AirPodsの使い心地
おはようございます。朝っぱらから精神分析第1237回をお送りします。
8月27日水曜日、朝8時57分です。
あの、聞いてお分かりになる方もいらっしゃるかもなんですが、とうとうAirPodsにしたわけです。
さっさとこれにしておけばよかったというぐらい、これはいいですね。
久しぶりにライフハック系ガジェットの記事とかを書きたくなるほどいいです。
やっぱり、もうそういうのを見つけ出してまで書きたいとかはさらさら思わないんですけど、
これは素晴らしいっていうふうに思いますね。
さっさとこれにしておけばよかったです。
なんかこう、税にを失いましたね。安物買いして。
結局、暑いわけですよ。ことのこったはそこから全ては始まってるわけですね。
耳を塞ぐ、耳当てを夏にするみたいなのは死ぬなっていう。
死ななくても意識飛ぶねっていう感じになって、これはもうどうしようもないので、
耳はもう塞がないか、塞いでもこの形しかありえない。
問題なのはマイクでそうなった時、その耳塞ぐ系のマイクが掃除て素晴らしいわけです。
多分これより素晴らしいんじゃないかと思うんだけど、
でも背に腹は変えられなくて、胸にピンつけるようなやつやってたんですけど、
あれは超面倒臭いんですよ。
しかも、あれをやってしまうとですね、いろいろあるんですよ。
一つにはType-Cの入り口が、これはちょっとApple製品の問題だと思うんですけどね、
穴を極力減らそうというですね、悪い癖ですよあれは。
あれをやるからHTMI繋がらないとかなんとかかんとかいろんな問題が起きてくるわけですが、
あれをでもやらないと当然分厚くなって無様になってAppleの好むところではないんでしょうけど、
でもこれはさすがにそういうことを徹底的にやり込む会社がやるだけのことはあり、
高いですけど、Bluetoothの接続も全く何の労力も、あれ変に労力いるじゃないですか。
なんか企画がやたら乱立してるせいなんでしょうけれども、
こっちに繋いじゃうとiPadには繋がらなくなるとかですね。
私はそんな大金持ちじゃないんで、一台一台にイヤホンは別々に買うとかできないわけですよ。
無線イヤホン1個買ったらMacもiPhoneもiPadも全部それにしたいわけですね、当然。
でもそういうことをやりたければ結局はAirPods買えってことだったんだなという感じがします。
センボーと心理空間の考察
これほどまず接続で困らないという段階で感動する。
そこがなんか変だと思うんですけどね、でも感動するんですよね。
接続で困らないことって最近かなり減ってきたんで、接続は困るものみたいなニュアンスありますからね。
コツを学んじゃうじゃないですか、接続するコツみたいな。
それがそもそもおかしいだろうという。
例えば車のステレオにiPhone繋ぎたければ、エンジンを始動する前にiPhoneつけておくとかね。
それがもうハックになってしまうわけですよね。
そういう話で3分経ったので本題に入りますと、
ここのところ、なんかこう知らないうちにですね、
あちらこちらでセンボー、つまりクラインのセンボーの話を聞かれることが増えてきたなというふうに思うので、
いろんなところでですね、サムチャレだけじゃないのがこれがまた不思議なんですけど、
そういうことが起きてるんでセンボーの話をしようと思うように少しなったわけですね。
でもですね、センボーの話とか、意がしようとすると結構意が出てきちゃうわけです。
センボー、難しいなあの字みたいな、そういう変な感じになるわけですよね。
嫉妬とセンボーって言うじゃないですか。
センボーはなんて言うんですかね、ある意味憧れみたいなニュアンスもあるんですけど、
当然クラインのセンボーは非常に破壊的です。
何しろあれですね、死の欲動の最も可烈な形とかそういう不思議な表現、
まあ多分普通に聞かれると不思議な表現。
あれは要するに自滅ってことなんですけどね。
この話はところどころでしてるんで、少しはひねって話したいってか、
無料で話すラジオでなぜそのタダでさえマニアックな話をひねるのかと言われるかもしれないんですけど、
まあこれはいろんなところで同じ話を全く同じ話をしたいとは思わないという、
僕の多分変な過剰なサービス精神によるものだと思うんですが、
すいません多分ねこれ私今ちょっと気になってるのはですね、
波形がでかいんですよね。
この波形のでかさは多分AirPodsの性能によるものだと思うんですけど、
目に見える波形が大きいんですよ非常に。
小さかったんですよ今まで。
それはそれで非常に気になってたんですけど、
波形が小さいと音入ってないんじゃないかって思うわけですよね。
本当この音収録というものは馬だなって思うよ。
本当になりましたけれども。
波形じゃなくて線棒というのはですね、
基本的に母子関係についてつまり二者関係について言ってるものは絶対だと僕は思いますね。
ここを抑えないと和訳者になってしまう。
二者関係ということはつまり心のない、ある人が線棒してもおかしくないんですけど、
神的空間が作れない人でもできちゃうってこと?
