お知らせと今日のテーマ
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ【1147回】をお送りします。
3月3日はひな祭か、月曜日7時45分です。
えーと、雨が降ってますね。すっかり、なんかいい陽気なのに、今日からまだガンガン下がっていくみたいでですね。
それはちょっと残念なんですけど、まあ、しゃあないんで。
風に困りますよね、こういう季節は本当に。
えー、お知らせです。3月15日、お、2週間切りましたね。
土曜日に渋谷で、えーと、山崎孝明さん、個人心理師で臨床心理師の山崎孝明さんをお招きして、
あらいさんという方と私とで、3人でカナエ弾を出します。
場所は、会場が渋谷、こちらが山崎にとなっておりますので、会場にお越しの、まだお申し込みいただいてない方は、ぜひお早めにということと、
えー、オンラインと動画配信もいたしますので、そちらは、あの、3月16日以降は、あの、もしかすると、えー、すべて、あの、終了させていただくので、
これですね、えーと、関係者の中で、あの、その後は、あの、売らないでほしいというご要望があれば、もう売ることはできなくなりますので、
そういった関係がありましてですね、あの、止める可能性はございますので、ぜひ、えー、動画配信を、えー、後日見たいという方は、
この方もですね、15日までにはお申し込みいただけるとありがたいです。
個別にお問い合わせをいただけばですね、さすがにちょっと対応させていただくことは可能だと思うんですけれどね、はい。
はい、でですね、まあでもこれは確実じゃないですから、あの、関係者の方が、それはよくない、あの、やんないでくださいって言えばそうなっちゃいますし、
あと参加者さんからの質問も、私細かく編集してカットしたりはいたしませんからね、あの、ぜひその辺、あの、参加するという形を、
参加はできなかったからやむを得ず後で動画を配信すると、この形にしておきたいということですね、はい。
はい、えーと、まあ、動画編集に関して言えば、私はいまいちスキルがないということと、めんどくさいということと、もう一つ、
まんま出したいということが実はありましてですね、あの、カットされたものって私はあんまり見るの好きじゃないんですよ。
なんかこう、加工された感がいかにも出るわけで、私はあの、いろいろ、フィラーって言いますよね、えーととかあのーとか、
全部僕は、今日の話とちょっとつながるかな、あった方がいいと思う人間で、なくすということ自体をあんまり僕は好きではないんですね。
だから、あのー、よほどのことがない、前後なんか無駄にひたすら長いのが空白であるとか、そういうのはさすがにカットしますけど、
えー、別に、途中を編集したいとは、あのー、かけらほどもないので、えー、しません。
しませんので、えー、従ってですね、嫌だっていう方が当然出てくる可能性はあると思いますんで、
だから基本参加型なんですよね、これはね、後で見るというのには、まあ、向かなくはないんですけどね、情報的なものではないので、
でもやっぱり、そのリアルタイミングを共有していただいた方が、僕は絶対楽しめると思いますし、
無理な場合で動画を後で見るといったもんだと思うので、あのー、動画を配信するためにこれをやるわけではございませんからね、
そういう意味で、あのー、まあご承知をおきいただければと思います。はい。
で、えー、まあこれはお知らせでして、3月15日ね、PTXの方でお申し込みいただけます。
視覚と聴覚の重要性
今日はですね、まあ先週は、まあこの話を引っ張った方が、もしかすると評判がいいぐらい評判が、
一部良かった、自己愛、対象関係、病理構造体のお話をいたしましたけど、
今日はちょっとガラリと変えましてですね、あのー、ちょっとクレームというものについて改めて考える機会がありましたんで、
ここのところ、まあ見ますよね、こういう授業をしていればクレームを受けることもあるし、
まあ全然関係ないところで見ることもあると。やっぱり見るのが、あのー、それに巻き込まれてる方には申し訳ないんですけど、
見るのがやっぱりいいんだなっていうのがわかってきました。
僕はほんとね、これまで視聴、視覚に対して聴覚優位すぎて、聞けばわかるだろうみたいに思ってたんですけど、
昔ね、話が飛ぶようなんだけど、小林、有名な人だ、忘れた。
モーツァルトのことを書いてた人ですよ。
あの人が小林、有名な人だからもう出てる人いると思うし、
なんなら小林モーツァルトでくぐれば絶対出てくるんで、気になる人はくぐってください。
小林さんがね、エッセンの中で書いてたんですよ。
モーツァルトのマテキは、そういう時代ですからね、まだまだDVDどころか、LDとかもない時代で、
そういうですね、ブルーレイも当然ないですしね、
そういう時代にあって、舞台を見に行けないからといってですね、
そういうのが出たとしても、テレビでやるとか映画でやるとかね、
私はそれは見ないだろうと、あれは音を聞けばいいんだと。
僕もすごく賛成だったんですよ。
今はね、それは全然違うなって思うようになりましたね。
急に変わってきたんですよね、ここのところで、僕のこの視覚優位感。
これは3ヶ月チャレンジの賜物でして、やっぱり見ないとわかんないんだなっていうのがわかってきたんですよ。
見るの非常に大事だなと。
もう背景を変え、背景をぼかされ、何なら画面が暗く、そこに映っていらっしゃらないということであったとしても、
見るってことが大事だ。
映ってないという事実が、私にやっぱり聴覚と合わせていろんな情報が、
