1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 心理の学生さんからのレターに..
2025-05-26 44:36

心理の学生さんからのレターにお答えしました【1188】

フレームワークを墨守する。
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サマリー

心理学の学生からのレターに対して、ウィニコットやクラインについての考察が行われ、知識の増加に伴う混乱やフレームワークの重要性が語られています。続いて、タスク管理やライフハックのフレームワークに関する個人的な見解と経験も紹介されています。このエピソードでは、心理学におけるフレームワークの重要性やタスクシュートの利点について説明されています。また、現代の心理学の流れやさまざまな理論の影響についても触れられています。心理学におけるPSポジションとDポジションについて、気づきや人間関係の難しさが考察されています。心の中のトゲトゲとした感情の排出についての洞察が共有されています。モヤモヤを抱えた心理の学生からの相談に対して、凡庸感や心をスッキリさせることの難しさについても議論されています。

00:06
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1188回をお送りします。
5月26日、月曜日、7時50分です。
今週、先週か、金曜、土曜、日曜と、金曜は前夜祭というね、昼からカラオケだったんですけど、しかも久しぶりに、何年ぶり?20年ぶりぐらいに歌を歌った気がするんですけれども、
もしかしたら15年ぶりとかかもしれませんが、30年ぶりかもしれない気もするんですけどね、一曲歌えました。
これについてはそれでよしとして、興味やたらある方もいらっしゃるかもしれませんが、よしとして、
その後、土曜日、日曜日と、認定トレーナーさんの養成講座を第3期ですね、やってまいりました。
やってきたと言っても、私がやったことは、オンライン対応と、その他懇親会などで、適当に打弁を撒き散らしながら酒を飲むという程度なんですが、
これでですね、Jマスザキさんがですね、精力的にほとんど2日間まるまる彼の講義を聞くというのが、今回の私の仕事になっていたわけですが、それを聞いているうちに、
いろいろとまた思うところもありまして、この番組的に言うとネタを大量に仕入れてきたぞと、どういうネタなのかは喋ってみないとわかんないのが相変わらずなんですけど、
そういったことがありまして、でも今日はですね、後ほどお話ししますけど、ネタを頂きまして、すごい珍しいじゃないですか、1200回近くやってきて、ネタってまだ2通しか頂いてないですからね。
もうちょっと頂いてるんで、メールとかを合わせると。でも、スタンドFMでのネタというのは2回のみでして、だからこれはもう取り上げないわけでいかんだろうと。
学生からのレター
その前にですね、ちょっと先週思ったことをつらつらと述べまして、その後レターに入りまして、レターはですね、すごいなんと驚いたことに心理学の学生さんからウィニコットとかウィングとかクラインの話をなんとかかんとかという、
すごい僕がそれを喋ってもしょうがないんじゃないかみたいな、喋りまくってるくせにそれもどうかと思うんですけど、レターを頂きましたので大変ありがたいことにですね、
これはもう何かお答えしないというわけにはいかないので、これをこの番組の後半でお答えしようと思っておりまして、まずはですね、
昨日からの要請講座を受けて、僕は受けたっていうのもおかしいんですけど、受けた一人としてですね、それとこの番組との兼ね合いなどを述べたいと思っております。
というわけで第3期の要請講座もつつがなく完了いたしまして、全体で8名は素晴らしかったです。なぜ8名が素晴らしかったかというとですね、
募集は20名近くだったんですけれども、20名だったら結構やっぱりキャパ限界って感じ、キャパ限界を超えてるんじゃないかという感が、それじゃいけないんだけれども、
でもですね、似ているトレーナーさんもいっぱいサポートに来てくださっているのでなんとかはなったと思うんですけれどもね、
でもやっぱりちょうどいい人数ってあるよね、それはそれとしてっていうのもありまして、今回はすごくすごくちょうどよかったんではないかというふうに思いました。
その話はそれだけですが、私が思ったことはですね、知識というものはいくらでも増えていってしまうわけですよ。
もういきなりめちゃ本題に入っちゃったんですけどね、何が言いたいかというと、例えば今、英国対照関係論とか、クラインでも現代クライニアンとかいった方々が、
非常に面白いお話をいっぱい展開されていて、そういうものをですね、ネットとか本とかで読みかじり、聞きかじりしていくと、それはそれで大変刺激的で面白いんですよ。
なぜならフィットするからですよ。やっぱり現代の状況、例えば通俗的な、正式の心理学ではどのぐらい扱われているのかわかりませんが、
この正式と一言で言ったって広いんですよ、非常にね。それはもうそういう学科では扱ってるけど、うちでは扱わないね、みたいなものまで含めちゃうと、本当に広いわけですよ。
発達障害、ADD、ADHD、ASD、うんぬんかんぬんと、神経性発達障害とかいろいろな言葉が出てきますね。