線棒なら。
二者だったら要するに神的空間がない。
三角形って空間がいるわけですよ平面的かもしれないけど、
三角形を収めるには広がりがいるわけですよ。
平面的であろうとなんだろう。
でも多くの場合立体的になりますからね、そういう時はね。
私お父さんお母さん3人というものを想像できる心理空間みたいなものがあるはずなんですよね。
でも二者ってことになってくると特にこう母と私の関係みたいになってくると、
もうおっぱいと私の関係みたいになって、
もう数人とおっぱいがあればいいみたいなそういう世界に入っていき、
神的空間とかなくなっちゃう。
べったりくっついている。
ある意味その窒息的空間みたいな感じなんです。
空間というの。
ニューニューに押し込まれている。
だからここでは、例えば兵庫みたいな問題とか、
自立となると非常に可烈になる。
だから戦亡なんですよね。
だから可烈なんです。
可烈というか過酷というか激しいわけ。
赤ちゃん激しく泣くじゃないですか。
あれを成人の男が、男の30代の人が、
あの勢いでまったく容赦なくやったらまずいですよね。
かなり周りの人の被害は大きくなると思うんですね。
ここにやっぱり心理空間というもののない状態における、
その人の切羽詰ったどっていうのの大きさを感じさせられるわけですよね。
ダセェみたいな感じ。
怒りの発生とその影響
ダセェってやって全力で押し入れとかを壊したら、
その破壊力ってなかなかなものになるじゃないですか。
そのダセェ感みたいなもの。
これがだからそのおっぱいを押し付けられている。
そのおっぱいもいいおっぱいならいいんだけど、
悪いおっぱいを押し付けられていて、
なんかもう自分はこれによって圧殺されてしまうみたいな、
そういう感じがここにあるんだろうなって思うんですよね。
いろんな感じがあると思うんですけど、
とにかくちょっとこう、
普通の心理的な空想とはかなり違うものになっていくと思うんですよ。
だから、あの誰だっけ。
えっと、杉ですよ。杉義晴さんの漫画に繰り返し出てきますよね。
なんか部屋がどんどんどんどん膨らんできて、
自分が押しつぶされていく夢を見たみたいな。
そういう漫画が杉さんの作品では非常に修作的に、
習う作品ね。
修作的に日展的に描かれているのがとてもいいですよね。
そういう夢を見たみたいな感じなんだけど。
あるいはこう、もうちょっとで出られるのにって、
上と下からつぶされていく夢みたいな、そういうやつ。
なんかあれが母親の体みたいなものを連想させられますよね。
そこにいて、自分は手も足も出なくて、
だから至急感っていうのがあるわけですよね。
出られんみたいな。
で、出なきゃ出なきゃと思ってもがくん。
このもがきが、だから成人がやるとですね、
悲しいことになりそうじゃないですか。
赤ちゃんがこうグワーってやってるのだって、
みんなが結構こうね、なんか鳴き声がどうのこうのって感じるわけですよね。
私はあれを最近はもう全くそういう目線がなくなって、
いやー、PSポジションだなみたいな、
そういう感じになって非常に勉強になるんですよね。
だから赤ちゃんがいるとどうしてもやっても、
あんまり見るのがどうかと思うんですが、
駅とかにいると、泣いてる赤ちゃんがいるとですね、
で、泣くと泣き止むっていう瞬間がきて、
これがやっぱりDとPSの伝経みたいなものなんだろうなっていうのが、
非常にこういいなって思うんですよね。
やっぱりみんな同じだし、しかもみんなそれを考えてきたんだと思うんですけど、
これを成人がやると、
フィージョンっていう話をしたくなるのも無理はないなっていう感じがするんですよね。
まさか泣きわめくわけにいかないので、
でもやっぱりこう、怖いかもしれないですけど、
よく病院、僕この番組でもお話ししましたね、
病院とか不容易なところに車止めて怒鳴られているというより、
怒鳴ってる人が注目しちゃうんですよ、やっぱり。
この人はやっぱり赤ちゃんのこのエネルギーみたいなものが、
この人を捕らえたなって感じが、
いつも見てるんで、そういうやつをですね。
だから病院の待合室とかで、
ふらえな、みたいな感じで、
ふだけてはいないわけじゃないですか、看護師とか。
でもほぼ完全に言いがかりで叫んでる人見ると、
埋めくような赤ちゃんのあの声っていうものを、
僕は勝手に連想し、やっぱ捕らえられたなって感じ。
欲動ってものに捕らえられたなって感じを受けるわけですよね。
それはものすごく僕は、やっぱり僕を捕らえることも頻繁にあるし、
なんて言えばいいのか、
もちろん身体とか脳とかから出てきてるエネルギーだとは思うんですけど、
