この番組は、福岡県内だけでも1,000近くあったとされる戦国時代の山城の魅力を、現地探訪を交えて紐解き、熱く語り合う番組です。山城研究は地理学、歴史学、軍事学、地域経済学などいくつもの側面があります。かつて、その地で暮らした人々の息吹をあなたも一緒に感じてみませんかー。
今回は立花城の城主、立花家の歴史と立花城の変遷について、学びます。堀切さんの熱い講義をお楽しみください。次回はいよいよ立花城を攻めます。
◆出演:堀切凡夫(お城映像クリエーター)、中山紘一郎(しかのすけ/販売部)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/ 音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:中山 紘一郎(しかのすけ/販売部)/ディレクション:坂本信博(報道センター総合デスク)、梁京燮(販売部)
◆収録日:2025年1月11日
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Summary
このエピソードでは、九州最大級の山城、立花城についての歴史や戦闘が詳しく語られています。特に毛利氏と大友氏、豊臣秀吉による合戦に焦点が当てられ、立花城の重要性や戦国時代の動向が解説されています。立花城は九州における戦国時代の重要な拠点として、毛利家との戦いでその存在感を示しました。その後、秀吉の改修が行われるものの、短期間で廃城となった理由には多くの謎が残っています。
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西日本新聞Podcast
西日本新聞 戦国山城Podcast
この番組は、福岡県内だけでも戦地核あったとされる、戦国時代の山城の魅力を、
現地田んぼを交え、ひも解き、熱く語り合う番組です。
山城の研究は、地理学、歴史学、軍事学、地域経済学など、いくつもの側面があります。
かつてその地で暮らした人々の動きを、あなたも一緒に感じてみませんか。
こんにちは。西日本新聞の横山智則です。
お城映像クリエイターの堀木光雄です。
西日本新聞社の中山歯科之介です。
立花城の概要
ということで、この3人で、1回目は立花城に、立花、山城、立花城。
そうですね。
どっちです?
どっちの表記もあるんですが。
ああ、そういうこと。
はい。
歴史あるあるなんですね。
はい。
どっちが正しいか、ようわからんみたいな話なんですね。
そうですね。
福岡県だけで言っても、たかとり城か、たかとり山城なのか。
ああ、なるほど。
なかなか意見が別れたことがあります。
なるほど。
NHKはこの間立花城って言ってたってことなんですか?
そうですね。もともとが山城は、作られた際に地域の立花から名前を取ってしているので、どちらでもあっているかと。
どちらでもあっている、そういうことなんですね。
ということで、立花城の今、登山口の近くの駐車場に車を停めて、今から出発というとこなんですけど、
ちなみに立花城、1回目やりましたけど、どんなお城だったんですか?って言ったらいいんですかね。
九州最大級の山城と言っても過言ではないんじゃないかなと思うんですが、大きく分けて2回戦火の中心になっていて、
1つは毛利氏と大友方の戦いに巻き込まれたのが1回。
戦国時代の合戦
その次が豊臣秀吉による九州征伐によって島津市からの工場、城攻めを耐えたのが1回。この2回がに分けられるんじゃないでしょうか。
中国地方の毛利対九州にいた大友氏がやり合った、いわゆるまさに戦国時代に戦いの舞台になったのが1回あって、
その後いわゆる戦国時代の終わりかけみたいな時に秀吉がどんどん九州に下ってくるわけですよね。島津は今度鹿児島の方からどんどん上がってくるんですよね。
結構そこでバチバチあったのがこの福岡あたりですもんね。ここでやっぱり大きな合戦があったってことになるんですかね。
なるほど、舞台になったということもあり1回目に選んだと。なるほど、そういうことなんですね。
先ほどの話に戻るんですけど、もともとは大友氏が築いて、大友氏のグループがある中で治めたところが地域から立花からとって、やがて立花瀬を名乗ってここで立花としていろいろやっていくわけなんですが。
大友さんは途中から立花さんに変わっているんですか。
ここの一帯にも定めているところに名前を変えてなっているんですけど、そもそもいわゆる現在の区分で言うと広島県秋高田市を中心にしている毛利氏がここまで来て奪ってきているのはすごいことなんですよね。
もとなり自身は来ていないと思うんですけど、いわゆる高崎だったり本原とかだったりそのいわゆる両川といいますか、ここまで来て攻めている。
逆にここを抑えればそれこそ博多の港も全部制圧に至る。登って見てみればわかるんですけど、全部一望できますので。
そのぐらい重要な拠点であったので、おそらくそれもあってここまで来ているというほど重要な山城だったということだと思います。
中国地方の優であった毛利氏家がわざわざ九州までやってきて、北九州ここらを通り過ぎてここら辺までやってきたということですからね。
そこにはいわゆる博多の街を一つ支柱に入れたかったという思いはあったのかもしれない。
そう思うと面白いですね。上に上がればそうだったんだぞというのがよくわかるという話になってくるわけですね。
それは楽しみですね。ということで、もうそろそろ山登らんとですね。
ちょっと時間も気になりますので、早速出発しようと思います。
これで毛利さんは博多に一つの拠点を築きたかったと思いで攻めてきたと。
大友氏の影響
一方で大友さんというか橘さんと言っていいのか分かってないんですけど、いわゆるこの二人というかここはいったい何者だったと言ったらいいんですかね。
ずっと橘氏としての流れができてくるんですけど、代表的な例が一つのは橘洞節という人物がおりまして。
本当に戦上手の人物で、NHKさんの番組でもあったんですけど、かつていわゆる会議の武田信玄が一度橘洞節に会ってみたいということを残したほどの人物でございまして。
本当に大友氏の重心として九州各地を転戦していくんですね。
鹿之助も知ってます?
