グッドバイブス ミッドナイト楽座 倉園佳三
こんばんは、ただいま5月17日水曜日の午前1時42分です。
今日はですね、この5月17日というのは、私ごとでね、恐縮なんですが、
このポッドキャストは私ごとしか喋ってないんで、いいかと思うんですけども、母親の目にちでしてね。
2019年の2月14日に、ミドリのね、グッドバイブスのご機嫌な仕事が出て、その年のね、5月17日、3ヶ月後ですね、約ね。
本はね、出た瞬間にその、もう当時入院してましたね、母親が。持って行って見せたんですけどね。
その直後に、ちょうどこの日がですね、5月17日というのが、大阪でね、大きなセミナーがありまして。
大阪に在住の方が、まさにこのグッドバイブスの本をね、気に入ってくださって、ぜひね、この大阪でセミナーをやってほしいという依頼を受けましてね。
えっと、なんとすごく大きな会場で、70人ぐらいね、集めていただいたんですよね。
多分、後にも先にも、このグッドバイブス関連のイベントで最大規模だったんじゃないかと。
確か、それもね、70人の方が、ほとんど初めて本も読んでないという方が、どうやって集めたんだっていうね、すごい集客の力なんですけども。
その本の即売会をやったらね、67冊売れたんですよね。
だから、ものすごく大規模でね、いいイベントだったんですけども。
そこに向かう途中の高速道路でね、父親から電話がありまして、今息を引き取ったと。
で、私はね、今からセミナーだから、明日行くよと。
まあ、中止にするという選択肢もね、なくはないんですが。
一応、うちの母親はですね、僕がバンドをやってるね、東京でライブをやってた頃に、時々見に来てくれてたんですよね。
どのぐらいかな、半年に1回とかそのぐらいな感じでね、見に来てくれてたんですよ。
で、それで来たら、ご飯かなんか、夜食べるんだけど。
その時にね、よくね、あんたは親の死に目には会えんねって言ってましたね。
まあ、親の死に目には会えないでしょう、みたいなことをね、よく言ってました。
まあ、要はお客さん相手のね、仕事を選んだんだなという、そういうことなんですね。
だからまあ、どんなにね、小さいライブハウスであっても、この本番をね、親が亡くなったからといって、中止にはしないよね、みたいなそんな感じの話をよくしてたんですよね。
だからまあ、それもあって、今日はしっかりと私のね、務めを果たして、そしてもう明日、ゆっくりとね、その顔を見に行こうかなっていう、そんな感じでしたね。
で、私の父親というのが明治生まれの人でしてね、僕が生まれた時、もう68歳だったんですよ。
3人目の奥さんかなんかなんですよね、うちの母親が。
母親が28だったんで、まさに加藤ちゃんの夫婦みたいな、そんな感じなんだけど。
その時のね、父親の名字が倉富だったんですよね。
だから今、ギフトという、私が書いてる新連載で出てくる倉富というのは、旧姓を使ってるんですね。
まあ、私じゃないんですけどもね。
あの辺の名前は、本当に出す時にはね、ちょっともう少し変えるかもしれないんだけど。
で、その後、母親が再婚しましてね、まさにこのステップファーザー、ママ父っていうんですかね。
このお父さんの名前が倉園、倉園だったんですよ。倉が一緒なんですよね、ややこしくてね。
だから、安部聖子さんとかとは、僕は大学の頃からの知り合いなんで、その辺りの人はみんな倉富と今でも呼びますね。
さすがに安部聖子さんは倉園さんと呼ぶんだけども、今でも僕の知り合いの多くは、私に会うとね、あ、倉富っていう、そんな感じの呼び方を今でもするんだけどもね。
まあ、要は、母親がですね、私の血縁の最後の人だったんですよ。
もう母親の兄弟、おじさんたちもね、みんな亡くなっていて、母親が一番最後だったんだけど。
全く血のつながった人が、私とその母親だけだったんでね。
父はもう高校の時に亡くなってましたから、実母ですね。
だからなんかね、このグッドバイブスを出した後にね、私のその血縁関係が一人もいなくなるっていうのは、すごく象徴的な出来事だったんですよね。
まあ、もちろん少しは寂しいなというのはあったんだけども、まさに私の緑の本で書いた一つ意識というね、これはあなたと私は一つであるというね、これは血縁を超えている概念なんでね。