そんなものよりも、地球上にそういう手のようなものがあって、
ガッと足掴みにされると、
もう自分ではどうにもできないみたいな感じがするんですよ。
ガッと足掴みにされて、突き動かされる。
まさにだから力動とか欲動という言葉がぴったり。
およそ欲望ではないです。
いや俺この看護師に、
ふざけんなって怒鳴ってやりたいわみたいなそういう、
そうなんですけど、欲なんだけど、
でもそういう私欲のための欲みたいな、
マイルドなんですよ、そういうのって結局やっぱり。
どんなに1億円欲しいとか言っていても、
妥当な感じしかしない。
1億円欲しいよねみたいな、そういうノリになっちゃう。
そういうノリでは済まさないみたいなものがあるんですよね。
もう言わさないぞっていう、
反論は許さないからなっていう感じがあるじゃないですか。
なんか怒ってる人のクレームの感じって。
おかしいじゃないですか。
それは見ただけでも僕は、
今のようには考えなかったから昔は、
なんでこの人はこういう反論許さないディスカッションみたいなの
始めちゃうんだろうと。
昔から思ってたわけですよ。
自分がクレームをつけられる時ですら、
なんかこういう言い方をするのっていうのは、
健全ではないものを感じるみたいなのがずっとあった。
みんな思うと思うんですよね。
そんなこと言ったってしょうがないじゃんみたいな。
六本木でね、コンビニで、
なんだったっけな、もう本当にタバコ買わずに
何分待ったと思ってんだみたいな。
そんなこと言ったってしょうがないじゃんっていう感じが
するんですよね。
相手はひたすら謝るしかし、
知りようがなくなるし。
この感じっていう、
この絶対に出口がない感じ。
だから私その閉塞感とか閉所ってものを、
おっぱいを押し付けられているみたいな。
赤ちゃんと母親の関係
いや赤ちゃんはもう本当おっぱい飲めないとして泣いてんだけど、
もう胸グイグイ押し付けられて窒息しそうなんだけど、
うーみたいなそういうですね。
でもそこにはなんかこう、
どう言えばいいのかな。
肉感的なものがありますよね。
みんなこれを嫌うんだと思うんですよ。
だからプロイト気持ち悪いみたいな話になるんだけど、
僕はこれを取り払ってしまったら、
これをどうやって説明すればいいのかって、
毎度毎度毎度思うわけですね。
だってこの切迫感が強いからこそ、
なんかこう大変なことが起きたりするわけじゃないですか。
ハワイ編をも似たようなこと書いてたんですけれども、
あのね、私の後ろをカッパがついてくるみたいな、
そういうおとぎ話みたいなの、彼好きですからね。
カッパがついてくるんだみたいな。
で、なんかただならぬことが起きてるよね。
でもまあカッパがついてくるくらい平和でいいんじゃん、
みたいな感じのことをハワイ編を書いて、
すぐ次でこれがカッパじゃなくて何かに取り付かれて、
アメリカでそういう事件あったみたいなんですけど、
なんかその取り付かれているのが恐ろしすぎて、
なんか銃乱射したら15人も亡くなってしまったみたいな、
現代の子供は大変だみたいなことを書くわけですよ。
こういう切迫感を、これはなんかこう、
カワイハヤの上手さなんですよね。
気持ち悪くないじゃないですか。
でも私は書いてることのその、何ていうのかな、
問題なのは内面で感じることの怖さなんですよ。
小綺麗には書けないことを書こうとしてるわけですよね。
小綺麗に書いちゃうとそれは客観的な描写になってしまって、
あのお母さんは子供のお世話をちゃんとしませんでした、
にぐれくとですみたいな、これは客観的な描写なんですよね。
それはそれで悲惨なんだけど、そうじゃなくて、
胸に押しつぶされる感じみたいなのって、
我々は体験してきている可能性は十分あるわけですよ。
で、それは幸せというものと密接に関係がある。
怒りの心理状態
そして逃れられなさというものともまた密接に関係がある。
おっぱいを吸わないと死んじゃう。
そしてもらえれば幸せだっていうこの隣り合わせになってるもの。
すぐそこに死の恐怖があるんだけど、
すぐそこには幸せの楽園みたいなのがある。
ユートピアと、圧殺される恐怖みたいなのがまとなりにある。
この感じですよね。
偽造化と脱価値化が一瞬で切り替わる。
だからさっきまでものすごくニコニコしている愛らしい赤ちゃんが、
いきなりもう激震に触れたように。
これがあるわけじゃないですか。
私はこれが気になってるんだと思うんですね。
さっきまで死因としていた病院の末縁室が、
いきなり土壌でバチッと切り替わるっていう瞬間が起こるわけですよ。
