1. 一戸信哉の新潟のへラジオ
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おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は4月20日、水曜日です。
今日はスタートちょっと遅れて9時直前になっちゃったので、ちょっとライブで聞いていただける方いるかなーという、ちょっと遅めの時間になってしまいました。
テーマもちょっと地味なテーマを、毎回地味ですけども、話してみようかなということで用意いたしました。
松島恵二郎ですね。古作のタイトルとしては、「木崎悲壮記100年」っていうのをあげてみました。
これね、去年学生と少し探ってたテーマで、撮影した作品が実はあるんですが、完成が遅れてまだコンクールに出したりとかしてないんですけど、
なかなか難しいテーマだったということで、少し振り返ってみたいと思います。
実はですね、これちょっと調べてたら、改めて調べてたら、3月30日に新潟市北区のウェブサイトの方で発表になってるんですが、
2022年は木崎村古作葬儀から100年になるんだそうで、100周年事業というのが今年予定されています。
北区と北区共同博物館の主催で、5月28日から共同博物館、豊坂の博物館で展示が行われるそうです。
タイトルが生活の向上を求めた古作農民、地主間島刑事漏天というタイトルで、講演会が2回予定されていますし、
これは研究者、新潮大学の先生、新潮大学の中村先生と新潮大学の大串先生、お二人、多分木崎古葬儀のことを研究されている先生だと思います、お二人の講演が予定されていますし、
アベノリオさんという、これも調べてるときに何回かお名前拝見したんですが、まだお会いしたことないんですけど、木崎村古作葬儀記念碑保存会というのをやってらっしゃる方がガイドになった見学会、ここ数年やっぱりできなかったやつですよね。
ミニツアー、バス乗ってミニツアーというのが6月12日、6月25日と予定されているということで、100年記念でちょっと北区の方でも気合を入れた取り組みになるようです。
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というところから始めましたけど、去年ちょっと調べてみて、やっぱりなかなか少なくとも大学生が大と言って食いつくようなテーマになってるかというと、もうちょっと難しいんですよね。
どういうことかというと、古作人たちが厳しい、古作、違う、地主からの取り立てに反旗を翻すという形で、要するにストライキですよね。古作葬儀というのを起こした。
たぶんそれはいろんなところであったと思うんですが、非常に全国的に有名な農民葬儀に発展していったのが木崎、今の新潟市北区、いわゆる豊坂っていうエリアの一帯の中にある木崎というところで起きたとされています。
ここで、彼らは葬儀を起こした上で、自分たちで学校を作って、この学校を作ったという意味がどういう意味だったか、私も必ずしも理解できていないんですが、
要するに自分たちで差別を受けないような学校を自立してやっていこうということなんだと思いますが、無産農民学校というのを作って、そこに子どもたちを通わせようとするという動きをしました。
これを今ポスターで見ると、1926年7月に浄土式が行われているということなんで、100年というのは今年だとすれば26年ですから、何年も続いているんですかね、これね。
というようなことになります。これは裁判で争われて、結局古作人側は最終的に古作料を払うという形になるので、
この戦いそのものが成果を上げたかということで言えば、勝ち負けで言えば勝ってないんですけど、それはそれでしかし、農民たちの権利獲得のための歴史的な1ページとして刻まれていると。
そういうようなまとめで。だからなかなか、古作と地主みたいな関係から葬儀を起こすということの関係と、それから最終的に農民側が勝って何かを、何らかの権利が確立したみたいなことでもないということで、
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なかなかクライマックスを作りづらい。今となってはそういう話なんですが、なのでなかなかまとめが難しかったですね。
最終的には今の農家の皆さんというのは農地開放後の、続立した自分の土地を持って耕すことができるという立場になっていくわけだから、そういう意味では先駆けというふうに言えなくもないのですが、
この葬儀そのものを今100年後に生きている私たちがどういうふうに位置づけていいのかっていうのはあまり綺麗には切れなかったという感じです。一応作品にはまとめてあるので、いずれ公開しようとは思っています。