さらにHSPっていうのだって、これも人によって学科によって様々で、事実上正式では扱わないって言ってるけれども、正式でいつか扱うようになる可能性だって十分あると思いますし、
HSSとかいろんな言葉が出てきます。で、いちいちそれにはフィットするわけですよ。えらいこの人に当てはまるな、みたいなものが出てくるから、それによってやっぱりですね、
知識というものが増えるというのは、ある種非常に魅力的なものがあるわけですよね。日本のような地震大国の人が体験する地震と、
やっぱりその、例えばそのもうちょっと違うところのね、世界の違うところで震度6でものすごいことになってしまうという地震と、またそこに戦災というもの、戦争というものが絡んでいたりすると、
全然意味合いが違ってくるじゃないですか。そういったところに心理の人が入っていけば、もちろん新しい発見が大量に発生すると思うんですよね。発見があったりすると思うんですよ。もちろんそれ対応しなければならないですからね。
だけれども、その時にですね、コンテイン、コンテナーといったような概念に、いろんなものが加わったり加わらなかったり、もともとそういう概念ではないところから出発したりして、
PTSDという言葉に対しても、今CPTSDと言ってみたり、いろいろなものがコンプレックスPTSDですね。複雑性トラウマと言ったりもします。累積型トラウマと言ったりもします。
私も読むわけですよ、一応ね。でも、私が読んだりした場合、何が起こるかというと、「ああ、こういうことって確かにあるよね。」と思いつつ、知識が増えてしまって、頭が混乱するわけですよね。
魅力のある知識が追加されると、魅力があるだけに頭が混乱するわけですよ。頭というものの中に入っているのって、やっぱり俗にフレームワークと言われているものが必要で、この知識を、これまでの知識との関係のどこに位置づけるかっていうのがどうしても出てきてしまう。
このフレームワークがあるとないとでは、やっぱり利便性が違ってくるんですよね。フレームワークを頭に入れてしまうと、物の見え方には制限がかかりますから、当然失うものも出てくるわけだけれども、やっぱり失うものは、特に現代の世の中で生きていくには、このフレームワークを仕入れることによるフレードオフは、感受するしかないなって思いますよね。ある程度。
例えばだって、我々はある種の方向性を持って生きているわけじゃないですか。ほとんど全ての人はですね、お金というものに関するフレームワークを持っているわけですよ。多かれ少なかれ。お金というものも、所持金を増やし、出ていくお金を少なくするという方向づけを、人は持って生きていると思うんですね。
持たない方、これを持つことによって失うものは間違いなくあるんだけど、これを持たずに生きていくのは現代社会ではほぼ不可能と言っていいじゃないですか。特に日本の社会で生きていくなら、やっぱ円を増やして円の出質を減らすという、ごく単純なフレームワークですけど、もうこれだけでも持ってしまったらですね、その人の人生を大きく動かすんですよね。失うものも当然ありますよね。
うちの母なんかも80になろうとしているわけで、そんなに円を増やして出質を減らすということに切々としなくてもいいんだけど、彼女のやっぱり生育歴の中で非常に貧乏で苦しんだっていう、それはもう10代、もしかすると10になる前の出来事なんだけど、彼女の人生において円を手放さないという意識はすごい強くなったわけですよね。
ここにマイルドとはいえ認知症が入ってくるといろんなことが起きてしまうんだけど、それは仕方がないですよ。彼女はそれで失ったものも少なくないんだけれども仕方がないんですよね。やっぱりフレームワークが身体化してしまってるんですよ。それこそそういうコンプレックスPDST的な身体化するトラウマみたいなね。
だけどこういう身体化するトラウマみたいな言葉を入れてしまうと、今度はですね、そこの位置付けって実はどうなってるのか。トラウマとコンテナの関係はどうなのかといったようなことで、我々は悩む。少なくとも私だったら悩みます。
タスク管理の実践
この話って、なんでこの話を今してるかというと、つまり土日に私はですね、タスク管理って言うけれども、やっぱりタスク管理というようなものは本当知識の世界なんですね。GTDは古典的ですけれども、そのままマニュアルな法則とか、私が勝手に広めたところもありますけどね。
あるいはポモ道路テクニックとか、それこそ看板方式とか、改善とかPD、なんだったっけ。PTSDって散々言ってたから。PDCAとかあるわけですよね。ダッシュ法とかいろいろあるわけです。
やっぱりこれらの知識が入ってますよ。入ってるんだけど、フレームワークを持つっていうことが大事なんだよなと。GTDがあれほど受けたのも、やっぱりフレームワークを与えたからなんですよ。このタスク管理の世界にですね。
ライフハックの世界には基本フレームワークってないんで、だけどフレームワーク時点みたいなものが世の中に出てくるじゃないですか。ここで一層混乱しますよね。フレームワーク自体が知識のプールの中の一種に乱されてくるわけですよ。
そうすると我々はまたしても一段と混乱するわけですよ。知識を持ってる人が頭の良い人に限りなくニアリーイコールの世界の中でですね、知識が人を混乱させているという、これもみんな知ってることなんだけれども、非常にやっぱりそれをやめることができるかというと、なかなかそうはいかないじゃないですか。
