕はあんまり思えなくて。
なんかこうやっぱりお客さんに向かって喋っているとは言い難い気がする。本体は何もしてないんですね、そういう感じの時って。
顔赤くなったり、体熱っぽくなったりするんですよ。でもそれも含めて全てがペルソナなんですよ。
で、今試みているのはそれとすごく違うんで、だからどうしても自分としてはギクシャクしてしまうところもあるんですけど、何しろ
20年ぐらいはこれでやってきましたから、
考えないで、その場でやると。そうすると考えている自分というのが出てこないから本体剥き出しになっていくんですよね。
これが嫌だったわけですよ。だからジゾイドやってたんですけれども、本体が剥き出しになっていくというのは、でも
伝えるべきことがそこになければですね、本体剥き出しではもうどうにもならないんじゃないですか。
伝えるべきことは思考に用意させて、ペルソナに頑張らせるというやり方をやってた時は、
伝えるべきことがなくたってなんとかかんとかできちゃうんですよ。 その時に何かこう良さそうなことを
フル稼働させて喋っておけばいいっていうところがあって、それもやっぱあんまり良くないかなっていうのはあったんですよね。
結局無駄話してるとも言えるので。 この辺も難しいんですけれどもね、無駄話と言ったってテーマからそうずれてなければ
セミナー中は必ずしも無駄にならなかったりもするんで、あれなんですが、いずれにしてもその分裂というのを避けたいと。
で、どうしてなのかというとですね、今言ったような話もありますが、
今も自分が取り見ててつくづく思ったのが、無防備なわけですよね。
無防備っていうのの良さは、これはもうジゾイドの話の中では、精神分析ではしょっちゅう出てくるんですけど、要するに
ペルソナですから、最終的にはその人はよそよそしすぎるとか、冷たすぎるとか、いろんな言われようがあるんですけど、要するにですね
守ってるわけですよ。 ペルソナに守らせてるんで、人は自分に触れることができない位置に下がる。
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これをやると何が起こるかというと、自分も人に触れることのできない位置に下がってしまう。
それでいいじゃんっていう意見があると思います。それが現代の適応のやり方なんですよね。
人と関わるのの難しさを、この複雑な心理操作で
なんとか適応できるような形にまとめているというのかな。そんな感じなんですよ。私はこれについてはよく知ってるんですよ。
ずっとこれやってたんですよ。おそらく始めたのは幼稚園ぐらいなんですよ。それぐらい遡れるんですね。
本当に薄いね。
薄い何かがあるんです。
だから人は私に触れることはできないんですよ。仮面にしか絶対触れることができない。
幼稚園の時からそこまでできてたわけじゃないですよ。徐々に徐々に強化。この路線しか知らなかったし、この路線で行くつもりだったんで
大学の頃にはもう完全に、だからよそよそしいとも言われました。
で、このガラスじゃないんですけどね。そういうものがあるような感じ。
で、これのすごいところというのかな。
いつもいつもこうしてるわけではなく、人といる時、不意にこれを作り出すんですね。
私はいつもいつもやるって人もいるんですけど、いつもいつもやっていると、どちらかというと分裂では済まなくなってきて、
理人症みたいになってきて、このガラスが割れると自分は死ぬみたいな、そういう恐怖感とも関係してくるんで、あんまりそこまではやっぱりやりたくなかったんですね。
痛い人とも極力このあんまりいらない移動を、要するに僕はそれを調節もしていたっていうことです。
で、もう一つこれのやっぱり非常に良くないところはですね、これは
気づかなかったことなんですけど、 例えば
娘と奥さんがですね、小学校3年の頃かな、今から3、4年前に非常にいろんな事態が発生して、
実家に帰らなければいい時にならなくなったんですね。で、急いで帰っていったと。
で、その時は別に何もなんてことはなかったんですよ。寂しいとかそういうのではないんですけど、
不意に全く自分は仕事をしなくなっていったんですよ。
3日4日経った頃かな、割と長く空いてたんで、家がですね、何にもしなくなるんですね。
本当に何にもしなくなるんですよ。で、お腹空いたなと漠然と思っても食事のしたくもしないんですよ。
これかと思ったんですよね。あれが私の中で起きる対象喪失の一種なんでしょうね。
別に死んだわけじゃないんだから、厳密には対象喪失とは言い難いんだけれども、やっぱりこう
