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2025-05-22 44:16

生活に「投影・同一化」を活かす【1187】

知ってるだけでも違う。
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サマリー

このポッドキャストでは、投影と同一化という心理的メカニズムを考察し、タスクシュートとの関連性を探ります。特に、子供たちがキャラクターに同一化するプロセスや、投影が感情に与える影響について具体的な例を交えて説明しています。このエピソードでは、投影と同一化の心理的メカニズムを考察し、特に子供が好きなキャラクターを真似るプロセスや、それが周囲に与える影響を探ります。また、シンデレラの物語を通じて、投影同一化がもたらすネガティブな側面にも触れています。このエピソードでは、現実感覚や自己愛が人々の行動にどのように影響を与えるかを探求します。特に、東映ドイツ化と取り入れ同一化という概念が個人の心理にどのように絡みつくかを解説しています。このエピソードでは、自己愛や投影を通じて他者との関係性を見つめ直し、自分のアイデンティティーについて考察します。現場での自己愛や他者への期待が仕事や人間関係に与える影響についても言及し、自己理解の重要性が強調されています。

タスクシュートと投影同一化
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1187回をお送りします。
5月22日木曜日、7時44分です。多分、昨日より1分遅いだけ。
明後日からタスクシュート協会の認定トレーナー入選講座、第3期が始まって、明後日で終わりますが、同日となりますので、まだ残枠はございますので、よろしければチェックしてみてください。
昨日だったか、おとどいか、お伝えしたように、私としては、タスクシュートの中で、この2つ、特に反復というものを意識して、反復でもいいし、脅迫でもいいんですけど、そこを意識して、そこを避けるように使っていただく。
使用ですよ、ユーズですよ。ユーズできるようになりましょうという感じで考えていただくと、ユーズは全然このpodcastでも、ウィニコット英語ですからね。使用できるようになる。使用の話ももっともっと詰めていくべきだなと最近は思うんで、今日出せればいいんですけどね。
今日出せるかな。とりあえず、使用、難しいですね。話としては。
端的に言って、今日はこの話はすると思うんですけど、タスクシュートを何か、投影を満たすための道具にしないと。あるいは、投影というものを私たちはされてしまうんですけれども、それにしてしまいますしね。
この投影同一化の話を今日しようと思っておりますけれども、投影同一化というものとタスクシュートがどうしても絡んでくるんですが、それをなるべく分けて考えられるようになる。こんなことをこれらの人に直接、こんな番組でもないのにダイレクトでお伝えすることはありえませんけれども、そういったことが僕の願っているところなんだなとは思っております。
この仕事をする上でもね。いずれにしても、明後日から、こういう話絶対全く出てきませんから、安心してくださいね。
Jマスザキさんはそういう、僕みたいに変質マニアみたいなところないですから、彼は極めて、それこそスクスクですからね、真っ当な方なので、安心して聞いていただければと思います。
この番組とは全く雰囲気が異質ですからね、彼と喋ってるときには。
これも一種の投影なんだと思うんですが、そういったわけで、明後日よろしくお願いしますとともに、投影という話をしていきたいと思うんですけど、投影の前にまず取り入れなんですよね。
取り入れ、摂取とも、摂取と取り入れは同じですよね、日本語にすると。
カメハメハとかやるじゃないですか、なんだっけあれ、悟空になっちゃうじゃないですか。女の子もなっちゃうんですよね、漫画読んでると、ドラゴンボール読んでると。
これが取り入れ、同一化ですね。非常にわかりやすいですよね。子供はみんなやります、大人もやってるんです。
いつしか我々はですね、自分がなんかこう独特のユニークネスな、私らしさを備えた、アイデンティティを持った、一個人であるって考えたがるんですけど、
その一個人は何によってできてるんだっていうことを考えてみるとですね、もう僕らの世代で言えば、明日の女王だったり、羅王だったりしてるだけなんですよ、はっきり言って、僕が思うにですね。
だって僕自身どう考えてもそうですもん。とりあえず同一化ばっかりやっていて、ドラえもんになってみたい、ドラえもんにはなんないんでね、取り入れやすいものを取り入れて、
頭がいい人はね、昔で言うところの博士君とかになったり、あの、孔明とかになったりしてるだけなんですよ、僕が思うにね。
だから、あの、全然そこにユニークネス、ユニークネスがあるとすると、その組み合わせの仕方にユニークネスがあるだけであって、
一つ一つをバラしていくと、自分でもな僕は、出てこないんじゃないかとよく思うんですよね。
で、あの、まあ僕もね、ゴタブンに漏れずジャンプ世代だったので、ドラゴンボールじゃなければ北斗の剣なんですよ。
そしてなんか、みんな剣士郎になっちゃうんで、まあ人によっては羅王になるんだけど、どっちにしても僕はひどい目に遭うわけですよ。
なんか飛行ばっかり疲れていて、アホなんで、男子は本当に。