さっきまではお母さん絵本読んでみたいな空間だったのが、
いきなり50代の男性のまりといかつい感じのがね、
もうなんかこう、ここで何だってやってやるぞぐらいの雰囲気に、
一瞬で切り替わるわけですよね。
あの感じなんですよね。
この感じが伝わっていないなって感じがするんですよ。
僕はやっぱりこれは性的関係とかに入ってくると、
非常に成人でも頻繁にこのパターンにはまるような感じがするんですよ。
よくあるじゃないですか、男女のもつれみたいな、
何も殺さなくてもみたいな感じを、
客観的には持っちゃうんですよね、ニュースとか聞いてると。
でも主観的にはどうでしょう。
やっぱり幸せいっぱいと、
もう見捨てられたら死ぬしかないんだみたいな、
すごい心理状態の超高速なスイッチが起きるっていう人の
心理的な何かを、内面からは無理なんですけど、
その人のでも主観を描写しなければならないんだと思うんですよ。
何らかの形で。
それをやっていかないと、分析でもカウンセリングでも臨床でも
何でもなくなってしまうんですよ。
単なる説明になってしまう。
単なる説明なんかをいくら聞いても、
意味全くないと思うんですよね。
だってそんなことはみんな知ってることじゃないですか。
赤ちゃんの期限はコロコロ変わります。
それは分かってることですよ。
そういうことではなくて、
赤ちゃんにとってそのコロコロというのが、
どれほど抜き差しがたいようなものであるかっていう。
だからこそその抜き差しがたさを人は実は訴えている。
つまりこのメタファーを聞いて何かを感じてほしいって思うんだけど、
だいたい何も感じられることはなく、
赤ちゃんの話はいいから、私の問題どうしてくれるんですかってことになるじゃないですか。
でもそれがまさにその人の抜き差しがたさをよくよく表してるじゃないですか。
その抜き差しがたさ、あなたのお気持ちを理解するために
こういう少々気持ち悪いとかセクハラだとか言われても
頑張ってやっているというこの努力が向こうにされかねないような
その抜き差しがたさを持っていらっしゃいますよねっていうことですよね。
結局話なんか聞いてられないわけですよ。
だからお前続けんなみたいな。結構どもってたりされるわけですよ。
もうなんか怒りというか伝えたさが滲みあふれてきて
なんかこうスムーズに言葉が出てこないんですよね。
病院の待合室とかで。
なんかもうこれから怒鳴るぞっていうその怒鳴る感覚の中に
ディスカッションと結論の変化
完全にはめ込まれてしまっていて、
だからもう他の人の話聞いてないわけですよ。
タバコ買うのに何分待ったと思ってんだって聞いてるわけじゃないんですよね。
いやあなたが待ったのは23分ですとかそういう答えを言ったら
多分ますます怒りに触れるじゃないですか。
つまり聞いてるわけじゃない話聞いてないわけですよ。
この話聞いてないっていうのはすごくありますよね。
赤ちゃんだってそうですよね。
こう胸とか押し付けられたりなんかお母さんの下敷きとかになってた
話をしてる場合ではないわけですよね。
もうこう足をバタつかせて泣くより他はないっていう感じですよね。
精子がかかってる。
でもだからといってお母さんが密着してくれるのは嬉しいっていうこの感じ。
この感じはあの私は性行為の感じというものと
スコール近いって感じを抱くわけです。
だからあれは母子関係のメタファーだとやっぱり
母子関係のメタファーだけではやってられんって思う男女はいっぱいいると思うんですけど
でも母子関係のメタファーはここには相当あると思っています。
私は今はですね。
自分がだいたいそれとあんまり関係のない年齢に差し掛かりつつあるというか
自分の人生においてはそれはもうあんまり重要な意味を持たなくなりつつありますが
なのにもかかわらずその母親恋しさで
なんか見たくなるとかそういうのは依然としてあるわけですよね。
つまりそこから僕は自分が卒業できるとか脱却できるとか
なんかのこうね境地に達したみたいに脱貫しましたみたいに
そういうことは起こらないと思ったんですよ。
起こらないというのが脱貫だとか言われて
非常にこうメタ的に困ったことが議論されやすいんですけど
いやいや脱貫とかしないからって感じなんですよ。
もう僕は信じてないって感じなんですよ。
その辺の仏教的な何かみたいなのも多くの人これはね
多分信じてるんだと思うんですよね。
なんかこう水のような境地とかってすぐビジネス書で書くし
そういうのってすごい売れるんだけど
私はね信じられないなって思うんですよね。
それ書いてる人は全然そういう境地にはいないだろうと
なんて言ったっけ
