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2024-10-10 18:50

01|小久保裕紀(福岡ソフトバンクホークス監督)~厳しさの奥にぬくもり~(上)

西日本新聞で記者生活の大半を、スポーツ取材で過ごしてきた大窪正一さんが、アスリートの素顔や裏話、スポーツの可能性についてお話しする「西日本新聞スポーツ余聞」。1回目は今季、監督就任1年目でリーグ優勝を決めたプロ野球、福岡ソフトバンクホークスの小久保裕紀監督について話します。


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・「小久保イズム」厳しさの奥にぬくもり【スポーツ余聞・大窪正一】

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◆出演・スタッフ

・出演:大窪正一(スポーツ記者/宗像支局長)、中富一史(販売部)、横山智徳(MC)

・音声編集:中富一史・映像編集:井上知哉、三笘 真理子


◆収録日・2024年9月27日


◆西日本新聞Podcast情報

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・収録スタジオ「N-Studio TENJIN」(福岡市)→https://n-studiotenjin.jp/

00:08
この番組は、西日本新聞で記者生活の大半を、スポーツ取材で過ごしてきた大久保昌一さんが、アスリートの素顔や裏側、スポーツの可能性についてお話しする番組です。
こんにちは。この番組の進行役で、福岡のニュースアプリ、西日本新聞Bの横山智則です。
1回目となる今回は、その大久保さんに、プロ野球ソフトバンクホークス、国母裕紀監督について話を聞こうと思います。今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
そして、スタジオにはもう1人、西日本新聞社販売部で、ホークスの熱狂的なファン、中富一住さんにも座ってもらいました。今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
まずは2人のことを、私の方から紹介させていただきます。
まずは、もちろん大久保さんですと、1973年生まれ、大阪出身、鹿児島の地方市で勤務した後、2008年に西日本新聞社に入社されました。
その後は、もう運動部一筋みたいな感じなんですけども、高科、東京の運動部でソフトバンクの国母版をされました。
インチョンアジア大会、ディオネジャネイロオリンピック、ラグビーのワールドカップ日本大会、高校野球、大学野球など、プロアマ問わず、20年幅広く取材をされてこられました。
今は、2022年からですね、高科県の室方という地域で、室方市局長をされております。
福岡に関わるアスリートについてのコラボ、スポーツ余文を書いておられます。
余文というのは、余るに聞くと書いて、新聞の文と書いて、こぼれ話の意味で、今、月に一度連載をされていて、今のところ15回ぐらい連載が続いています。
西日本新聞福岡県版とニュースアプリ、西日本新聞MEで読んでいただけます。
今回この番組もスポーツ余文にしましたけども、この連載と連動していくという意味で、そういうふうにさせていただきました。
ところでなんですけど、大久保さん自身はスポーツされてたんですか?
私の方はやっぱりスポーツしていました。
最初はやはり、僕らの時代は野球がやっぱり盛んだったので、みんなと少年野球をやっていたんですけれども、あまり成績も良くなくて。
というところで、テレビで僕らの小さい時にスクールウォーズという、山下慎二さんが監督役でやられている熱血なドラマが、ラグビーのドラマがあって。
スポコンのあれですよね。
もうそれにハマって夢中になって、私の出身は大阪なんですけど、大阪はラグビーが盛んだったので。
そうなんですね。
中学に部活動で、サッカー部よりラグビー部の方が多いぐらいだったので、当時はですね。
自然にラグビーに夢中になって、スポーツの世界が、スポーツに関わっていきたいなと、その頃からずっと思うような形で、縁があって、今こういうスポーツに関わる仕事をさせてもらっています。