痛いんですよ、あれは。でもね、みんな剣士郎になってるということは、つまり、何の独自性もそこにはいらないということを同時に、僕は当時からもそう感じてたんです。小学校5、6年の時だけど、こいつら何の個性もないなっていう、全員剣士郎だよね。
あの、よくて諸葛孝明だよね。まあでも諸葛孝明も相当独自性ないですけど、本当にあれのどこに個性があるというのか、まああるんですけどね。ここが面白いところなんですよね。
だって背の高い剣士郎もいれば、ほとんどちびっ子な剣士郎もいたり、結構頭がいいわけじゃない諸葛孝明とかもいるから、まあそこに個性はあるわけですよ。
取り入れ同一化ですよね。取り入れて同一化している。 これが起きることは誰もオカルトだとは思いませんよね。
取り入れ同一化が起こることに。カウムとかになりたがる人いなかったよね。なんかチョウウンとかにみんななりたがる。
で、まあ取り入れ同一化なんですよ。 取り入れて同一化する。ここで切りましょうね。取り入れ同一化です。取り入れて同一化する。
投影の実例と影響
力石刀とかになっちゃうわけですね。 これの反対が投影同一化です。こっちは実にわかりにくいんで、つい僕らこれオカルトだと思いたがるんだけど、
取り入れ同一化がオカルトでないなら、投影同一化は絶対オカルトではない。 まず投影ですね。同一化の前。もうちょっと歳が進むと、人は小説を読んだりした時、
まあ読まないやつはいるけど、漫画読んだって同じですよ。 必ずそこに投影しています。例えば自分のび太くんになってますよ。
のび太くんがジャイアンに殴られそうになると、自分も辛くなってくるってことが起きます。 これが投影です。
つまり投影というのは同一取り入れの全く反対なんだけれども、現実世界で自分がケンシロウになっちゃうのは取り入れですけど、
ケンシロウを見ていて自分がケンシロウのように漫画の中で動き回っているのが投影です。 これ全然オカルトじゃないですよね。絶対みんなやってますよね。
うちの大学のロレンスゼミの先生がですね、投影以外の小説の読み方を学べってすごい言ってたんですよ。
小説を読んで投影できるようになるのはすごいことだけど、というのは一種独特の、独特ではなくても能力だ。
けれども投影者対読み方をできるように大学生はなりましょうね、というのがゼミの3、4年児の目標だったわけですよ。
みんなノルウェーの森とかを読んでですね、うちの先生は読んでくれなかったけど、別に僕は読んでほしいと全く思いませんでしたけどね。
ノルウェーの森とか読んで渡辺くんとかになっちゃうわけですよ。 あるいは渡辺くんの相手の誰だっけ、ヒロインになっちゃうわけですよ。
あの読み方をしていてはDHロレンサーはわからんと、だからその読み方をやめるようにしなさいっていうのがうちの先生の教えで、ほぼ唯一の教えだった気がするんですけど、
まぁだいたい誰もそんなもん知ったこっちゃないですよ。それだったら小説なんか読めませんってことしてありますからね。
まぁ僕だってね、当時ドステフスキーを読んじゃいたけど、結局のところ言わんから満足になってただけなんで、もう全然変わらんわけですよ。
先生の言うことはよくわかるんだけど、その読み方は大学生にはつまんないですよね。
まだまだ成長発達段階でやってることなんで、だからといってですね、やっぱりこうサンザンラバーズのポールになってもちっとも面白くないわけですよ。
息子たち恋人たちね。全然ピンとこない。今思うとあれはなぜピンとこなかったのだろうと思うぐらい、あれはめちゃくちゃピンとくるべき話ではあるけど、
うちの先生ってあれを大学時代に面白いと思ったんだからすごいなぁと思うんですけども、
まぁでも戦中の人ですからね、やっぱり我々とは感情の動きの、そのなんていうのかな、感情の動きにそれほどの違いは感じなかったんですけど、
やっぱりでもその深刻さに違いがありますよね。ナヤに爆弾落ちた言ってましたからね。
まぁ彼は金持ちだったんで、戦中なのにナヤがあるんですけどね。
だから自分は恵まれていたからナヤがあったんだと思うけれども、あの、あとあれだって言ってましたね、こう、B-29じゃないと思うんですけど、爆撃機がもう見上げると見えるわけですよね。すごいでっかい飛行機が。
で、なんであんなに近くを飛んでるのにやっつけないんだって思ったっていう。多分7歳とかだと思うんですけど、いやその疑問もっとまだよなと。
なんか低と上空とかでそんな低空飛行してるのにもう撃ち落とせなくなってるってどうよっていう感じですけれども、
まあそういう、多分彼が住んでたのはどこなのかな、小岩とかなのかな、わかんないですけどね。
まあでも無事で何よりでしたね。あの人から習ったことはいっぱいあったんで。話が盛大にそれてるんで戻しますが、東映どういつかというのは起きます。
まず東映は絶対やります、我々。長説読んでる人はみんな東映やったことあります。だって桃太郎になるじゃないですか。
で鬼ヶ島に鬼退治に行った気持ちに、それなんないんだったら多分子供は東映とか読まないと思うんですよ。
みんなシンデレラとか男女問わずですね、性別関係なくなるわけですよ。かぐや姫はちょっとあれはね、僕には到底東映できる対象ではなかった。
なんか意味がさっぱりわからなかった。今思うと実にいい話なんですけど、当時は意味がさっぱりわからなかったです。この女の子は何がやりたいんだって感じでしたね。
あのその何がやりたいんだは非常に重要なんですけど、今日はその話はしません。
