西日本新聞社主催しているスポーツの大会として、
金鷲旗という、これは夏場ですね。
そうですね。
柔道の高校生の柔道の全国大会。
そうなんです。
金鷲社員のときに研修で金鷲旗、玉龍旗をとりあえず行って、
スタッフというかというところでやりました。
お手伝いですし。
分かります。
覚えてますよ。
こちら選抜大会だとか出場権を争った大会とかではなくて、
エントリーすれば参加できるというところもある全国大会というのが特色の一つで、
なのですごい出場エントリーチーム多いですもんね。
そうですね。金鷲旗と玉龍旗が続けて同じ時期にあるんですけど、
どうかしたらホテル取れなくなる問題が出るぐらいの大会ですね。
その時期は非常に福岡の真ん中に高校生が増えてますね。
大会なんですけど。
それもでかい高校生が増える。
でかい。
その大会、この金鷲大会ここでですね、伝説になっている伝説の20人抜き。
これをやられたのが、この羽賀さん。
そうなんですね。
20人抜き。
これ20人抜き、何がどういうところで20人抜きになるかっていうのをご説明してもらっていいですか。
まずですね、引退会見で様子を見てたんですけど、
すごく取材した当時を思い出して、それで、
あ、羽賀選手といえばということで、この今20人抜きを思い出したんですけど。
もちろん、このもちろんというか、私が記者時代にこの20人抜きというのは私取材してないんです。
時期的にですね、取材してないんですけど、
振り返れば東海大相模校の1年生で出場した時の金鷲期なんですけど、
基本的に一人で団体の勝ち抜き戦なので、
要は負けるとか引き分けがない限り、勝ってたらずっと
勝ち抜くんですよね。
勝ち抜いていきます。
だから一人でそのチームを全部倒しちゃうってことを、この方は4チームされたってことをですね、
4チームを倒して史上初の20人抜きになるってこと。
1団体は5人。
そうそう。
5人の4チームだから20人。
はい、5人制の団体戦なのでですね、
もう負けるか引き分けるまで戦い抜くんで、抜き勝負と言われててですね、
これがなかなか団体戦なので目立つことがない中で、
この抜き勝負は結構金州紀の名物という感じですね。
ですよね。
これちなみになんですけど、伝説の20人抜きっていうぐらいなんで、
大体みんな何人抜きが。
そうですね、新聞の記録とかでは5人抜きとか、
つれば一人でそのチームをみんなやっつけたっていうことですね。
とかであれば結構すごいな。
大きな見出しになるのは大体毎年5人抜きとか、
高校の何々選手かみたいな。
なるほどね。
そうですね、なので20人抜き。
本人にこの時のことを振り返ってもらった、
それこそリオデジャネイロオリンピックを目指す際の取材の過程で、
昔のことも振り返っていただいて、
20人抜きの話を聞いたんですけども、やはりすごいきつかったそうです。
きついですよね。
当たり前なんですけど。
体力的なところもですね。
そうですね、皆さん高校中学で柔道されたことありますか?
柔道もあるし、剣道も一応授業とか。
授業で。
授業でちょっとした。
あれ一人試合しかするだけでもかなりきついですよね。
そうですね。
それを全然レベルは段違いなんですけども、
それを思い出して20人ってもう考えられないなと思ったら、
やはり経年とか、正直脱水症状みたいな感じになりながら、
悪力とかですね、かなりいるんですね。
相手をグッと引きつけないと技ってかけられないので、
相当体力的にも力がいる勝負で。
それは1年生の時でしょ?
そうなんです、1年生なんですね。
なのでやはり体に動きが染み付いているからこそできたんだと思うんですね。
でもやはりあれが、あの乗り越えた自信、やり遂げた達成感、
これっていうのは柔道人生の中でやっぱり大きかったっていうことは振り返ってくださっていてですね。
それこそ余談だよね。
1人で1年生が20人抜きしたら、他の子試合1000万万になっちゃうんですよね。
4試合勝ち抜いてるとき、その人しかやってない。
そういうことになりますよね。
ないまんまずっといっちゃいますもんね。
そうなんですよね。
逆にでも。
これも余談ですけど、20人抜かれた方も大人になったらいい?