03:12
なるほど。あ、そうですか。サッカー部よりラグビー部だったんですね。
そうですね。
当時の大阪はみたいな。
当時の大阪は、サッカーがそんなに強く、特にそんなに強くなかったのもあって、結構ラグビー部の方が勢力が強いみたいな感じでした。
続いて中富さんなんですけども、1983年生まれ、福岡県出身、2006年に西日本新聞社に入社され、仕事としては販売局一筋なんですけど、
それは置いといて、筋金入りのフォークスファンだそうで。
筋金入りと言われると、本当のファンに失礼だと思いますが、熱狂的なファンですね。
一応小学校5年生くらいから野球を始めて、その頃からのフォークスファンということで、大英フォークスの時くらいからのファンです。
私の自己紹介をさせていただくと、当時フォークスに入団していたのが、国防裕樹選手、現監督なんですけど。
それが小学校5年生頃。
そうですね。その頃ちょうど入団してきて、その頃から活躍をしてて。その頃、やっぱり小学校の時、野球を始めたばっかりなので、国防さんに憧れて野球を始めているというようなことでございます。
フォークスが好きで、福岡市内の大学に入学した後は、当時福岡ドームでアルバイトをしてまして。
ドームでバイト?
アルバイト。大学3年から2年間は、フィールドの中のボールボーイでドームでアルバイトをしているということで、選手と近くに仕事をしているような形になりました。
そのまま地元の西日本事務所に就職し、その間フォークスを見守りながら現在になるということでございます。
フォークスと共に歩んできた。
そうですね。
言い過ぎ。
ありがとうございます。
一応、今日の収録日は9月27日ですと。
で、今日の時点で、多分放送は10月の中旬になりますと。
で、今日の時点でフォークスの話をすると、9月23日、つい数日前にまさにリーグ優勝を果たした。
いやー、めでたい。
そして。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
おめでとうございます。
で、10月の16日からファイナルステージが始まって、26日からは日本シリーズが始まるので、
多分ちょうどこれが放送される頃は、ファイナルステージ頑張ってる、日本シリーズ頑張ってるフォークスみたいなところで、
が多分放送時点での現在地だと思いますと。
にしてもということなんですけど、今年のフォークスは本当に強かったですね。
いやー、本当に強かったですよね。
06:02
そうですね。
でも、私、先ほどご紹介いただいたように、今はスポーツの取材、現場のほうにはいないんで、
あれですけれども、テレビや新聞報道等を見ていても、非常に安定した戦いぶりで、
一時は史上初の100勝みたいなペースで勝ち進んで。
本当、1ファンとして見てて本当楽しかったですし、ずっと2勝いっぱいペースでずっと勝ってましたよね。
安定して勝ってたって感じですね。
なんか大型の連勝もないけども、大型の連敗もないという理想的な。
どっかで沈みもしず、ずっと1位なんですよ。
そうですね。
今年は。ずっと1位。
唯一ちょっと怪しかったのが、このマジックを減らした後の連敗したところぐらいですもんね。
それぐらいですね、後。ずっと強いです。
そうだったですよね、確かにね。
ホークスの話をゆっくり聞く前にですね、それこそちょっと振り返って、さっきも大久保さん、国母版をされてたということなんですけど、
大久保さんが国母監督を取材してた頃、当時の国母選手を取材してた頃っていつ頃になるんですか。
私が取材させていただいたのは、2009年、10年、11年、12年の4シーズンで、順位としてはリーグ3位、リーグ優勝、日本一、リーグ3位という結果でした。
当時、ちょうど秋山さんが監督になられた、1年目が2009年で、新たな体制というか、大久保さんが上昇軍団に振り上げたチームをさらに消化させていくような、新たな挑戦のシーズンからだったんです。
当時の国母選手は、当然4番バッターでとかいう話になるんですか。
そうですね、秋山さんが国母さんをキャプテンに指名なさいまして、引っ張っていく立場でいらっしゃいました。
打順の方は定かではないんですけれども、当然中軸を打つという形でいらっしゃったのを覚えております。
