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2023-06-28 16:13

Vol. 230 直江津捕虜収容所跡に行ってきました


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サマリー

今回のポッドキャストでは、直江津捕虜収容所の歴史と虐待事件について紹介します。収容所はオーストラリアの兵士たちを収容していましたが、現在は公園になっており、慰霊碑も建てられています。

直江津捕虜収容所の歴史
新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は6月28日、水曜日になります。
よろしくお願いします。
今週はですね、月曜日ですね。
今週の月曜日に、上越に仕事がありました。
上越市で、今回は直江津捕虜収容所というところに行く機会がありましたので、ちょっとその話をしてみたいと思います。
直江津という場所は、新潟県の現在は上越市というところなんですが、かつては直江津というと乗り換えの駅でしたよね。
関西方面に向かう電車を、昔青森から乗ってたんですけど、直江津で乗り換えて長野に入って、そういうルートをとっていた時期があります。
そういう場所なんですが、現在は上越市の中に入っていて、高田と直江津に大きく都市部分が分かれていて、
なおかつ、平成の大合併で、周辺の農村部をどんどん合併していって、広大な上越市になっているので、山枠とか区がいっぱいあるんですよね。
それが多分、元々村だったところだと思います。
今回は、直江津という地域の捕虜収容所跡というところに行ってきました。
私自身は今回の2回目なんですけど、学生たちが今回、このことを取材したいということだったので、また関係者にお願いをして行ってきました。
話すと非常にいっぱい話があるんですが、とりあえず速報的にどんな場所なのかということをお話をしておきますと、
前にやったことがあったかなと思って調べたんだけど、見つかりませんでした。もしも1回喋っていただければ。
直江津の捕虜収容所というのは、東京の捕虜収容所の大南分所になっていて、
直江津周辺の工場で捕虜の人たちを働かせるという目的で設置されていたようですよね。
ここにはオーストラリア人の兵士を中心に収容されていて、おそらく多くはシンガポール戦ですね。
シンガポール戦というか、いわゆるマレー進行作戦。
真珠湾攻撃と同時に行われたマレーシア国からシンガポールへ進行していった時に、
オーストラリア軍とかなり激しい戦闘が行われていたんですけど、
そのオーストラリア兵の人たちの中で捕虜になった人たちが、そこに連れて行かれたということですね。
ここの捕虜収容所跡は、現在平和を記念する公園みたいになっているんですけど、
どういうことがあったかというと、実はここで捕虜虐待事件というのがあり、
戦後、BC級戦犯で捕虜収容所で働いていた人たちが裁判にかけられて、8人が死刑になっているということです。
捕虜収容所の中でどのようなことがあったのかというのは、いろいろと語られているところがあって、
よく出てくる、木の根を食べさせられたという、ごぼうを食べさせたことが恨まれたという話も出てきているし、
日本側はそんなに虐待のようなことはしていないという人もいる一方で、オーストラリア人の人たちが60人亡くなっていて、
過酷な労働現場であったことは間違いがないというところですよね。
過酷な労働に従事させられて、多くの方が亡くなった場所であると。そこはそうなったと思いますが、
日本側で処刑された人たちからすれば、そんなに私がひどいことはしていないと、そういうことを言っている人もいるわけですね。
この話を調べていて、わかったんですけど、こういう捕虜収容所で働いている人たちというのは、つまり前線に行っていない人ということですね。
なんで前線に行っていないかというと、実は前線に一度行って、負傷して帰ってきた元軍人の人、
元軍人というか、最前線で戦っていた兵士だった人が帰ってきて、その人たちの就職対策というような意味合いもあり、
そういう地元の負傷して帰ってきた軍人たちが、そこに配置されるということがあったんです。
その地元で雇用にありつくことができた人たちが、よかったなというふうに思っていたのだと思うんですけど、
結局戦後それがあざとなって、罪に問われるということになっていたということです。
この人たちが本当に虐待をやったのかどうかというのは置いておいて、
もっと上官の人で、そういう厳しい捕虜たちに辛く当たって生産性を上げろみたいなことをやっていた上官の人というのは、地元の人ではなくて、
この人はずっと占領家では名前を変えて逃げ回っていて、ついには逃げ切ったとされているんですよね。
その方は後に実際に出てきて証言したという記録が残っていて、
地元や遺族からすると非常に言いたいことはたくさんあると思いますが、
そういうこともあって、地元の方が処刑されています。