知ってます。
歴史好きはみんな知ってるぐらいビッグネームなんですね。
そうです。
へー。
あ、すみません。
それで橘山であったり中心としてやっていくわけでありまして。
娘が銀千代というのが。
そこはね、銀千代っていう名前だけはちらっとどっかで聞いたことがあるんですよ。
全然何らかの題材というかドラマというか使われておかしくないぐらい面白いところなんですけど。
息子が着手がいなかったので娘を結果的に上主にするんですね。後継として。
へー。
11歳で女上主ということで。
11歳で女上主。
全然個人的にはナオトラと並ぶぐらいのすごいことなんですけど。
なんかちょっとドラマになりそうな感じですよね。
その中で同じく大友氏の本当に重心の中で高橋上雲という素晴らしい名称。
高橋上雲。
高橋上雲。
あー、知ってます。
僕、年末岩屋城で掘ってきたんですよ。
そうですね。
お墓ありますよね?
ありますあります。
そこはどっかで聞いたと思って。
はいはいはい。
高橋上雲の息子がいわゆる後の立花宗重でございまして。
素晴らしい人物でぜひ養子に入れたいということになって。
最終的には銀長と辞儀を交わすというか、結び入籍するというか。
そうなんですね。結婚するってことですね。
結婚する。
立花宗重として立花宗を継ぐ形になるんです。
立花宗っていうのはここがやっぱり一番の拠点だと。
そうですね。
東区かというか。
はいはいはい。
大友家でいうと、だから大友家という大きなものがあって、この分家みたいなのが立花宗。
そうですね。まあ一つざっくりした言い方です。
ざっくりした言い方ですね。
そうですね。
ざっくりした言い方をするんですね。
じゃあ大友家はどこにいたの?博多にいたんですか?
大友はいわゆる大分ですね。
あ、大分なんですね。
はいはい。
すみません。そこら辺からですね。
よーわかったらーんで。
のしかしおりましてですね。
本当申し訳ないです。
今回僕がちょっとですね。
この番組で呼ばれたのは一つ理由があって。
話ちょっと全然ザクセンしていいですかね。
はいはい。
僕山登りが好きでしてですね。
はいはい。
それで山城の番組作るぞというもんだから。
城はよーわからんけど山登りならできますねっていう話で。
はいはい。
ちょっと今回ご一緒させていただくことになっておりまして。
どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
あの府内というかこういった市内の現在でですね。
そこを大友氏も拠点にしていたので。
本当に各地いろんな場所でこの大友氏の重心いっぱいいるんですけど。
その結構だからある意味どうでしょう。
九州という北半分に近いぐらいのエリアを大友が支配した時期がありましたので。
おおー。
やがていろいろこうちょっとなんていうんでしょうね。
弱体化してチリチリバラバラになるんですけど。
それでもこの博多とかこのエリアはとびちみたいな形で大友が残っていく。
そうなんですね。
そうですね。
福岡のことは昔で言うと畜然畜然って言うじゃないですか。
佐賀のことは非然非然って。
大板はあれなんていうんですか。
文豪になるんですね。
文豪か。
はいはいはいはい。
そうですね文豪の国って言います。
文豪の国はこの辺りまで文豪の国だったんですか。
大友がなんて言うんですか。
文豪であったり畜然であったりとか地名的なところに支配されるのかなと思います。
そういった支配でしたね。
そういうことなんですね。
へー。
しかもなんか喋りたいインフォードがあって。
そうですね。
ちょっと話、私一回城の構造とかが気になるタイプなんですけども。
橘城の戦い
この最初の戦いの時にですね。
毛利家攻めてきた時に。
実はいろいろ用語があるんですけどそこは省いてですね。
攻めてきた側が勝手に橘城の近くに城を作り始めるんです。
攻める時に。
攻めてきた側が。
はいはい。
毛利側が。
はい。
工場戦も結構長期化するにつれて兵隊たちの拠点というか。
そういうのも必要になってくるので。
そういうのもこちらの橘城から見れるってことだったので。
そういったところも山頂からですね。
地理学的なことを見ながらですね。
見ると結構面白いんじゃないかなと思ってます。
山の上に登ったら毛利がどのあたりから攻めてきただろう地域が見れて。
あのあたりに多分城というか簡単な城みたいなものを作ったんだろうみたいなところがわかると。
はい。
へー。
おそらく城にしても何でしょうね。
どこどこしが拠点にしたとかずっと上書きされていくので。
毛利とかの陣がまるまる残ってるわけではないんですけど。
そうですよね。
そういった形でそういう目線で見たら結構ね。
どこの場所もなんか砦に見えちゃう。
へー。
そうですね。
そりゃ城って言ったって戦いながら作った城ですから。
はい。
いわゆるお城ってことはね。
仕掛け?