で、東映します。そして東映するんですけど、これは現実でもやってます。だから我々は諸葛孔明とかケンシロウとかになるばっかりじゃなくて、尊敬する先生とかになろうとしますね。
てか、なっちゃいますね。なんか気がつくとあいつ、あの先生の喋り方そっくりだよねって。牛野デミリもいたもん。
牛野先生人気あったから、特に女の子に人気あったから、僕は絶対なるわいとすげー努力したんですよね。先生そっくりのことを気がつくとしだすんですよ。
先生好きになってくると。完全に東映取り入れ同一化なんですよ。もうなんかこれは大学生だったらバレバレだからめっちゃ恥ずかしいじゃんとか思って、
僕はもういかにも先生が使いそうな言葉は避けるみたいな。もうすでにそれはどんだけ意識してるって兆候なんですけれども、まあまあそういうことがありますね。
だからやるじゃないですか。意図的にやる人もいますよね。プロ野球の選手で誰それ選手とそっくりのことをするみたいな。
その選手の塾みたいなのがキャンプで今流行ってたりしますもんね。大谷翔平塾、それはないんだけど、やってなるべく同じようにいろんなことをするわけですよ。
一郎とムネリンの関係は有名でして、これが取り入れ同一化で当然人間にも対応、適応できるというか、適応してます。
やっぱり私は自分がなんだかんだ言って父親そっくりだなと思うし、なんだかんだ言って母親そっくりだなと思うし、父親と母親成分を取り除いてあったら佐々木翔なのでかなり減ってしまいますね。
投影同一化のメカニズム
なくはないけど、一部諸葛孔明塾になってるから、ろくなもんじゃないですよね。
バラしてみると、なんかもう本当にアホかっていうような、フィギュアの塊みたいなもんでしかないですよ。これが取り入れ同一化なんですよね。
で、この逆はどういうことかというと、相手を自分が投影したもののようにして、だから私が相手にドラえもんを投影すると、
その子はだんだんドラえもん化していくはずなんですよ。子供はノリがいいから、結構これやってくれるんですよ。僕がすごい大好きなドラえもん大好きだった時代があったね。
ドラえもん大好きだっていうことをよく知ってると、ドラえもんの声を真似てね、気の利いた子はそういうことをしてくれる。大体人気者だよね。
これは投影同一化を勝手で出てくれてるわけですよね。意識的に投影同一化してくれてるわけです。
これにオカルト性ないじゃないですか。で、私は一応物書きとかだから、つまりね、物書き善とさせるために私のことが好きならば、物書き善とさせるために、いかにも物書きっぽいことをさせるわけですよ、私。
それって私に物書きを投影して、一応物書きなんだけど、投影して、私がそれに同一化していくわけですよね。これが投影同一化です。かなりポジティブな方。
妖精転移と言ってもいいんですけど、一番よくあるのが、サインを書いてもらうという儀式ですね。私がサインを書くじゃないですか、一発にもそれっぽく書こうとして、これは投影同一化が起きてるわけですよ。
だから私に投影した通りに私が振る舞うことによって、その場に劇的空間が、劇っていうのはすごい、うわーってことが起こるっていうのじゃなくて、単にエナクメンとか、演劇が起こる。
これが起きるわけですよ。悪いことではない。だけど大概、投影同一化は悪いことが起きがちなんですよ。良いことは、今良いことを出しましたけど、取り入れ同一化好きでやるから良いことばっかりなんです。
ケンシロンになることが良いことかどうかは知らんけど、でもやっぱケンシロンになりたいわけだから、ケンシロンになった気持ちになるっていうのは子供にとっては楽しいですよ。
スーパーマンだろうと、えーと、何だろうといいわけですよ。ここらへんまでは誰もが簡単に理解できる話なんですよ。
一番難しくなってくるのは、投影同一化で悪いものを投影されると悪いものになっていく。
だからあのシンデレラの話でね、ママハハってのはあれは投影同一化の産物なんです。シンデレラは自分の中の母親の不在という辛さ。
これが到底耐えられないので、お母さんがいないのはもう絶対耐えられないので、すごい辛いっていうこの辛さをですね、自分が持っていると、もうひたすら辛くなっちゃうので、
えーと、なんかそこらへんにいる人に投影する。そうするとそいつが悪人になる。お母さんがいないから辛いのではなくて、悪人が私をいじめるから辛い。
それはそれで辛いんだけど、こっちの方が納得もしやすければ耐えやすくもあったわけです。シンデレラ的に。だから投影同一化でママハハを作り出してしまうわけですね。
これがものすごく進行したら幻覚なんですよ。ものすごく進行したらですね、だから辛い目にめちゃくちゃ合ってる人が幻覚を乱すというのはそういうことなんですね。
とてもある意味大変な精神状態で、やっぱここはここに投薬というもの、まずはそこを落ち着けようねっていう意味で投薬をするというのは、まあその
人間関係と心理的影響
一つの人類のアプローチですよねとは思いますね。やっぱりさすがに放っておいていいということにならないし、このような状態になっちゃった人に下手に話しかけても直ちに投影されて悪人の一味とかになってしまうわけですよ。
だから難しいんですよ。主にラフォールって言葉は酷く安易に使われた時代もありましたけれども、なんかこうカウンセリングにおける信頼性の核みたいな話なんですけど、
やっぱりこの、投影された一味になりにくいっていうような意味もあるし、その言葉が届くっていうような意味もあると思うんですよ。
