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2020-09-23 38:52

【GMV 227】幸せなら態度で示す

幸せでなければ示せない
00:05
おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
少し前に、グッドバイブスの一番新しい本である、
クラゾの計像さんとの教授ですね。
F1.0で生きる技術がKindle版になりましたので、
残念ながらと言いますか、アンリミット対応ではないんですけれども、
よろしかったらこちらの方をAmazonからお求めいただけるといいかなと思っています。
もしかすると、私はちょっとまだ調べきれてないんですけど、
あまりご利用されている方は多くないとは思いますが、
楽天とか木の国屋さんの電子書籍版も出ているかもしれない。
というのは、アンリミット対応でないというのは、
そうである可能性が結構あると思うんですよね。
他のあまりご覧になったことのない人が多いかもしれないですけど、
他のKindleじゃないもので読む、楽天の電子書籍とかで読むことのできる電子版も出ているかもしれません。
こういう表現をクラゾのさんがされたことは多分ないような気がするんですけど、
心理学に笑うと幸せになるとか、泣くと悲しくなるという考え方があって、
これは実証ってことは私は心理学にそぐわないと思うんですけど、
実験である程度認められている考え方なんです。
池外雄二さんという脳科学の先生がかなり面白くこの話を書いていて、
本を読まないと面白くないんですけど、
要はすごく簡単に言うと、
鉛筆を口で加えると幸せになれるっていう話なんですね。
ちょっとマインドハック的な話ですよね。
要は口角が上がるだけで人は幸せになるという話なんですが、
これってちょっとスピっぽく感じられる人も多いと思うんですね。
で、僕よく感じるんですけど、
スピリチュアルぽいという言い方をした時に、
対義語がそもそも何なのか、常識的なのか、あるいは合理的なのか分かりませんが、
スピリチュアルぽいって話をした時に、
それはつまり、どういう意味なんだろうなって思うことって結構あるんですよ。
この話は脳科学では割と受け入れられていまして、
笑顔を作るとそれに即したっていうのかな、
それに相応しい脳の働きが起こるんですよ、現実に。
03:05
この部分には少しもスピリチュアルらしさはないですよね。
ものすごくドライに言ってしまえば、
笑顔を作るということによってその筋肉の動きをフィードバックした脳がですね、
神経伝達物質の流れなんですけれどもね、
何が多く出るとかいうよりは、
どこにどういう流れが出来上がるかという神経伝達物質の流れが変わって、
そういう幸福感というものを実感できるニューロンの動きになると。
こんな風に言えば、さもスピリチュアルっぽくなくなっていくんじゃないかなと思って、
こんな風に言ってみたんですけどね。
それが笑うと幸せになるだと、
偉くスピリチュアルっぽく聞こえると。
どうしてなんだろうって思うわけですよ。
有物的だといいんですかね。
物質が動いている感じがすれば納得感が増すのか。
あるいは科学的っていうんですかね。
科学的ってことはつまり再現性があるという話なんですか。
再現性があるだけだったら笑顔になって幸福になるだけでも、
再現性さえあればスピリチュアルっぽくない感じなんですけど、
多分僕はそういう話じゃない気がするんですよね。
再現性ということに絡めて言うと客観性っていうものがあって、
多分合理的な考え方でいたい、スピリチュアルを排除したいっていう人は、
例えば自分が今幸せか幸せじゃないかは、
もっと確定的な事項であると言いたいのかなという気もします。
そんな風に笑顔になったり悲しい顔をしただけで左右されるのではなくて、
こういうことがあったら悲しいの、あるいはこういうことがあったら不幸なのだと。
不幸であることは万人にとってとまでは言わなくても、
ある程度の人が間違いなく、特に自分の場合はほぼ確実に再現される不幸である。
それをあれこれ、不幸現象が起きてにもかかわらず、
幸せになるものの見方もあるみたいなのはダメだと、
こういうことなのかなと思う時が結構あります。
合理的ではないですよね。スピリチュアル嫌いっていう人の発想が必ずしも。
例えば私が知っているスピリチュアルを受け付けなさそうな人の98%がゴキブリが出るとかなり激しく反応する。
で、ゴキブリが出るとそんなに激しく反応しなければいけないのは科学的だろうかというと、