情報というのはあれなんですけどね、空間というものの意味ですよね。
その空間はなぜそういう空間としてビジュアライズされているんだろう。
ビジュアルなんですよね。
これがやっぱり人には伝わってくると言いますか、それを共有させてもらうことで、
全然わかってくることが変わってくる。
だから最近も3ヶ月チャレンジに久しぶりに復帰みたいな方がいらっしゃったわけですが、
いらっしゃったりするんですが、その時も久しぶりだなと思っていて、
見ているうちに以前見た空間というものの光景とオーバーラップしてきてですね、
そっか、なるほどなっていうことがいろいろ出てくるんですよ。
これはやっぱり聴覚だけだと出てこないんだなっていうのを、
出てこなくはないのかもしれないんですけど、話が違ってくるんですよね、聴覚だけだと。
だからやっぱりあればあるほどいいという感じですね。
共有すればするほどいい、そうとは言い切れないけれど、
でもやっぱり共有しないことには始まらない。
だからやっぱりあれなんですよ、やっぱり多いですけど、
ロジャーズ正しいなと思うんですよね。
彼は警長と言いましたけど、見て、聞いて、共感して、
記憶と知覚の関係
その共感が一致しているかどうかを常に係る。
これをとことん押し進めていくんだっていうのは、
新しいなっていうことを感じたわけです。
で、なんでクレームなのか。
クレームって共感しにくいですよね。
まずここからスタートなんだと私は思うんですよ。
共感しにくいっていうのは、つまり、
人が作る、作るというか持っている視覚、視覚でも聴覚でもいいんだけど、
つまり知覚ですよね。
知覚って現実じゃないのは、
映画マトリックスを皆さんが見たことあるか分かりませんが、
見ればあれを見て納得できるということであれば、
知覚というのは現実じゃないというのが明快なわけですよ。
で、知覚は何に似ているか。
最近ちょっと思ったんですけど、チグソーパズルですよね。
ジグソーパズル。
知覚というのはああいうピースを組み合わせて作ってしまっているものなんですよ。
デタラメに組むこともできちゃうんですよ。
デタラメに組むと変になるから、どっか変なものが出来上がるんですけど、
それはだから我々はちょっと変なら神経症で、
もうむちゃくちゃな組み方を平気でしているとなると精神病水準ぐらいでいいと思うんですけど、
それはある意味ではやっぱりですね、
ありますよ、多分。あるんだけれども、
一つの大きな段落の違いがあると思うんですけど、
でもある意味、
よく言うやつですよ。
つながっているわけね。
二次なんですよね。スペクトラムなんですよ。
スペクトラムって言ってもね、神経症と精神病はやっぱり分けるべきだと思いますけどね。
一次過程と二次過程があるんでね。
現実原則、つまりそういうことなんですよね。
このジグソーパズルは現実と似ているだろうか本当にっていうことを、
ちゃんと気にできているかどうかなんですよね。
ちゃんと気にできていれば、多分相当ずれていても神経症水準。
全然気にしないよっていう場合は、
もし現実とちゃんと近いものがジグソーパズルできていたとしても精神病水準なんですよ。
気にしなきゃいけないんですよね。
いや俺好みに作るからっていう、この俺好みが問題なわけですよね。
俺好みってつまり快不快じゃないですか。好き嫌いで決めているわけですよね。
それってつまりナルシシズムなんですよ。
マイワールドがこのワールドみたいな。
そんなことはないわけだから、たまたまそうなることがあったとしてもダメなんですよ。
その姿勢に問題があるって話ね。
で、私先週もこの二次ナルシシズムの話と、
昔話を織り混ぜていろいろ話しましたけど、先生の話とかね、親の話とか。
私は今全然親とか先生に思うところが全くないんです。
別に腹が立っているとか、あれは理不尽だったとか。
本音のところでは何も思ってないんですよ。
で、それ本当なのって言われるかもしれないんですけど、
なぜ本当にそう言えるかっていうと簡単なんですよ。
過去のことだから。もうほとんど実は思い出せないんですよね。
あのようにしゃべるためには相応の努力を要するんですよ。
思い出すべく努力を。忘れちゃってるんで普段は。
私はもう過去のことは1日前から以前、徹底的に忘れるようにしているんですけれども、
それはですね、つまりもう組んでないパズルなんですよ。
記憶というのは過去の光景についてもう1回パズルを組み直すってことなんですよね。
で、覚えてるということはそのパズルは組んだままになってるわけですよ。
組んだままになってるパズルは残念ながら近くにパズル、このパズルは使うんでね。
近くがおろそかになるか、近くが組み上がったパズルを利用して再構成されてしまうかするので、
俗に言うトラウマって事態を引き起こすんだと思うんですね。
パズルはですね、柔軟であればあるほどいいからバラッバラになってる必要があるんですよ。
記憶にこのパズルピースを使おうが、近くにこのパズルピースを使おうが、ピースの数は決まってるんですよ。
ピース急に増やせないわけですね。
そんなもんだから、だから我々Evernoteとかそれこそ手帳とかを使うわけですけれども、
つまりピースの代用にするわけですよ。
でも私はそもそも幸せというものは、この現実、現在の現実に合わせてピースを組むことそのものにあると思っているんで、
過去をどれほどきっちりと再構成できたかだといって、それと幸せは何の関係もない、
一歩間違えたとすれば不幸の種でしかないと思うんで、
そのようなことはですね、私は必要もないのにやろうとは思わないわけですよね。