パイゼンがなぜ流行ったのかということですよね。たくさんの知識を仕入れたくなるわけは僕たちはいっぱい持っていて、たくさんの知識を仕入れるほどいいような気がするんですよ。いろんな意味でね。お金も儲かるかもしれないし。
だけども、その人自身はたくさんの知識を仕入れるということは、当然失うものはたくさんあるんだけれども、フレームワークのあるなしに関わらずあった方がマシですけれどもね、状況がね。だから私はですね、ここはやっぱり顔面に知識を減らすという顔面な印象になってしまうんですよね。それはそれで失うものがあるんですよ。
しゃあないよなと思っております。私はやっぱりタスク管理とかライフハックはもう、自身タスクシュートというフレームワークしか入れない。で、このタスクシュートじゃ人生の問題解決しないっていう方はいらっしゃるし、フレームワークによってまさにそう見えると思うんですけど、でもそれをおっしゃる方っていうのは大橋絵造さんの半分もタスクシュートについては知らないんですよね。
という立場で述べるものなんですよ。こういうものって。私はタスクシュートというフレームワークからのみタスク管理を見ると。この態度は顔面でしかも発展的でないかもしれないけど、でもこれを繰り返すことで確実にできるものがあるわけですね。
知識を広げてしまうと確実にできるものすらできなくなっていくので、そこを避けるだけでも得るものはあるわけですよ。失うものは当然あります。これをやることによって看板方式から得られるものは失うし、GDDから得られるものすらいくらも失うわけですよ。
というか、マニュアナの法則とすら相入れないところは失うわけですよね。何を失ったかは知っておけばいいわけですよ。両方を取ろうとするということは、実はすごいフレームワークに対する動揺を与えることになりまして、それをずっと続けていると、一歩間違うと知識を増やしたために何もできなくなっていくという奇妙なことが、これ奇妙なことではないんだけど、でも奇妙なことが起き得るわけですよね。
例えば、私はもうタスクシュートの原理主義みたいな、原理主義と言っても誰の原理だが、私の原理なような気もするんだけど、例えばプロジェクトという概念、私はほぼほぼ捨てているわけですね。レビューという概念だって、私はもう最小単位でしか使ってないわけですよ。こういう言葉を今しゃべっているのは、養成講座を受けてきたからですよ、2日間もね。
要するにタスク管理といったって、タスクシュートの上に僕が置いてあるのは、今あるセクションという時間帯ね、これから今が朝の8時だから、8時から12時までのやることの中の、8時から12時に区切ってあるわけ、基本的にはですね。
以降とか以前のことは知ったことじゃないわけですよ。8時から今ここに来てるとか言うんだけど、そういうことではなくていいんですよ、別に。そんなマインドフルネスとかみたいな禅とかの知識もいらんわけですよ、ここには。
ここに必要なのは、タスクシュートの知識の中でも特に削り取り切ったところだけであって、8時から12時に絶対これだけはやるだろうってこと。やるだろう、ほぼ確実。
なんかよっぽどのことがないと言ってやるだろう、これができるだけでも幸せなことなんですけど、例えば飯が食えるとね、8時から12時の間にこれとこれとこれとこれとこれとこれだけを置いて、その順番をざっくりに決めて、今やってることとの兼ね合いだけに着目すると、これだけをひたすら、それこそ松木さんにはおどといですが、武道者のごとくやるわけですよ、これだけを。
そうすると、少なくとも確実にタスクシュートに関わる限り得られるものはあるんですよ。確実にですね、絶対ここで得られるものがあるんですよ。これだけは手放さない。この態度が顔面なわけですね。他の人から見ると、なんで佐々木はそういうことになるんだって思うわけですよ。
タスクシュートの利点
なぜプロジェクトに手を出そうとしないのか。どうしてそういう気楽な生き方がしてられるんだ。なぜ改善しようとしないのか。でもですね、例えばプロジェクトというものを考え始めると、この線じゃない線ができるわけですよね。この8時から12時というライン、これは動いていくダイナミックなラインなんで、8時さっき3分だったけど今5分と動くじゃないですか。
ラインがあるわけですよ、ここには。ラインじゃないんだけどね。時間線みたいなものがあるわけですよ。この時間線を頭に入れるために、時間のない世界、その時間のない豊かな世界におけるかなりの部分を僕はトレードオフで失うわけなんですけれども、そこはもう感受してるわけですよ。
で、この時間線に沿って8時から12時というところだけを、ここにだけ意識というものを焦点付けるわけですね。そうするとその外にあるものを意識から大きく締め出すことができる、このまずメリットがあるわけですね。欲打つ不安をぐっと減らしてるわけですよ。将来のこととかを考えてないから。
で、もう一つは欲打つ不安にまつわる、まあ同じなんですけど時間線から来る過去への後悔ってものをぐっと減らせるわけですよ。これはもうある種の訓練で、これに顔面にここに努力を集中していればできるようになるんですよ。できないというのは、それを手放してないってことなんですよね。