もっとも定義の話が出てくると、むしろその一味になることから始まるみたいな気もするんだけど、いずれにしても投影というものが起きているわけですよ。
だから、幻覚までは行かなくても、僕らはこれを結構やってるし、というかめちゃくちゃやってるんですよ。これは私がですね、どっちかというと、この3ヶ月チャレンジとか精神分析とかいう以前からすごく困惑した出来事だったんですよ。
有名に少しでもなってくると、インフルエンサーみたいになってくると、やっぱりめちゃくちゃ投影されるわけですよね。人によってはその人の中のすごい悪いものを投影されてくるんで、めちゃくちゃ困惑させられるわけですよ。
なんかこう、めちゃくちゃ敵意持ってきてるんだけど、その敵意の言ってることの意味はさっぱり理解できないっていうことが起こるわけですね。
そうすると、私は心理的な話にどうしても当時から、心理学はアメリカに行ってわざわざ取ってきたくらいですから、一応興味あるわけですよ。
で、この人の心理は一体どういうことになってるんだろうと。道端で会ってさ、いきなりバリ雑言とか投げつけられたらびっくりするじゃないですか。まず何よりも。腹が立つよりも。
それに限りなく近いんだけど、もっと独特の気持ちの悪さがありまして、初対面なのにもかかわらず、他の人に対してしかもそうでもないのに、めちゃくちゃ挑発的かつ失礼だよねっていうことをバリバリ言ってくるわけですよ。
で、当然僕はそれに対して少なくともポジティブに対応できなくなるじゃないですか。ネガティブに対応しちゃうじゃないですか。これが投影同一化なんですよ。
その人と出会って投影される以前には、私は少なくともネガティブなものを持ってたわけじゃないし、なんか機嫌が悪くてそこらへんの人に八つ当たりするぜみたいな勢いを持ってた。
だいたい、セミナーとかイベントとかパーティーとかにわざわざ行ってですね、少々お腹が痛いとかあってもね、むしろどっちかっていうと機嫌良さそうにしようとするじゃないですか。僕はありきたりの人間だから当然そうするわけですよ。
ところが、そこに来てなんかこう、すごく気分を害していくっていうことは、害させられているわけですよね。
ということは、その人にとってのママ母ですよ。ママ母が私に投影されているわけですよ。で、まあママ母って言っても、私はもちろんその人にとって問題なのは多分ママ母とかではなくて父親とかなんですよね。
男性だった場合と女性でも同じですけど、父親がまあ流行りの言葉で毒親みたいな感じで、とにかくこう許しがたい自己愛に満ちた父親だと。
そうすると、私みたいなものを書いてちょっと有名になっていい気になって自己愛に満ちているから、こういう父親に違いないという観点で投影された場合、すごく嫌なことを言ってくるに違いない。
だって自分の毒みたいな自己愛の父親って嫌なことを言ってきそうじゃないですか。だから佐々木もきっと嫌なことを言う。ここら辺がすごい独特なんですけど、投影されてるからすでに言ってくるに違いない。
同じようなことを違う人間かもしれないが、どうせ同じようなことを言われるに違いないということで、同じようなことを言う相手として私と対応するわけですね。
だからもう乗っけからすごいわけですよ。たまたまやっぱり緊張してるからね、そういうところに行くと。例えば夕方だけどおはようございますとか言うと、佐々木さんおはようございますってこういう時言うんですねとかってから始まるわけですよ。
最初の挨拶が始まる前からすでに何か緊張感が出てくるわけですよ。で、そうするとなんかこう、まだその時にも嫌悪にはなってないから、なんか笑ってそうですねみたいなこと言ってると、こういう時にヘラヘラ笑うんですねみたいに感じ返されるわけですよ。
こうやってじりっとですね、ここで行われてきたであろう、今ならそう思ってるんですよ。当時はそうは思わなかったけど、その人にとって家庭で行われてきたであろうネガティブなやり取りが次から次へと繰り出されていくうちに、多分ですけどその人にとってのお父さんなんかお母さんなんか知らないけれども、人と全く同じように振る舞い出す私がそこに形成されていくんですね。
で、この時の、これを僕は力動と言いたいんですけど、力と動きなんですよね。なんかこう、心の底、心の底なのか、糸心の付近をグッと掴まれて、こうグッとね、グッとねじられて、なんかこうすごい気持ちが悪くなっていく力動っていうのを、あの、体感していくことができます。できました。
これが1回とかだったら多分、こんなにいろいろ話せないと思うんですよ。これが少なくとも10回くらいはあったから、あの有名になった時期も僕もありましたから、だからこうグッとやられるわけですよ。
グーッとこう、なんかこう嫌な気分になって嫌なことを言え!みたいな、そういう感じで何を言えばいいのかはよくわかんないんですよね。やりとりがなんか、なんかよくわかんないやりとりなんだよね。非常にその、その人の文脈の中にしかないものがそこに無理やり投入されてきているんで、まあなんか嫌な人の話してるように聞かれるかもしれないけど、そうではないと僕は言いたいんですよね。
これは広い意味で言うところの脱価値化であって、その人はその分価値の低い世界に生きてるわけですよ。
そせん有名な人間とは自分の自己愛の父親そっくりの人間であるとか、そういうふうに自分にとって嫌な人しか世の中にはいないことになってるから、すごくこうその人にとって世界の価値というのは下げられているわけです。切り下げられてるわけですよ。