必要だから皆さんやるのかもしれないけど、私はそれもさほど必要だと思ってないわけですよ。
だから、再構成できることに便利さがあることはありますよ。
記憶と意識の変化
前回、あの日か、いつ行ったっけみたいな、こういうときね。
でも今はそういうのって、探ろうと思えば別に自分で一生懸命取っておかなくたって、
大体どっか出てくるもんじゃないですか。
そんなに困らないじゃないですか。
だから私はそういうのも、ほとんどログをですね、結果として残っているログは多いに活用いたしますけど、
基本的に残そうと思ってないわけですね。
残そうという意図を、今のように基本的にはパズルの組みやすさというものが
記憶でしかないというふうに意識した瞬間に、過去のことに興味なくなっていったんですよね。
このピースは極力現在のために使うべきなんだと。
これがつまり考えられないものについて考えるとかいうことなんですよ。
ウォルフレットビヨン的に言うならば、そう言いたいわけですけどね。
このピースを繋ぐことをアルファ機能というわけですよ。
そしてピース一個一個、完全に断片化してしまったのバラッバラになってですね。
あれをベータ要素というわけですよ。
一個でも繋いだらもう心の中に入ってくる。近くですからね。
現実ってジグソーパズルがどれほどよくできていたって、
現実とジグソーパズルで組んだ光景は何の関係もないじゃないですか。
よくありますけれども、何でもいいんですけど、金閣寺みたいなパズルありますけど、
それは本物の金閣寺と関係ないですよね。
それは我々がこれを金閣寺だと見ているぞっていうパズルでしかないわけですよ。
だけれどもそのピース一つ一つをベータ要素と呼ぶならばですね。
呼んだんですよ、ビヨンは。
このベータ要素を繋ぐことを、つまりピースを繋いでいくことをアルファ機能と言って、
これ超大事ですよね。
これがなかったら近くは元々のものになりません。
したがってアルファ機能はめっちゃ大事で、
多分私が思うに、2個繋いだピース、パズルピース、1個繋いだ状態ね。
2個が繋がった状態。
これをアルファ要素って言うんだと思う。
で、お母さんは、赤ちゃんはもうベータ要素しか持ってないから、
バラバラパズルで生きてるから、そこをお母さんが繋いでいく。
繋いでいって赤ちゃんに渡していく。
これをアルファ機能の代理って言うんだと思うんですよね。
アルファ機能とベータ要素
そしてアルファ要素を量産していく。非常に大事ですよ。
でも赤ちゃんはそいつを壊しちゃう。なぜ壊すか。
苦痛が発生すると壊すわけですよ。
苦しい近くなんかいらないから。
苦しみがあると壊していく。
これをベータ排出って言うわけですよね。
わざわざ組んでもらったものをぶち壊して、
そしてまたお母さんにバーッて渡す。
これをベータ排出というわけですよ。
例えばお腹が空いたという時に、うわーって鳴く。
お腹空いたのにうわーってエネルギー使うのって、
間違ったコードじゃないですか。
理味叶ったという意味において理味叶わないですよね。
でも苦痛というものが組み上がりつつあるっていう状態が起こるわけですよ。
苦痛はないわけですよね。
お腹の中にミルクがない。だからお腹が空いている。
空っぽっていう意味なんだけど、そうは考えられない。
このパズルで間違ったものを赤ちゃんは組むわけですね。
それが悪い乳房、悪いおっぱいっていうわけですよ。
悪いおっぱいが入ってくるから、
このお腹が空くというふうに大人たちが言うところの苦しみが発生するわけですよ。
そういうふうに間違ってパズルを組んだら、苦しみというものがパズルの中に入ってくる。
ここが単なるパズルと知覚の違いなんですよね。
この知覚というパズルはですね、音も入っていれば、
もちろんビジュアルが入っているんですよね。光が入っているから。
音も光もあるいは、つまり四次元的パズルなんですよ。
なんと靴とか快楽とかもここに入っているわけですよ。
ここがめっちゃ大事なんですよね。
1ピース1ピースの中に、これは苦しみとか、これは良いもの、これは悪いもの。
つまりお母さんのおっぱいを連想させる良いピースと、
何か虫かなんかを連想させる悪いピースがあるわけですよ。
これを使って知覚というものを組むわけだから、
適当に組んだら大変なことが起きるわけですよね。
適当に組むんだけど我々は。
最初にクレームの話をすると言いながら、
お前クレームの話全然してねえなって思われるかもしれませんが、
ここにミソがあるわけですよ。
普通というものが断片の中に混じっているピースを使って適当に組み上げるから、
あのATMが私を苦しめている事態が発生するわけですよ。
ATMというパズルピースが組み上がるのはいいんだけど、
そこになんかこう、
軸しみみたいなものがピースとして混ざっちゃってるわけですよね。
だってそうなるじゃないですか。
ピースの断片の全ての断片はニュートラルでは絶対ないわけですからね。
物事というものは断片ごとに意味はないはずなんですよ。
例えば皆さんが嫌な例を一つ挙げさせていただきますと、
昆虫の足とか嫌でしょ。
嫌な人が多い。
昆虫の足って何の意味もないじゃないですか。
でも昆虫の足が皿の中にあったら嫌でしょ。
昆虫がいるわけじゃないですよ。
でも嫌じゃないですか。
こういうことが起こるわけですよ。
苦しみというもの。
苦しみ、害、何でもいいんですけど、
そういう断片が近くの中には混ざってるわけですよ。
だから適当に組むということは大変よろしくないことなわけですね。
このパズルピースを組んだ結果として、