もちろん失うものはありますよ。将来のことを考えないことによって失うものがあり、過去のことを考えないことによって失うものはあるんですよ。でも両方を取ろうとすると、今度はこの私が手に入れている8時から12時に集中、執着するある意味、タスクシュードにおける時間線というものを見失うやすくなるんです。見失わないかもしれないけど見失いやすくはなるんですよ、確実に。
そうするとそこからこぼれ落ちるものが出てくるんですね。代わりに得られるものもあります。こういうことが意識される、これを意識するためのフレームワークなんですね。フレームワークを持たないということはとても良いことなんですよ。ある意味私は、例えばお釈迦様とかブッダが同じ言葉。フレームワーク持ってるはずないと思うんですよ、ああいう考え方を持ってる人は。
でもあそこに至るためには一切は空だって一生懸命自分を方向づけなきゃならないじゃないですか。フレームワークが必要なんですよ、フレームワークを手放すためには。そういうことを考えておかないと、やっぱりこのフレームワーク大全が世に献殿され得る時代にあってはですね、頭混乱して引きますよね、どうしたってね。
だから逆算とかガントチャート、昨日ジェイマン・スザキが繰り返し言ってたんですよね。ガントチャートを使わないんだと、一切使わなくていいんだと。プロジェクトノートも、プロジェクトを管理するツールはいらないんだと。
彼は一生懸命それを言ってたというか、かなり一定の衝撃を当ててたと思うんですよね。でもガントチャートを使うということは、ガントチャートというタイムラインを手に入れてしまうんですよ。そうすると、今ここに私が持っているスクシュートのタイムラインとは別ラインを持つことになるじゃないですか。便利ですよね、頭の中に2つのラインを置けば。
しかし、頭の中に2つのラインを置くということは、現実には1つのラインしか生きられないわけですから、どっちかに関する意識づけが非常に気迫になりますよね。どこかでここをシフトして動いていくってことをやりますよね、私たちは。やらないわけにいかない。プロジェクトのことを考えるときと、今ここのことを考えるときと2つになりますよね。
これを許すということは、平気で3つ、4つ、5つと許していくことにもなるわけですよね。どのようなタイミングでどうチェンジしているかを、そんなに小器用に意識し直せるかというと、そんなことは僕は全然ないと思うわけですよ。
そして、我々はさらに過去について後悔するという意識も強く持ちますし、未来について心配するという意識も強く持ちます。こうやって自分が何のフレームワークを使って物を考えているのかが、わからなくなっていくはずなんですよ。
しかしですね、そもそもそうすることによって得られるメリットっていうのは確かにあるんで、一度これを手に入れてしまうと簡単に手放す気にはなれないわけです。
だから私はタスクシュートというものをやっていて、つくづくわかったのはですね、昨日Jさんが原理主義を戒めていて、あれは私のような人間に対する戒めなんですけど、そういうことばっかり言ってるとストイックでハードル高く見えるからやめましょうねと。
僕はここでだから喋る、限定的なところで喋ることにしようと。ベラベラどこかどこも賢いところで喋ってると彼に迷惑かかるから、こういうことはやめようなとは思ったんですけれどもね。
だけれども私はやっぱり24時間のタイムラインというものを、タイムラインは24時間じゃないんだけど、24時間タスクシュートにくっついてるわけですよね。くっついてるというか私に引き寄せてるわけですよ。
なぜならばこのタイムライン以外に私が目移りしないようにしてるわけですね。ノートとかいらんわけですよ、プロジェクトノートとか私にとってはね、タスクシュートの上に置いとけばいいわけで。
それはそうすると使い勝手のいい他のノートをトレードオフとして失うことになるじゃないですか。でもこれはやっぱり感受しないとなって思うんですよね。
今のように便利な世の中では他のノートを使いたくも当然なるわけです。でも他のノートを使うということはやはり他のラインをもう一つ僕が持ってしまうことになる。
この時はこのノートを使うとかね、そういうことをルールにして書いとけばいいっていうふうにおっしゃるんだけれども、そうするとルールってラインを1個作ることになるじゃないですか。
こういうことは何のために僕らがしているのかというと、そのフレームワークに沿って生きるってことをやるからなんですよね。
でも私はノートというフレームワークを持つこととタスクシュートというフレームワークを持つことは別のことだと思っているから、もちろん別に2つ持っていけないわけじゃないですよ。
ただ僕は少ないほどいいと思っているだけなんですね。
心理学の流れ
それによって得られるものとのトレードオフを検討してみると大した差はないんで、はっきり言って。
大した差がないにもかかわらずフレームワークを増やすというのはとてもリスクが大きいと。
これは私メタファーですからね。
ずーっとライフハックの話をしているように聞こえるでしょうけど、私が言いたいのは、和月さんという人はかなりクラインビヨンというラインを撲朽しているわけですよ。
CPTSDとかいろんなものが出てきます。
現代クライニアンから対人関係論とか関係論というのが単に関係論と言ってみたりする。
そういう精神分析もいろいろと広がるわけですよ。
しかも認知行動両方も第三世代でスキーマ両方とかに入ってきているわけです。
妙に対象関係に酷似していく。
そういうのをネット上ではもう散見するようになります。