僕はこの東映同一化という概念は、メラニー・クラインの概念、Wayceって人が最初に言い出したって話もあるんですけど、メラニー・クラインが有名ですよね。
の概念は絶対に知っておく価値があると思うんですよね。僕らこれをお互いにやりあってしまってる。こんなレベルではやんないけど、絶対マイルドにはやってるんですよ、これをね。
だから人間関係結構厳しいんですよ。だってこれやられて嬉しい人いないから。でもお互いにやってるんですよ。僕だって絶対やってるんですよね。やっちゃう相手にはやっちゃうんですよ。もっとマイルドにやりますけど、やってることに違いはないわけですよ。
だからこのことを知っておかないと、人間関係の大変だとか人間関係ってめんどくさいよねってさらっと僕ら言いますけど、何がどうめんどくさいのかについての説明が聞いたことってほとんどないんですよね。
だから人間関係ってめんどくさいよねって誰かが僕に言うとすると、そこで人間関係がすでに起きてるわけだからなんかちょっと変じゃないですか。やっぱりそこには脱価値化が密かに進行していると見るべきだと思うんですよ。
脱価値化というのは、本来そこにあるものよりは一段とレベルの低いものをそこで見てるって意味じゃないですか。だからあれですよ、倉園慶三さんのGood Vibesっていうところの夢見る人に罪はないんですよ。夢を見ている。
現実と夢の境界
現実に悪夢を追っかぶせている。この感じをつかめれば少なくとも現実に悪夢を追っかぶせなくてもいいだろうというところ、それをやめることができるかということになりますとまたちょっと別ですが、ここにある現実が現実だと思ってるのがまず何よりもいけないわけですよ。
夢だと思うことによって、もう少しマシなものが目の前にあると考えることができれば、それだけでも問題は解決に向かうじゃないですか。問題とされているものはそこから消えていくんですよ。悪い夢だから問題があるわけであって、悪い夢っていうのは自分勝手に見てるものであって、現実にはそういう悪さはないとするならば、もう一段何もしなくても楽になれるはずなんですよね。
だから東映同一化ってのは僕はとても大事な概念だと思うんですよ。取り入れ同一化によって自分が何かになりたくもないタコのおばけみたいになってたら嫌じゃないですか。でもそれは夢なんだから。なんかタコのおばけの漫画ばっかり読んでたからそうなっちゃっただけなんだから。
やめればいいわけですよ。取り入れ同一化なんか。ケンシロウじゃないんだからケンシロウやめろって話なんですよ。どうやればケンシロウやめられるんですかっていう子がいるとすると、いやいや君ケンシロウじゃないでしょっていうだけでいいはずなんですよ。ケンシロウをやめるための7つのステップとかいらないと思うんですよ。
私が昨日だけ、昨日だか土曜日だか3ヶ月チャレンジのグループセッションとかでも繰り返し、ここで行き詰まるべき理由は何もないはずだって思うんだけど、そういうふうに言われてみると難しいことだからレシピがいるだろうかってついライフハック頭で考え出すんですけど、
いやだけれども、放映同一化も取り入れ同一化も結局のところは空想してるだけなんで。空想というものは、やらされるとか実態を持って絶対やらねばならんということではないはずだから、ステップなくてもやめられるときはやめられるはずだよなと。だって僕らはスーパーマンだと思わないですからねやっぱりね。
で、心のどこかでスーパーマンだとは思ってないからこそやっぱり2階の部屋から飛び降りるとかしないわけじゃないですか。あの首から風呂敷のマントやって2階の窓から飛んでも飛べないということがどっかでわかってるからこそ飛ばないわけですよね。ちっちゃなそれなりに幼い子でもですよ。
飛ばないわけですよね。飛ばないということは飛べないことを知ってるということであって、それはやっぱりこの現実感覚に訴えればですね、訴えるのが嫌だと思っているのは多分現実というものの価値を切り下げてるからですよね。で、この切り下げ方には2通りあると思うんですよ。
一つはさっき言ったような自己愛というものに対する怒りです。で、東映ドイツ化をするときには多分にこれは機能してると思うんです。やっぱりあの我々は自己愛者、自己愛性ってものを身体に体面したときに苦痛を感じるものなんですよ。
なぜなら自己愛の人っていうのは東映ドイツ化をすごくしてるからです。自己愛の人っていうのは2つあるんですけれども、どっちであっても最終的には同じで、他者の価値を他者の能力とか他者の意味とか他者の存在意義とか全てなんだけどをぐっと切り下げてほとんど見てないというか無視するんです。
何のためにそれをするかというと、それが目に入ってくると彼らにとっては煽望で自分が持ちこたえられなくなってしまうからなんですね。
この自己愛の人と東映ドイツ化をするっていうことはもう完全にセットで、肉合いの人にとってすごく大事なことは自己愛の人って言い方でもよくないですよね。
これは今までしゃべった部分ちょっと本当は一括痴漢をしたいんですけど、自己愛の時なんですよね。気をつけなきゃいけないと僕も思うんだけど、自己愛の人とかはいないんですよ。
僕らは自分自身というものに持ちこたえられないあるがままの自分であるということが残念すぎると考えたときに万能空想を導入して、まず現実の価値を全部下げて、現実というものは不要なものであるということにしておくんですね。