僕はそうは思わない。
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ゴキブリが部屋に一匹いることでものすごくその人に実害を生み起こすかというと、そんなことはない気がするんですね。
少なからぬ人が同じような理由でクモもすごく嫌う。
でもクモってのは毒グモでもない限り人間には害はないし、
巣を張らないクモは特に人間にはむしろ非常に便益が大きい。
だからクモ殺すと不吉なことが起こるとかって言ってたりしたんだと思うんですよ。
で、このゴキブリ嫌いの人がクモも嫌いってことは多々ありますが、
クモはですね、ゴキブリは幼いうちから特に卵のうちから食ってくれるんですよ。
それも人間には全く害を及ぼさず、毒も持たず、巣も張らないクモが食ってくれるんですよ。
だからクモをことごとく部屋から追い出すとか、何なら殺虫剤で殺しまくるというのは、
全然合理的なわけでも科学的なわけでもないんですよね。
で、私からするとクモすなわちおぞましいっていうのはスピリチュアルな感じなんですよ、どっちかというと。
で、このクモがすごく嫌いなのは、私はとにかくクモは嫌いなんだから、嫌い以外の何者でもないという、
この態度がですね、例えば常識的であり合理的だということであるならば、
笑顔になっただけでクモがいる部屋じゃ幸せになれないというのも辻褄が合うわけだから、
つまり一番半スピリチュアルというかうんちスピリチュアルな感じがするのは、
実は自分の感情には一旦確定したら変更は効きませんと。
そういうことならばこれが一番実はスピリチュアルじゃない感じがするんですよ。
これは結構ですね、受け入れられるかなと思って先日考えてたんですよね。
つまりスピリチュアルというのは科学的とか優越的とか合理的ということとは関係なくて、
自分の感情は人為的に左右されない、好きとか嫌いというものはもう客観的に確定しているんだと、
こういう考え方なのかなというふうに思うんですね。
だから自己啓発とかスピリチュアルが気に食わないという人たちにしてみるとですね、
嫌なことがあり、嫌な気持ちになったらもうそれはどうにもならないし、
時間の経過でいつかは忘れたりしてまた気分は治るわけですけど、
そこはどうするんだろうって思うんですけど、
この場合時間の経過が神秘性を帯びているんですけれどもね。
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突き詰めるとでもこれが一番近いのかな。
ペン加えたぐらいじゃ幸せになれなかったり、
セルフヘルプの本を読んだぐらいじゃ幸せになれなかったり、
ヒーリングミュージックを聞いたぐらいじゃ幸せになれない。
ここが大事なのかなと。
で、時間を使ってこんな話をしちゃってるんですけど、
これがですね、僕の頭を握ったのがですね、
グッドバイブスだって自己啓発系ですよね。
つまり何にもしないんだったら何にもいらないわけですよ。
自分は不幸で苦悩で悩んでます。
でもこれをどうこうできると考えるのは全部スピリッチャーだから許せませんということであれば、
何にもしないわけですよ。
だったらもう何にもないわけで、
つまりセルフヘルプってのはどこかチェンジをやっぱり目指すわけですよね。
目指すとか人為的に力加えないんだけど、
結局たとえ自分はそんなに不幸なんだろうかと考えてみるとか、
イリュージョンではないかと疑ってみるということ自体がすでに一つの解釈を含むじゃないですか。
物の見方を変えようというのとは違うんですけれども、
でも物の見方を結局ある程度揺さぶりをかけたりすることになりますよね。
一切何にもしないんであればですね、
それはもうそこには何もないわけで、
これがたとえばライフハックだとしてもね、
ダスクシュートで記録を取るなり、
私たちちょっと一時提唱してたんですけど、
日記に書いてみるなりして気分が変わるみたいな話をするのだって、
これだって感情についてあれこれやっちゃいけないという観点を徹底的に突き詰めるならば、
日記療法だってスピリチュアルですよね。
もちろん心理カウンセリングだってそうです。
唯一許されるのは交付丸薬でも飲むことでしょうね。
多分でも多くの人は交付丸薬をちょっと気分落ち込んだぐらいじゃ飲みたいとは思わないでしょうから、
結局何もしないということになるのかなと。
せいぜい甘いものを食べるとか。
もともと甘いものを食べるんだってある程度はスピリチュアルですよね。
なんで甘いものを食べることによって心配事が消えていくのかというのは、
