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2024-10-16 21:13

02|小久保裕紀(福岡ソフトバンクホークス監督)~厳しさの奥にぬくもり~(中)

西日本新聞で記者生活の大半を、スポーツ取材で過ごしてきた大窪正一さんが、アスリートの素顔や裏話、スポーツの可能性についてお話しする「西日本新聞スポーツ余聞」。今回もテーマは、福岡ソフトバンクホークスの小久保裕紀監督。通算400本塁打、2000安打、現役引退など、数々の節目の場面を取材した大窪さんか小久保選手を語ります。

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この番組は、西日本新聞で記者生活の大半を、スポーツ取材で過ごしてきた大久保昭一さんが、アスリートの素顔や裏話、スポーツの可能性についてお話しする番組です。
こんにちは。番組の進行役で、福岡のニュースアプリ、西日本新聞Bの横山です。今回も前回に引き続き、小久保監督のお話を聞きたいと思います。大久保さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回も中富さんに来ていただいています。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
やっと2回目にして、本題に突入します。
大久保さんの目から見た、小久保監督ってどんな人?
はい。私、前回お話ししたように、プロ野球取材というのが初めてだったものですから、まず、小久保さんももちろんですけども、私が最初に入ったのが、2009年の春季キャンプ、早崎のですね、そこからだったんですけども、
非常にオーラがみなさん出てて、どうしたらいいんだろうという、どこに行けばいいんだろうというような空気感の中で、そこでまず、小久保さんに挨拶をしないといけないと言って、挨拶に来ました。
で、あれは、確かタイミングを伺って、昼食を取られて、ロッカーに戻る通路のところでお声かけて、名刺を渡した記憶はあるんですけれども、そこで、私が当時、アマースポーツ取材とかしてなかったので、何を質問したのかわからないですけど、すぐ調べればわかるような質問をした。
その時に小久保さんに勉強不足って一言言われて、ロッカーの方に向かわれたのをすごい覚えて、すごくそれが頭に残っていて、それから質問イップスじゃないですけども、どういう質問したらいいのか緊張するようになりました。
何を質問していいか逆にわからなくなりますよね。
はい。
そう言われたらね。
先輩の皆さんの質問の姿とか、あとは記事に出ているのを勉強しながら、こういう質問をしようとか、どういう質問をしようかというのを考えながら質問をしてたんですけれども、小久保さんはそうなると、今思えば拙い質問だったと思うんですけど、全て必ず答えてくださった。
誠実ですね。
はい。取材に対して、聞かれたことに対しては答えてくれて、結構厳しい言葉も言われましたけれども、絶対に答えてくれたんですね。
あとすごく僕の気持ちが楽になったのが、それをもとに書いた記事に対して何か言うってこと、文句だとかクレームをするとかそういうことは全くなくて、もうとにかくあなたが感じたことを書けばいいよっていうふうなことを言ってくれたんですね。
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もちろん質問は、なんちゅう質問やみたいな感じのことも言われたりもしたんですけども、でも書いた記事に対してはもうあなたが感じた思いなんだからということで言われず、そこがすごく小久保さんの誠実さと記者を育ててくれるみたいな空気感を僕は勝手に感じたんで、すごい質問がしやすくなりました。
もちろんあれですよね、活躍してですよ。ホームランでも打った日の次の日は、それはもう書きやすいですけど、やっぱりそれは選手ですから、いい時に打ってなかったり、スランプだったり活躍できない時はやっぱり厳しく書かなきゃいけないじゃないですかね。
その時でも、それでいちいち怒らないんでしょうけど、怒らないというか何も言わない。
そうですね、もうプロは結果だからというところが大前提であるからですね、そういうところはないし、逆に試合のポイントみたいなところを質問した時はすごく丁寧に、いい質問をしたじゃないんですけども、すごい丁寧に背景とかを説明してくれて、すごく勉強不足の自分にとってはすごいありがたかったです。
実際ですよ、質問するって特にプロ野球選手だったり、特に国防選手だったりする時って、素人目から見て、やっぱりどうしても野球をプロ野球選手になりたいとか、そこまで近づいてるって質問する人とか、あと元プロ野球選手とかだったら分かるんですけど、素人の目で質問するって難しいですよね。
難しかったですね。この質問が何を意味するのかとか、その部分を考えないといけなかったですね。
分からないですよ、何を質問していいか。