見上げ話じゃないですけど、実は17人目なんで。
確かにね、名誉ある。
そうですよね。
5人抜きだったらですね、いろいろあるかもしれませんけど、
20人抜きの中の記録の中の1人っていう。
そうかそうか。
かなとかちょっと思ったりもして、
西日本新聞の主催の大会が、そういう飛躍のきっかけになったっていうことをおっしゃってくださったのはですね、
なかなか嬉しかったなという、個人的にもですね、思った記憶がある天才ですね。
天才柔道家って言っていいと思う。
そうなんですね。
1916年から始まった歴史ある大会で、そこまでそういう記録が出てなかったわけですから。
そうなんですね。
そうなんですか。
そうなんですそうなんです。
でも未来のスターだと注目されて、こう終えられて、名門と言われる東海大の柔道部行って、また柔道で有名な朝日架成、そこに入られて非常にブレイクされている選手なんですか。
ただやっぱりアスリートってどの方もやっぱり挫折とか、いいことばかりじゃないんですよね。
ただそれを国母さんの時の回にもお話ししたかもしれないけど、その逆境の時こそ生き様の見せるところじゃないですけど、
そこをどう乗り越えるかでアスリートって一川も一片川も向けていく姿を私たちも取材して経験していて、それが羽賀さんもありまして、
羽賀さんこの2014年の時に全日本柔道連盟、全柔連が基本的に世界選手権の出場枠じゃないですけど、階級別なものですから、基本的には全階級にもちろん追い上げと言われる柔道なんで出すんですけど、
2014年全柔連が当時この日本代表が全然世界で勝てなかったのが男子100キロっていうんで、そこが羽賀さんの階級だったんですけども、そこに2014年は出場させなかったことがあったんですよ。
もう世界選手権に派遣しませんと。そうなんです。
権利はあったけど派遣しないっていう。
出場させても、その良い悪いは別としてメダルは取れない。プラスそういう選手の雰囲気を促すですね。
なるほど。
こんな調子じゃ日本の英芸、100キロ級無差別というのはやっぱり重量級というのはやっぱり柔道の花じゃないですけども、その日本としてはエースが数々山下康弘さんの無差別とかですね。
それか井上恒生さんが100キロ級だったんです。こういうエースと言われる方々が出た階級ですので、やはり日本としてはプライドのある階級なので、そんな無様な姿は見せられないということもあって派遣を見送った。
その見送ったのこれ初めてだったもので、これはその当時はこの階級では派遣さんがやっぱり第一人者という言われていた方だったので、かなり本人としてもやっぱりきつかったとおっしゃってましたですね。
その一番手として世界選手権に派遣されないような日本代表になった。これなかなかきつかったらしくて、実際にこれロシアでその2014年の世界選手権行われたんですけど、濱田選手は研修団の一員みたいな感じで観戦させられる。僕からしたら侮辱じゃないかなと思うんですけどね。
他の階級は出てて試合は出るはずだったのが、見学して行くって辛いですね。
なおかつ濱田さんがおっしゃってましたけど、他の代表選手の柔道技のクリーニングだしたり座る場所を雑用したり雑用をしたり、裏方仕事もしないといけなかったらしくて。ある意味出て負けるより悔しいですよね。
悔しいですね。
多分それは狙ってたとこなんだと思うんですよね。実際本人も本当に悔しくて、これをエネルギーに変えないともったいないと思ったと。取材で当時の悔しさをよく振り返ってらっしゃいましたけどですね。
だからこそなんですけどね、いろんな柔道だけの稽古だけじゃなくて、スピードスケートの長野五輪で金メダリストになった清水博康さんっていらっしゃると思うんですけど、この方に下半身の使い方、スケートってものすごい太ももを。
太ももすごいですもんね。
下半身の使い方、要は体の使い方を学んだり、そういうことをされたんですよね。肌さんっていうのは、もともと相手を跳ね上げる、内股っていう技があるんですけど、腰の間に足を入れて跳ね上げるような技があるんですけど
要は下半身が非常に重要になってくる技なんですけど、その持ち味を切れを磨き上げてですね、リオ五輪には出用権を実際に得られたと。リオ五輪は金メダルは残念ながら取れなかったんですけど、大メダルだったんですけどもね。
でもこの男子100キロ級のメダル自体がですね、シドニー五輪井上浩成さんが。だいぶ古い話で。
