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はい、みなさんこんにちは。おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。
今日はですね、何だったっけ、タイトルね。
薩摩藩の三坊駅と河村長鷹というタイトルをつけました。
この話もですね、ずっと結構知らなくて、今調べたら去年の秋頃に
新潟のですね、西海岸公園というんですけど、海岸沿いですよね。
新潟市中心部の海岸沿いにある松林のところにある公園、ちょっと細長いところがあるんですが、
そこに行ってきたときに、見つけましてこの銅像ですね。
この銅像が河村長鷹、シューシューと書いて長鷹というんですが、この人とその当時のことを少し勉強しました。
実はその前に新潟市の歴史博物館ですね、ミナトピアというところがあるんですが、
そこの展示で見たことがあったんですけど、こんな風に銅像が建っているんだなとかですね。
この今言った松林自体も河村さんという人が作らせたんだと思いますが、
そういう話も含めてちょっとお話ししてみたいと思います。
河村さんが出てくるのは、ぬけ煮という薩摩藩の密貿易がかつて行われていたというところから話が始まるんですけど、
江戸時代の貿易というのは基本的には長崎経由で中国とオランダと行っていたわけですよね。
その例外として薩摩藩は琉球経由で貿易をやる許可を許しを幕府から与えられていたということなんだそうですが、
この特権を利用して薩摩藩は実はこっそり中国経由で入ってきたいろんなものを琉球経由で輸入して、
そしてそれを国内で売りさばいて稼いでいたということなんですね。
そこは認められていなかったんですよね。その認められていないのをこっそりさばいていたのが新潟ということになります。
中国から入ってきたものを新潟で売りさばくというだけじゃなくて、新潟では今度は江戸地、つまり北海道から入ってくる海産物をこっちで買って、
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新潟で調達して、そしてそれを今度中国へ流すという商売をしていたみたいなんですね。
この北海道から何が入ってくるかというところが、北海道にいた私からすると結構胸厚なところがあり、
何だったっけ、生子とか干し生子とか干しアワビ、昆布とかイリコモというようなものをさばいて、こっちで買い付けていた。
これね、中国とか香港がそうかな、香港なんかに行くと草屋さんの昆布よりも生子とかですね、生子、ホタテですね。
この辺が貨物で売っているやつがね、本当かどうか分かりませんけど、草屋さんとか北海道さんとか書いてあると結構高値で売られていたりしてですね。
こういうふうに北海道ブランドというのは、中華料理の食材としては非常に価値が高いものとされているんだなと思いながら、北海道に住んでいた頃はよく見ていたわけですけど、
これを最初にやり始めたというか、それでかなり儲けていたのが薩摩藩だと。しかもその舞台は新潟だったというようなことなんですよね。
これは実は長崎で取引させることによって、関税をかけて収入を得ていた幕府からすると、これはちょっとけしからんということで、
この取締りをしていくのが19世紀の序盤ですかね、30年代、1830年代なんだそうですね。
取締りといっても、この時は最初は新潟というのは長岡藩の土地だったと。
長岡藩、新潟町というのは長岡藩でしたので、長岡藩が取締りをするということだったんだが、どうも取締りが徹底しないと。
長岡藩の土地は私が今パラパラと勉強した範囲ではよくわからないんですけど、あまり徹底していかなかったんですよね。
それでいうような状態で長岡藩に任せていても、これでは拉致が明かないというので、新潟を直下土地にするというのが1843年で、
この新潟を直下土地にした時に、最初の新潟武行としてやってくるのが川村永高という人なんですよね。
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新潟城地というのが上汁と書いてある城地だそうですが、それが新潟を直下土地にするということで、そこでこの川村永高がやってきて、
取締りも抜け荷と言われる薩摩藩がやっている抜け荷を徹底的に取り締まったというふうにされています。
この人は取締りをしただけじゃなくて、海岸の外国戦防衛、この時期ですから1843年ですので、外国戦防衛というのもかなり課題になっていた時だったので、
この人は法術の知識もあったということで法術訓練なんかを行ったり、あと大砲も設置したんですかね。
大砲あるんですよ。松林のところに行くと砲台が残っていて、ここで日本海側に睨みを聞かせていたみたいなのが残っていますが、そういうことをやったというような人だそうです。
河村さん9年いたそうで、新潟でも非常に活躍し、人望があったみたいなことがこの銅像のところにも書かれていました。
銅像は90何年?93年と150年かな。だから新潟城地から150年記念でだと思いますね。93年に作られた銅像というので比較的新しいと思います。
当然名前は知られていた、研究者の間では名前は知られていたと思いますけど、新潟市民が知っているかというとそんなには知らないですよね。
おそらく松林自身も砂防の意味もあったのかな。でもこの松林を作らせたのも河村さんだというふうに書いてあったと思います。
でもあまり新潟の人は知られていなくて、しかもこの松林の中に隠れている銅像があるので長らく私も知りませんでしたが、非常に面白い方ですよね。
河村さんはどうも新潟に行く年間いたわけですが、地方に派遣された官僚としては非常にエースのような人が地方に派遣されてきたということなんだと思いますよね。
後々、かつ改修が明治になってから10回した幕府の中でかつて優秀な人材としてどんな人がいたかの中に河村さんの名前も出てくるそうですよね。
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この間、このコロナウイルスで往来ができなくなる直前に私は長崎に行ったんですが、長崎の博物館に行ってもこの人が出てくるんですよね。
長崎にいた期間はそんなに長くはないんですけど、多分彼は活躍をして、海軍練習所というのを長崎で作るところでもこの河村さんの活躍があったのかな。
とにかく長崎武行としても非常に活躍したということが長崎でも説明されていました。
今日は長崎での活躍について説明する準備がないんですが、
というわけで、新潟に来たら松林を訪ねて行って、そして河村永田の銅像と放題、非常に地味です。
たくさんの人がそこを訪れているという様子は今のところ見て取れませんが、そこを見に行っていただいて、
それからまた長崎に行って、長崎でも河村永田の活躍を見ていただくと、
19世紀の幕末に向かっていくところで幕府の人たちがどんなふうなことをしていたのかということの一部として、
この河村永田という人のことを思い出して勉強すると、これは結構面白いのではないかと思います。
ただ寒いんですよね。私もなかなか西海岸公園に行かないのは夏はいいんですけど、
冬になると海岸沿いを歩くのは寒そうだなと思ってあまり行かないんですけど、
近隣の方はおそらくジョギングとかサイクリングとか散歩したりしているような場所だと思います。
ぜひお出かけください。
今朝は抜け荷の話と河村永田という新潟武行の話をしてみました。ありがとうございました。