我々はこのパズルピースの意味しているものを共有できるわけですね。
共有できるようにパズルのピースを組み上げなければいけない。
赤信号と青信号と黄色の信号と交差点というのは、
みんなそれぞれ独自の組み方しますよ、多少。
黄色はパプリカを連想させるとか、
黄色は大月さんを連想させるとか、
人によって違うじゃないですか。
その時々によっても違うし。
でも交差点というパズルを組んだらですね、
写生ってするじゃないですか。
大体みんな共通理解のできるような絵を描くじゃないですか。
たまに僕みたいに絵が超下手なやつが、
わけわかんない絵を描いて笑われる。
それは共有できない絵を作ってしまうわけですよ。
でも共有できない絵を作るということ自体はあり得ることなわけですよ。
ピースを適当に組むってことはできるわけだから。
そしてそうしたことによって、
出来上がるマイワールドに住むとですね、
病院に行った方がいいんじゃない?みたいなことが起こるというわけなんですよ。
知覚というものが共有できる範囲に収まるか収まらないかという話をして、
精神病水準、神経症水準、健常者という話をするわけですね。
際どいラインにあるのが神経症水準なわけですよ。
言ってることはおかしい感じのところもあるんだが、
原則おかしくはないわけですね。
例えばガスコンロの火を消したかどうかが気になるんだよねと、
グアムまで来てから言い出すとかね。
そういうのっていうのはおかしくはない、この近くの組み方は。
ピースとしてそういう近くを組んで、
何かの引っ掛けでガスコンロの、
例えば行った先のホテルで部屋でガスコンロを見たときに、
あ、って思うと。
その時ガスコンロの絵が組み上がっていくんだけど、
そこに不安というピースが混ざってるわけですよ。
そうするとガスコンロの火がついてるかもしれないっていう光景が
その人の中では再生されていくわけですよ。
これが神経症水準。
おかしくはないんだけどおかしいよねっていう話なんですよね。
都合ですよね、本人にとってこういうのが。
常にあらゆるところで、
何かにつけて不安を近くに織り混ぜたがるというか、
織り混ぜてしまう人は非常に神経症気味になっていかざるを得ないんですよ。
そういう人が火を消しただろうか、
閉じまりをしただろうか、
ここを確認、そこを確認、あそこも確認。
メールのこの文面は相手の気を悪くさせないだろうか、確認。
やっていくと漂白神経症みたいなことが起こるという話なわけですね。
だからアルファ要素、アルファ機能っていうのは非常に大事なんですよ。
これはどのように共有させていくか。
お母さんが赤ちゃんに向かって安心というものをそこに練り込んでいくというのかな。
その安心というピースをちゃんと近くに混ぜていく。
つまりまず第一に自分を安心して現実というものを構成していき、
赤ちゃんのためにも安心というものを入れて、
あなたはただそれはお腹が空いてるだけだから大丈夫だからっていうような言い方をする。
しかもこれをただ言うだけではなく、
ちゃんと自分も大丈夫だと思って安心してこのように赤ちゃんに返してあげることで、
バラバラのピース、つまりベータ要素ばっかりであるピースをアルファ機能を使って、
お母さんのアルファ要素にして赤ちゃんに返していく。
これを繰り返しやっていくうちに赤ちゃんが自分でアルファ機能が使えるようになっていく。
そこに安心というものが入っているというのが必須なわけですよ。必須。
そうしないと少なくとも神経症気味の赤ちゃんというものが育っていってしまうわけですよ。
私はこういうふうに考えるようになって以来ですね、
親とか教師というのはよくやってくれてるよなと。
彼らの安心というものをちゃんと向こうから手渡されるようになっているので、
教科書とかも全部そうなってるんですよ。
そういう視線で読もうとすればひたすらひたすら不安になるというようなことにはなってないんですね。
そうなっているメディアってありますからね。
ひたすらひたすら不安を、つまり全然アルファ機能として十分な機能を果たせてないという、
つまり訳があるというその訳までわかれば、そんなにこのことで困りはしないんですけれども、
ものすごく困っちゃうという人もいらっしゃるわけですよ。
で、話が戻ってきて、そうするとクレーマーっぽい機質ってものが生まれざるを得なくなるんですね。
クレームの心理的要因
先日私ドラッグストアにいて、
ご両親の、ご両親じゃない、ご夫婦のクレームをしている薬局の人に向かってね、
薬局ってのは待たされるときがあるんですよね、確かにね。
で、それを聞いていて、なんでこの話は奇妙に聞いてたんですよ、申し訳ないけど。
で、見てもいた。視覚情報大事。
とにかく見ていて聞いていて、なんでこの話はこんなに奇妙なというか意味がわからん話に、
多分この薬局の店員さんはドキドキしてるから、その奇妙さというものに相まってすごい困ってんだろうなと思ったんだけど、
私はドキドキしてもいないのに、他人事ですからね。
奇妙だなーって感じがするのは何でなんだろうって一生懸命考えてたんですよ。
目の前の出来事について考えたいからですね。相当シンクするわけですね。
で、考えていたところ、やっぱり断片的なものが無理やりつなぎ合わせるからこういう奇妙なことが起こるんだよなと。
普段からだからやっぱり奇失って言っちゃいけないと思うんですよね。
その時たまたますごく腹が立ってフレームを発してたのかもしれないんだけど、
要するに待たされたって言って、まあまあ確かに待たされるここは、それはあるって思ったんだけど、