他社の坊主記者の中には、いますよね、自分も野球ずっとやってきましたとか、どこかしたら甲子園に行きました、みたいな人っておられるから、やっぱり彼らがする質問っていうのは、多分プロの世界でも、
体感した状態で、多分こうだったんじゃないですかって言えると思うんですけど、なかなかそういう体験せずに質問するのは難しいんじゃないかなって。
前回伝えたように国防さんだと、他社もやはり国防さん版みたいな方がいらっしゃって、質問をそれぞれ出し合うんですけど、質問ができないと他社が質問した質問で記事を書くようなことが続くとですね、
やはり非常にひけ目というかですね。
自分の中でもってことですよね。
はい、ありますし、他社もこの記者は外国人じゃないとか、そういう争いもあって、なおかつ国防さんだとスポーツ新聞で大きな記事になるので、そこのプレッシャーはすごくありました。
それでいうと最初から準備した状態の質問を持って行ったりもするんでしょうし、その時に感じたことを質問するものはあるんでしょうけど。
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その一般誌と違った、このスポーツ誌とのギャップを感じたのが、見出しを考え、当然一般誌もそうなんですけど、この見出しが出るような言葉を質問するみたいな形があるんですけど、
国防さんのようなベテランになると、それはその言葉を言ってほしいんだろうなというのがわかるようなことになっているので、そういうふうじゃなく自然に本当に思っている形で言葉を引き出すというところは非常に勉強になりました。
ちょっと話は変わりますけど、うちのカメラマンとのエピソードがあるということでお話を聞きたいんですけど。
前回伝えたように、スポーツ新聞というものは写真が非常にたくさん必要でして、私のような素人じゃ撮れないようなプロの方がカメラマンが撮ってくださるんですけど、
その中でカメラマンの方で、本市に原田ゆかりさんというカメラマンがいらっしゃったんですね。その方が病気で2011年の2月にお亡くなりになったんですけれども、
国母さんはですね、そのカメラマンが撮った自分の写真というのはすごく気に入ってらっしゃって、すごく自分をうまく撮ってくれてるという。そういうのがあって、その年の開幕の直前ですかね、開幕直前ぐらいだったと思います。
ちょっと記憶があるんですけど、国母さんから声をかけられて、原田さんのご実家で手を合わせたいというようなことを、連絡を取ってくれないかということを言われたので、原田さんのご実家の方に連絡したら、それは喜んでということで、国母さんが運転する車に乗せていただいて、
その中でも、やっぱり原田さんの撮った写真に対する思いというかですね、本当に自分の表情だとかプレイだとか、そういうのをうまく撮ってくれていて、すごく感謝してるんだというようなことをおっしゃっていました。
つい疲れて、症候をなさって手を合わされているとき、向こうのお父様、お母さんも涙を浮かべていらっしゃって、よく来てくださいましたみたいな感じだったんですけど、そこで国母さんは原田さんの恩返しじゃないですけれども、この年絶対日本一になりますみたいなことをおっしゃったんですけど、2011年日本一になってるんですよね。
そういう巡り合わせとか運とか、いろんなものもあるんでしょうけども、でもその思いっていうのもどこかにあったのかなって僕は思いながら取材しました。
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それぐらい国母さん、人をよく見ていらっしゃいます。
あそこでお前、北財船と喋ってたやろとか。
そのエピソードだけでめちゃくちゃ熱い人っていうか、人思いっていうか。
そうですね。だから今年優勝したのも、いろんな要素があるんでしょうけど、そういう人望というかそういうところもあるのかなというふうには感じていました。
思うのは、やっぱり選手とプロ野球で選手といわゆる運動部の記者とかテレビもそうでしょうけど、一緒に2人3客でやっぱりプロ野球やってるんですね。
言ってみたら、そういうことで講師ともにというか。
そうですね。私もプロスポーツ取材というのがそれまで経験がなかったので入って分かりましたけど、一般取材ですとその1回でお会いしてそれで取材が終わることも多いんですけど、言葉がちょっとどうか表現がいいのかわからないですけど、
タコツボじゃないですけど、そこの中で毎日顔を合わせて毎日取材をするので、選手の方もこの記者だったら話をする。この記者は喋っても、というときは喋らないとかそういう選手も出てきます。
もちろん全員がそうではなくて、でもそういうふうになってくる。でも我々は前回言ったように、市に3面を埋めないといけないので、スポーツ新聞の方は。とにかく話をできなかったらもうちょっとどうしようみたいになるので、そこの葛藤がありました。
ちなみに選手って、この新聞には喋るけどこの新聞には喋らないというよりも、この人には喋るけどこの人には喋らないという感覚の方が近いんですか?