説明しようとするさっきの笑顔を作るのとほとんど変わらない説明が発生するんですよ、そこには。
だから結局そういう意味で何かしら外から働きかけて気分を変えるというのは、
徹底すればどれがスピリチュアルでどれがスピリチュアルでないという
区別をつけるのはそんなに簡単なことではないと考えてみるならば、
何か揺さぶりかけるのは私はむしろありなんではないかと思うんですよね。
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もう一つ言うと黙ってじっと受け入れるというのは既に一つの宗教的態度だと僕は思うんですよ。
ものすごく辛くて苦しくても何もしないと。
カワイハヤオというユングのカウンセラーが、ユング派の臨床心理師さんがこれを実は言うんですよね。
臨床心理師の究極の仕事というのは苦しんでいる人と一緒にいて、
無意味を共有するというかするんですけど、お互い二人で何もしない。
一切何もしない。話したりもしない。
とにかくただ一緒にいて、やれることは何もないということを
お互いでその場にいて、その状況に耐えるというのではないですよね。
本当にその状態のままあるという感じなんですよね。
非常に仏教的だと思いますけれどもね。
これで治るというか苦悩から結局苦しんでいる状態が何とかなっていくというのは、
これはこれで私はスピリチュアルっぽく感じる人も多いんじゃないかなという気がするんですよね。
むしろ甘いものを食べる方がそうじゃない感じがするでしょうね。
でもそれは必ずしも合理的な話ではないとは思うんですね。
態度で示すみたいなところがグッドバイブスの考え方だと、私は結構あると思っていて、
昔から歌を歌っていて、僕が小さい頃は嫌いだった歌です。
幸せなら態度で示そうよってやつですね。
あれは結構グッドバイブスでは近い話になっているなって思うことがあります。
例えばですね、奥さんから食器棚をきれいにするように頼まれたということがあったとします。
そんなことはうちでは結構あります。
先日、台風がもうすぐ近づくらしいですね。ここ東海だから。
で、シェードを片付けたんですよ。
かなり骨が折れたんですけど、シェードを片付けろと言われて片付けると。
この時にですね、シェードを片付けるということがすごい大変で、とてもやれない。
だからあんたやってっていうことになって、押し付け合うということはですね、
シェードを片付けるということはとても大変だということになるんですよね。
態度で示すので。
で、シェードを片付けるのが2つ返事ですぐ引き受けてできるということであればですね、
自分がさっさとやればいいんですよ。
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なぜならばそれはとても簡単なことだから。
恐れと不安を取るっていう話があるじゃないですか。
シェードを片付けるということが、それは過剰労働でとても大変なんではないかと思うと不安になりますよね。
そしてやらないとできなくなると。
この発想ってすごく態度で示す的な、心理学ではこの意味で態度って使うんですよね。
態度でこれが簡単であるということを自分と他人に同時に示すと。
そのために一番いいのはですね、2つ返事で引き受けてすぐやってしまうという話になるんですよね。
そうするとその仕事は大変ではなくなる。
多分これはさっきの文脈で大変スピリッチャルだと感じる人もいると思う。
大変なものは大変であって、万人にとって大変であって、少なくとも自分にとってはどういうふうに捉えても大変だと。
ところが私たちのものの評価って決してそういうふうにはできてないんですよね、実際には。
コカコーラとペプシコーラの話、有名なのがありますよ。
コカコーラとペプシコーラで、コカ好きな人にコカコーラの缶に入れて飲ませるとおいしいと言う。
ペプシコーラの方をコカコーラの缶に入れて飲ませてもおいしいという。
逆にするとまずくなる。
この時は本人がどういう評価をするかということとはまた別に脳の中を見るんですよね。
そうするとコカの缶で飲んでいるペプシの味はコカっぽくなるんですよ、脳の反応が。
あるいはおいしいと評価するその反応が出ると。
これはスピリッチャルなのか科学なのか、それを言うのは非常に難しいことで、
ただ私たちのものの評価というのはこのレベルにとどまっているということです。
要は言っているほど決定的でも客観的でも確信を持つに値するレベルにも達していないということですね。