実は金メダルを取られて以来、日本勢としては4大会ぶりのこの100キロ級ではですね、メダルだったんですね。
それは本当に不審だったんですよね、そのメダルが結局。
だからそう、派遣見送りとかもあったということなんでしょうけどですね。本当に挫折、挫折、悔しさを糧にしたという。そのちょうど過程を取材させていただいたんで、すごく運が良かったなと思っていますですね。
それで引退かどうかも、そこでもちょっと悩んだりされたそうなんですけども、実際続けられて。
柔道ってやっぱりその日本では、小さい選手が大きい選手を倒すのが結構美徳じゃないけど、そういう日本人の感覚があって。
体重無差別で争う全日本選手権というのが毎年開かれてるんですよ。結果的には体の大きい選手が優勝していくんですけど、羽賀さんは100キロ級なんで、無差別100キロもどんどん超える選手の中では、それはめちゃくちゃ大きい方ではないんですよ。
そうか、100キロでもですね。
100キロ超っていうのがあるじゃないですか。
100キロ超級の世界選手権とかであるぐらいですね。あるんで、その一番大きいサイズではないんです。サイズというか、階級ではないんですが、2020年の全日本選手権を制したりですね、そういう自分の柔道家としての存在感というのはずっと示し続けられててですね。
前10年のアスリート委員として普及活動とかなさったりですね。現役時代からですね、畳の外でも貢献が大きかった選手ですので。
で、1月引退会がなさりましたけど、今度朝日架線のコーチとして就任なさったんですけども、4月ですね。4月からはドイツの方にコーチ留学、なんかドイツにはプロリーグがあるそうです。
勉強不足で知らなかったんですけど、あるそうで、そこに留学する予定らしいですね。
で、次は日の丸を背負う選手を育てたり、ゆくゆくは監督になってほしいなというような、僕個人的にはですね、そんな思う選手の一人としてちょっと紹介させていただきました。
ありがとうございました。中富さんどうでしたか。
私は恥ずかしながら柔道ってオリンピックの時だけ見るんですよ。で、優勝したとかって選手っていうのはその前まで経緯みたいなとこは見るんですけどテレビとかで、ただこうやって引退までとか今どうしてるっていうのはあんまり追ったことないから新鮮でした。
柔道って、柔圧もすごくて、日本のOEAゲイとされていて、おっしゃるようにオリンピックしかっていう方、これも普通だし失礼ですけど、結構そういう方が多いし、ここで結果出さないといけないっていう思いもすごく強くて、
実際ですね、リオで他の長瀬選手、長崎の出身の方がいたりしたんですけど、その方も3位だったんですけど、取材してもですね、金メダルじゃないとですね、結構喜ばない柔道は、柔道の日本代表はですね、金メダルじゃないとですね、なかなかですね、笑顔が出ないんですよね。
最終的に金メダルじゃないと、負けたっていうところで終わっちゃうから、そういうことなんでしょうね。
そうなんですね。一番じゃないと、というのが柔道。他の競技だとですね、やっぱりメダル取れたらやったって感じなんですけど、柔道はそういう空気感がすごい競技の一つですね。
そうか、そうでしょうね。柔道がオリンピックではそれ見て一番そうですか、結局。
そうですね、柔道。一時期はレスリング。
確かにインタビューとか見てたら、やっぱ柔道の選手は金メダルじゃなかったら泣いてたりしますもんね。
そうなんです。下手したらすみませんみたいなことを言う方もいらっしゃいますもんね。
その銀道ではっていうんですよ。
そうそう、期待に応えられなくてもみたいなことを。僕からすれば、その規定を見てるだけにですね、素晴らしいことだと思うんですけどね。
ありがとうございました。エンディングの前に一つお知らせです。西日本新聞のポッドキャストにまた新しい番組が誕生しました。番組のタイトルは星野松本のしゃべりーよ。番組では記者たちが就職活動や新人時代、プライベートの生活などザックバランに喋ってます。毎週火曜日配信です。よかったら聞いてください。
それではエンディングです。ここまで聞いていただきありがとうございます。大久保さんの記事が読みたい、この番組を応援したいと思っていただけましたら、西日本新聞もしくはスマホアプリの西日本新聞MEのご購読をお願いいたします。本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。