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今と違って全然グッドバイブス的ではなかったんで、人と距離とってたわけですよね。
そうすると私は現実感というのを失いやすくなってるわけですよ。
さっきのセミナーのお話がすでにそうですよね。セミナーでお話ししていると
いうのに自分は下がってるわけだから本体は。現実感が少し薄いわけですよ。
人はそこで笑っていたり、いろいろ反応してくれているのは分かってるんだけども、距離がある。
不誠実だとまでは言わないつもりなんですよね。嘘を伝えてるとかいうわけじゃない。
ただ距離を置きながら伝えている、結局。 だからすべての現実との距離が空いているわけなので
現実感が乏しいんですよ。 それでも仕事をしていたのは家族といると、要するに家族との距離というのは近いですから
物理的にも近いですから、なんだかんだ言ってそこの刺激を受けるので、現実のこの現実を維持するんだという
多分心の奥底の衝動が刺激されるんでしょう。
だからやるんですよ。 ところがそれがなくなってしまうと、私の場合は現実感そのものが薄いので現実に向かって何かを
やっていきたいという気持ちが湧きにくいんですね、非常に。 やるのが嫌だっていうんではないんですけれども
何もないのに何かをするっていうことにならないわけです。 ましてそんなめんどくさそうなこと、何にもないなんてことはないんですけど
私は下がってしまっている癖がついてたので何にもないような気がしてたんですよ。 してしまうんですね。人がいないと。
本当に考え事をして1日が終わる。 ずっとただ考えているだけで、特に何を見るとか読むとかもあんまりしない。
すっごくこうですね。 だから昔
東京来博研究会の北信也さんが私のことを羊飼いと書いてくださったのはそういう意味なんですよ。
羊は冒険しない生き物なんで、羊飼いやってるということはずっと考え事しながら羊に眺めているだけで済むわけですよ。
非常に孤独感の強い仕事なんですよね。 ああいう感じが本当に起こっちゃうわけです。
で、人と別に会おうともあんまりしない。というか全然会ってなかったですから。 まさにこう
花瓶みたいなもんですよね。 池花あって花瓶みたいな感じで時々水は飲むっていう風になっていくんですね。
ダメ人間みたいなのとは思わないんですよ。割と規則正しく起きて寝てお風呂に入って歯を磨くみたいな。
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ちょっとだけ食べてね。 そういう風だった時期があったんです。
これまずいなと思ったんですよ、その時。 別に歯医師いなくなったわけじゃないですからね。いなくなったんだけど実家にいるわけですし
仕事しないわけにいかないわけですよ。 この非現実感の中では生きていかれないなと思ったので
それからちょっといろいろ手を打ったんですね。 奥さんに電話してみたりとか
要するに現実接触度を上げて、この操作的なところもやっぱり非常に自動移動的なんですよね。
でもそういうふうにやっていくしかないと思ったので、外出てみたりですね、いろいろして戻していったんですけれども
実際には歯別したとかそういう話じゃないんで、戻そうと思って戻すのはそう難しいことではなかったんですが
こういうことって本当に起こるんだなと思ったんですよ。 で、でなんですよ。
あの さっきスイカの皮と言いましたけど、要するに本体を覆っているこの
コートですね。 クラゾンさん、話をすごくシンプルにするために、例えばトラウマみたいなものがあるとか
教えがあるって話をされるわけです。この皮を作るために。 教えとかがなんでいけないのか、過去の失敗の記憶とかがどういう
作用を及ぼしているのかというと、引き下がりたくなるというか、覆ってしまうので
当然現実との間に距離ができますよね。 物理的な距離ではないです。心理的な距離ができますよね。
よそよそしくなるわけです。お互いにね。 で、このよそよそしさのようなものが、つまりお互いがお互いとの
接触を避けているのは、 要は
トラブりたくないからですよ、言ってしまえば。セミナーだってそうなんですよ。 この仮面と
間でやっておけば基本はうまくいくし、うまく仮にいかなかったとしても本体は無事。 なぜなら本体は下がってるから。
こういう端数を全域に適用してしまうと、つまり ある意味では何が起きても大丈夫だし
ある意味では何事も起こらない。何事も起こらないという感じっていうのが 私の持つ印象なんですね。この種のスタイル。
で、とはいえですね。