ああ、なるほどと、僕はこの本をね、出してすぐに最後の血縁がいなくなりね、これからはその全く血のつながっていない人たちと残りの人生をね、過ごすことになるんだと。
でもこの人たちと一つなんだよねっていう、この感覚はね、とても大きかったっていう覚えがありますね。
なんか偶然ではないのかな、このタイミングはみたいなね。
まあ、あとその本を見せることができたっていうのが良かったですね。
これがまあ、その後の私の人生のね、今のところ大事なコンテンツになってますからね。
それまではその音楽の夢破れみたいな、この人何しようみたいな、よくわからん仕事ばっかりしよるね、みたいなそんな感じだったんだけどもね。
まあそんな日なんですね、今日はね。
だから改めてそうですね、またこの活動を頑張っていこうかなみたいな、そんな感じを今抱いてます。
ちょっと僕から質問してもいい?つって、いつもは知恵さんから話し始めるんだけど、知恵さんこれから何がしたいんですか?っていうね、その話を始めたんですよね。
そしたら面白いことにね、私あの倉園さんとやりたいことがありますって言い始めて、何何?って言ったら、ゲームがしたいって言うんですよね。
でまぁよくよく聞いたら、要はその僕がよく昔ね鎌倉でやってたようなこのワークスタイルのね、このgood vibesのなんていうのかな、
まさにこの今こことかね、平安な心とか、まあそういういろんなものを体験するようなワークに近いもの、
これをなんかちょっとゲーム感覚でやってみたいっていうね。
要はこの話というかのかな、この言葉で何かを伝えるよりも、やっぱり体験する方が、
えっとなんだろう、こうしっくりくるというかね、腑に落ちるっていう、そういうまあ知恵さんは考えを持っていてね、
それというのも知恵さんももう散々この100話以上ね、知恵と園を撮って、でその間僕は基本的にgood vibesの話しかしませんから、
どんな話題でもそこに持っていくつか持っていかざるを得なくなるんでね、でその中で知恵さんもね、
いろんな実践をしてくれていて、でやっぱりこの本当にうわっとなるとき、まさにこの恐れや不安がふっと吹き飛ぶときとかね、
うわこれは心傷だみたいなことに気がついて、パッと現実に目を向けるとね、
なんだと、なんにもひどいことは起こってないじゃん、みたいなことを体験するときに、やっぱりなんかこのしっくりとくるというかね、
頭で理解しようとしてもわからないんだけども、実際にこの体感というかな、まさにこの現実の現場でそれを感じたときに、
ああなるほどという風にね、ものすごくやっぱり腹落ちするという、だからそれをなんかこのゲーム感覚で何かできないでしょうか、みたいなね、
何をしていいか全くわからないんですけどっていうお話だったんですよね。
で昔、鎌倉でね、僕がよく毎月ワークショップをやってたんだけど、
その中で一個ね、これはうまくいったなというかね、印象に残っているのがあって、
折り紙で鶴を折るというワークがあるんですよ。
で、要はこれは最初に何も言わずにね、早折り折り紙大会とかいって、誰が一番早く鶴を折れるか競争しましょうつってね、
でストップウォッチを図りながら、折れたら手を挙げてくださいつって、
はい52秒とかね、はい1分10秒とかいって、こう競い合うんですね。
そしてその出来上がった鶴を机の上に置いといて、
でじゃあ次はですね、大切な人を一人思い浮かべて、その人にまさにギフトモードなんですけどもね、
その人にこの鶴を贈ると、
まあ入院している家族でもね、何でも友達でも何でもいいし、別に入院しなくてもね、
なんかそのこの鶴をプレゼントとしてあげるというそういう前提で、
もうできるだけ丁寧にきれいに折りましょうって言って、
どんだけ時間をかけてもいいですってもう1回折るんですね。
そうすると2匹の鶴が机の上にこう出来上がる。
で両方を比べてみてね、まずどちらが好きでしょうって質問をするんですね。
でこれもう何回かこのワークはいろんな場面でやってるんだけど、
その最初に折った早折りの方が好きだっていう人はまだ1人もいないですね。
まあ当然ですよ、これはもう急いで折るんで、
鶴というのはあの尻尾とね、なんていうんですか、あのー、
くちばしか、つま先じゃなくてくちばし。
くちばしのとこがどんだけこう鋭角にね、きちっと折れるかとかね、