あれですよ水鏡の神経みたいなやつですよ。
で何でかっていうと
私はフェーズっていうものは
そもそもあんま信じられないってことなんですけど
あくまでもポジションっていうようなものに近い
ポジションでないにしても心理状態っていうのは
様々な脳の部位で説明してもいいんですけど
ここがこういう神経伝達物質優先になったら
そういう心理になるしかないんですっていうようなね
自己コントロールって言っても
誰がコントロールしてるんですかっていう
つまりコントロールのセンターが
扁桃体とかになってしまったら
その人も激怒するようになっているわけですよね。
コントロールっていった時の自己はどこにいるんだろうって思うと
あんまりこの種の議論に興味が湧かなくて
だから自己肯定感も同じで
脳のどこを肯定すると言えばいいのかっていうね
前頭腰なのかと。でも前頭腰が
基本的に前頭腰にはもう
あんまり血流多く流れなくなるシーンって
出てきちゃうわけですよ。だってやっぱりですね
そういう怖いおじさんがガガッと怒鳴ってると
私はそういうのも一生懸命観察するように努力してますけど
この震えるっていうのは
自我が十分鍛錬されてないからとかって
剣術とかでは言うのかもしれないけど
私は違うと思うんですよね。これはやっぱり
このおじさんを私の脳の古い部分が
クマかなんかと勘違いしてるから震える。震えるというのは
やっぱり脱出しなきゃっていう風に言ってるわけですよ。
でも私は観察したいから脱出する気ないんで
遠巻きに利き耳だけ立ててるわけですよ。
でも脱出する方が賢明でしょ。そういう時は本当はね。
でも脱出しないわけですよ。
なぜならこれを将来何かに生かそうとしてるからなんです。
欲に駆られてるわけですよ。でこの欲は
前頭前夜付近にある多分欲なんだと思うんですよね。
簡単に言うと頭の中の前頭前夜と
扁桃体が綱引きを始めてるわけじゃないですか。
でこれを理性と感情とかに
言うのかもしれないですけどそれはもう予備なんですよ。
ポイントはそういうことにあるんじゃなくて
このどっちかだけにはできないし
切除とかすればできるでしょうけど私は
切除は達観にならないと思うので
達観というものは私は目指してないなって思うんですよ。
ならないじゃんって思うんですよ。どっちかがセンターじゃないんだから。
どっちかがセンターならばその手綱を握っている甲が
握られている甲を
仕付けるってことはできるのかもしれませんけど
そういうことはできないと思うんで脳の構造を
いくら勉強してもセンター出てきませんし
クラインとかいわゆるフロイドの極小論を
読んでいてもどこにも長字がセンターであるとか
誰も書いてないんですよね。で字がセンターである
セントラル英語みたいなのを書いていたフェアバー
みたいな人もいたんですけど結局のところ
コンセンサス取れてる感じはしませんしね。やっぱり
映っちゃうんじゃないかな対象関係の中でっていう
やっぱりせいぜいさまざまな対象の
ディスカッションの結果出てきた結論を持って
その人は意思ってみなすだろうと。
そうするとその中で特に相当する
対象なんていないわけですから。
父親対象がトップなわけでもないし
母親対象がトップなわけでもないし
理想児が対象がトップなわけでもないわけですよ
と思うんですよね私はね。だからそんなものには
期待できないなって思うので
ディスカッションもするということであればですね
次々と結論は変わるわけでそしてディスカッションの議長も
議長役がいないので内的議長対象とかって
そういう対象が出てきた試しがないんですよ
だいたいせいぜい長寿が対象なんですよ
でだいたい長寿が対象っていうのは
原始的長寿が対象とかって書いてあって
フロイトの理論とリビド
要するに子供っぽいわけですよね
そういうこと聞けみたいなそういうやつでしかないわけで
そういうやつが大事になることはあるでしょうけれども
だから何なんだろうなって感じはするんですよね
この長寿が対象が自分の人生を牛耳に入れば幸せです
それはどう考えても真実ではないだろうという感じしかしない
でその生々しさみたいな話にちょっと移ったんで
そっちの話をしたいわけですけれども
フロイトが生々しすぎるというのはですね
それは当然だとやっぱ思うんですよね
問題なのはリビドが性欲かどうか
リビドは性欲じゃないと思うんですよね
性欲も含まれると思うんだけど
性欲イコール性欲だとは思えない
むしろそれよりも何よりもですね
性欲ってそもそもどう働くかというと
独欲のことを考えてみるとですね一番分かりやすいんですよ
赤ちゃんはうんこだって口に入れちゃう
