西日本新聞の記者たちが、取材の裏側やニュース解説、福岡の街のあれやこれやをお話しする「西日本新聞me Podcast」。
今回は、ノーベル平和賞の授賞式を、現地のノルウェー・オスロで取材した報道センターの坪井映里香つぼいえりか)さんに来てもらいました。今回は、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の活動の歴史にクローズアップです。
◆出演:坪井映里香(報道センター)、平峰麻由(同)、横山智徳(MC/メディア戦略局)/音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:井上知哉(ビジネス開発部)
◆収録日:2024年12月24日
#西日本新聞 #西日本新聞me #西日本新聞mePodcast #西日本新聞ポッドキャスト #西ポキャ #ノーベル平和賞 #ノーベル賞 #日本原水爆被害者団体協議会 #被団協
サマリー
ノーベル平和賞の受賞式に関する取材を通じて、日本原水爆被害者団体協議会の重要な活動やその歴史が詳しく語られています。被爆者の体験や、彼らが直面してきた差別や偏見、国家による保障の不在が、現在もなお彼らの活動に影響を与えていることが強調されています。ノーベル平和賞受賞式に参加した高校生平和大使の活動についても語られ、高校生たちは核廃絶に向けて強い意識を持ち、自らの経験を伝える重要性を理解しています。また、戦争の記憶を残す取り組みが進められ、今後の平和と戦争に関する取材の展望についても触れています。
ノーベル平和賞の受賞式
西日本新聞Podcast
西日本新聞me Podcast
この番組は、西日本新聞の記者たちが取材の裏側やニュース解説、福岡の街のあれやこれをお話しします。
こんにちは、福岡のニュースアプリ西日本新聞meの横山智則です。
今回も前回に引き続き、ノーベル平和賞の受賞式を現地、ノルウェー、オスロで取材された報道センターの壺井えりかさんにお話を伺います。
今日もよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日も先輩、お姉さんの平美音さん、平美音まゆさんも一緒なんですけども、平美音さんも2024年11月に福岡に行ってたんですね。
行きました。
うちの会社も金持ってますね。
いや、うちの会社の会社じゃないんですよ。
どこに行ってきたんですか?
中日EU日本の本部っていうのがあってですね、そこが主催するジャーナリスト研修っていう、やっとおいしい研修に行かせてもらって。
かっこいいですね。
楽しかったんですよね、それが。
さっとだけ聞きましょうか。どこに行ってきたんですか?
まずEUの本部があるベルギーのブリュッセルに行って、今回はテーマが安全保障がテーマ。
毎回環境とかエネルギーとか違うんですけど、今回はウクライナ侵攻を受けて安全保障がテーマだったので、
ロシアと国境を接しているフィンランドとバルト海を、っていう宇宙海があるんですけど、
挟んだもう一個鄰国のエストニア、バルト三国の一つのエストニアっていう国に行ってきました。
なかなか行くことないからですね。
エストニアですもんね。
地図がわからんですもんね。
寒いはずだからですね。
エストニア、そうですね。
接種では歴史で習ったりするぐらいですか?バルト三国とか。
フィンランドもなかなか行かないですけど。
確かに。
その三国行って、ブリュッセルは座学が多くて、EUの国防担当、外交担当とか安全保障担当とかしてる人の話を聞いて、
やることが2日ぐらい続いた後に、ヘルシンキ、フィンランドの首都に行って、
シェルターを、核爆弾のシェルターがあるエストニアを見て、それがすごい印象的でしたね。
どうなってるんですか?
地下20メートル下に、商業施設でした、私が見たところ。
すごい広い、普段から人が来るようなところで、ホッケー場とか遊び場とかがあるんですけど、
そこを非常時になったら、避難場所に使うっていう。
今はホッケー場が動いてるんですね。
動いてます、動いてます。
商業施設も物を売ってるんですね。
日本被弾協の活動と歴史
なんていうの、ゲーセンみたいなところがあったりとか、ジムが入ってたりとか、
フィットネスゾーンみたいな、カフェゾーンとか、そういうのがあって、普通に人が行き来してるんですけど、
ちょっと行くと、簡易ベッド、避難した時に数日から数週間、そこで人が避難生活を送るので、
それ用の簡易ベッドとか、洗面台とか、組み立て式のやつとかがぴちぴちしてあって、
毎回定期的にそこで訓練、避難訓練とかをやってるらしいんで、
防災センターみたいな感じの空気感、なんていうか。
戦艦に逃げましょうとか、日本でもあるじゃないですか。
ああいう感じの空気感で、戦争っていうものに備えてるっていうのが、すごいショックだったというか。
そういう話か。
そうなんですよ。えーって、短すぎて。
日本だったら地震とか火事とか、津波に備えて、それを戦争に備えてか。
なんかこう、水とかも核兵器で汚染された時のために備蓄の水を使うとか、
大気も汚染される可能性があるから、原子力発電所のフィルターを通した空気を避難所内に入れるようにするとか。
要素剤とかってわかりますかな。
被爆地で薬っていうか定剤みたいなのがあって、それを服用するための薬も備蓄されてある。
どれくらい滞在できるんですか?