そして自分というものは何らかの理由によって、あるがままに感じられているとか現実だと思われているよりも数段レベルの高い、あるいは数段美しい、ないしは数段有能な、何でもいいですよ、数段価値がある人間である。
実はこれ孔明になるとかと同じですよ。だから自己愛というのはですね、多分強烈な取り入れ同一化と猛烈な排出的な投影同一化によってようやくなんとか維持できる何かなんですよね。
カウンセリングのジレンマ
パーソナリティ、パーソナリティというか性格というやっぱりそれはある種の一時しのぎの連続性みたいな感じなんですよね。
自分という人間を取り入れ同一化によって自分じゃない人間にして、だからもうこの段階で猛烈に夢見てるわけです。
そして自分の中のあるがままで残念で虚しい部分を全部外に向かってバーッと排出するんですよ。
そしてその排出したものを現実、要するに自分の悪い部分を全部外に出て、それが現実なんです。
だからいかに現実に対して自分はすごいかっていう、そういう世界を作り上げようと必死になっている状況。
それが多分自己愛的な心理状態っていうことなんだと思うんですよ。
だけど次回の人がみんなすごくエバってるってあるじゃないですか。
そこで厚皮薄皮って話が出てくるんだけど。
人によってはものすごくダメで排出されるべき自分こそ結局自分なんだという、その残念感の極致みたいなところで生きているケースが分裂しているわけですね。
素晴らしい自分もいるんだけど、そこに到達するまでにはある種のイニシエーションみたいなものがいるんですね。
そのイニシエーションの一つが有名なのが虚職なんですよ。
虚職症の女の子が、その時の担当している松木邦博さんに、とにかく酷いこといっぱいすると。
いろんなことをする。自傷ももちろんするし、吐くし、下剤をなんかありえない量飲むし、なんでもしてボロボロになってきて、松木邦博さんに見捨てろと迫ると。
なんで見捨てろと迫るのかというと、こういうやつは見捨てるといけないからなんですよ。
これでもうカウンセラーというものをジレンマに立たせるわけですよね。見捨てろと言ってるのは松木邦博さんの価値を切り下げたいわけですよ。
松木邦博さんは価値が高いとその子は思っちゃってるからカウンセリング受けてるわけですよね。
そんなに苦しい状態なのに、虚職やめなさいとかいうおじさんの言葉を聞きにわざわざ言ってるわけですよね。
何しに言ってんだという話なんですよ。虚職を完成させて、万能で素晴らしい自分に一段高く上がればいいだけなのに、
そして世の中にはうんことか動物をいっぱいまき知らして、その程度のものだと下げ住んでおけばいいはずなのに、
なぜかそれをやめなさいと言ってる先生のところに来るから、この先生をなんとかしなきゃいけなくなるわけですよね。
これがカウンセリングなんだと思うんですよ、そういう場合は。
で、東映ドイツ化をするために、松木さん、松国博という人の価値を下げるために、見捨てろと迫るわけですよ。
そして、いやもうダメだ、あんたのようなのは手に負えないと言って見捨てた場合には、このようにして松木さんの価値切り下げが完成して、
やっぱりこの世界はダメな世界なんだという決定的な証拠が手に入るという、ある種の勝利感が手に入るわけですよ。
で、もし松木さんが見捨てないということになった場合、こういうふうに事象を繰り返して、
接触障害を治すこともできない無能な医者なくせに、ただ見捨てずにここにいるという意味で、やっぱり価値を低くしておくことができる。
どっちでもその松木さんの価値を下げておく、これはその前のカウンセラーみんな同じ立場なんですけども、だから見捨てろというふうに迫られるわけです。
どっちを選ばれたとしても、その女の子の狙った達成は一応達成されるわけですね。
そういう殻振りなんです。この殻振りに多分直面したことのないカウンセラーの人っていないと思うんですけど、親も同じですけどね。
反抗期の子供がやることって基本これなんで、親の価値を切り下げる。
なぜならば親が自分より力が強いとか価値が高いということに耐えられなくなってきているからなんですよ。
親の方価値が仮に高いとするじゃないですか。
私の場合もそうだったけど、母親の価値が自分より高いということになったまま、3歳とか4歳の時はそれでもう全然何も問題なかったから、
お母さん大好き状態で恋愛と性愛と母性愛を全部母親に持っていってたから最高なんですよ、最高。
当時も最高だって態度はしませんよ、男の子だからね。
でもこの最高の女性と一緒に、例えば中央大学とか、分かんないですけど、独教大学とかでもいいですけど、大学の入試受けに行くじゃないですか。
そうすると、私は英語できたのねとか言ってるけども、何の役にも立たないですよね。
一緒に行きませんでしたけどね。何の役にも連れて行ったって立たないじゃないですか。
だから最低じゃないですか。
わかります?この意味。
私が投影しちゃってるからすでに最高の女性がそこにいるんだけど、実はその女の人はただなんか私に文句ばっかり言っているわけですよ。
だから僕は見捨てろとは迫りませんでしたけれども、価値切り下げをしたようです。
情緒の中では高めちゃってる価値があるから、どうしても言うことを聞かなきゃいけないんだけど、この人の言う通りにしてても大学浮かんないわけですよ。
だから価値を貶めたいんだけれども、っていうジレンマに入っていて。
この時に僕らは防衛同意使っているものをガーッと使うわけですよ。ガーッと。