それから羽の折り目がかぶっていないかとかっていう、
割とね、なかなかこの繊細なクリエーションなんですよ、実は。
だからこれをじっくり折るとやっぱりきれいにできるんですね。
もちろんその個人差はある。
その丁寧に折ったその作品よりも、
すごくうまい人が急いで折った鶴の方がきれいみたいな個人差はあるんだけど、
自分の中での比較で見ると、
これはもう明らかに前者の方が荒いし後者の方がきれいなんですね。
そうすると、やっぱり私は丁寧に折った方が好きだっていうことがわかる。
この自分が私の中にいて、もう一人そこから育つにつれてね、
そんなの頼りにならないつって、いろんなことをかぶせてくるというかね、
コーティングをしたりね、いろんなルールとか規則とか、いろんなものを課しながら、
頭で考えて僕を守ろうとするその偽りの自分というのがいる。
この二人の自分のどちらを選ぶかというこの選択のメソッドなんですよ。
だからアプローチも当然二つあり得るんですね。
というか、この二つのアプローチを同時に用いないとうまくいかないんですよ。
一つのアプローチは、この思考を使って何とかしようとしている、
この偽りの自分へのアプローチなんですね。
こちらは思考を使っていろんなことをやるので、言語が思考なんですよ。
つまり言葉なんですね。
言葉で考えるということがこちらの偽りの自分のインターフェースなので、
ここに届く言葉で説明をしなくてはいけないんですね。
だから当然ここにアプローチしようとするとすごく理屈っぽくなっていくんですよ。
だから僕のこのポッドキャストも自分で聞いてみると、
くどくど同じようなことを何度も繰り返して、
言葉を変えしなおかえ言っているなという感じが自分でもするんだけども、
これはもう仕方ないんですね。
やっぱりそのぐらいじっくりと話さないと、
この偽りの自分というのは何のことだかわからないよみたいな感じになるんですよ。
だからこのぼんやりしたね、いや僕らは愛だからみたいなことを、
この偽りの自分にストレートにぶつけたとしても、
は?みたいなそんなのんきなこと言ってて本当に気楽でいいねみたいな感じなんですよね。
だからこいつがやってくる、やっていることがどれだけおかしいかとかね、
矛盾しているかとか、どんな弊害があるのかとかっていうことを、
この偽りの自分側に理路整然と説明することによって、
このちょっと揺らぐわけですね。
この鉄壁の防御というか、ものすごい巧妙にこの防御を固めてね、
あらゆることを論破しようみたいな、
しかもこれは頭がいい人であればあるほど、
この使うものが志向ですからね。
ここのもう鉄壁さというのはすごくやっぱ固くなるわけですよね。
だからここに響くように話すというのが一つのアプローチなんですよ。
これは多くの場合、悩みを抱えているということは偽りの自分側にいますからね。
その偽りの自分側にこのような説得というか説明をしながら、
この画像を揺るがすんですよね。
そうするともう一個別の選択肢に行ってもいいかもしれないという揺らぎが出てくる。
ここをついていろんなメソッドをそこにカンとぶつけていくっていうね、
これが一つのアプローチ。
もう一個はといっても僕らの本来の自分というのは消えるわけではないのでね、
ここに直接訴えかけるっていうのがあるんですよ。
こちらは偽りの自分とは違って思考ではないんですね。
やっぱり思い閃き、まさにインスピレーションの世界の方の自分なので、
ここにはやっぱりこうある種詩的な響きであったりね、
詩のような響きであったり、もしくはもう本当に理屈抜きに感動する場面であったりね、
映像とか一枚の絵画とか音楽みたいなものも響いたりするわけね。
そしてこちらの自分に一番響くのはやっぱり体験なんですよ。
つまりこのもともと僕らが持っていた価値マックスな自分、
そして幸せである自分というのがブワンと表出してくるっていうかね、
表に出てくる、そんな体験をすればするほどこの偽りの自分だけではなくてね、
この本来の自分がいるじゃんっていうふうなことを自分で気づくことができるわけですね。
こちらは本当にまさにその理屈を何十分何時間喋ってもここには届かなくてね、あまりね。
もっとストレートな体験の方がここにはバンと響いていくわけですね。
