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2021-11-28 12:56

一戸信哉の新潟のへラジオ ライブ Vol.58 「私は貝になりたい」の舞台となった新潟


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皆さんおはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。
今日はですね、11月も終わりになってですね、新潟も結構寒い、タイヤを交換するみたいな季節にもなってきましてですね、
ちょっとあまり嬉しくない季節になってきつつあるんですが、
今日はですね、新潟の話をたまたま、昔の話ですけどね、ちょっと見つけましたので、少しお話ししてみたいと思います。
タイトルにはですね、私は貝になりたいというのを書きました。
あとはTBS系のですね、BSTVSの関口博史のもう一度金権大使っていうですね、ずっと昔のこと、昭和の初期のことからずっと、もっと前かもしれないですね。
要するに明治以降の日本だと思うんですけど、話をずっと小坂正康さんに関口博史さんが聞いていくっていう、
番組で、絵的にも地味なんですけど、でも結構面白くて、小坂さんのいろんな知見がですね、分かりやすく解説されていくんですけど、今もうちょうど昭和に、
戦後の話にかかってきていまして、BC級選判の話になっていくんですよね。
BC級選判っていうのは、A級選判っていういわゆる東京裁判で、政治家たちが平和に対する罪で裁かれていくのに比べるとあんまり目立たないというか、もう忘れ去られつつあると思うんですが、各地で戦争犯罪、通常の戦争犯罪を犯したとして、
いろんな人たちが現地で裁判にかけられて、処刑されていくっていうのがですね、たくさんあったんですよね。それは有名な軍人が、そのBC級選判で処刑されていたりもする一方で、特に国内ですかね。
国内だと捕虜収容所での虐待というのが、国内だけじゃないですね。いろんなところであったはずですけど、日本国内でも捕虜収容所での捕虜虐待が原因で、その理由で多くの人たちが処刑されたり処罰されているわけですよね。
新潟県だと直越に捕虜収容所というのがあって、その話は一度話したことがあったかな。私も一度直越まで行ってお話を伺ったことがあって、そこははっきりと場所が残っているんですよね。
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新潟のことは先日まで全然知りませんでした。捕虜収容所での事件というのは、要するに外地で戦った結果捕虜になった人が多いんですけど、そういう人たちを日本に連れてきて捕虜収容所に入れておくわけですよね。
入れておくんですが、そこでいろいろ労役を課すわけですけど、だんだん選挙区が悪くなって、彼らに対する待遇がどんどん悪くなっていくわけですよね。
そこで捕虜の虐待が行われたという過度で、多くの人たちが後に裁かれるんですけど、そこはやむを得なかったりする場合もあるし、
捕虜虐待を実施したのか、実行したのかというところでまた少し分かれるんですよね。だから現場で実行させられた人とか、責任者だった人とかいろいろいるわけですけど、
その戦後になって、みんな自分の身を守るために嘘を言ったとか、誰かに罪をつけたとか、いろんなことがあって、ある意味冤罪で亡くなった人も結構いるという話ですよね。
それへんは直越でもそういう話があって、直越では、直越は今の上越市ですけど、上越市の方では現地での出身ですね。
直越、新潟県の出身の人たち、特に捕虜収容所は焼夷軍人の雇用場所だったりするんですけど、そういう人たちが戦後に召喚されて処刑されているという話なんですよね。
直越の話はわりとよく知られている話なんですけど、新潟の話は知らなかったんですね。
昨日見てたら、加藤哲太郎という人が出てくるんですね。加藤哲太郎という人は、1958年のTBSドラマフランキー・サカイが演じたという、
白黒のドラマですけど、このドラマの原作になった人なんですよね。加藤哲太郎さんはBC級戦犯で一度死刑判決を受けた人なんですけど、この人はどこで働いていたかというと、実は新潟ですと。