本を買って読んだりもしますよ。
私だってするんだから。
それはしますよね。
でもそれはフレームワークを増やすことになるんですよ。
必ずね。
それをやるというのはいいんですよ。
いろんな知識を増やしてユーザーさんに合わせてですね。
みんな全ての人に対象関係論をやればいいってもんじゃないってのはその通りなんですけど。
一方でそういうふうにやっていくとフレームワークを必ず増やすことになり。
松木さんがなぜあれほど彼もまた顔面って言葉を使っている。
いつまでも顔面に新しいものを吸収もできず。
どっかに書いてたんだよね。
というふうに言われる。
でも自分は今日もこのやり方で父として進まないやり方で頑張るんだという。
レターへの応答
彼はやっぱりちょっと愚道者みたいな。
プラウマの治療の本にも書いてあるんですよ。
年単位の長い年月が必要なんだと。
これを短くやろうとするのは愚かだ。
愚かだって彼はっきり書いてますからね。
これを短く済ませようと効率的な方法に模索するのは愚かだと。
要するにこれにはある種の献身が求められる。
彼の態度、雰囲気見てると献身してばっかり言うような気がするんですけれども。
でもね、あの感覚は私には非常に伝わるものがあるんですよね。
やっぱり使いたくなりますよね。
ちょっと新しいマニュアルと新しいDSMですよね。診断基準と。
そうするとフィットするものが増えてきますもん。
やっぱり時代は変わるので。
料理の形式も変わる。表現形も変わるので。
昔ヒステリーと言われたものが今カエリと呼ばれるように。
これは時代の要請、文化的要請だと思いますけど。
もうちょっと言っちゃうと政治的要請に近いものだと思いますけども。
でもやっぱり違いはあるわけですよ。
ただですね、だからといって簡単に累積型とか複雑型とか言い始めるとですね。
もともとあったものの概念がやっぱり見失いやすくなりますよね。
戦争によるトラウマと失恋によるトラウマは違うんですよ。
失恋を繰り返すことによるトラウマもあるかもしれないけれども。
果たしてそれをトラウマと呼ぶべきなのかっていうような話ですよね。
辛くないって話ではないですよ。
ただ異なるフレームワークをそこに持ち込むという場合には。
異なる体系でものを考え始めるということになるわけだから。
当然その位置付けが変わるわけですよ。
こういう話って難しいから私はさっきタスクシュートでこの話のメタファーを使ったんですね。
私はタスクシュートの話をここでする気はほとんどないので。
ただ新しい例えばタスクを追加するといった時も、
タスクシュートのメタファーにフレームワークにおける追加という意味とGTDにおけるそれは全然違うんですよ。
GTDの方が簡単に入れられる感じがします。
だからタスクシュートでは簡単に入れてはいけないんですよ。
なぜそういうことがわかるかというと、それはフレームワークを持ってるからなんですよね。
新しい仕事を追加されたといった時に、何かリクエストを受けたといった時にそれがリクエストなのか。
それとも自分がやらなきゃいけないと思いついたのか。
そういうことを考えるってことをタスクシュートだったらまずやる。
GTDだったら入れてからやるんですよ。
この2つはフレームワークが違うわけですよね。
私はよく昨日は言わないように頑張ってたんで言わなかったんですけど、
タスクっていうのは1個だけで存在するタスクって多分この世の中にないと思うんですよ。
タスクシュートっていうのは別にそのこと意識しなくても1個だけで存在するタスクはないってことがすぐにわかるようにできているんですね。
フードリストってものは1個だけのタスクを書くことができるじゃないですか、簡単に。
タスクシュートもできるだろうって思われそうですけど、よくよく考えてみてほしいわけですよ。
例えば今このポッドキャスト撮ってます、開始時刻を入れますと。
開始時刻を入れたら終了時刻も一応入れることになるでしょう。
使ってることを忘れなければね。
そしたらその次ってのが出てきちゃうじゃないですか。
それはポッドキャストの次だから次なんですよ。
そうすると当然ポッドキャストの前っていうのが実はあったことに意識が回りますよ。
どんな行為でもそうですよね。
ポッドキャストをやるためには例えば私はここに三脚をセットするっていう、書かなくたっていいけれどタスクはあったわけですよ。
だから1個だけのタスクがあるってことはありえないんです。
1個のタスクがあったら前後に1つずつは絶対あり3つになるんですよ。
なんでto doリストのリストがのほうずに増えていくかというと、時間というフレームワークを無視しているからああいうことが起きるわけですよ。
いろんなところでいろんなことをするっていうのを全部書いていったら、実はその3倍書かなきゃならないことに本当はなる。
原理的に、タスク集団的にということが起きている。
起きているんですよ。
3倍になったら手に負えないでしょ、すでに。
だからタイムラインを2個も3個も持つというのは怪しげなんですよ。
タスク集団のフレームワークから見れば。
っていう話を私は現代クライニアンとか現代対象関係論とか対人関係論とか精神分析的関係論とかを読むたびに、
こういうものってすごく魅惑的で便利だけれども、やっぱり自分は人にとっては混乱のもとだなと思いつつ、
でも絶対参照した方がいいことってあるからしょうがないから時々知識だけを拡大していくってことはやる。