そういう経緯があるので、なかなかこういうことがあったということそのものも、
あまり直江津の地元の人たちも多くは語らないでいたんですが、
そこの展示を拝見すると、捕虜収容所に収容されていた人が後にオーストラリアに帰った後、
直江津の高校に手紙を書いて、
自分が辛い時期を過ごした直江津の人たちはどうしているかというようなことだったのかな、とにかく手紙を送ってきて、
昭和の何年でしょうか、それが来て初めてだいぶそのことは忘れされていたんだけど、
川のところに建っている、結構ボロボロになった建物というのはそういうものだったんだということを、
後の世代の人たちも気がついて、そこからオーストラリアの人たちとの交流というのが始まり、
その後、カウラの収容所というオーストラリアで逆に日本人が捕虜収容所から脱走しようとして犠牲になっているんですけど、
そういう事件があったところを直江津の人が訪ねて、
オーストラリアの中ではそういう悲しい出来事があったということをきちんと覚えて、
虐待事件と公園整備
とむらう場所を作っているということを知り、そして片谷上越の側ではあまり過去の汚点みたいなことは触らないでいこうとなっていたところ、
それは良くないなということになって、有志の人たちが上越、直江津でそういうものを作ろうということになって、
慰霊碑を建てるという動きにつながっていったということなんです。
慰霊碑を作るのも、ちょっと順番は後で調べないといけないんですけど、
慰霊碑も結局この話の流れで言うと、犠牲になった60人のオーストラリア人を中心とする、
連合軍の捕虜の人たち、元連合軍兵だった捕虜の人たちの慰霊というのと、
もう一つは、不幸にも処刑される側に回ってしまった日本人の人たち、
収容所の職員の人たちという人たちにも弔うと、そういう二つの意味があるわけですよね。
実際、公園にも両方の方々の二つの慰霊碑が建っているんですけど、
この二つの慰霊碑がどう建てるかということも、いろいろ揉めるという話も伺いました。
どういうことかというと、亡くなったオーストラリアの人たちからすれば、
収容所で自分たちに辛く当たった、あるいは虐待をしたという罪で裁かれた人たちと、
自分たちの家族とか、あるいは同胞ですよね。
捕虜として亡くなった人たちというのを、同列に扱うことはできないだろうということで、
日本側としては、どちらも戦争の犠牲者だよねという気持ちではあるけど、
オーストラリア派としては、なかなかそういうふうに受け取れないということもあって、
似たような形の二つの慰霊碑が建っているんですけど、
この二つの間に微妙な距離が置かれていて、
その二つの慰霊碑が置かれているという状態になっています。
今言っても、その二つはちょっと距離を置いて、不自然な形で話して置かれています。
そういうような経緯があったんですが、戦後これだけの時間が経って、
78年が経って、少しずつ、雪解けじゃないけど、
だんだんその事実そのままを忘れ去られつつあるんですけど、
客観的に互いにこの事実を眺めることができるようなタイミングにはなりつつあるかなと思いました。
オーストラリアの方もちょこちょこいらっしゃっていて、
遺族の方とかですね、訪ねてきて、
ルスフォンあるよというようなこともおっしゃっていました。
なので、先人たちがそこに公園とか資料館とか、
こうしたことによる意味というのは結構大きいかなと思います。
8月の11日に慰霊祭というのをやっているんですね。
ただここまでお話しして、
たぶん直江津の収容所というのとか、そこで起きた事件とかをベラベラとしゃべりましたけど、
そもそもそんなのを知らない人がいる人、
慰霊碑の建立
新潟県民にも多いし、ひょっとしたら上越市民でも知らない人が多いかもしれないですよね。
そういう状態に陥っているというのは確かで、
継承していくというのは大変だろうなという気はしています。
前回お伺いしたときと今回お伺いしたときで、
担当してくださる方は少し若返っているのですが、
やっぱり当時を直接知っている人はどんどんいなくなっていて、
やっぱり後にね、私と同じようなのがあって、
後にそういうことがあったんだ、この公園にはということを知って、
上越一号教会に参加するようになった方が、
いろいろ説明してくださったりしているので、
直接その頃のこととか、まして掘る収容所に直接関わっているような人たちというのは、
どんどんいなくなってきているというようなことなんですよね。
というようなことがありまして、各地でいろいろあるんですけど、
新潟ではこういうのが残っていて、
掘る収容所で、掘る収容所の方がBC級選判で捌かれたら、
国内では直滅だけじゃないか、みたいなことを知っていたかな。
そういうような話でした。
またですね、これいろいろ取りに行ってわかったこともあるので、
また少し勉強して整理した上で、
また少し違う角度からお話をしたいと思います。
はい、じゃあ今日はこれで終わります。
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