で生々しいじゃないですか今の話
多くの人は嫌がるんですよね
でもですね私たちはそこで
赤ちゃんが何でも口に入れる
だから気をつけるんですけどね親はすごくね
ビー玉とか口に入れて結構怒りますから
で口に入れていいものといけないものを分けるじゃないですか
で我々はこの分けるということはつまり
内在化されてるわけじゃないですか
教えが自分の中にインストールされてるわけじゃないですか
このことを軽く考えすぎなんですよ
母親が内在化される父親が内在化される
当然じゃないですかだってこれはね
小さい子を持ってみれば絶対分かることだと思うんですけど
私は横断歩道は手を挙げて
青信号になったら渡るんだよって言っただけで
4歳以上横断歩道を渡らせたいと思わないでしょ
特に今の親御さんは思わないでしょ
少子化だしね子供すごい大事にするようになったから
昔は結構ね危ういことやってたんですよね
私5歳の頃に横断歩道勝手に渡って川べきとか行ってたし
赤信号とかも平気で渡ってた時代ありましたから
昔ってそんなもんだったんですよね
すぐ死に合いますよねそんなことやってたらある意味
一歩間違うとだからなんだけれども
何を親がしたいのか私がいなくても
私の教えに沿うんだよって内在化させたいじゃないですか
だってそうしないと危なくってしょうがないですよね
これはやっぱり5、6歳以上の子供がいれば
みんな考えることなんですよね
私をこの子に植え付けたいぐらいな感じ
そんなになんか四六時中見張ってたいとかになってくると
極端なんだけどそこまでいかないと思うんですけど
少なくともビー玉は口に入れないようになってほしい
できればミニトマトもすぐに飲み込まないようになってほしい
とあるわけですよ内在化させて
内在化してるからこそ我々はホットケーキは
食べたいけれども何ですか
オーストラリアあたりの保健住民が食べているような
アリサンのなんとかみたいなのは食べたくないわけですよ
でもあれは食べそういうのを食べる文化の世界では
普通に食べるんですよコウモリとかね
あるじゃないですかそういう内在化されているから
もともとはなかったんですよ
どっちだって同じだったんですよ我々にとっても
別に何だって口に入れるんですよ
食欲を区分けするということをするためには
それができるようになるだけの
訓練がいるんですよ我々はもうすっかり
内在化されてるからこれは本能だとか思ってるんですけど
とんでもないことで本能ではないことは明らかじゃないですか
人間の本能はコウモリを食べないとかそんなことはないわけですよ
内在化された教育の影響
これと性欲はすごい近いと僕は思うんですよね
なんかX見ていると
平気で差別的なことをバンバン書いている人がいて
驚かされるんですけれどもそれはあれですよ
ポリティカルなんとか的にあれだったんじゃない
性欲をなんだと思ってるんだろうって思うんですよね
私これ分析とかのことを知らなくても思いますもん
例えばやっぱり健康な男だったら
女性に向かうよねみたいな
それはあなたが内在化された結果に決まってるじゃん
決まってると思うんですけどね
なぜ異性に向かうというのが本能だと思ってしまうのか
とてもとても僕は不思議です
親に向かわないのは本能だとかとんでもないことですよね
だって他に昔ほら言ってたじゃないですか
ヤマト王国の
国王ですよね
ヤマトの国王が
東北制伐とかに行く時に長寿にも等しくて
妊娠相関やりまくりだ
ああいう奴らは平定していいんだみたいな
長寿がしてるということは本能だってことじゃないですか
してるケースはあるんだけど長寿は
当然私は当然だと思う
これがなんで気持ち悪いになっちゃうのかが分かんないですよね
ここでなんで区別するのか
親はもう我々は本能的だと言ってしまう人が出るほど
心理的に自然と妊娠でない方が
いい感じがするとか
そういう自分の好みみたいなものができるじゃないですか
なんでこれをこんなに自分の体の中で強烈に働いているこの力を
スルーしてかかろうとするのかという
ある種の人はトマトすら食べられないじゃないですか
これは絶対何かしらの内在化の結果に決まってるんだけど
本能だとか言い出すんですよね
本能的に受け付けないとか生理的に好きですか
そんなはずないじゃないですか
私生理的に全然トマト好きなんだから
自分で自分の感覚の中で吐き気とかしますから
だから吐き気ってなったらフロイトもそうでしたけれども
フロイトも非常にずれてるなとは思ったんですけど
でも吐き気がするってことは好きだってことだ
みたいな話が出てくるわけですよ
吐き気がするはずないだろうと