おっしゃる通り、その新聞社、この社だからという方は少ないと思います。この記者だから話すとか、この記者には結婚したよというのを伝えるとか、よくスポーツ新聞は誰誰がオフシーズンに結婚したという記事が1社だけ出たりするときがあるんですけれども、そういうのはもう完全にその選手と信頼関係を築くという。
じゃあそれでいうと、西日本スポーツだから話してくれるだろうじゃないんですね?
それはないです。僕、本当勉強不足で、本当おっしゃったように、最初に1年目の最初のときはそういう気持ちもどこかにあったんだと思います。でも、そうじゃないんだというのを分かってそこの関係を作っていくという。
めちゃくちゃ重要ですね。
そうですね。
それこそそんな大久保さんは、やっぱり久保選手の節目の場面というのは結構取材されてきたんじゃないですか?
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はい。
久保さんが晩年のですね、ちょうどそういう選手として最後総仕上げの期間がたまたま私が担当できる幸運があったもので、その担当期間に通算400本類だとか2000案だとか、あと現役を引退なさるというそのタイミングを取材する機会がありました。
記憶違いとあれですけど、最後の引退試合ってノーヒットノーランされましたよね?
はい。おっしゃる通りです。
オリックスから…
西井さん?
そうです。
さすが。
さすが。
すごい記憶になるんですよ。
それをおっしゃって、今おっしゃって思い出したんですけども、それがあって、久保さんにその試合の後に話を聞いたら、引退後の良い講演会でのエピソードが一つできたというのをおっしゃってました。笑って言ってました。
どっちがどっちにノーヒットノーランだったんですか?
オリックスがフォークスにノーヒットノーランされた方です。
久保の最後の試合。
久保選手の最後の試合。
その試合にノーヒットノーランされたんです。
されたんだ。そうなんですね。
確かリーグ戦の最後でしたよね。
最後でしたね。
3位だったからクライマックスとかはあるんですけど、リーグ戦でおっしゃったのは最後の道具の拠地の中々おらんやろうとかおっしゃってました。
いないですね。
最後の試合。
普通気使うやろうって思いますよね。
そうですね。
ちょっと甘い玉の一つくらいくれよって。
そうなんですね。
2000本アンダーの時は連載もされてるという話で。
2000本アンダーの時はですね。
正直僕は国母さんの担当してましたけども、
皆さん他社の記者もすごい国母さんと信頼関係を築いていて、
非常に自分なんか全然力不足だったもので、
とにかく国母さんの内面を少しでも紹介することにフォーカスしようと思って、
国母さんに関わってきた方とか国母さんが野球を始められてずっと歩んできた中での方から見られた国母さんというのを紹介しようと思いました。
そうですよね。
当時はもちろん大会長、当時の秋山監督、あと巨人時代の高橋よしのぐさんだとか、
桑田ますみさんだとかも取材に伺いましたし、
あとは和歌山の高校時代の監督さんだとか、
青山学院大ですけど当時の監督さんだとか、そういうところに回ったり、
あと国母さんオフ期間に例えば修行ではないですけど、
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そういうトレーニングのような形でトレーニング、そういうところの瞑想だったり、
そういうところをする方の教えてらっしゃった方々にお会いしてお話を聞く機会を得ました。
国母選手の2000本あんだの連載というのは、いわゆる表裏で国母選手に関わった方が
国母選手を語るという連載がずっと続いていったってことじゃないですか。
カウントダウンみたいな形にしていったんですけれども、
ご存知かと思いますけど、残り1本というところで腰を痛められて抹消になったんですよね。
そりゃ1999本の時に。
そういうことです。
そうなんですね。そしてしばらく結局出席には立てなかった。
はい。登録抹消になって、サイト先とか時間の巣とかそこで調整をして、
1ヶ月…
すみません、ちょっと記憶が…
間が空いて出たのが2000あんだ。
なるほど。
なので、予定よりちょっと…
それで言うとカウントダウンがちょっとずれたってことですよね。
カウントダウンができなくなったというか、どうしようという。
今度、翌日からはリハビリなので、ガンノスとかサイト先に朝から行くという生活に僕は変わったですね。
球場ではなくて。
いろんな方の国防選手に対する話を聞く中で一つ印象的だった方のお話ってありましたか?