それしか理にかなってる感じがしなかった。待ったということ。
それも待っただけでここまで言うのもどうかなって感じなんだけど、
その後その薬局の店員さんが、その店員さんはそういう雰囲気はあるんですけど、
そういう人なんですけど、それは私から見ると、
あれはある種の障害の一種であって悪気はないんだがなって感じなんだけど、
ツッケンドンだと。ツッケンドンって別にね、そんな罪深いかそれって感じなんだけど、
で、そっから次がすごいんですよね。それがトラウマになったって言うんですよね。
いやトラウマになったって、そんな今この瞬間にトラウマになるほどツッケンドンだったかっていうと、
その時は全然大事になると思ってなかったから、
なんとなく小耳に本読んでたからね私はね、聞いてたんですけれども、
すいません長くお待たせしていますけれども少々お待ちくださいって言ったぐらいの感じだった。
この通りじゃないですよ。そういうふうに言った。これがトラウマになった。
トラウマ。うーんと思ったんですよね。
でなんかいろんな話が始まって、その女の人はそこまで言わなくていいからって言ってたんだけど、
なんか男の人、夫なんだか恋人なんだか知りませんけど、エキサイトして、
なんかもうすげーエキサイトしてるわけです。
それこそトラウマになるんじゃないかこの店員さんぐらい、
もう店中に聞こえる声量のさらに2倍ぐらいで、
かつ台、レジの台みたいなのがあるじゃないですか。
あそこを蹴りまくってるわけですね。
でも僕は相当近くにいて、うーんって思ってたわけですよ。
一生懸命この光景を前にして考えたいって思ったんで、
ちょっと本当はさっさと離れるべきなのかもしれないけど、
まあでもまず私の方に向かってくるという、後ろ側にいたからね私はね。
で考えていて、とかく断片的だなと。
でこの女の人は止めるような素振りをして明らかに火に油を注ごうとしてるわけですよ。
つまり言いたいわけですよ。代理に攻撃したいわけですよね。
それの気持ちはまあまあわからないではない。
トラウマになったっていうぐらいだからね。
まあでもトラウマになったっていうのは、つまり断片的なんですよね。
断片的なもの、この人たちの光景から見える、
まあその男の人とその女の人から見えてる光景は全然違うんですけど、
まあこれが僕は一つの鍵になると思ったんですよね。
この女性、怒ってる女性と怒らされている男性の見ている光景は全く違う。
つまり共有されていない現実がそこにある、現実というか心的現実がそこに2つあるんですけれども、
なんで2つあるの?ピースがめちゃくちゃな組み方をしてあるから2つあるわけですよ。
で、この種のピースのめちゃくちゃな組み方はそもそもどうして起こったのかというと、
それを考えているうちに、もののけ姫のたたり髪を思い出したんですよね。
あれおかしいじゃないですか。何がおかしいって。
あれって怒りが物化してますよね。
怒りが、あれ宮崎駿さんのアニメでは、
一つの特徴的な表現技法であって、つまりブワーってなんかなるじゃないですか。
ブワーってならないじゃないですか、現実って決して。
なぜブワーってなるかって誰が、心的現実だからですよね。
どれほどそれによって森が燃えていそうで何が起こってそうでも、
あれは悪夢のような光景ですけど、悪夢のような光景ってつまり現実じゃないってことなんですよ。
人の怒りによって山は噴火しませんよね。
人の怒りによってなんかこう頭がボーンってなったりするっていうのはよく漫画の技法としてあるんだけど、
それの言ってみれば拡大、超拡大バージョンですよね。
すいません、物の毛姫とか全然興味がなくて、
たたりがみにも一切興味ない人は、この話に置いてけぼりになると思うんですけど。
要は、映画の画面が断片化したように、
ワーッと怒りによってワーッて広がっていくんだけど、
このブワーも台語であって、ブワーとは言ってるわけじゃないんですけどね。
この断片化してるのが、つまり視覚がピース化してるってことなんですよ。
ベータ要素の極地なんだと思うんですよね。
あれはベータ配出の極地。
あまりの怒りに、世界というか、視覚が崩壊していくわけですよ。
だから本当は、たたりがみというのは、たたりがみ本人にしか見えない光景を見てるわけですよ。
視覚の断片化と現実認識
ここはすごく大事なんですよ。
そもそも視覚ってそういうもんじゃないですか。
例えば、それこそクレームの人が、
例えば私がクレームの人を見て苦痛を覚えたと。
よく言うじゃないですか。苦痛を覚える。
でも苦痛を覚えてるのはクレームを出してる人でしょ。
どんなに大声を出したからって言って、その大声自体が苦痛なわけじゃないんですよ。
つまり本当はね。だけど視覚ってそうはならない。
赤ちゃんはお腹の中に空腹を覚えると苦痛を覚える。
つまり自分の体という部分に視覚を感じる。
それが、例えば外で怒鳴っている人を見ると、
その外で怒鳴っている人の部分に私たちが苦痛を覚えるっていうことが起こりますよね。
まさにピースなんですよ。
自分で作り上げているパズル界なんですよね。
このパズル界というものを持ちこたえるというのはですね、
この光景のこの怒りのこのままの形で持ちこたえて、
視覚上のなんていうのかな、その人が怒鳴ってると苦痛だ。
お腹が空いてると苦痛だっていうのは自分のことを言ってますよね。
自分の解不解原則にこだわってますよね。
でも怒ってる人というのはその人の世界があるはずですよね。
これを考えるというのが多分現実原則なんですよ。
パズルをそのままの形にして再構成かけていくわけですよ。
でも我々はそれが嫌なんですよ、多くの場合。