好きなものが嫌いになったり嫌いなものが好きになったりするのは非常に簡単に起こってしまうことです。
昔これある人に不評だったんであんまりしゃべらないんですけど、
私たちの口の中には唾液がある。
このことを不愉快だと思う人は多分一人もいないんですが、
核の話ですよ、あくまでも。
完全に滅菌された何もそこに入れても問題のない容器の中に完全に滅菌されている。
自分の唾液を出すと。
それをもう一回飲むのは不快だと。どうしてなのか。
これは気持ちの問題なんだと僕は思うんです。
スピリチュアルではないと思う。
多分そのまま飲むのは嫌だと思う。
汚いからなのか非常に微妙ですよね。
汚いからだとは言えないようにこの条件をつけてあるわけですから。
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で、さっきまで口の中にあったときは汚いと思ってなかったものを出して入れるときは汚いと思う。
それは多分脳はそういうふうに反応しています。
ほぼ確実に。
嫌悪刺激って言うんですけど、嫌悪刺激反応出てるはずですね。
だけれども嫌悪刺激反応が出るべき理由はそこには何もない。
科学的にはですね。
これをスピリチュアルだと思う人は多分僕はいないと思うんですよ。
でもこれは非常にスピリチュアリティ的な何かを感じさせる話だと思います。
だから結局そういうふうに私たちの頭ってできてるんで、
何かを類物的とか科学的に判断できるわけではない。
ってところまで来てですね。
一番僕はグッドバイオスのその態度で、幸せな態度で示す確信に触れていくと、
詰まるところ、倉園さんがよく詞で書く許すってやつ。
謝罪、謝面の謝ですね。
謝面、言辺の方じゃない許す。
言辺の方の許す語があの感覚の中に入ってこないわけじゃないと思うんですけれども、
無罪方面で話す時の、そういう時の許す。
あれができない時、できる時は問題にする必要はないと思うんです。
言辺の許すだろうと。
許せる時に、あれこれ悩む理由はないと思う。
許せない時、態度で示すことの重要性ってのが多分出てくるんだと思うんですよね。
この時、人は許せないと言います。
私の知っている中にですね、ずっとお母さんにひどいことをされてきて、
今私は大変うつっぽくなっていて、苦しいと。
こういう話ははっきり言っていっぱい聞きますけどね。
うつっぽくなっていて、よくうつ症が出るってことですよね。
出ますよね。出ます。
そういう性育歴を自覚できるほど強く持っていれば。
だいたい自覚できるということは、自覚できているのは4歳、5歳以後の話だと思うんですけど、
絶対そのお母さんは、生後1日、2日、10日、3ヶ月の時点でもかなりのことをなさっているので、
よくうつ症が出るぐらいで住んでいるのは、むしろラッキーだったと考えなければいけないレベルかもしれませんが、出ますよね。
そういうよくうつ症が出ていて、そのお母さんにひどい周知をずっとされてきたと。
いまだに、例えばそういうことがあったからHSPっぽくなって、ちょっとした物音とかちょっと誰かが怒られていても、
もうすごい気分が落ち込んで仕事も手につかなくなるみたいな話になった時、
結局この話、最後には多分どういうカウンセリングを経てもですね、
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一部ラカンとかかなり特殊なものでない限りは許す話になるんですよ。
詰めていくとですね、カウンセリングなんかしなくてもロジカルにいけばいくほどお母さんを許すって話になっちゃうんですけど、
これをいつどのようなタイミングでそういう話をカウンセラーがするか、これはもう流派によって全然違うし、
そもそもするかしないかっていうことも違うし、その人がそのことをいずれ口に出されるんだろうなと思うと思うんですよね。
こういう方がセルフヘルフみたいなものと無縁で生きてくることはあんまりないので、
お母さん許さなきゃならないんだろうなっていうか、お母さん許せって言うんだろうなっていうふうに相手も思っている。
この中でカウンセリングっていうのは進行してて、結局それがいつやってくるかみたいな話になるんですね。
あるいはそれを誰が言えば受け入れられるのかということにもなります。
この誰が言えばも非常に色々あって、かわいい俳優さんは非常に面白いことを言ってたんですけど、
力のあるカウンセラーが何年も何年もやったんだけどとうとう良くならなかったと。
それで不意に近所のかなり良くない時に、たまたまあったカウンセリングに行ったら良くなったと。