ちょうど選手としては、いわゆる選手としては晩年、ピークを過ぎて晩年でしたので、どちらかというとまとめていくような立場を期待されてキャプテンをなさっていらっしゃいました。
当時、大久保さんも西日本新聞に入ってきたばかり。
そうですね、もう入って間もなくで、私ごとなんですけど、鹿児島の新聞社にいまして、鹿児島の新聞社時代にはアマチュアスポーツ、高校野球とか高校サッカーとかが鹿児島は盛んでして、
その時に、例えば杉内さんですね、鹿児島実業というところに杉内さんがいらっしゃったり、あと川崎宗典君が鹿児島工業というところにいたり、ちょうどそういう、あとヤット君ですね、遠藤選手、鹿児島実業、サッカーの方。
09:15
こういう選手がちょうど高校生でいた時代で、みなさんは羽ばたいていくというか、フィールドを広げていかれていたので、
ちょうどその時を見てたんですか、すごいですね。
そうですね、川崎君がとっても可愛くて。
知ってるんですね。
そうなんですね。
うちの、その時の当時のカメラマンの方が、今日可愛い子がいたんだよって写真を見せてくれたのが、今思えば川崎君だったんですね。
それは当時からね。
いやいや、さつまの一郎と言われて、だいぶバッティングも良かったらしいですよ。
そうなんですね。
体は細いんですけれども、足も速くて。
そういうフィールドを広げて羽ばたいていくので、当時スポーツ取材をしていたので、自分もそういうふうにフィールドを広げて、
もう少しスポーツのウィングというか、幅を広く取材をしたいというふうな形で、縁があって西日本新聞の方に入れていただいたんですけど、
まさかフォークスの担当をすると思ってもなくて、30半ばで入ってきましたので、
もうどこかでスポーツに関われればいいなと思ってたら、縁があってフォークスの担当となって、なおかつ国母さんの担当と言われても、
これがもう心臓がドキドキ。
言われてからなかなか寝れない日々が続きました。
ちなみに大久保さんは大阪出身だと思うんで、フォークスファンだったんですか。
大久保 すみません。やはり半信半疑でしたね。
だから半信半疑で来てフォークスファンになったっていうのはどんな心境だったんですか。
大久保 そうですね。やはりでも、また別で話すかもしれませんが、ほとんど選手と一緒に過ごすような生活をプロ野球のスポーツ記者というのはするので、
大久保 気持ちもフォークスに自然になっていって、交流船とかで甲子園に来ても、この半信の応援がうるさいなと思うぐらい、逆に。
すごいですね。
大久保 完全になっていく感じでした。
あとあれですね。西日本新聞社に入って、いつかはフォークスファンの担当になりたいなとも思ってはいたんですか。
大久保 いやもう、本当にスポーツに何か関われればいいなっていうのが正直な気持ちで、まさか担当するとは思っていなかったので、本当にどうしようという。
だからあれですよね。一から勉強というか、選手の名前から覚えるような形になったんですよね。
大久保 そうですね。当時幸い川崎選手がいたので、川崎選手とかはつながりがあったし、あと杉内投手とかも、さっき言ったように鹿児島実業をつながり、あと本田雄一君も鹿児島実業。結構鹿児島の関わる方が多かったので。
12:15
鹿児島すごいね。
すごいですね。
大久保 で、ブルペン、ブルペン保守だったんですよね、当時。
うちの国。
大久保 そうですね。さすがですね。
なかなかさすが出てくるね。
大久保 いらっしゃって、そういうのが安心感になりました。
ちなみにそれこそ国語版となると、もう国語ばっかりなんですよ。少なくとも9人いるし、とかいうことでも、スター選手は一人ずつ張り付くみたいな世界なんですよ。
ありがとうございます。
今は西日本スポーツというのが昨年9巻になっていますが、当時西日本スポーツという新聞媒体がありまして、その当時は一面、二面、三面と全てフォークスで埋めるというような紙面構成だったもので、
とにかく取材をとにかくしないといけないという状況の中で、やはり一般誌と少し違うのが、やっぱりスポーツ誌は主語がしっかりした、要は大さんが、国保さんが、松中さんが、そういう有名な方とかみんなが読みたいという方の記事がより多くなるというか、そういうことがありまして、
