そうですよね、あまり聞かないですよね。
競泳の世界っていうのは、中学校から高校、大学この辺りが選手としてのピークを持つものですね。
だから他の競技よりもどちらかといえば、ちょっとピークが早い。
確かにプロ野球選手で言うと、33、34なんてもうちょっと油が乗ってすぎたぐらいかな、ぐらいな感じですかね。
そうですね、ちょうど技術とうまく融合していい感じになっているというところなんですが、
もう30代を超える選手が第一戦で競泳界で活躍するっていうのは、まあ珍しいわけですね。
そうなんですね。
その選手がですね、まだ競泳を今現役でやってらっしゃって、つい配信するときは時間経ってますけど、
2月の16日にコナミオープン大会っていうのがあったんですけど、ここの100m平泳ぎで優勝なさったんです。
これってもちろん第一戦の選手が出て大会なんですけど、位置付けとしてその1ヶ月後に日本選手権というのがありまして、
そこで順位とこれだけのタイムを出せばっていうタイムを切れば日本代表になると。
今年は7月に世界選手権がシンガポールの方であるんですけど、ここに出られるというか出られないかが、
そのまま今年の状態を確認するような大会ですね。この大会でいきなり優勝しているという。
すごいですね。
すごい。これ本当にですね、すごいことで。
ちなみに昨年の夏のパリオリンピック、こちらにも100m、200mで日本代表で出場してるんです。
これって33歳だったんですけども、その時日本勢の競泳の史上最年長でオリンピック出た選手なんです。
最年長なんですね。
そう、競泳会で。日本の競泳では最年長。
すごい。
で、200mで4位入賞していると非常に衰えない。
すごいですね。
それを垣間見たのが、その原点というか、その垣間見たのが最初冒頭に言いました、
リオデジャネイロオリンピックを目指す過程であります。
ここでですね、非常に私は印象深いことがあったんですけども、
鈴木さとみさんって笑顔がすごい素敵な印象ですけども、
私がちょうど取材してた頃っていうのは、東京私運動部にいたんですけど、
非常にその笑顔がなくて、と違ったら私は泣き顔の方が印象に残るという時期でした。
というのも、ロンドンオリンピックで3つメダル取って、
1役国民的ヒロインで、すごい素敵な女性ですし、笑顔が素敵で、
すごい人気になって、それがすごく真面目な方なんで、重圧みたいになってたんですね。
で、ちょうどその時期ミキハウスを所属するミキハウスの方に社会人として出だした頃で、
要は社会人としても1年目の人だね。で、できる限りお仕事の方もやるっていうふうなことを。
私は水泳なんで仕事はもうあんまりしませんじゃない。
できる限りは社会人としてのこともしたいということで、
私がちょうど取材してた頃はその出版部、ミキハウスの出版部というところにいて、
絵本の検品作業みたいなのをされているということをお話を聞いた記憶があるんですけど、
それはでも東京都内なんですね。場所が。で、練習拠点は大学は山梨学院内なんですけど、
そこは変えてないんです。
なので山梨と東京都の往復をしながら練習をして、
なおかつ新社会人として非常にいろいろストレスの多くて、
非常にそういう中でロンドンの10月もあって、
非常にいろんなものを抱え込んでいる時期だったんですね。
で、要は大会でも思うような数字が記録が出なくてですね。
よく競泳っていうのはレースが終わった後に取材する場所、通路の途中で取材ゾーンみたいなところに来た時に、
涙をポロポロ泣きしながらお話は、でも決して鈴木さとみさんって嫌だからもうお話ししませんとかいう人ではなくて、
どんな時も誠実に涙を浮かべるんですけど、その印象が非常に強かったんですね。
鈴木さとみさんって皆さんどういう印象があるかなんですけど、
要はすごくご自身でおっしゃってましたけど、
今言ったようにそういう新しいサイクルがストレスになってスランプになったというように、
非常に不器用なタイプ、本人としては一つのことに集中したいっていうタイプで、
あれもこれもっていうのは苦手な、マルチタスクよりもあいつのことをやるっていうのが得意なタイプだと、
本人もおっしゃっててですね、そういう環境の変化も苦しかったんですよね。
なんでもうなかなかこれ厳しい状況かなと、要は2012年のロンドン出て、
162大会連続のオリンピック、そしてメダルだというようなことで、我々記者は、
でもなかなか難しいのかなと思ったんですけど、
鈴木さとみさんを復活に導く方が、神様がいたんです。
神様がいたんですか。神様登場です。
ゴッドがいたんですけど、なんでかって言ったら山梨学院大の神田忠彦監督、神田の神。