もう一人ここで出てくる人物が増島圭次郎という人物で、この人のことも今回展示で取り上げるようですね。増島圭次郎さんという人は、この岐阜葬儀の中で地主側なんですよね。
農民たちが各地で葬儀を起こして、自分たちの待遇改善を求めて要求を強めていったときに、多くの地主たち、この周辺で有名な人たちですね。
一島家とか、一島とか二宮とか白瀬とか、いろんないわゆる今も名前が残っている地主の皆さんの名前がちらちら資料に出てくるんですけど、
この人たちは、実はこういう農民たちの要求に対して、割と妥協的な態度を示して、ある意味妥協的というか寛容であったということであるのに対して、
増島圭次郎さんというのは非常に厳しい態度を示して裁判に訴えて、徹底的に戸作人たちと戦ったという人で、戸作葬儀を行った側からすると増島圭次郎は鬼である。
というようなことで、この展示の資料の中にも、もしもし増島圭次郎という、もしもしカメオでしたかね、なんか替え歌が作られたっていう風な資料が出ていますし、
あと私が調べたときには、なんだっけな、たぶんせんべいかなんかだと思うんですけど、夜勤にですね、夜勤に増島さんの顔を鬼じゃないけど、ひどいやつみたいな感じの意地悪い感じの顔に作った夜勤を作って、それを増島焼きと言って、
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新潟じゃなくて、東京とかで全国的にこの木崎の増島圭次郎という地主はひどいっていうことをアピールするためにせんべいにして配ったみたいな話があって、その夜勤が残ってるんですよね。
というような、要するに、人民の敵みたいな感じで言われていた人なんですよね。今回の展示でも増島圭次郎はなぜ恐慌に対峙したのでしょうかということになってるんですけど、いろいろな解釈はあるんだと思いますが、
ただ、増島圭次郎さんは、そういう意味で言うと、いろいろな名立たる地主の人たちとは違って、濁川に住んでたといったと思うんですけど、要するに農村に住んでたんですよ。
なので、そういう意味では、地元に住んでるから偉いっていうものではないんですけど、地元に根を張って地域の発展のために努力をした人で、その外にいる人たちの地主は全然それを考えてたのか考えてなかったのかっていう評価をするつもりはないですが、少なくとも地元に残っている人、
珍しい地主の人で、濁川小学校の校門の、濁川小学校で書いてあるところの文字を記号した人だと。記号は増島圭次郎であるっていうのをどこかで読みました。現在もそうであるかどうかはちょっとよくわかりません。
でも、それぐらい地元に張り付いて活動していた地主であることは確かで、なので、岐崎葬儀の文脈では鬼のように取り扱われている増島圭次郎さんというのは、実際どういう人だったのか、ちょっと興味が湧くところでして、そういう論文も出ていたりする。
先ほど出てきた中村先生とか大串先生とか、どなたか論文で増島圭次郎ってどういう人物かっていうのを書いていた方もいらっしゃいました。
というわけで、なかなか増島圭次郎という人がどういう人か、岐崎葬儀っていうのはどういうものだったのか、面白いテーマではあると思うんですが、なかなか100年前っていうことですね。
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単に歴史であるということだけではなくて、文脈が2022年の今、なかなかパッとは理解しにくいテーマなんですが、これから5月、
北区の郷土資料館では、実は常設展示もあって、さっき言ってた増島焼の焼きみたいなのも置いてあったりするんですけど、5月28日からは特別展があるようです。入館無料と書いていますので、
これを機会に豊坂の方に行ってみて、これを岐崎葬儀になるものをどんなものだったのか見てきてくるというのもいいのではないかなと思います。
この背景に入れた岐崎葬儀は記念碑ですね。感染状にも看板が出てますよね。豊坂あたりの道を走っていると看板が出てて、こっちの方ですよみたいな案内板が出ているんですが、知らないと気づかないようなところにありまして、
本当に田んぼの真ん中にポコッとこういう石碑だけじゃなくて何個か建っているのでいますが、でもそこに行ってもその石碑があるだけなんですけど、これを見に行くのもいいと思いますし、ということでした。
ということでまだ展示まではまだ1ヶ月ほど先ありますけれども、今日は新潟市北区の郷土博物館あるいは北区の主催の取り組みとして、生活向上を求めた戸作農民と
新島島圭次郎という取り組み、あるいは岐崎葬儀、岐崎村戸作葬儀についてお話しいたしました。どうもありがとうございました。
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