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新潟となって、ちょっと調べてみたんですね。そしたらやっぱりあるわけですよ。新潟に捕虜収容所があって、新潟で捕虜の人たちが働いていたというところがありました。
どこにあったかというと、新潟市東区。当時は何という名前だったか忘れました。現在は新潟市東区という場所で、後に新潟地震の時に火事になる石油コンビナートがあるあたりの林口町。
住所違ったと思いますが、あっちの海のほうですね。あの辺にあったということですよね。ネットにいろんなことが出てる資料を見た限りでは、その辺にいくつかやっぱり作業させるところがあって、新潟鉄工、鉄工場ですね。
それから海陸運輸、新潟海陸運送、日本通運、というような海岸、港の近くにそういう仕事がいろいろあったんでしょうね。そこで働かせるのに、この界隈に収容所を作って働かせていたようですよね。
ただ途中でですね、建物が倒壊して捕虜がなくなったりとかいうことも起きていたりして、場所がいくつかの場所に転々としていたようで、一箇所というわけではないんですが、大体新潟の東区の海側の界隈ですよね。
というわけで、これ今写真に入れたのは新潟の港、山の下港からの写真というのをちょっと入れさせてもらいましたけど、そういうことなんだそうです。
そこで起こった捕虜の虐待と、脱走兵が殺害されたと言ったのかな。この加藤さんという人は収容所長だったんですよね。だから収容所長が罪をかぶった形ですよね。
逆もあるんですよ。収容所長はどこか行っちゃってですね、現場の人たちが罪に問われるとかですね、いろんなパターンがあるんですけど、新潟の場合は収容所長が死刑判決を受けるという形だそうです。
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で、私は貝になりたいという言葉はどういう意味かというと、結構有名な話ですけど、私は生まれ変わっても人間にはなりたくないと。人間になるとこんな目に遭うと。
牛や馬にもなりたくないと。牛や馬は人間にこき使われる。それもやだ。何になりたいかというと、海の底にいる貝になりたいと。貝になると人間に見つかることもなく、ちょっと最後わかんないけど、要するに静かに暮らすことができると。
そういう話ですよね。ということを言ったと言うんですが、これでもなんかちょっと見た感じでは揉めてますね、これね。
TBSが1958年にドラマ化して、その後は後に90年代、2000年代に何回かドラマ化とか映画化とかされてるんですけど、1958年にTBSがドラマ化したときには、
何かね、加藤さんという人は匿名でね、まだ釈放される前なんだと思うんですね。獄中で書いたんだと思うんですね。獄中で書いたときにペンネームで書いて、別に何て言うんですか。
私になりたいというような話を書いたわけではなく、
それをベースにして、ドラマの脚本にしていったということなんですが、それが後に加藤さんが出処、釈放、釈放されたんですけど、
それが後に加藤さんが出処、釈放、釈放されて出てくるんですね。原型されて。出てくるんだけど、出てきたら、私は会にやりたいっていう、自分の考えた、自分の言ったフレーズがドラマのタイトルになって、
なんだこれ、ということで、どうもちょっとゴタゴタとしばらくTBSと揉めたらしいみたいなことが、これWikipediaに書いてたんですけど、みたいですね。
後に、だから結局原作、原作っていうふうになるのかな。原作加藤哲太郎というふうになるんだそうです。加藤さんっていう人は結構わりと早くに亡くなって、帰ってきて、帰ってきてじゃないや、釈放されて長くは生きられなくて、結構早くに亡くなったみたいですけどね。
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ということだそうです。新潟の方は、だいたい、なんとなくは、場所は分かりました。東区の海の方のあたりに捕虜収容所があって、それが何か所かに移っていったっていうのも分かったんですけど。
ただ、何でしょうね、多分何も残ってないと思います。初めて今回見つけましたけど、でも多分ここはここに捕虜収容所がありましたよという話は、ほとんど残されてないんじゃないかなと思います。
ということで今日は久しぶりに野平町捕虜収容所の新潟捕虜収容所のお話をいたしました。ありがとうございました。
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