また違うんでしょうけどね。
そうだね。
ただその戦争を長期化したらキャンプばっかりしとられんけん。
ちょっと小屋でも建てようかぐらいのそんな話ですよね。
はい。
今から登る橘城の一つ魅力があるとすればですね。
島津の大軍を橘城中心に抑えて老朝戦で勝った橘城でもあり。
その後1586年だったと思うんですけど。
やがて秀吉が九州を併定して。
ここに先ほど随分前に話した毛利の両川のうちの小早川孝景が
城主として畜然の国を任されるんですよ。
城主として入った時に石垣の城に大改修をするんですね。
面白いところは高垣が大改修をして石垣の片栗が上にも残ってるんですけど。
築城して1年後にふもとの現在の名島公園がある名島城を作って。
そこに移転をしちゃって1年で廃城しちゃうんですね。
橘城をせっかく作ったのに。
せっかく見られたらわからないけどここまでやったのに。
1年で使い捨てかえろうと思っちゃう。
いろんな謎があるんですけど。
秀吉による改修と廃城
もしかしたら単純に平地の方がやりやすいからということもあったのかもしれないし。
様々なのはあるんですけど。
でももったいないなと思うくらいいろんな技術の片鱗が山頂にも残っているので。
見れます?
見れます見れます。
これは楽しみやね。
そういうある意味土で作った中世の山城と石垣で作った。
いろんな諸説はあるんですけど。
特に秀吉が来てからの植工系城郭っていう。
ちょっと難しい。
織田の王に豊臣秀吉の豊って書いて。
植工系。
単純に大きく言うと石垣とか瓦とか建物があったとされる書籍という3点なんですけど。
それが大体あるところが植工系城郭だろうと考察の一つに挙げられる用語ではあるんですけど。
そういう技術が入ってきてからの石垣の城というのと古くからの山城というハイブリッドな山城が見れるのが一番魅力なのかなと思っております。
何が楽しみになってきたって。
山登りはするんですけど。
時々歴史的な看板が立ったり石垣があったり。
お寺みたいなものがあったりするけど。
何も知らんで山登り一生懸命にしよったんで。
山登りする人って結構お城好きな人多くて。
ここはそれこそ石垣があった跡だとか。
攻めて来られるからの堀を掘った跡とかいうのも結構残ってる山とかあって。
こっちはようわからんもんやから。
ああそうですかって聞きながらしてたんですけど。
ちょっとこういう話聞きながら山登りするの面白いですね。
昔は全く自分も関心なかったんですけど。
関心持ってからいったら、
この短期間でこの堀をいわゆる重機もない時代に掘るって何ヶ月かかるんだろうとか。
どのぐらいの工夫が必要だったんだろうか。
そういうのを考えだすとですね。
そこにどれだけの熱量を注ぐ必要があったのかっていうのを考えていくうちに
すごく面白さが湧いてくるというか。
いわゆる建物とかはないんですけど。
ないからこそイメージをする楽しさがあるというか。
そこが山城歩きの一つの面白いところなのかなと思ったりします。
楽しみですね。
いいですね。
いいですかね。
じゃあ早速山にしゃべり疲れたんで今度は歩きましょうか。
はい。
ということで今から橘城あと橘山に登ってまいります。
行ってきます。
行ってきます。
13:52
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