そうですね。有名な方、先ほど申しました高橋義信さんとか桑田雅美さんとかもいらっしゃったんですけど、
私がまずすごく記憶に残っているのは、
高校時代の監督さん、和歌山の成林高校というところの監督さんなんですけれども、
その方のお話がすごく印象に残っております。
結局、練習をやめろって言ったのは初めてだと。
ものすごくその方、昔ですので猛練習をする監督さんだったんですけど、
先生が国防にはやめろって、練習をやめろって、もうそれ以上するなっていうことを言ったっていうのを覚えてますね。
普通サボりたいですけどね。
やっぱり全然意識が違うんですよね。
サボりたいとも思うし、やっぱり高校生とはいえそのクラスの子たちっていうのはある程度負荷をかけても食らいすぎてくるし、
そんなのはある種平均が上がっている状態でそれより上練習しているってことですよね。
そうですね。もうそれこそ今メジャーですごく大谷翔平選手もものすごく活躍なさって野球に対する姿勢がものすごいんですけれども、
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国防さんもその向き合う姿勢というのは全然同じじゃないのかなと。
今お話をして思い出しましたけど、その和歌山のご実家にも取材に行ったことがあるんですけども、
取材に行ってその少年野球、小学校時代野球をやってたんですけど、
その小学校時代はやっぱり練習が毎日あるわけじゃないので、その毎日ない普通の平日の日も国防さん公園に行って、
公園の野球場みたいなところの外野の芝生を往復してランニングされてたんです。
そこがランニングの数がすごいので芝が剥げて、そこが国防道と言われてた。
それが小学校の時らしい。
それを聞いてとにかくプロに行くんだというふうなことを思ってらっしゃったそう。
小学校の頃から。
結局その国防さんの練習の虫が、もともと入団してた時のフォークスの弱小チームを練習の虫にさせたんですよね、チーム全体を。
そうなんですね。
そうか。今僕らが話してるのは、国防さんがちょうど取材をしてた頃で、
それっていうのはさっきも話した通り、国防にとってはある種選手生活の晩年で、
フォークスとしては上職球団になってたし、
国防選手としてもある種不動の頑張った、みたいな状態の時期の話をしてるけども、
それがその昔を遡れば、もちろんフォークスは弱かったし。
国防さんの入団してた94年っていうのは本当に弱小。
6位とか4位とか5位とか、そういう。
その時の選手がやっぱり練習を、国防さんを見て練習をしようと思ったぐらいですよね。
そう、私も聞いてます。
春季キャンプの終わりの時間を、国防さんが一人ずっと球場に残ってやってたとかいうお話は聞きました。
じゃあ弱かった頃っていうのは、あんまり練習しなかっただろうかね。
弱かった頃はそうでしょうね。
弱かった頃はそんなものなのかもしれない。
また聞きたいお話はまだまだ続くんですけども、一旦ちょっとここでもう1クッション挟みまして、
続きはですね、これまた聞きたい話なんですよ。
次はね、大久保さんと国防選手が2人で飲みに行ったんだけどっていう話が次回にあります。
めちゃくちゃ聞きたいですね。
中臣さんがもう、ほんと泣いて羨ましがる話。
前の目で聞きます。
ということで、一旦今日のお話どうでしたか?
もう次行きましょう。楽しすぎます。
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
ここまで聞いていただきありがとうございます。
大久保さんの記事は西日本新聞とニュースアプリ西日本新聞MEでお読みいただけます。
大久保さんの記事が読みたい、西日本新聞やこの番組を応援したいと思っていただける方、ぜひご購読お願いします。
次回は大久保さんと国防選手が2人で飲みに行ったよとなります。
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お楽しみに。ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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