数ヶ月くらいって言ってた。数日から数ヶ月。長期滞在になるなら、食料とかを取りに行くみたいなの言ってたけど、
でも取りにはいけないよね。そういうのが汚染の程度にあるんでしょうけどね。
私はその話で待たせないからですね。
ぜひこっちに座って。
オスロの話よ。
オスロの話に戻りましょうか。
改めてなんですけど、今回はノーベル平和賞の話で、第2話目ということで、
今回はそれこそ日本原水爆被害者団体協議会、日本被弾協さんはこれまでどんな活動をしてきた団体ですか?
改めて、僕も知らないし、みんなそれもそうだと思うんですよ。
この間の話じゃないけど、おめでとうは言ったけど。
そうなんじゃないかと思って、改めてつぼみさんに聞きたいと思ってですね。
日本被弾協という組織は1956年に結成をされました。
前回もお伝えした通り、広島長崎の原爆被爆者による唯一の全国組織です。
1510年過ぎたところです。
きっかけとなったのがですね、第5福龍丸事件って有名な事件があると思うんですけれども、
当時アメリカと旧ソ連が核兵器の開発競争を強めていた中で、
ビキニ艦商で日本のマグロ漁船、第5福龍丸と呼ばれる船が被爆して乗組員の方が亡くなったという事件がありまして、
その時に長崎広島の原爆の被爆者たちも立ち上がって団結して、反核の運動を強めていったという中で生まれた組織ですね。
ここでメモに書いてあるのでちょっと気になったのは、
それまで沈黙を強いられていたというのは、それまで言うなって言われてた?
言うなというとアレですけれども、アメリカのプレスコードがかかっていたというのもありますし、
その政府からも何の保証も被爆後10年間なされなかった。
そういった中で被爆者たちっていうのは生きることに精一杯で何か声を上げるとか原爆に反対するとかというような、
そういった余裕も時期もなかったという、そういうような時期ですね。
被爆後の11年間かですね。
それこそ原爆がどういったものだったのか、どんな被害が出たのかというような話を表でしづらい社会情勢だったみたいな話なんです。
当時も分からなかったし、被爆者たちも言えなかったし、
やっぱり原爆10日直後っていうと差別だったり偏見もかなり強かった時期でもありますので、
自分たちを被爆者というふうに話すことができないような時期、今もあまり変わらないような事情も少なからずあるんですけれども、
特にその頃ですね。
差別偏見もあったんですね、その被爆者に対する。
そうですね。特に女性に関してはやっぱり被爆をして放射線の影響があって、
子供が例えばページを売ってしまうから、彼女が結婚するなとか、
あるいは外見的なやけどの跡が残っていたりとか、ケロイドの跡が残っていたりとか、
少し後遺症のような形で足を引きずったりとか、
そういったような外見をしているとやっぱりいじめの対象になったりとかですね、
偏見の目で見られたりとかっていうのは普通のことだったみたいですね。
日曜劇場見たよね。海に眠るダイヤモンド見られてました。
見てないですね。
見てください。長崎の話なんで。
そうなんですね。
そうか。
あ、そうです。ごめんなさい。話戻して。
南京の活動の軸っていうのが大きく二つありまして、
一つは原爆被害に対する国家保障を求めるというものです。
日本政府っていうのはこれまで、今も続いているんですけれども、
太平洋戦争っていうのは国家の非常事態であって、
国民みんなが一様に被害を受けています。
なのでみんなが一様に我慢をしましょう。
なので一人一人の国民に対する戦争の保障はしませんよという立場で、
今も市長もそういうのを続けているんですけれども、
受任論というふうに呼ばれていて、
被弾協はそれに反対をして、
受ける、
拾うことを受けるということですね。
被弾協はこれに対して、戦争っていうのはそもそも国が起こしたものなので、
国民全員に保障をすべきだというふうに主張していて、
批判をしていて保障を求めているという、
そういう訴えが一つというのと、
そもそも核兵器に対する反対ですよね。
再び自分たちのような被爆者を作ってはならないというような指針の下で、
長年、国内外で自身の体験を語り継いできた。
被爆者の体験と痛み
そういう活動も大きく二つです。
なるほどですね。
そういった被弾協の活動というのが、
ノーベル委員会から草の根の活動といって、
核兵器が二度と使われてはならない理由を身をもって立証してきたとして、
評価をし、平和証の受証としているという。
受証を持ってってことですもんね。
そうですよね。
先ほども言った通り、
差別、偏見、いろんな苦労を強いられていて、
さつ思い出したくもない記憶を自ら発信をしている。
そういった被爆者たち、すべての被爆者たちに対する受証というふうに考えています。