だって赤ちゃんの時に別に人とベタベタくっついたからって
生理的におぞけを踏むとか吐き気がするって絶対なかったと思う
どんな人であったとしても
それやっぱり訓練した成果
自分の身体感覚として持つようにまで至るっていう訓練の成果なんですよね
この種の訓練をこれほど施して
これほどそういうものに意味があると
力があると感じるのであるならば
もちろん無意識的って言ってもいいんですけれども
でも意識もしてると思うんだけどね
だってこの種の男は生理的に受け付けないって言ったとき
その人全然無意識じゃないじゃないですか
明らかに意識してるじゃないですか
こういう力が働いているということは
怒りの心理的メカニズム
新しい職場に行って書類に書くのがどうも気が乗らない
当たり前じゃんって感じがしませんか
ここが大事なんですよ
あなたはそのように例えば肉は好きだがコールスローはどうもなって感じがするっていう
身体感覚としての好き嫌いというものを学ぶところまで来ているのに
ある種の仕事が生理的に入りやすい入りにくいということが
自然と起こるように自然と起こるんですよね
知ってられてきたと考えるのは妥当じゃないですか
私はそうだと思うんです
そうじゃなかったらおかしいじゃないですかむしろ
そんなの生理的に判断してるのに決まってるじゃんって感じが僕なんかするんですよ
身体的じゃないかもしれないけど
だからこのしつけられた訓練みたいなものを問い正さなければ
仕事がスムーズに行く行かないを左右してしまうのは
これはもう当たり前のことだと思うんですよね
なんかこうライフハックっていうのは結局それを
例えば5分間タイマーで頑張りましょうっていうのは
鼻をつまんでピーマン食べましょうっていうのと全く変わらないわけですよ
いやそれ絶対仕事好きにはなれないですよその方法では
構わないけど緊急の時にはそういうやり方をするのはいいと思うんですけど
鼻をつまんでピーマン食べるのもどうしてもそういう栄養を取れっていうなら
私はそういうのはいいと思いませんけどしょうがないのかもしれない
なんかピーマン粉々にしてなんかこうオレンジジュースにでも混ぜるとかね
それもしょうがないのかもしれない美味しくなさそうですが今喋ってて思ったのは
でもそのやり方は自分の生理的なしつけには一心も触れてないというのか
何にもそこのところをいじらないままに
そこだけをうまくやれるようになるっていうそういうことは
起こり得るはずがないと私はやっぱ思うんです
それは性的な好みと言うのと関係ないで
まま性交渉をしていきましょうって話に違って
できるかもしれないけれども
それが気分よくやれるようになるっていうのは多分幻想に限りなく違う
そしてこの種の生々しさが私は欠かせないと思う
その人がそれほどまでにある種のことをやりたくないやりたくないって言ってるのに
生々しくなくいけるというのが不思議なんですよ
ここは身体に食い込んでいるっていうか身体的な反応を
そこにはもう関わってこざるを得なくなっているんで
メタファー何か絶対いると思うんですよね
別に性じゃなくてもいいんですけど
定理的なメタファーだから母子密着っていう話をしたいというか
これしかメタファーとして妥当性のあるものがあんまないなって感じがするんですよね
密着があってこそ脱カチカと理想化みたいな世界が分かりやすく見えてくるわけですよ
横にいるとかほとんどくっついているっていう
この感同一的にくっついてきているっていうこの感じがあってこそ
普通に考えれば遠くにいるアイドルとかを
なぜ理想化するんだっていう
いや顔がいいから
いやだって顔がいい人他にいっぱいいるじゃないですか
大好きだった人が急に結婚したからって大嫌いになったりする
その観点はどこから来るんでしょうねっていうのは
説明がすごくつかないじゃないですか
あまりにも期待しすぎだとか期待しすぎただけにしては極端だというのがあるんです
中間にちっともとどまれないのは何でなんだっていうような話ってあると思うんですよね
食べ物の好き嫌いって意外とそうじゃないですか
大好きか大嫌いになりがちですよね
ジェットコースターみたいな話ですよね
マイケル・バリントーが言っていたジェットコースターみたいな話です
あれらの話は全て生々しいんですよ
生々しいから意味があるんですよ
嫌だってこれを聞くのは嫌だっていうこと
嫌なものがあるということが掘るなら掘りがいのあるポイントなんですよ
掘らずに置くというのは当然現実的な心理臨床のテクとしてですね
ここが掘りどころだこの人の苦しみをここで取り除けるが
しかしここを掘ってしまって結局のところは拒絶反応
