1. 一戸信哉の新潟のへラジオ
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おはようございます。一戸信哉です。
今朝はですね、お米のアイコンを用意しまして、とりまたぎ米というお話をしてみようと思います。
今日私はですね、大学の方で入学式が予定されていまして、
今年もまた新しい学生たちがやってきて、一緒に勉強していこうと、今そういう状況にあります。
毎年、大学の今の取り組み、いろんな教育の中で、地域理解というのがね、新潟県の大学はみんな大体そうかな。
私の勤めている大学は特にそうなんですけど、それぞれ自分の暮らしている地域のことをよく理解しましょうと、
私たちでいうと新潟ということになりますが、新潟県のことをよく理解しましょうというのは、教育目標の一つに入ってくるわけですよね。
入ってきた学生たちに、自分が暮らしている新潟県をどう思いますかと言うとですね、大体お米がおいしい。
18歳の人が多いので、お酒がおいしいという人はあまりいないんですけど、お米がおいしいというわけですよね。
大人の新潟県民と話してみても、だいたいこしひかりというのは、こしひかりに限らず、新潟米というのは非常にある種のプライドになっていて、
よくエピソードとして出てくるのは、修学旅行でね、東京とか行くんですかね、修学旅行で外に出ると、
そうするとそのお米はですね、外に行くとおいしくないと、その新潟のお米はいかにおいしいかみたいな話をするわけですよね。
という話になるわけですが、実はそのルーツをいろいろ調べていくと、今コメントいただいてますが、福井の話も出てきますが、
決して新潟だけで作ったものではないんですけど、話題としてよく出てくるのは、鳥股に米というのが出てきます。
これはどういうことかというと、ずっと、要するに新潟県というのはお米がおいしいので、ずっと豊かな土地で人口も多くて、
人口は実は多かったみたいなんですけどね。お米がずっと昔からおいしかったかというと、実はそうではない。
だからそこは非常に新潟県民にとって不都合な真実なのかもしれませんが、私のプロフィールにも書いた通り、
多県出身、青森県出身なので、そんなに何もあまり気にしないでみんなにしゃべっちゃうんですけど、
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かつてですね、新潟県の米というのは昭和に入る前ですかね、鳥股に米と言われていたと。
寒くなるのが早いということなのかな。当時の品種からすると、早い段階で雨が降ってきちゃって収穫が早くなるのでしたか。
とにかく気候が米の生育に適していない。今は温暖化であったかくなっているということもあると思うんですけど、
当時の気候というのはそういう意味で品種としても気候としてもあまり稲作にあってないというところがあったんだと思いますが、
美味しくないと言われていて、鳥股に米というのは鳥もまたいちゃうぐらい、食べないと、美味しくないと。
それは例えでしょうけど、そのように言われていたという話が出てきます。
これを品種改良をしていって、コシヒカリというのになって今に至るんですが、
途中で出てくるのが昭和の初めの頃に農林イチゴ。農林イチゴっていろいろあるんですよね、多分イネだけじゃなくて、
他にもいろんな農林イチゴってあったと、いろんな品種の名前で農林イチゴってあったと思いますけど、
農林イチゴというのは昭和の6年だったと思います。昭和6年に農林イチゴというのが開発されて、
新潟の土地に適している品種ということなんですよね。収量が上がっていくということになります。
これは戦前、戦中でしょうかね、米の供給を安定させる上で非常に大きな貢献なんだと思いますが、
これが後にコシヒカリになっていくんですけど、コシヒカリが新潟の安定的に生産されるようになっていくのは、
だいぶ時間後になるというふうにね、昭和の40年代とかというふうに見たものではそういうふうに出ましたが、
最初作り始め、荒廃してコシヒカリの原型みたいなのが作られていくのは、戦争中ですかね、昭和19年、20年その辺で、
コシヒカリの原型となるものが、農林イチゴというのと、あともう一つ何かを使って荒廃が始まっていくんですけど、
それは戦争中で、長岡の試験場でやろうとするんだけど、長岡も空襲を受けて、それで福井でしたっけ、
とにかく新潟だけじゃなくて、他の農業試験場なんかも協力してもらって、
で、過労死で戦火を免れるんだけど、その後福井でやってたら福井地震が来るんでしょうかね、福井地震が来て、福井もやばかったというか、
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実験したものが、実験成果が残らない可能性もあったんだが、何とかどっちが残ったのかな、長岡が残ったのか福井が残ったのか、
ごめんなさい、ちょっとその細かいところを忘れましたけど、という風になりまして、そこから徐々に新潟の環境に適したものに、
作り方も新潟県民、農家の人たちがずっと研究して、今に至るということで、非常に長く時間がかかって今に至るというものです。
はい、ちょっと今コメントをいただいてまして、なるほど、あやのさんのところで、
なるほど、そうですか、私のあやのさんのお姉さんが大学の生徒、そうですか、在籍されてたんですね、ありがとうございます、コメントありがとうございます。
そうなんですね、というわけで、新潟県のお米というのは、昔からずっと美味しかったというわけではない。
農林一号とかその前の味がどうだったのかね、どこかで食べられるんですかね、わかりませんけど。
これを調べていくと、並川成重という人が出てきてですね、これが農林一号を作った人ですね。
当時長岡にあった農事試験所で、こういうお米の品種改良をしていた人ですね。
彼一人ではなくて何人かのチームでおそらくやったというふうに読みましたけど、農林一号を昭和6年に作ったのはこの並川成重。
京都生まれって書いてますので、名前からしてね、あまり新潟の名前ではないですよね。
並川成重さんという人が長岡で開発したと。
で、この並川成重さん検索すると銅像が出てきて、多分この長岡の試験場のところに銅像が立っているのではないかなと思いますけど、
実は結構有名な人なんだと思います。
さらに調べていくとですね、1986年に紙芝居ができていて、稲の恩人並川成重というですね、紙芝居があります。
これ面白いのでちょっと探してみようと思ったんですが、
さすがに2021年紙芝居、今皆さんも初めて聞いたと思うこの並川成重さんの紙芝居はその辺で売ってないみたいです。
なんか、なんでしょうね、古書店とかね、そういう古本界隈のところで多少流通してたり、あとヤフオクに出てたりというような類のもので、
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ちょっと買って読むのは難しいみたいですけど、新潟には多分図書館とかね、紙芝居とか収蔵している図書館には入っているみたいですので、
一度見てみる、紙芝居って見るんですかね、ちょっとよくわからないけど、見ていこうかなと思います。
はい、ということで今日はちょっと新年度始まるということで、毎年大学生と勉強すると、大学生に話題に出すとみんなえーって言ってびっくりする話題として、
昔から新潟の米おいしかったわけではないよというですね、とりまたぎ前のお話をいたしました。
今日はですね、いろいろコメントいただきました。バイパスの近く、そうなんですね。
多分、慶和学園大学のことをおっしゃっていると思いますが、新潟から柴田に向かっていたバイパスのところにある大学です。
今日は入学式、例年ですと柴田の文化会館なんですが、私たちの大学も、そうですね、規模縮小ということで、
体育館で、学校の中の体育館で安全対策をとって入学式という予定になっております。
あ、そうか言っちゃった、ごめん。そうだよね。でも私のプロフィールには出ちゃうので、ごめんなさい。そうなんですよ。
はい、ということです。はい、ではまたお会いしましょう。はい、じゃあ今日はこれで終わりたいと思います。
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