そういう時には人はたまたまこのカウンセラーが良かったと考えるけど、そうではなくて、
それまでやっていた長い間のあんまり役にも立たなかったようなカウンセリングが実は効いていたということもあるから、
結局タイミングというものはすごい大事なんだけれども、
そのタイミングを人為的に設定するということは不可能なんだというような話を、
セレンディビティという文脈でなさっていたんですけど、それに近いことが起こると思うんです。
許せないからね。結局許せないじゃないですか。
いまだに自分がそんな職場でひどい目にあっている、その原因をすべて作ったお母さんなどというのは、
到底許せるものではないが、そのお母さんを許さないから今こんなに自分が辛い思いをしているということになったらですね、
ますます許せないじゃないですか。
許す義理がどこにもないと考えるわけですよ。
だからこそこういう方の話を私のような人間が聞くことになると。
私は別に上さんのように外でカウンセリングをやっているわけではないし、
セラピーをやっているわけでもなくて、例えばタスク管理のコンサルみたいなものをやるわけですよね。
仕事術とか時間の管理の仕方とか。
なぜここにその話を持ち込まれるのかというと、
24:00
お母さんを許さずにうまくやれる方法を私に聞きたいからだと思うんですよね。
私にじゃなくてもいいんですけどね。
それこそタスク仕事を作った大橋哲夫さんのところでもいいし、
今で言えばですね、
要領の悪い人のための仕事術を書いた方のところでもいいし、
とにかくそういうところに行かれるわけですよ。
ライフハック系の。
なぜならばお母さんを許さずにいきたいからですよね。
このような生育歴を持っていると。
何か先日山間昭さんという方が妖怪べきではというのを書かれましたが、
要はあれの歪んだ強烈な妖怪と山間さんですら書かれましたから。
私は彼女のケースは虐待まではいかないと思うんですけど、
虐待までいっているお母さんも妖怪そのものに思われると思うんですよ。
で、その妖怪さんが何とかしなさいと。
かなり理不尽な正しさを押し付けてくるわけですよね。
例えば私の家ですらそういう現象って見受けられました。
うちの母は決して虐待的じゃないですけど、
例えば娘が妙な男と付き合っているということになると、
二十歳越えても干渉したくなると。
男となんか付き合わないよって。
でもその同じ口で平気で一年後にいつ結婚するのと。
平気で言うと。
ああいうところがどうしても出るわけじゃないですか。
正しさというものの中にはですね。
セックスなんかするなと。
子供はいつできるんだと。
同時に言うわけですよ。
同時には言わないにしてもね。
これは本人の中でも私も思うんですよ。
今ならばですよ。
今ならば母だって結局そうだったんだろうなと思うんですよ。
性的なことというのは公にできるようなことでも
褒められたことでもないけど、
性的なことを得ないでどうやって結婚生活して
子供を二人も作るのかと。
それは本人の中でも完全には解決できないまま、
でもいつか自分は親になってですね。
何が正しい何が間違っていると。
言わなきゃならなくなるわけですね。
正しさ間違っているというのは
抽象的に言うのは簡単ですけれども、
その場その場では常に憂鬱ゾーンを含むものなので
そこを押し切っちゃうわけですよね。
そういうところから妖怪さんみたいなものが出てきて、
中には大変善悪が混乱したまま
子供にバンバン投げかけるというケースもあるわけですね。
例えば最近で言うと、
例えばうちでも中学受験とかするわけですね。
十分余裕で受かるとしても問題一つでも間違うと
そこはやっぱり罰が入るわけだから。
27:00
正しくはないと。
だからこういう間違いをしないようにしろと。
それをどこまで突き詰めるのかって話はまたあるわけじゃないですか。
満点取らなきゃいけないのかと。
満点取るにしても、親なら満点取れるのかと。
そもそもね。
そういうこともあるし、
親でも構わずガンガン言う人もいるわけじゃないですか。
アメリカでもよく出るんですけどね、この種の話は。
99点を取ってきて褒められると思っていた娘が見せると
この1点分は何だみたいなことで
夕食抜かれるみたいな、そういう話が出るわけですね。
この辺が妖怪的にはと多分僕は非常に絡みがあると思うんですけど
そうやって1点のマイナスも許されないと思ったまま
大人になったから
書類が1箇所でも間違っているのは出せないという風になると
そもそも書類が仕上がらないみたいになるわけじゃないですか。
この原因がすべて