本当に神ですね、ゴッド。神様、神様の監督。
この方がすごく非常に鈴木さんの本質というか、人間性みたいな部分も分かった上でご指導なさる方でですね、
私も山梨学院大に通ったりして取材をしていたんですけども、とにかく自分の持っている真の強さっていうのはすごい。
鈴木さんの良さを見抜いた上でですね、そういうミキハウスだとかそういうお仕事をさせたのも社会人としての経験、
こういうのを積ませて人間としての成長がないと競技者としてはワンランク上行けないだろうという思いもあって、
あえて厳しくも接していらっしゃったんですけども、でも鈴木さんからすればロンドンでのこういう結果もありましたし、
全幅の信頼を置いてらっしゃったんですね。そういう結果出せないなら引退会見するかぐらい強いことも言われたりして、
でもそういうことでそれを鈴木さんは愛情と受け止めてどんどん甘さがなくなっていったんですね。
で、リオゴリンの勝負、代表争いの時にどう勝負するか。正直100メーター200メーター両方でオリンピック代表権を取るのは厳しいんじゃないかっていうのをお二人で話したそうでですね。
そのロンドンの時は200メーターの平泳ぎで銀メダル、100メーター平泳ぎで銅メダルって言ったんですけど。
すごいですね。すごいことですね。
なんですけども持ち味は鈴木さんスピードなんですね。50メーターとかもすごい強いんですけど、持ち味のスピードを生かそうということで100メートルに絞ろうじゃないかと。
100メートルで勝負するということを決めて、先ほど冒頭に言ったように不器用さ勝手にじゃないけども、いろんな100メーターと200メーターでやっぱり泳ぎ方も違います。
スタミナの配分とか違ってくるので、その辺りも考えて100に絞って100の泳ぎ方でこれでもう集中していきようっていう形でゴッと監督のご指導があったんですね。
本人もあれもこれも苦手だけど一つ絞ればっていう強いんで、よしじゃあ100で勝負だっていうことでもう心の軸が定まってすごく集中して練習をやられて。
で実際にその代表争いの試合を僕取材行ってたんですけど、そこで覇権標準記録っていうのを突破して2位に食い込んで実際代表権得たんですよねリオオリンピックで。
メダルはちょっと難しかったんですけど結果的に。
この勝負というか、執念というか、たぶん状態から言ったらなかなか厳しい状態だったと思うんですよ。
そこをうまくピーキング、スポーツ用語なんですかね。
そこにピークを持っていく。
ということをされたこの勝負の執念の凄みでですね、もう会場で鳥肌が立った記憶がありますね。
だから素人的に言うとですよ。
ロンドンは200は銀なんよ。100は銅なんよ。200の方が得意だったんじゃないよってちょっと思ったよね。
ただ年齢とかその辺の分はあるでしょ。
そういうことのジャッジでしょうね。
そうですね。でも僕も横山さんが一緒に。そうだからリオ決めました。
で東京五輪は逃すんですね。
でこれもう僕はね先ほど言って年齢の選手のピークというのはちょっとずれるからですね。
これ厳しいんじゃないかなと思ってたらパリを認められるんですよね。
これもだからいろんなものを乗り越えて、僕はそのパリの過程は取材していないんですけども。
そういうリオの記憶が蘇りましてですね。
やはりたぶん主者選択されてもうコロナでできることはこれだとか。
いろんなことを考える中でパリをつかまれて、で実際に最年長五輪という一投目で。
なおかつこの後続けられてるっていうのが僕はすごいなと思って。
この2月の今最初に戻りますけども。
そうですよね。すごいモチベーションですよね。
すごいですよね。これ本当にすごいと思います。
おまけに200mでも記録が伸びてるっていうことなんですよ。
伸びてるんですね。
リオの時はいわゆるそういういろいろなことがあって、なかなか苦しい中でも勝負で代表権を得て、東京は逃して失意ですよね。
でもこれをまた乗り越えてパリ取って、普通ならというか僕の勉強の僕のような感覚で、もうそれでゴールみたいな気持ちになるんですけども、まだやられてるということはすごいな。
そうですね。次のオリンピックいつですかね。
さすがにもうちょっとだけか。
僕はロハンゼルスなんですけども、2020が東京、2024がパリ、だから2028ですね。3年後。
3年か。
でもあるんじゃないですかね。
そうですね。
だからぜひぜひ、3月の方に日本選手権入りますし、そこで代表権を得たら世界選手権につながっていきますので、
鈴木さとみさん、福岡のご出身ですし、ぜひぜひ注目していただければなという、私自身思い入れのある選手の一人なので、ぜひ今回紹介したいなと思ってます。