嫌なのでこの場面そのものを破壊してしまうというか、
壊してしまって、で、自分の都合のいいように組み直す、始めるんです。
それがナルシシズムなんだと僕は思うんですけど、
大概の人はそれをやるのもめんどくさいし、
あんまり近くの再構成なんてしたくないので、
それって結局再解釈みたいな意味になってくるんで、
その場を離れますよ。さっさと、そそくさと離れるってやつですよね。
そそくさと離れれば違う現実のところに行けるんで、
これは回避行動です。持ちこたえられないので回避すると。
別にそれでいいんですよ。そうするのが賢明だと思うんですけど、
それは回避行動なので、やっぱりですね、
その回避行動をとっているときというのはどこか、
我々はナルシシスティックなんですよ。
この近くの中に苦痛というものが混ざっていて、
欲しくないって言ってるわけですから。
それってすごく自分の都合を言ってるじゃないですか。
回避対原則中心になってるじゃないですか。
私そういうふうに人はなるものだと思うので、
あんまりこのクレーム対応とかいう仕事って
世の中にあるのはいいことじゃないよなと思うんですよ。
クレームっていうのはやっぱり断片化してはいけないものだと思うんですよね。
既にクレームを発している人は、
頭の中が断片化していきつつあるのに、
断片化した人から既に排出されて、排出されて、排出されてっていうのは、
お金いっぱいもらったからといってやっているとですね、
いろいろとそこが起きる仕事だと思うんですよね。
だけど仕事というものは仕事なのでね、
それもまたそれに対応する能力がある人と、
そういう人がスキルを発揮して進めていって、
お金をたくさんもらうというのは、
それはそれで悪いことではないと思うんですけども、
辛いということであるならば、できれば避けたほうがいいんだろうし、
あんまり世の中にそういう仕事がたくさんあるっていうのも、
あれなんじゃないかなと思わなくもないわけですよ。
これだからそういうことに苦にならないように、
知覚を作れるという人向けの仕事ではあると思うんですけどね。
そういうふうに考えていくうちに、
なんとなく分かってきたことがあるんですよね。
つまりやっぱり苦しみに持ちこたえられないわけじゃないですか。
待たされるということも、
私は一応というか全然何ら同じ時間待ってたんだけど、
そのクレームのおかげでさらに長く待つことになったんだけど、
何ら苦痛を感じなかったわけですから、
苦痛に持ちこたえられるられないというのはあるわけですよね。
苦痛というのは知覚なわけですから。
知覚を持ちこたえるというのは、
その状態のままであるべき理由があるはずだと。
ここにその知覚をつなぐ上で、
アルファ機能を発揮するっていうためにはですね、
なぜこうなっていて、
どのようにこうなったのかということを、
いちいち考えていく必要があるはずなんですよね。
そうしないとベータ要素になっちゃうわけ。
壊してしまうわけですよ。
せっかく作り上げた、練り上げたというか、
組み上げたパズルを一度ぶっ壊すことになるわけですよ。
で、ぶっ壊すときには決まってですね、
その構成したパズルそのものに深い感を感じるからだと思うんです。
つまり今見ている現実が気に入らないということなんですよね。
それはどう考えても一時過程ですよね。
最深い原則で壊すわけじゃないですか。
でも壊してもすぐ再構成される、始めるわけですよ。
だって壊しっぱなしにしては、
何も視覚できなくなったでは困るんで、
生きていけなくなっちゃうんで、再構成される。
この時の再構成がまともになるものになる可能性は極めて低いですよね。
だってせっかくそれなりに無意識と視力、聴覚、聴力、触覚その他で
作り上げた現実世界というものをわざわざ全部ぶち壊しにして、
たたり紙みたいにしてブワーって壊してしまって、はい再構成。
攻撃的な反応と再構成
今度は待たされました。トラウマになりました。
いろんな情報がありますけど、今度はもっと。
私にとって気分のいい視覚にしてください。
なるはずがないじゃないですか。
ここで私たちは、ということはこの視覚をしている現実はとても悪いものだからといって
攻撃を始めるわけですよ。
この時に松木さんが書いてるんだけど、
ビオンの書き方って非常にうるっていて、
三弾銃のように、このピースですよね。
壊したピースを三弾銃のように攻撃をするための弾にして、
現実に向けてひたすら撃ちまくり始めるんだと。
これが妄想分裂ポジションのある種の究極系の排出行為なんですよ。
非常にたたり紙のシーンに似てますよね。
このブワーってなっている自分の知覚要素、
パズルのピース、何かを見るために必要な視覚情報、聴覚情報、
すべて攻撃の材料にして、
現実をそれによって攻撃的にしていくわけですよ。
クレームのメカニズム
そうするとシュラバのようなものがすぐ出来上がりますよね。
だから怒ってるわけですよ。
そして言ってることが非常に断片的なわけ。
渡されたんだとか、太陽が冷たい、トラウマになったみたいな、
関係ありそうなものをどんどん、
それは断片的なピースを次から次へと作り出す。
しょうがないんでね、無意識は。
全体として組み上げたものは不愉快だと言って壊されてしまったんで、
再び作って、しかも今度は気分のいいようなものにするためにですね。
ということはいいものと悪いものをはっきりと分けて、
悪いものをどんどん攻撃するという、
要するにパズルの組み上げ方は劣化していく一方なわけですよ。
決して成熟はしないわけですよ。