担当の中である程度何人、まず党首担当と野州担当の2社に分かれて、それを統括するキャップは監督さんにつかれる、監督とかフロントですね、旧団の大崎隊長とか、で、党首と野州に分かれて、その野州の中でもおっしゃったように目立つ、
僕の当時だと国保さん、松中さん等ですね、田村選手もいたんですけど、そういう有名なところ、で、党首だと和田さん、杉内さんとか、そういう選手にはもう担当がつくみたいな形で、その方から何か今日記事をひねり出せみたいな感じで、非常にプレッシャー、先ほど言ったようにプロスポーツの取材が初めてだったもので、
もう寝られないというか、明日何を聞こうとかいうので、明日聞く質問と見出しが浮かぶまで寝ないみたいなことをしたりとかしてですね、すると朝までなっちゃうとかですね、すごい結構、今思えば懐かしいですけど。
担当好きじゃない選手っていうのはどういうふうに取材するんですか。
今言いました、党首担当、野手担当で分かれてるので、メインは僕の場合は国保さんですけど、国保さんプラス野手の選手という形で、見るという形で、大きな流れとしては当時ですけども、当時は二君の練習所がガンノス球場というところにあって、リハビリだとか、選手の寮が斎戸崎の方にあったんです。
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なので、大まかな流れとしては、朝斎戸崎やガンノスを回って、二君戦がガンノス球場であれば、デイゲームなので、それを見て、それからドームに向かうという形で。
忙しいですね。
朝から夜まで野球付けになるみたいな形です。
すごいな。
逆に言うと好きじゃないとなかなか、好きにならないとなかなかできないですね。
本当におっしゃる通りで、好きにならないと。
できないですよね。
できないというか、自然にやっぱり愛着とか思い入れも湧いてきますし。
なるほどですね。
ちょっと話はそれますが、それこそガンノスでの時に、育成選手だったセンガ君とかがですね、本当に泣きながら腹筋をして。
すごい。
まだ投げられないような、まだ体が細くて体幹を鍛えようみたいな形で、二軍戦のスコア付けだとかスピードガンを図るとか、そういう裏方の仕事とかもセンガ君がしたりしてましたけど。
でも、今一軍の投手コーチなさってるフラノさんが、当時二軍のそういうケアをされてたんですけど、センガ君にマンツーのように厳しく鍛えて。
で、4月に入団して2ヶ月、6月くらいですかね、に投板したら、もう急速が10キロくらい入った時がアップしていて、すごいその印象がガンノスではあります。
すごい時代を見てますね。
見てますね。
その時代からその予感がしたみたいなのあるんですか。
予感がした。
要はメジャーまでまさかみたいな話を。
いやもうとんでもなくて、僕はそんなもう見る目が全くないんですけど、ただすごく素直で、すごくこう自分が今日これできましたとか、そういうことをすごくふたくなく話をするというか。
ガンノス球場は昔、今は筑後にあるようにあそこまで立派な施設ではないので、選手に触れ合う機会が多い。こう通路を通ってたら、通路でそこで腹筋とかやってたりするので、話しかけやすい環境だったもので、すごくそういうお話をして。
そうですね。彼が初登板というか初実戦の時もたまたまそういう取材をして向こうに行くという形で取材をした記憶を思い出しました。
ああそうですか。まだ全然ないですけど、全然台本って言うと進んでないんですけど、一旦ここで締めましょう。次の質問はやっと大久保さんから見た国防監督でどんな人っていうのが次の質問なんですけど、それは次回に回しましょう。ということで中田さん今日はどうでしたか?
18:07
中田 いやーめちゃくちゃ楽しいですね。もうこれずっとやりたいですね。ずっと話聞きたいです。
そうですよね。ありがとうございます。一旦締めますね。ここまで聞いていただきありがとうございます。大久保さんの記事は西日本新聞とニュースアプリ西日本新聞MEでお読みいただけます。大久保さんの記事を読みたい西日本新聞やこの番組を応援したいと思っていただける方ぜひご購読お願いします。次回は国防監督ってどんな人からスタートしたいと思います。今日はありがとうございました。
中田 ありがとうございました。
ありがとうございました。
18:50

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