めったにトラウマがあったりはしないんですよ。 この口頭って実に微妙なんですけれども、もちろんトラウマの全くない人なんていないから
もちろんそういうもので追うことも囲うこともありますよね。親御さんもいろいろ言います。 私も親として娘にいろいろ言ってきちゃうことはあるわけです。
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危ないことをしようとするとつい言っちゃうと。 このつい言っちゃうというのは言って当然だろうと思われるでしょうけれども、
果たして当然かどうかは微妙なんですよ。でもつい言いますよね、親は結局。 だから言っちゃいけないって話では全くないんですよ。
言うべきだということもあると思うんです。 問題はそこで追うことは追うってことなんですよ。
保護ですからこれ。過保護って言うじゃないですか。 じゃあ過保護はいけないのかいいのかって話も出てくると思うんですけど、何にしても
正しいことというのは多くの場合、失敗、危険、トラブルを避けるためのことですよね。
そして自分を守る。守るっていうことは対応できないってことですよ。
さっきのセミナーがいい事例だと思うんです。子供の話を持ち出しちゃうと子供は現実に対応できないので当然だという話になるんですけど、大人になっても僕らこれやってるわけですよ。
対応できないということが怖いわけです。 そして対応できないんじゃないかという自分がいるわけです。
【読売新聞】佐々木さん記録は何の役に立つんですか? だったかなぁ。
そういうようなタイトルの電子書籍をゴリュゴさんという方とタックさんという方と3人で作ったんですね。
あれはかなり売れたんですけれども、あの中で議論がありますよね。 ずっと前からセミナー準備をしてなくて大丈夫なのかと。
ずっと前からセミナー準備をしていていけないわけではないんですよ。 親御さんが子供の心配をしたり
面倒を見たりケアしたり危ない目に合わないようにするのがいけないわけじゃないように。
セミナーの準備を2ヶ月前から念入りにするっていいことですよ。 いいことだと言っていいと思うんですよ。しかし
これは対応能力に対する懸念から出てくるものである場合、 仮にその準備によって対応できたとしても自分の対応能力に対する懸念は多分払拭されないんですよ。
拭いされない。むしろ温存されてしまうんですね。 子供をずっと過保護にしておくのは
なるべく避けようと多くの人はするじゃないですか。私これもですね、そうは言っても今人生長いから
いろんな意味で保護をし続けるということが本当に悪いことなのかどうかは再検討の余地があると今は思うんですが、
とはいえずっと保護し続けるということはずっと対応能力に不安を抱えた状態が続くということになりますよね。
あの議論が微妙になりやすいのは架空の話をしているからなんです。 架空の危険、架空のセミナーの失敗とか何か頭が真っ白になって喋れなくなるとかね
そういうことを架空で考えるからああいう話になりやすいんですけれども 具体的にセミナーの時のことを考えてみればですね
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一つ一つは大きな違いがあるので 準備を念入りにするということを一般化することはできないんですよ
準備を念入りにするを一般化すると絶対にそこで言ってることはいつも同じになるんです。 不安だからそれに対応しておく
喋るべきことを事前に用意しておいてそれを喋るって話になっちゃうんですよね。
で、そのスタイルの良し悪しの議論にあの本の中でもなりがちだったんですけど そのスタイルの良し悪しは関係ない
大事なのはそこにある不安を温存したままにして 不安に対する懸念から自分を守るためにスライド
スライドというもので自分を守っているんだとすると 結局のところそれは自分が保護される対象になってしまうわけです
私がセミナー中に下がっていたように下がっているのか前に出ているのか まあ前に出るというのは私は大変良いことだと思うんで
そんな地沿いでやっている時すら仮面スペルソナに前に出させてたんですけど 物理的な意味でもね
前に出るっていうのは良いことで 怖いっていうことはですね
いろんな形で私たちは怖いものから私自身を守ろうとする 具合が悪くなるとか調子が悪くなるとか頭が真っ白になるとか
そういうのを極力避けたいので 守ると
この守りがですね 私を
いろんな意味で私の もう具体的な言葉を使うならばあんまり面白い言葉じゃないですけど
対応能力を下げると思うんですよ スライド読む能力があったところでそれは対応能力ではないんだと思うんですね