でもフレームワークは拡大しない。
そうすると知識の拡大には当然歯止めがかかる上に限界地点が早いから、
その限界が来たときはもう潔く諦めようと知識を増やすことに関してはですね。
この辺が要請講座で考えたことで、ここからレターを読ませていただこうと思います。
非常にありがたいんですけど、びっくりしたんですけど、
レター読みますねまずね。
以前Appleのポッドキャストにてレビューを書いたものです。
ありがとうございます。それも配読いたしました。
心理の学生ですが、ユングなど力動的心理学に興味があります。
PSポジションの理解
共感しながらもとても楽しませていただいています。
特にクラインやウィニコットのお話がよく出てきて勉強になっているので、
勉強をここでしないでほしいって思うんですけど、
まあまあそういうこともあれかなと思いまして。
質問かリクエストなのですが、
自分がPSポジションにあるときにそれに気づく方法をお聞きしたいです。
いやーどうなんだろうな。
気づくことは気づくと思うんですけどね。
方法があるだろうかってのはありますが、
ここから先がちょっと僕を悩ませたんですが、
調子・気分が良いときに限って人間関係がうまくいかなかったりするのですが、
私はそういうことはないんですけどね。
調子が良いときに限って人間関係がうまくいかなかったりするのですが、
そのときに自分の創的な部分に気づいたり認めたりしづらいです。
気づくことがDポジションへのつながりにもなると思うので、
ぜひよろしくお願いします。
人間関係の感情
ありがとうございます。
いやー私のこれで勉強するっていうのもね、
人物名とか用語は出てきますからね、確かにね。
そうですね。
PSポジションにあるときに気づくことは気づくと思うんですけど、
この話ってつらいんですよ。
つらいからPSポジションに我々は行っちゃうわけですよね。
ポジションチェンジしてるわけですね。
ポジションチェンジという言い方をしてもいいんですが、
Beyondのコンテナーモデルを使うとやっぱり投げ返したくなるわけですね。
これを入れてくんだよってことですよね。
トゲトゲのものが心の中に入れられて、
トゲトゲじゃんみたいな感じですよね。
だから投げ返す、排出するわけですよね。
これがPSポジションにおいて起きる出来事ですよね。
普通に言ってしまえば、恋人と喧嘩してるときのことを思い出せばいいわけですよ。
そして普段優しい彼女がグサグサ怒るようなことをグサグサ言ってくるわけですよ。
当然気分が悪いし、気持ちがすごい嫌な気持ちになります。
つまり辛くなるわけですよ。
これが調子が良いときに起こることなのかどうかがちょっと分かんないんだけれども、
そのとき想的な気分になるってことは起こり、
つまりこのグサグサをうわーって投げて、
恋人に向かって投げ返して相手が傷つくと、
理不尽な話なんですけど、実にスッキリするってことは起こるわけじゃないですか。
これが多分想的な気分だと思うんですよ。
排出しまくって気持ちが良いと。
でも排出して気持ちが良いっていうのはしばしば倒作的だってことなんですよね。
つまり赤ちゃんは、ここで赤ちゃんメタファーが出てくるわけですよ。
良いおっぱいを吸ったつもりなんだけど、
つまり恋人とおっぱい吸うとかするじゃないですか。
知らんけど。
これは非常に微妙な話なんですよね。
恋人のおっぱいをなんで吸ってんだって話なんですよ。
これは書かれた方男性か女性かわかりませんが、
別に私女性でもわかると思うんですよね。
なぜなら赤ちゃんのときおっぱい吸ってたか。
何が痛いか。
それは性的なことだけを意味はしないんだってことなんですよ。
何かを取り込もうとしてるわけですよね。
だって恋人と触れ合ってるってのは取り込もうとしてると思うんですよね。
この人の良いものを手に入れようとしてるわけじゃないですか。
ところがそこにトゲトゲなものが来たらものすごく…
なんて言えばいいのかな。
ものすごく嫌な気分になる。
これが家族間でも起こるわけですよね。
普通にいくらも。
この人こんな人だったのかみたいな。
最悪な場合、恋人は他の男と一緒にいるんですよ。
しかも裸でいたりするんですよ。
めっちゃトゲトゲじゃないですか。
果たしてこういう時にDポジションに人はいられるものなのかなと。
私は大変疑わしいなって思うんですよね。
で、そのトゲトゲを相手に向かって投げつけるということは
赤ちゃんがおっぱいを吸ってる時はお腹が空いてるわけですね。
というか取り込みたいわけですよ。
お母さんと一緒にいてお母さんの良いものを自分にこう…
なんていうのかな。
自分にこう移動させたい。
精神的にも身体的にも移動させたい。
と思ってるのにくれない。
っていうわけでめちゃくちゃ腹を立てて、
例えばうんちた顔しちゃう。
そしたらすっきりする。
おかしいでしょこれ。
自分が何かを手に入れようとしてるのに
自分から何かが出ていってすっきりする。
あ、すっきりみたいな。
このおかしさを相的防衛って言うんだと僕は思うんですよ。
本当はその人と一緒にいたいわけじゃないですか。
でもまあよくシュラバって言いますけど
ふざけんな出て行けみたいなことを
女の人も男の人も言うわけじゃないですか。
そして出て行かれて泣くと。
感情の排出と自己認識
おかしいでしょ。
おかしくはないんだけどおかしいでしょ。