これもどちらが響くか、どちらを最初に取り入れる方がいいかも全く人によって違うわけ。
これは悩みの深さとかね、どんな苦しい状況にいるかとかとはあんまり関係がないんですね。
それよりも例えばその本来の自分をどのぐらいまでロックしてるかっていうね、
ガッチガチにその偽りの自分がもうコンクリートで固めてね、
全く顔が出せなくなっているようなそんな感じになっているのか。
それともそのようにしようとしててね、結構その偽りの自分のやり口がぬるかったりして、
本来の自分がスルッと抜け出てくるような、そんななんていうかな、ぬるいコーティングをしている場合もある。
少しその目をつぶって頭の中のおしゃべりを止めてね。
まさにその図書館のような静けさをこの自分に作ってあげるとか。
あとはまあとにかくよく寝るとかね。
睡眠時間を取るとか。
あとは罪悪感を手放す。
自分を責めないみたいなね。
このあたりの今の起こっているその問題に一番近そうなところにアプローチするのがいいんですけどもね。
まあでもこれもねさっき言ったようにここを吹っ飛ばしてね。
いきなりこのカチマックス一つ意識みたいな方がバーンと響いて。
その方が問題解決につながりましたっていうケースも少なくないのでね。
一概にはこの法則というかそういうふうにはできないんだけども。
まあ要は両方必要なんですよね。
そして僕はやっぱりこの知恵さんの話を聞いた時に
なんというかやっぱりこの前者の偽りの自分へのアプローチに
最近ずいぶんと偏っていたかもしれないなっていうそんな感覚がしたんですね。
だから私の中にもこの体験というキーワードが出てき始めていた。
まあでもこの偽りの自分は強力なのでね。
そして私の中にいる偽りの自分も相当強力なので
僕は日々これに対してね。
この理路整然とそうじゃないだろうみたいなことをやってるんで
それがやっぱりこう滲み出てしまうんですよね。
私の取り組みの中で今はそちらに寄ってるんでしょうねきっとね。
多分なんとなくだけどもそこが少しね
こう自分の中で一つトンネルを抜けて
今ちょっと爽やかな感じになってるのかもしれない。
そうするとやっぱりこの体験の方
この本来の自分にアプローチする方をやりたくなったりもするんですよね。
で早速ね私が書いてる毎日書いてるワークアウト今日のグッドバイブス
これももう最近随分と長文化してきてね
下手すると1500字ぐらい書いてしまうことがあるんだけども
これからコンセプトは朝起きて一番最初にこれを読んでいただいてね
一日じゃあこれをやってみようっていうそういうライトなものなので
やっぱ千字とか扇んですよ。
でもやっぱりこの偽りの自分にアプローチしようとすると
いろんなことを書かなきゃいけないなっていう気がするんですよね。
これもまあ心象なんですけども
これを早速ですねこの本来の自分側に改めましてね
3分の1か半分ぐらいまあ本当に5、600字ぐらいの文字数に収めて
頭でこう理解するというよりはね
どちらかというとこの直感インスピレーション
そして感じるまさに
Don't think, stare, listen and feelのね
フィールっていうか感じましょうという
このフィールに訴えるというか
そこにこう響くような文章に変えてみたんですね。
なるべく説明せずに
なんだろうねこの言葉のイメージだとかね
まさにその文脈の中からそういうことかっていうのを感じてもらえるような
そういう書き方に昨日から変えましてね
今日もそのような感じで書いて2作続けてねそれをやって
なんかちょっとそっちの方が今んとこ僕が気持ちいいかなという
まあ私も私の中でもこう揺れ動きますからね
今どっちよりのアプローチを今自分にしてるのかとかっていうのでね
そんでそこからこうババババッとこういろんなことがこう思いが流れていきましてね
今日一つまた面白いプログラムというかそういうのを考えついたんですよ
書いていきたいなという感じてもらうような流れにしたいなと思っているんでね
なんか全体的にそちらにちょっと向かっているような
今はそれがトレンドかなという感じですね
でまぁここまでそういう話を長々して
今日は本筋の話がないっていうのも変なので
私がその今日のgood vibesで書いたね
なんとなくその短いバージョンというか