拒否反応みたいなものしか出ないっていうことはあり得るから
そっとしておこうっていうことによって
あんまり効果はなさそうだけれども違う話をしましょうっていうのが分かるんですよ
それは当然あるはずだと思う
何でもかんでも急所を掘ればいいって問題は絶対ないと思うんですけど
でもこの番組は個人のケースのセッションをしてるわけではないですから
いや私の話してましたよねみたいなことをおっしゃる方もいらっしゃるんですけど
してないですあくまでも私はこういう時に能力に思い浮かべるのは
実際に読んだ臨床例か私の話にしてるここではもう
どこかの回からずっとそうしてる
特にこの第3カ月チャレンジの今期が始まってからはそうしてます
いろいろ反省するところもありましたからね
極力もう出さない今後ゼロにしていくっていうのはもうやりますけど
なんでかっていうと同じことがいくらもあるんで
実際に同じようなことが同じことはないね
同じようなことがですね
怒りの根本原因
今言ったような総局構造とか戦防みたいな話からのアレンジメントは
もう本当にあらゆる人と言ってもいいぐらい精神分析の本を読んでいて
この種の事例が出てこないという本はないなって言ってもいいぐらい
本格的な本であれば絶対に出てくるぐらい
つまり非常に多いということです
非常に多いということは人の心の構造の中に
この種の課題を生みやすいものがきっとあるんですよ
もし母親メタファーとか戦防とかが一切間違っているとしても
そんなことはないと思うな
そんなことはないと思うけど
でもこういう問題はなくならないというようなぐらい
この構造に突きまとう課題なんだと思うんですよね
これはそうだと私も思いますよね
なぜお母さんは昭和のお母さんは昔
悪い行動したら押入れに閉じ込めるよみたいな
そういう牢屋のメタファーみたいなもんですけど
ああいう閉所と閉塞感みたいなものを
普通にどこの家でも結構扱っていたのか
おば急にもおばけの急にそういうシーンが出てくる
なぜなのか
なぜ子供があなたから勉強し
今日の宿題終わらない限り一本も出ちゃいけませんと
伸田くんのママは言うのか
トイレどうするの
閉塞感というものと育てるということは
関係があるはずなんですよ絶対に
閉塞はそして罰であるということを
みんな知ってるんだと思うんですよね
自由になったからって伸田くんにやることなんて
たかが知れてるじゃないですか
ジャイアンにいじめられるぐらいのもんじゃないですか
外に行って自由になりたいっていう風に思う
この心理ってのは間違いなくこの旋風
私は旋風というのは結局のところと
そこには自立心っていうものがあるに違いないと思っていて
閉じ込められれば自由になりたいというのが人間なんだろうと
自由になって何するんだとかニーチェが言ったって
そんなこと知ったことじゃないんですよ
問題ながら閉じ込められているということが
恐ろしいということであって
自由になってやることっていうのは
せいぜい手足をわたわたして駆けずり回るとか
そんなもんですよ
おじゅうになったってですね
そんなもんですよ
だから私だんだんだんだん自分の自由というものに
興味を失ってきつつあるんですよ
家にいて家族のリクエストに
ただただひたすらうろうろしてれば
それでよくないって感じがしちゃうんですよね
この感情になるこれをたっかんとしたいんだけど
とんでもない話で
これは母親離れでしかないです
母の閉じ込められること
母にだからおしいれに入るって言われること
それが怖かったってことです
そしてそれが兵的なものを連想させるということです
非常にそこには外部というものが欠けている
だからナルシシズムの世界に閉ざされるという恐怖ですよ
この恐怖は抜き刺しならないレベルであるわけですよ
思うに私がちょっとこれは飛躍がありますけれども
多分病院の待ち合い室で
ここに何時間以内はいいと言うんだろうみたいなことを言って
叫んでる人も同じ恐怖にとらわれているんだろうなって
私は今ならば思うんですよ
だから一生懸命聞き身も立てていて
この人はどれぐらい看護師に母親を見ているんだろうと
どれぐらいこの外に出られないということを恐れているんだ
縛りつけられてるって言いたいわけじゃないですか
拘束されていると
拘束時間というものは花札嫌いますよね
でも自由になったら何するんだって
だってその人だって私その人の様子を
しらしら見ていた時に思ったんですけど
スマホでヌーッとしてるんですよ
病院の待ち合い室から出たってスマホするんでしょ
何がしたいのか
自由になりたいっていうだけじゃないですか