これが私は相的防衛だと思う。
でも果たしてこれをせずにいられるかなとも思うんですよね。
だって自分はミルク甘い感じの世界にいたいのに
トゲトゲがどんどん降ってくるわけですよ。
絶対それはそこでトゲトゲをこうね
一生懸命自分が消化し下毒し返すと。
いやあのね彼女がなんだか知らないけど日焼けして
日焼けサロン行きまくって
なんか筋肉質な男と一緒にいるのも
自分がこういうなんか色々で
なんかこうイエチロレンスとかばっかり読んでるからなんだなって思うと
そして下毒して
まあでもやり直そうよみたいに頑張ると。
なんかねなんかこう無理があるなーって思うんですよね私はね。
そこで欲打つポジションに入ったら
もう打つになるしかないんじゃねえかって感じがするんですよね。
で私は最近あの攻撃というものは別にいいんだと思うようになったんですよね。
あの攻撃を手放すとグッドバイブスって
倉野のけいどさんもおっしゃるけど
これもまたフレームワークですよ。
普通に現代の日本に生きてたら
攻撃を手放そうとか思わない限り
つまり自分を一定の方向に方向づけない限りは
それを達成するのは困難じゃないですか。
最終的には一つ意識に至るということがあるにせよですね。
そこに至るまでやっぱり自分をフレームワークで方向づけなきゃならないわけですよ。
攻撃はしないんだと。一生しないんだみたいな感じで。
でもそれは内面でその人攻撃してたんではダメだし
内面で自分を攻撃しててもダメなんですよ。
だから非常に難しいわけですよね。
内面で自分攻撃したでしょ、さっき私は。
この人は日焼けサロン行ってる人がいいんだよなーみたいな。
これはただ肌がドスブロイだけだしなーみたいに
そういうふうに思っちゃダメなわけですよ。
それはただ自分を攻撃してるだけなんで。
抑鬱的になっていきますよね、当然ね。
毒はしてません。毒入ったまんまですよ。
トゲトゲが丸くなってないですよ。
コンテナーの中でやるべきことは下毒なんだ。
彼女は私からいいものが手に入れられないと思ってるから
他の日焼けサロンに行ってる男がムキムキでも
それは私はお母さんだと思うんですけど
他のお母ちゃんのところ行っちゃったんだと。
はっきり言ってでも私20年の頃そんなこと絶対分かんなかったと思うし
今でもはっきり言って情緒的にそれが分かると言えるかなとは思うんですよ。
なるべく頑張りますけどね、今はね。
母親役なんだから、よしここは一生頑張ろうと思いますけれども
相手が泣き喚いていてもなるべく下毒しなるべく消化し
なるべくいいものを戻すと。
でも物には限度がありますから
おっぱい出ないときは出ないんで。
自分が買い物で忙しいときは赤ちゃんの近くにいなかったりするんですよ。
しゃーない、それは。
と思うんですよね。
向こうには異行対象で、だからつまり相手の日焼けサロンの男は異行対象なのかもしれないわけじゃないですか。
そこまで考えるのも難しいですよ。
でもそういうふうにしちゃう人っているじゃないですか。
何でもかんでも自分が悪いことにしてしまうという人もいらっしゃる。
ここで絶対想的防衛には出ない。
もうひたすら私が悪かったんだと。
彼氏が浮気しまくるのも全部私が至らないせいなのです。
これはいわゆるあれですよね。
マゾキスティックな全能感ってやつで万能空想がネガティブに出てるわけですよ。
なぜ万能かというと、その人は自分次第で相手を動かせるってどっかで思ってるわけですよ。
私が至らないからこうなったっていうのは結局私が原因で相手動いてるわけじゃないですか。
それはすっごく謙虚なものいいで、ものすごく自責的なものいいかもしれないけれども、結局万能感に満ちてるじゃないですか。
私のせいで相手は浮気をする。
私が悪いから、つまり私に原因があるわけです。
ここに実はその人の自分のかけがえのなさを取っておきたいという気持ちが、これほどまでにやっぱり我々はナルシスティックだってことなんですよ。
ここで言ってることはきっと。
相手のせいにするのがいけないって言うんだけど、自分のせいにするのも結構あれなんですよ。
相手のせいにしようと自分のせいにしようと、結局我々はそうそう簡単に万能空想から逃れられないわけですね。
相手に向かってふざけんなバカ野郎っていうのも万能空想なんですよ。
こういえば相手は結局のところ、自分がコントロールできるとどっかで思ってるわけですからね。
我々は世界をコントロールはできないわけですね。
この感覚が、この感覚がそもそも欲物感を持ってすごいと思いませんか。
自分は世界をコントロールできませんと。
地球とか太陽の動きを我々が支持して動かしたりはできないわけですよ。
そして我々はそれどころか、空地に戦争を止めさせるとかもできないわけですよ。
それどころか、トランプに完全の措置をやめさせることもできない。何もできないですよ。
だからといって、Dポジションの入り口付近でいきなり欲を掴んでドーンとなるってすごいことですよね。
お前そんなにいろんなことできると思ってたんだってことですよね。
でも思ってるんですよ、僕らは。スーパーマンなんですよ、我々は。万能感の中で生きている限りにおいてはね。
これをしかも最早期の赤ちゃんだった時、我々がゼロサイズだった時に身につけてしまったんですよ、この感覚を。
世界の中心にいるのは私であり、世界の闘技をしているのもミニコット流に言うと私なんですよ。