これが一つのやり方。見捨てろっていうやり方でやる。
で、これを僕らは情緒的には、つまりですね、この接触障害になっている人みたいにあからさまにはやらないけど、情緒的にはやるんですよね。
無意識に近いレベルではほんとなかなかこれをやるんで、気をつけましょうということなんですよ。
仕事一緒にしている人に向かってこれをやるということはですね、結局自分が見捨てられるような行動を取り始めて、会社で苦境に立たされるとかやって、なんでこういうことになるんだろうってどっかで思ってるわけですよ。
だけれども、それは狙ってやってるんだっていうことを忘れてはいけないと思うんですよね。少なくともその可能性について検討するぐらいのことはあっていいと思うんですよ。
東映ドイツ間について知っておくということ。万能空想もセットですけどもちろんね。
知っておいて、ここを軸にものを考えてみるというのはとっても大事だと思うんですよ。働く私たちにとっては。
働いてる時っていうのは上司だろうと、さっきの母が大学の入試に役に立たなかったという問いで、上司だからって別に役に立つわけじゃないじゃないですか。
投影と自己愛の関係
現場での仕事で必ずしも上司が一緒に行くと営業成績が高くなるのかとか言い始めるときりないと思うんですけど、しかし上司だからなんか言ってくるわけじゃないですか。
こういう時に僕ら東映ドイツ間ってものをガーッと使ってる可能性は結構高いわけですよ。だって取り入れドイツ間は絶対やりたくなるじゃないですか。
スーパーカウンセラーって言葉はちょっと一時炎上しましたけど、自分もスーパーサラリーマンとかスーパー営業マンとか昔そういう言葉ありましたから、取り込むわけですよ。
別に島工作とかでもいいけど、取り入れしてドイツ化してこの場を何か収めてヒーローになったらいいなみたいなことぐらいは思うじゃないですか。思うだけだと思うけど。
逆だって当然やるわけですよ。世の中の連中はみんな分かってないと。特に現場のことを上司とかは分かってないと。東映してるわけですよ。脱価値化を目指してるわけですよ。
で、この脱価値化された上司にごちゃごちゃ言われるという自分、めっちゃ残念だっていうこういう自己愛が進行していくわけですよ。
気が付けば進行していくってことは十分あり得ると思うんですよね。だから上司に対しても本当にダメで口うるさくて現場のことが分かっていない上司ってものを投影する。
そうすると上司はだんだんそうなっていって、ダメで現場のことが分かってないんだけどひたすら口だけは出してくるってことを行うんですよ。
それって本当に上司が悪いんじゃなくて自分の投影なのっていう問いをここで立てないでくださいね。これはミニコットの言葉通りなんですよ。
自分が作り出したものでありながら現実からやってきたものでもある。僕らはそういうふうに生きているってことを言いたいわけであって、これは夢なのか現実なのか、永遠にその問いに対する答えは出てこないはずなんです。
夢でもあり現実でもあるんですよ。僕らはそういうふうに生きている生き物なんですよ。この投影をしないで見ている現実とか多分僕らは見ることはほとんどないはず。
取り入れせずに生きていく私のアイデンティティーとか存在しないはずなんですよ。どっかに諸葛孝明だと思って生きている佐々木正吾はいるんですよ。
全部それを取り除きましょうと。佐々木正吾なんだから、父親を取り除き、母親を取り除き、孔明も取り除き、ラオウも取り除きってやったら、空っぽになっちゃうんですよ。何にも残らない可能性が高いんですよね。
もう残るかもしれないですよ。1歳だった頃のよくわからん自分みたいなのが残るかもしれないけど、そんなんでは仕事はできないじゃないですか。
我々は取り入れ同一化をし、投影同一化をし、夢を現実とミックスさせて、自分のアイデンティティーっていう夢を作って、この夢空間で仕事とかもして生きているんですよきっと。
だもんだから、これは上司が悪いのか、それとも自分の投影なのかって問いは、その問い自体がすでに何か神の視点なんですよ。
この世の客観ってものが、私が見ている視覚の別にある、ないと私は思うんですよ。あったところでそれは、それはなんかブッダの世界とかだから、たぶんサラリーマンの役に立たない。
そういう世界に僕らは生きて活動はしていないはずなんです。
だから、ただこれをやっている、このカラクリについて一応知っているということと何も知らないということでは、結構扱いやすさが変わってくるんで、知っておくってことは意味がある。
知ればやめられるとかいう話ではない。知ったからって悟れるとかではないからね。そういうことではないんです。
この東映ドイツカーはもう一つありまして、このミステロってのと似てるんですけれども、私がダメなんですで東映ドイツカーを完成させるという。
自己愛に対するものなんです。自己愛が東映ドイツカーを始めちゃうんでね。相手が自己愛者だということになってくると僕ら気遅れしますよね。
ミステロって迫るっていうやり方もあるんですけれども、もう一つは私がダメだからっていう風にして、退いていくっていうやり方もあるんですよ。
これも東映ドイツカーでは非常によく頻繁に我々がやってしまう。これも職場でこれをやるということは、つまりその職場を辞めたくなるってことだよねっていうことを見落としちゃいけないと思うんですよ。
東映ドイツカーをすることで欲打つ的になっていくわけですよ、だんだん。だって相手は自己愛で価値が低いのに俺様万歳だと思ってるっていう、そういう価値の低い人間だから。