感じるバージョンみたいな話をね
2つも書いているのでそれをちょっとお伝えしようかなと
短めにね
一つはね幸せになるために特別な努力は必要ないっていう話なんですね
これはとてもシンプルな話で
あと何を得られたら幸せになるかっていうのを考えてみるんですね
あと私は何を得られたら幸せになれるんだろうか
それからどんな条件が揃えば幸せになれるんだろうかっていうのを考えるんですね
それからどんな心を幸せと呼びどうすればそうなるのか
みたいなことを考えてもいいかもしれない
何を得られたらどんな条件どうすればって考えて
多分完璧な答えは見つからないんですよね
これが見つかるようであればそんな苦労はしない
でもこれかなと思ってもじゃあそれを得られたら本当に幸せかな
わかんないですよね
そこでもう一つ別の問い
じゃあ今までに幸せを感じたことがあるかっていう問いを立てるんですね
そうするといやないっていう方もいらっしゃるかもしれないけど
少なくとも私は全然覚えてないんですよ
どこでその幸せを感じたかっていうのはほとんど覚えてないんだけど
確実に経験してることは確かなんですね
もしそうでないとしたら
そもそも私がその幸せを知らない人間だとすれば
幸せを望むということはできないんですよね
何が幸せなのかわかんないものは望めない
そしてもし私が幸せを経験したことがないんだとしたら
今後もそれが幸せだっていうふうな自覚ももしかしたらできないかもしれない
だとしたら私はすでに幸せを感じたことがあるんですよね
じゃあさっき挙げた何を得られたらどんな条件が揃えばどうすればっていう
この資格とか条件って何なんだろうってことになりますよね
おそらくこれは必要ないんですよ
だから幸せになるために特別な努力は必要ないってことなんだよね
つまり幸せっていうのは得るとかなるものではなくて
これはやっぱり私はすでに私たちは幸せというものを持って生まれてきていて
いうならばそうである存在なんですね
幸せである存在であるというのと
なる、得るっていうのは全然違うんですね
で、ある存在は得る必要もなる必要もないということですね
じゃあ幸せとは何かっていうと
おそらく私が思うにすでにこの自分の中にあったものね
これが何にも邪魔されずに表に現れることなんですよ
だから要は幸せになるために何かを得たり何かを揃えたり
そういうことをそういう努力をする必要は本当はなくて
私の中にあるそのもともと持っていた幸せがそのまま出てくるようにすればいいということですね
こう考えるとやっぱり随分とプレッシャーがなくなりますよね
なんかこの外にある何かを得ることによってね
私がこの自分の中に幸せを積み上げていくっていうかな
だからまさにこの栄養を補給するように
幸せを補給していかなくちゃいけないっていうこういう発想だと
やっぱりこのここに条件とかね
揃えておかなきゃいけないものとかっていうのが山ほど出てくる
しかもそれが揃ったから得られたからといって本当に幸せになるかよくわからないね
でもそうじゃなくて
すでに僕の中に幸せであるものがね
しっかりと備わっていて
そのようなものを備わったものとして生まれてきて
それを邪魔せずにいさいすれば
そこが表にふわっと出てきていつでも幸せなんだっていう
随分とこの原理原則が変わってきますよね
要はそこそこ邪魔しなきゃいいんだと
邪魔するもんってなんだよ
それは不安になること
怒りそして罪悪感
いろんなことが出てくるでしょうね
そういうものが私がそもそも持っているこの幸せをね
随分と曇らせたり邪魔したりね
それから感じないようにしてきたんだなと
これをやめればいいんだよね
この幸せである自分をどのようにして表に出していくかっていう試みになるので
これは随分と楽というかね
これまでとは違った
以前にも手段とゴールの文脈がかけ離れてるのはおかしいってお話はしたんだけど
幸せになるために苦労をしなくちゃいけないっていう
この手段と目的がね
全然違う文脈をしてるっていうのは大体うまくいかないんですよね
だから手段も目的も実はなくてね
ファンに邪魔しなきゃいいんだなと
この私が幸せである状態を邪魔しなきゃいいんだなっていう
こちらの方が楽なんじゃないかなっていう
これが一つ目のお話
そしてこれに似ているのがね