最終的にはですよ、最初はそうは思わないです。
私はちょっとお神経質で完璧主義すぎるなと
そこをもう少し緩和しましょうねって
みんなに言われることになるわけですよ、この種の人は。
そんな完璧な書類じゃなくてもいいんだからって言われると。
でもその言葉が許せないわけですよね、その完璧主義の人は。
なぜ許せないのかというと、そうやって育てられてきたから。
自分が完璧主義なのがおかしいし
1箇所も全然スペルミスのないような書類を書こうとして
普通の人なら1時間で仕上がりそうなものが
10日経っても出来上がらないで半分もいかないみたいな。
このままだったらこの会社にはいられなくなるから
なんとかこの完璧主義を緩めよう緩めようとするんだけれどもできない。
で、この完璧主義が結局
その親が完璧主義者であるというところから来て
ここでねじれてる感じがするんですよね。
その親多分好きじゃないのに
なぜその親の言う通り完璧じゃなきゃいけないと思うのかというとですね
つまり許せないという感情がそこにはあるわけですよね。
その親はその子に対して必ず
お前がこうやって口うるさく言うのは
大体親はこう言うんですけど
お前が出来が悪くてだらしないからだと
完璧になればいいんだと
そうするとですね子供はどこかで必ずこう思うんですよね
この親を黙らせなければいけないと
どんな子でも自分が自立することに直面する日が来るので
親が死ぬわけですから先に
親が死んでもやっていけなきゃいけないと
そうすると完璧でなければいけないという風な価値観を
ずっと備え付けられているんで
親以上に完璧じゃなければいけないと
こういう風に考えるようになるんですよね
この種の人たちの共通して難しいのは
30:02
自分は平均以下だと
どういう風に大学でどういう能力を持てても
大体そういう風に考える
怖いのはですね
この価値観が非常に常識から逸脱して厳しいので
この平均以下の私が生きているのがもうギリギリのラインだから
これ以下はみんな死んだ方がいいくらいに
思っているところがあるわけですよ
だからこの種の人たちというのは
起死年齢にすぐ苛まれやすいんですね
スペルミッションが一箇所なら死なずに済むけど
二箇所あったらもう死に値するみたいに思っていると
いつ死んでもおかしくないみたいな話になるじゃないですか
これが許すってこととやっぱり絡むわけですね
許すしかないわけです
完璧主義というものは
なんですかね
完璧でないということを許す以外に
完璧である人間だけが生きていけるという考え方だと
本当にすぐ自分死ななきゃならないから
当然欲痛症になるわけですよね
この種のことが正しさというもの
妖怪べきねばさんみたいなもの
つきまとうどんなケースでも
ちょっとしたことが許せなくなりますから
そして突き詰めて考えていくとですよ
要するに親が良くなかったんだけれども
親というものもまた完璧じゃないということになるしかないじゃないですか
そうじゃないと結局のところは
こういう親に育てられた自分は不幸になるしかない
という話になっちゃいますからね
なぜそういうふうに考えてみると
さっきのあれですよ
幸せなら態度で示そうってやつ
私も嫌いだったけど
幸せじゃないからですよね
態度で示すわけにはいかないということですよ
あの親を許すというためにはですね
だけれどもよくこれも言われるんですけど
私の気持ちはどうなるんですかと
あるいは私のこの辛さはどうするんですかと
そういう話になると思うんですね
こういうふうに育てられて
こういうハンディキャップも背負ってきましたと
全部あの人がこういうふうにしたからですと
その人を許してしまったら
この私のこれまでの不幸をどうしてくれるんですかと
いうことになるしかないと思うんですね
その時につまりですね
許せないということと
私が不幸であるということは
セットなんだと思うんですね
私のその制度を片付けです
制度を片付けられないということと
制度を片付けるのが大変だということは
セットなわけですよ
片付けられるんだったら
簡単だってことになるわけじゃないですか
ここにスピリチュアリティがあるというのは
わかりますよ
そういう批判が飛ぶわけです
話してきた通りの理由で
同じような理由でですね
許せば幸福になれるというのは
許せない考え方なわけですよ
33:01
許せば幸せになれる
いやいやその許すにも程度があるだろうと
今の私のこの不幸な状態
およびこれまでひどい目に遭ってきた
その分をどうしてくれるのかということが
最後の最後まで残る
多分私はこう