本人は価値が高いと思ってるかもしれないが、結局価値があるわけじゃない人間だから。ある種完成した接触障害の人みたいなものだから、そういう人を前にして、お前は価値が低いって言われる。
職場における自己理解
言うじゃないですか。完成した接触障害的な人って言いそうじゃないですか。自分接触、ついに食事を制限することに成功して美しくなった。
オカミのバカだっていう、あのブスだしデブだしバカだしみたいになってるわけで低く見られてるわけですよ。
これをまんま受け入れてしまうと自分は欲打つ的になるじゃないですか。
いや俺なんか最近甘いものばっかり食べてるし腹出てるし、あのこの女の子の言う通りなんか生理的嫌悪感とかも様子価値ないわみたいになるじゃないですか。
すいませんここから消えますみたいになるでしょう。こういう東映ドイツカーを僕らはするんですよ。
欲打つ的に東映ドイツカーする。これは万能空想の一種だと思うんです。というか万能空想ですよね。
つまりそういう相手なんだということに相手をしておいて、そして相手に何も期待することはない。
もちろん私には何も期待しないでほしい。そうしてここから消えます。事故抹消的って言うんですけれども、消えますという風に消えていってしまう。
そういう東映ドイツカーの仕方。これにも気を付けましょうと。
つまりこの東映ドイツカーというのもですね、もっとマイルドにずっとマイルドに出ます。会社とかで。
でも結局その会社からいなくなるとか、その部署からいなくなるということを目指しちゃうんですよ。気がつくとですね。
こいつ何言っても伝わんないわ。つまり相手の自己愛というものに対する諦めがあるわけです。
ここで価値切り下げをやってるわけですよ、相手の。相手の能力を一段低く見積もってますよね、明らかに。
分かんないですよ、本当にそうなのかもしれないですよ。この問いを立てても無駄だという話をさっきしたわけです。
けれども結局のところこれをやるということは、つまり相手に何も期待できない。
例えば自分が、こういう時僕いつもジージー佐藤さんの楽曲を思い出しちゃうんですけど、大きなミスをしました。
でもよく課長島工作とかで出てくるじゃないですか。この部下に責任はない、全ては私の責任だ、なんとか言って、ちょっと自己愛的だけど引っかぶってくれる。
そんなことはこういう人には期待できないよねって思うじゃないですか。思うってことは、もしかするとやってくれる人の価値を下げてるわけですよ。
だから自分が本当に相手の価値を相当高く見積もってるならば、迷惑をかけるというような言い方でされているやつで、これがユーズなのかと思うんですけど、相手を使用することができるわけですよ。
なんかですね、横で寝てるとするじゃないですか。音立ちちゃダメだって思うっていうのは、僕はある意味価値を切り下げてると思うんですよ。
割と私はうちの子に対してこれ気をつけてたんですよ。そーっとしないと。うるさいところでも我慢して頑張って寝ろというふうに僕は割として、そんなに僕はどうせうるさくはしない方だから。
うるさいところでも我慢して頑張ってあんたは寝られる、そういうスキルを持っている。来て来ていいはずだ。
これいうふうに僕らは関係とか対象を使用することができるはずなんですよ。だから部下が少々しくじったなら、上司なんだから上手いこと持ちこたえてやってよってことですよ。
そういう期待をして、これができないっていう人は僕はいっぱいいると思います。でもこれができないのは確かに遠慮深いのかもしれないんですけれども、明らかに価値を一段下げている可能性はあるわけです。
やれるだけの人に何かをさせずにおくっていうことが美徳になっているってことは、ひっくり返すとこういうことになると思うんですよね。これは僕は東映ドイツ課だと思うんですよ。
そーっとして、この子寝てるからそーっとしといてあげようというのは、静かなところでなければ寝られない子という現実を作り出していくわけですよ。
現実と空想の交錯
それは、その子にはそういう能力があるのか、それともこっちが気を合わせすぎなのかっていう問いをここで立てるべきではないと思うんですよ。そんなことはわからない。
やってみなければわからないし、能力を発揮するってことを僕は今言ったので、つまりこれも私が作り出したものであり、外側にあるものであるんですよ。
現実のものであると同時に私の創作物であるんですよ。ミニコットってのはそのことを言ってるんだと思うんですよ。
いつもいつも外と内からのオーバーランプによって現実はできてるんであって、いや外には何があるのかだけを取り出して考えるべきでしょうっていうその考え方を、一見リアリシティって唯物主義的な感じがするんだけど、実は空想の産物なんですよ。
内側のない外側なるというものはですね、空想の産物なんですよ。我々はいつも東映ドイツ課で現実を作り出す。
東映ドイツ課というのは、私がだって献死狼になったつもりでいる飛行をついてくるやつの手ってあるんですから本当に。もちろんそれは献死狼の手じゃないけれども、僕はちゃんといたいんだから。
それは100%幻想じゃないですよ。取り入れドイツ課っていうのは100%の幻想では決してないんです。同様に、同じように東映ドイツ課っていうのは幻想ではないんですよ。
ご視聴ありがとうございました。
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