腹が減ったって念を入れると、腹が減った念みたいなのを入れると、おっぱいが出てくるわけです。すごいじゃないですか。
世界は思うがままなわけです。ゼロサイズにとっては。
これすらお母さんがどこか非常に手を抜いたり、過度に忙しかったりすると赤ちゃんはこの感覚すら手に入らないから、もうまとまりが…つまりフレームワークなんですよ。
万能感というのはフレームワークなんですよね。
これに基づいて知識を増やしているから、なんでプーチン戦争するんだよとか言う感じになっちゃうんだけど、
いやだってそれはプーチン、俺のこと、俺が止めようとしても無理だしっていう感じになるわけですよ。
だから、そんなに簡単に止められないから、地道な方法、さっきの松木邦博さんじゃないけど、
プラカードを持って大使館の前で抗議するとか、めちゃくちゃ地道じゃないですか。
でもこれを短時間で何とかしようとするのは愚かなんですよ、松木邦博さんに言うと。
そういうわけにはいかないんですね、我々は。できない、そんなこと。
だからやっぱり地道なことをするしかないんですよ。地道なことをすると人に笑われると。
そういうことになっちゃうんだけれども、しょうがないんですよね、それはね。
そういうわけで、答えになってるかわかんないんですけど、調子がいいときに限ってってのはスッキリしたい。
スッキリしている。やっぱり動けるなって感じがする。
さっきトイレ行ったばっかりだし、みたいなそういう感じ。
なんだけどこれは自分が空っぽってことですからね、フットワークが軽いってのはそういうことですから。
自分が空っぽなんで、想的になってないと欲物的になりやすいんですね。
これをどの程度受け入れられるかみたいな感じがします。
結局、この態度は関係破壊的だなと気づくと。
出て行けって言ってことは関係破壊時にかかってるじゃないですか。
気づく、気づかないというよりは、多分、何て言えばいいのかな。
あれですね、戸畑海人さんが心のモヤモヤとスッキリっていうのでこれも表現してましたね。
モヤモヤと凡庸感
モヤモヤを抱えていると嫌だから人はスッキリしようとして出すんだけど、
そうすると空虚になるんだと。
あれは完全にコンテナの話をしていると思うんですけど、このモヤモヤがディポジションなんですよ。
ここを誤解してはいけないんですよね、多分。
モヤモヤしている状態というものが嫌だから、マインドフルネスみたいなものでそれこそ心を空にしてっていうんだけど、
これを心をスッキリさせてになりやすいんですよ、我々は。
ベースポジションの中でも特に勝利感に浸ってる時ってそれに違くて、勝利感が宗教的な何かみたいに思ってしまうことがあるわけですよね。
悟った、みたいな。これで俺は万能だ、みたいな。
あの賢者モードみたいなやつですよね、スッキリしている。
スッキリしていると何でもできるような気がするんですよ。
接触障害でお馴染みですよね、これはね。
いかにこれに惑わされないか。
つまり我々は、つまり凡人だってことになるんですよね。
この凡庸感の中でモヤモヤしていることがいいことだって思えるようにならないと、なかなかDに踏みとどまるって難しい。
ただ僕はできない時はできないと思いますね、そうは言っても。
だから私はPSとDの間を行ったり来たりする。
ここでおっしゃってるのは早く気づきたいってことだと思うんですけれども、
それはやっぱり凡庸なままモヤモヤする。
で、ないんだったらPSと言えるかっていうのはあるんですけどね。
この凡庸でモヤモヤしているのの中に、いいところをいっぱい見出していくというのが、
まあこういうことは対象関係では必ずしも言ってないけど、結局そういうことになるんではないんだろうかなというのは、
私はずっと最近思いますね、本当にずっと思います。
松木さんの本とか読むとそこがいいんですよ。
フレームワークを動かさないから彼は。
やっぱり常にBeyondのグリッドみたいな感じで、
ベータ要素なんだと、下読するんだと、頑張って時間かけて下読するんですよっていう。
早くスッキリしようというのを考え方が愚かなんですよっていうね。
そういう感じ。
だから何年という単位でじーっとこらえるんだっていうね。
それを破壊しないように頑張って持ちこたえるんだっていう。
このこと自体が転移的に、逆転移的に言ってもしますけど、いいことなんだっていうこと。
つまり赤ちゃんが泣いていたらあやすんですよっていうことですよね。
下読してあげるんですよと。
向こうグワーって泣いて、それがトゲトゲですよね、お母さんにとっては。
そのトゲを一つずつ抜いて地道に戻していくと。
そうすると、もしかすると健康でいい子になるかもしれませんって。
関係性の話ですよね、要するに。
だからといって日焼けサロンの男が目の前に現れたら、
僕なら少なくとも悪態をついてから逃げますよねっていうことになるわけですよ。
現実で生きるということは。
そのとき僕はPSなんだけど、しゃあないんじゃないかなと思うんだよね。
PSとDは行ったり来たりなんですよ。
そして私は基本的にそこから離脱はできないですよね。
倫理からの下脱はできないんですよ。
人間とはそうやって生きていくんですみたいなことなんではないかと思います。
そういった感じで一応お答えしておきますね。
今日はそんな感じでレターありがとうございました。
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