対応能力は温存されてしまっている これがもったいなくないかなって話を
今倉須野さんが割と盛んにされているんではないかと思うんです そしてこれは少なくとも自分の経験ではですね
痛くもったいないことなんですよ 私も長らくこれでやってきたから分かる気がするんですね
とっても そんなに恐れていたところで
もう年々ですね まあこの話をしてもダメなんですけどもやっぱり年々 年は取ってるわけじゃないですか
この年になってもなお自分を過保護に守っておく 意味って何なんだろうって思うんですよ
もう登壇して頭真っ白になった方が面白いぐらいなんじゃないかと思い始めてる それぐらい自分は自分を守ってきたんだと思うんですね
この季節になってくるとあるじゃないですか 花粉症とかあるじゃないですか
たまに起きて目が覚めてあんまり気分良くないなっていう日はありますよね 言いますよね私たちはいろんな言葉を
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5月病だとか 低気圧だとか
気温度差 季節の変わり目 先日もそういう話もしましたけどそして花粉症
最高気温と最低気温の温度差が大きいとか 昨日食べたものとか必ず考えませんか
私たちがその朝起きたりこの時間帯になっても調子出ないときに あれ昨日何したっけとか
昨日倉園さんと長く収録したなとか 考えてしまいますよね
この考えは この考えそのものがそもそもその
大いを作るんだと思うんですよコーティングしちゃうと思うんですね この考えはまた記録とかに残したりもする人もいるじゃないですか
今はスマホの時代ですから容易にできますよね 必ずしもライフハッカーとかライフローガーじゃなくてもできますよね
それは何のためにするのかといえば将来の何かに備えるためですよね 花粉症ならマスクをする備えを怠らないとか
低気圧であれば低気圧の日は低気圧の日どうしようというのかちょっと僕はわかんないんですけどね 温度差が高いならば服を
いろいろするとか一つ一つの行為が良くないことだとは思わないんですよ ただここでトラウマとか美学とか教えを持ち出すまでもないと思うんです
実はね わかりにくいから倉園さんはわかりやすい事例を出してくださっているんだけれども
私はこの大井ってものは日々猛烈な勢いで強化されていて しかも一つ一つは罪のないことに罪のない工夫罪のない手当て
ライフハック知識みたいなものを総動員して大井を日々強化しているとしか思えない これをやることによってですね
風邪をひくのを避けるのはいいことですよ ここが微妙なんですよこの小さな話をした時は
だけれども この大井をいっぱい用意するということは
やっぱり自分に対してか保護になっていく方向性としては で一番の問題は守ることそのものというよりは
守らなければ トラブルっていうその因果率を自分の脳内に作り出してしまうことだと思います
これをやると 春になれば花粉が飛び花粉が飛ぶから自分は外に出られなくなるし外に出れば
目が痒くなるっていう話にしてしまうことによって対応できない自分がそこに 残っていくというのかな発生していくというのか定着していく定着していく感じですね
自分が対応できない自分というのがそこに定着していく もうこの季節になり花粉が飛んだら対応はできない
ただ守る以外の手はないってことになっちゃう これが私がその
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私でいえばジズイドかという表現をとってますけどそういうことに 結末としてなるんじゃないかと
つまりそこにいるのはいろんな工夫によっていろんなことをやっているようですけれども ペルソナを作ってみたりスライドを作ってみたり
マスクをしてみたりいろんなことをしていますけど奥底に自分がいて その奥底の自分は何の力も発揮できないみたいな感じになっている
この人が仕事をしたり 人との
なんですか 上司との圧力とやり取りしてみたり
いろんなことをしなければならないすべてに対して 大変だなぁって思うのは当然なんじゃないんだろうか
私がそういうことになっちゃったのも当然なんじゃないんだろうかってそういうこと なんです
そもそも自分と人との間に距離を上げているから人のために何かをしようという気にも なかなかならないですよね
遠いんで なんか非現実的な感じがするんで
モチベーションも湧かない上に 守られないと
ひ弱な存在として大変なことはできないですよね だからスライド読むマンになっちゃうんじゃないですかね