気に入らないという理由によって壊してしまったら、
それ回復回復で壊したんで、
すでにその段階で猛烈に対抗したわけですよ。
赤ちゃんの方にググッと下がったわけですよね。
知覚の構成するための能力が。
この20、30、あの人たちは見た感じ30代中盤。
30代中盤にふさわしい知覚を作ったら気に食わんということで、
気に食わんってなった時にはもう3歳児ぐらいになってるわけですから、
せいぜい5、6歳児なわけで、
30、うん歳の人が5、6歳児になって気に食わんってボンって壊したから、
今度は5、6歳児以前のやり方で組み直すことになるわけですよね。
回復回原則がすべてだから、
自分が愉快になるように組み上げて、
現実を作り直して、その現実を退治しようってことになると、
悪いものをひたすら攻撃する、あれですよね。
だから完全懲悪の世界に住むわけですよ。
我々は善人でこの悪のドラッグストア定員を、
心を入れ替えさせるためにひたすら攻撃をするっていう、
そういうパズルに組み替わるわけで、
非常にこだわっぽくなっちゃうわけですね。
だから何言ってるのかよくわかんないし、
情報はすべて断片化されているわけですね。
その機能がすごく低下しているんですね。
なぜこう待つのか、考えないわけですよ。
待たされたって事実だけがそこにある。
生体要素っていうのはもの自体の世界なんで、
そうですよね。赤ちゃんにとってってそうじゃないですか。
すべてのものは意味不明なものだから、
なぜそこにあるのか、どうしてそういう形状になってるのか、
それは何の機能を持つものなのか、知らないんでしょうがないんですけど、
見たものがすべてバラバラなものがそこにある、
ものがそこにある、ものがそこにある、ものがそこにあるわけですよ。
すべてがバラバラなわけですよ。
ピースの意味がないわけですね。
その状態に近い状態で組み上げられるから、
私は待たされた、私は傷ついた、この人は冷たい、
全部別々のものとしてそこにあるわけです。
なぜその人はつっけんのか、多分あれはですね、
表情筋と何かがちょっとうまく機能されてない、
すごいだから大変だなと思って、私はいつもお疲れ様だなと思っているんだけど、
実に独特なんですよ。すごい優しい人なんですけどね。
で、待つんですよ。そもそもスタッフが足りてないからね。
ここ田舎なんでね、少ないんですよね。
お薬も処方された薬がすごく不足していることが多くて、
時間かかるんですよね、調剤するというような色々事情があるんですけれども、
それってつまりアルファ機能を使っているわけ。
現実というものは繋がってるんで、
何の一つもなくいきなり登場しないんで、
あのクレーワーの人たちもそうですよね。
訳があって起こっているわけですよ。
突然起こりだしたわけじゃないんですよ。
我々は怒りってものを捉えるとき、
なぜか突然相手が怒ったように見えてしまうんですけど、
よくよく考えてみると、この人は何かその人なりに、
こっちから見ると理不尽なんですけど、何かその人なりに訳あって起こってるんで、
それが組み合わさって時間がありますからね、このパズルには。
重層パズルには時間って別にいらないんですけど、
2次元でいいんですけど、ほぼ4次元なんで、世界は。
時間の系列があるんで、
踏むためにはその時系列も踏み込んで組まないと、
現実を反映したものにはなかなかならないですよ。
ただくっつけたものになってしまう。
ただくっつけたものになるから、
そういう断片的な情報と断片的な怒りと、
断片的な不快感というものがそこに組み込まれているだけで、
それをひたすら組んでは破壊するっていう、
人間関係と感情
組んでは破壊するゲームみたいになってしまうわけですよ。
だからフレームワークっていうのは終わらないんですよね。
これと対処するという話になった時には、
やっぱり私はアルファ機能を機能させるよりほぼしょうがないですよね。
もちろん、ドラッグストアの店員さんからしてみれば、
なぜ私がこれをしなければならないんだという気持ちになると思うんですけど、
これもまた同じことの繰り返しになるじゃないですか。
なぜ私がこれに対処しなければならないんだっていうので、
つまりその人のナルシシズムを言ってるわけですよ。
私の置かれたこの現実は私は気に入りませんっていう、
フレームワークの人と全く同じ理屈、
これが要するに東映同一化なんですけれども、
ということが起きちゃうんで、意味がないわけですよ。
これを繰り返していても、永遠に本当に終わらなくなる。
疲れるから終わるんですけれども。
やっぱりこの時にはもう、
アルファ機能が機能していない人たちに対しては、
そういう言われはないと言われればそうなんですけれども、
やっぱり母子関係に入るしかないんですよね。
母子関係と同じ関係なんで、いやいや全然大丈夫ですからと。
あなたが困るようなことは実は何も起こってないんですという、
そういう、起こってるのかもしれないけども、
これには全部訳があるから。
その訳は納得できる訳だし、理解もできる訳のはずなんで、
アルファ要素をちゃんと組み合わせて、組み合わせていけばですね。
ちなみに言語化というのはですね、
このピースが2つ繋がったアルファ要素というものをたくさん作っておいて、
それを組み合わせていくと意味というもので繋がっていきますよね。
象徴作用ですよね。物語化でもいいんですけど。
さらにその後にこの絵全体に対して言語というものが与えられます。
これが言語化なんだと思うんですよ。
組み合わせただけではまだこう、お客さんが怒鳴って、
えーとなんか待たされたとか言っている。