上司にダメ出しをされた時の悔しさとか
そういう同僚が失礼なことを言ってきたとか
距離を置きたくなるとか
全てこの感覚とマッチしていると
この感覚と混ぜ一体のものだと思います
セットですよね
連携しているという感じがします
ので
許さないということと
不幸であるということは
何て言うんですかね
常に一緒にいなきゃいけない
だから
カウンセラーとしては
カウンセラーに相当する人は
許しましょうと
最終的には何らかの形で言うしかなくなるわけです
なぜなら
その相談者が幸福になるために
ここに来ているので
不幸だから許せないわけですよね
この自分が不幸なまま
あの相手だけを許してしまったら
私の不幸の行き場がなくなる
だから復習してすっきりしなければならないんだけれども
問題なのは
許せないのは不幸だから
これはもう間違いないわけじゃないですか
自分が幸せで
もうそんなことはどうでもいいやとなったら
許せるじゃないですか
どう考えたって自分が今幸せになっていますと
そういう育てられ方をしたけれども
今は十分幸福ですということであったら
許すのは簡単ですよね
現に私はそのことが
我が家では少々あるなと思うんですよね
妹はこだわっている
私は全然こだわっていない
なぜならば
私はもう十分だと思っているので
親がかつて何を私にしたとか
興味が薄れているわけですね
もうちょっと言ってしまうと
記憶がすでに薄い
もう少し時間経つと
多分思い出すこともできなくなる
ここですよね
思い出すことができるわけです
大体許せない人は
一生忘れるものかとぐらい思っている
忘れてしまうということは
つまり復習できなくなりますし
結局許してしまったのと
大して変わらないことになってしまいますよ
忘れてしまったということは
自分が受けた仕打ちのことが
どうでもいいと思っているということになるじゃないですか
これが自分に対して
雑に自分のことを軽く扱っているような感じがするわけです
自分を大切に考えるのであれば
あのようなことをした親には
36:01
何らかの形で復習しなければならない
ということは少なくとも
その前に覚えておかなければ
どうにもならないわけですね
忘れてしまっていたら
復習もヘタクレもないわけですよ
ただ親を攻撃してすっきりしているのでは
どうにもならない
多分そういうことは起こらないわけですよね
何か嫌なことがされたという記憶を
しっかり保持しておいて
それを許さないぞという気持ちも保持しておいて
だからこそ何かがやり返すということに
意味が出てくる
そのためには自分が
幸せであってはならないわけですよね
逆に言ってしまうと
幸せになってしまえば許せるんですよ
ここにだから私は
この全体の問題になっている部分があると思うんですね
幸せになってしまえば許せるんだけれども
この順番を逆転させることが難しいんですよね
許してしまえば幸せになれる
ここが多分受け入れがたいんだと
これ私にはですね
口角を上げて笑顔を作れば幸せになれると
よく似てると思う
逆でしょってことだと思うんですよ
本来は楽しいから笑うんでしょ
笑うから楽しい
だから笑ってしまおうというのは
おかしいじゃないかと
おかしいんですけどね
だけれども
ことはそもそも点灯していたわけですね
その親子関係において
普通の親というのは
もう少し子供のことを考えて
いろいろやるんだけど
あらゆる親がそれをできるわけではないと
途中出てきたその要するに
全ての親が完璧なわけではないってことですね
この話とどうしても
セットになっているので
どうにもこう
なんていうんですか
グッドバイブスでいうところの
恐れと不安とイリュージョンに
まみれたまま子育てをしているということは
現実に起こり得る
だからそういうことを許せないということになってくると
結局スペルミスが一箇所でもあったら
資材みたいな世界になってしまうので
そこはもう
ここを逆転させるしかなくて
先に許すと
結局同じことになるので
許すことができれば
つまり
幸せなら態度で示すということになるわけですね
私もこの歌を依然として
受け入れがたいなと思うところもあるんだけれども
何を言わんとしているのかは
非常にこう
以前よりは
つまりこの歌を最初に子供のときに
歌わせられたときに比べれば
今言ったような理屈を
頭の中でこねくりまわせて
40分程度の理屈ですけれども
受け入れられるようになってきたかなと思っています
38:52

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