っていう話なんですよ スライドを用意することが良くないというわけじゃないし
念入りに準備をすることが良いことだと思うんですけど スライド読むマンになってしまってはいけないと思うんですよ
というかスライド読むマンになってしまったらもったいないと思うんですよ そこで発揮できる自分というものは
道数ですよね でも道数だということは失敗するに決まってるわけではないんですよ
どこかでそうなってしまう そういう念入りな準備とか
スライドっていうものが絶対になければ困るものなんだ
須崎さんは慣れてるからいいかもしれないけど慣れていないとダメなんだっていう話にしてしまったら
それが唯一の選択肢になってしまうじゃないですか そしたらもう実はその登壇のために呼ばれたり招待されたりした人でなくても構わないことになるわけですよ
スライド送っとけば 代わりにもっと読むのが上手い人に読んでもらえばいいことに
つまりその人そこにいなくなっちゃうんですよね でも私がディゾイドという形をとって頑張ってた時には私そこにいなかったんですよ
それが一番良くないことかもしれないと思うんですね そこに私が行ってほしいという話があったからそもそもその話は発生したわけで
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私こういうことが現代ではつくづく多すぎると思うんですね
その人呼んでるのに その人はそこにいなくていいようにいいように持っていけば一番ベストなんだという代替が効くとか再現性があるとか
全部そういう話になっていってしまう ある意味では花粉症とかも全部そうなんですけれども
いなければいないほどいいんですよ かからないで済みますしね
低気圧の日は自分は存在しない花粉が飛んでいる日も自分は存在しない 存在しない方向に向かっていってしまうというのが
存在感というものを出すのが一番大事なタイミングでは一番もったいない話になってしまいますよね
この川が極端に言うとコートと中身があって 中身が本来の自分で外側をコートが覆っているというこの状態で何が一番いいかって
中に自分がいないことですよね だってそれは何の対応能力もなく本質的に何の強さもなく
日曜はでこう放っておいたらろくなことをしないという話を昨日 これは昨日だけじゃなく
檻に触れて倉園さんがされている話ですがよく言いますよねこれも 放っておいたらというのか目を離したら何をしで勝つかわからない
えーと 魂能のままに生きるとかって言うじゃないですか
これもだいたい非難の対象になるわけですよ そこら辺で
立ち本をして食べたいものを食べてやたらと太って 甘いものばっかり食べて虫歯になってみたいなそういう話ですよね
だからこいつには自由にさせない これはいったいそうするとこの中にいるものは何のためにいるんだろうって感じになってしまいますよね
基本的には自由にさせずになるべく外に触れないようにする それだったらもうコートが集まりなかったらいない方がいいってことになりかねないという
話になると思うんですよ でも生きてるってことはつまりこのコートに覆われている中身が
下質触れるということなので この状態が理想的であるはずはないと思うんですよ
これが理想的だということは生きてないことが理想的だということになりますから そんなはずはないんですよね
だからなんですよ あのゴリゴさんとの本の中での議論はどうしても荒の方向に向かっているように見えるんですけれども
要は保護せずにやろうっていう話です 準備してもスライドを作っても何でもいいんですけど
不安を動機づけにはそれをしない一切しないと そして本体がその場では必ず前面に出て
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本体が頭真っ白になろうと言い淀もうと スライドが間違ってようとそんなことは別にどってことではないということですよね
というふうに思っていれば 仕事をする上で
そんなに精神削られたり疲弊してヘイトヘイトになったり
耐えられないほどの目に合うっていうことはおそらく起きない もう少し面白くできるんではないのかなと
ということをですね今日こういうのの一番冒頭で言いましたけれども 結局考えながら喋っちゃってるんですが
考えずに喋れるということができるようになったらもう少しこう皆さんにですね 蔵園さんの言葉通りで言えばグッドワイブスが伝えられるんではないかと
つまり頭空っぽの私をお伝えできるんではないかっていうことですね
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