そういえばここでは40分くらい待って、
お客さんはなんか立っていたと。
なんか言い合った後で男の人がやってきた。
っていう物語が作れますよね。
この段階ではまだ絵だけでもこの物語は作れるので言語化はいらない。
これを全体でビデオテープで回して、
快感、怒鳴り声っていうものを合わせて、
これをクレームという言語を与える。
象徴機能ですよね。
だからアルファ機能、アルファ機能を繋げて、繋げて、繋げていくわけですよ。
意味のある断片で繋いでいき、
1つの絵を作り、その絵を動画にしてそこに意味を与えて、
その一連の流れ全体、ここ1時間で起こった全体に対して、
クレームという意味を与える。
これが言語化ですよ。
だから言語化まで持っていくためにはかなりのステップが必要だし、
そのステップ全体を支えているのが、
全く支えているのがアルファ機能なんですよ。
お母さんが赤ちゃんを抱っこして、
よしよし大丈夫、お腹空いただけだからっていうこれ。
ここに原点があるわけですよね。
ここに安心というものが入っていなければおかしいんですよね。
つまりクレームっていうのは不穏な空気なんだけど、
言語化でクレームってものが与えられる頃には、
その人たちはそれができる、言語化できる人たちは安心していいわけですよ。
ニュートラルは決してないってことです。
いいことなのか悪いことなのか決まってないとか、
不穏なのか安心していいのか決まってない、そんなことはないんですよ。
言語化ができて説明できるってことは、
すでに安心していいっていう材料にすでにそのこと自体がなっているはずなんですよ。
その世界を組み上げることができた人からすると。
そこにはいきさつがあり、流れがあり、了解可能な何かがあり、
クレームって言えば他の人にも何のことだかある程度はわかるわけじゃないですか。
一言言うだけで。
つまりこのパズルは正常に組み上がりましたっていう、
他の人が見ても意味わかりますという、そういう意味になってるわけですよね。
青と赤の信号の間に入ってるのが金色とか白色とかそういうことではありませんという、
それだと困っちゃうじゃないですか。
見た人がですね、共通理解のもとにないものを見る。
共通理解のもとにない象徴を見ることになる。
だから言葉というのは正確な方がまあまあいいってことはそういう意味になる。
共通理解のためのものなんで。
ということでですね、すごく僕はこのベータ排出というもの、
つまりそれは非常にクレーム的な世界ということなんだなと
一点で思うんですよね。ある点では思う。
もちろん妄想分裂ポジションというのは怒りの応酬になりやすいものなので、
そうなんなきゃいけないってわけじゃないんですよ。
別にそうなんなきゃいけないってわけじゃないんだけれども、
やっぱり組み上がったこの知覚というものが深いであり、
深いであるのは壊すっていうね。
この壊すっていう発想を取る。
壊す時に自分の知覚的な何か、
結局のところ拳を振り上げるとか何でもそうだけど、
知覚対象になりますから。
知覚を使って知覚を破壊していくっていうこの破壊行動ですね。
これは非常に赤ちゃんがやるわけですよ。
ウギャーって鳴くっていうアレですよね。
結果としてそれになっちゃうのは赤ちゃんは無力だから他にできることがないから、
知覚を破壊攻撃するって言ってもウギャーって鳴くっていう行動ぐらいしか
実際に取ることはないわけですけど。
これに対してヨシヨシやるっていう、
あのヨシヨシがつまりアルファ機能なわけですけれども、
これがつなぐという行為に、
踏み上げるという糸、
糸というべきなんですかね。
くわ立てに付けの図ですね。
ああいうものになっていくっていう必要が多分、
なきゃ困ることになるし、
だから下手な手かい、やばい組み方をしてしまうと、
脅迫的になる要素ができたり、
あるいはもうちょっと、
ものすごくだいぶいった場合ですけど、
そうすると機械な対象といったものになるんだろうなと。
要するにそれは、
なんて言えばいいんですかね。
その人のその時の強い気持ちというものを反映した、
反映して作り出された知覚であって、
それはすごくもの自体の意味のなさというものと、
クレームと独立した視点
関東の言葉なんですけどね、これはね。
似ている要素を帯びるんだろうなと。
簡単に言うと独立しちゃってるわけですよ、世界が。
変でしょ、世界から独立したものってないじゃないですか、
世の中に一個も。
iPhoneとかだってそうだと思うんですよ。
世界から独立したiPhoneみたいなものってものがパッとあって、
何のために使うのか全然わかんないと。
通信ができるわけでもなんでもないと。
そういうようなものとして世界が見えている人の特徴が、
例えばクレーマーと言われている人の言動の中には、
たぶんたくさんあるはずだと。
このことに同情できるかどうかっていうのが、
たぶん対峙する人には問われるってことになるんだろうな
っていう感じはします。
なんでそれを自分がって思うとは思うんで、
だから一日せいぜい多くて一件というのが健全なんじゃないかとは思うんですよ。
途中で言った通り、特殊技能を持っている人っていうのは世の中に、
だって特殊技能じゃないですか。
最近野球始まりましたけど、
太谷翔平さんって特殊技能を持っているじゃないですか。
世の中には僕なんかには計り知れない能力を持っている人がいるんで、
中には一日100件のクレームを受けても大丈夫っていうことも起こるのかもしれない。
私など難しくなってしまうっていうのはそういうことなんだろうなって思いますね。