そうか。
つらい経験だし、自分だけで考えたって、
わざわざ思い出したくないし、言わんでいいし、
言ったら言ったで、今もひょっとしたらそうなのかもしれないし、
以前はという言い方をしたら、すごく差別を受けたりもしたわけでしょう。
そうですね。
にもかかわらず、立ち上がって二度と核をという思いで、
長年活動されてきたということなんですね。
そうですね。
実際に私が取材したのは、2021年の頃で、
もうだいぶ被爆者の方たちも少なくなってきて、
被爆者の平均年齢は83歳とか84歳の頃だったんですけれども、
その当時でということですね。
私が取材していた当時で、被爆者の方は80代を超えていたんですけれども、
ただそんな昔のことにもかかわらず、やっぱり被爆体験を話すときは、
もう体中が震えて、もうかっこいいおじいちゃんなんですよね。
本当にきちんとした見なりで、いつもニコニコされていて、
ハキハキしたかっこいいおじいちゃんが、やっぱりそういった話に及ぶと、
もう子供のように震え出して、涙をこぼして、
当時のことを一生懸命思い出しながら話してくださったりとか、
同じぐらいの年頃の女性はずっと右半身ですかね、
少し体に障害が残ってしまって、手がちょっと曲がったりとか、
そういったのが今も続いて治っていないままなんですけれども、
やっぱり当時はいじめにあって、そういった様子を見た子供たちからいじめにあって、
やっぱり片方動かないので就職も難しくてというような、
そういった苦難を強いられたという被爆者の方たちの話っていうのは、
やっぱり今も印象に残っていますし、
そういった中でもやっぱり私たちに話をしてくださっているという被爆者の方たちの功績っていうのが一つ認められたんだなと思います。
生で話を聞くとやっぱり、同じように辛そうなんですよね。
私もそうですかね。
よりもやっぱり聞いてる人が多いからか、
クライナー人口とか核の話になった時のやっぱり恐怖感とか、
本当にみたいな感じの気持ちが強いなって話してていつも思う。
解像度が上がっちゃってる。
解像度が上がっちゃってるよね。
原爆の当時の話を結構いろんな方から聞きますし、
いろんな残ってる資料とか証言集とか読んでいると、
やっぱりもう自分たちの想像を超えるような、地獄のような場面が繰り広げられていて、
実際にじゃあウクライナ人口でロシアが核兵器を使うってなったら、
土地のどこかで同じようなことが繰り返されるっていうふうに思うとやっぱり、
被爆者の方もすごくその頃は心を痛めてはいましたけれども、
多少なりともこちらも想像してしまったりはしましたね。
それこそオスロの受賞式の会場ではなかったですけども、
そういった意味ではつぼみさんたちよりもう一つ下の世代、
高校生たちも向こうに行ってましたよね。
高校生平和大使の活動
そうですね。
新聞とかテレビにも結構彼女彼らの映像が映ってましたけど、
彼らは何をしてると言ったらあれですけど。
彼ら高校生平和大使という人たちでずっと学生服を着てて偉いなと思ってたんですけど、
そうなの?
びっくりした。
すごいですよ。
本当に。
寒いのに。
寒いのに。
かわいそう。
今回オスロに全国の高校生が4人、長崎から2人いたんですけれども、
平和賞の受賞式に合わせてオスロに行っていました。
彼らっていうのは始まりは実は長崎の高校生からで、
1990年代後半にインドやパキスタンが核実験をしている間に、
それに反対しようということで核兵器の廃絶を国連に実際に直接持っていこうっていうような取り組みが始まったんですね。
それが今も続いているような形で、今では全国で公募をして、
数十人程度毎年選ばれて核兵器廃絶を求める署名を国連に持っていったりとか、
そういった国際会議の場で発言をしたりとか、そういった活動をされています。
そうなんですね。
そういった活動をずっと高校生平和大使としてしている方たちがいるんですね。
どうだった?高校生。
高校生、とにかくみずみずしかったっていう話は多い人がきっとしてますね。
彼女たちはすごく自分ごととして核兵器を捉えていて、
やっぱり被爆者なき時代を見据えて、自分たちが被爆者たちと同じようにあるいは代わりに原爆のことを伝えていくんだという意識がすごく強くて、
現地の方との交流だったりとか、そういうことを積極的にしてましたね。
今回日本被弾協のメンバーとして一番若い方でいらっしゃった林田さんという方がいらっしゃるんですけど、
この方はもともと長崎の高校生平和大使出身ですね。
平和大使出身で今は被弾協のメンバーとして活動されている。
そうですね。厳密に言うとちょっとずれてくるんですけど、
被弾協の活動にかなりコミットしたということで今回代表団に呼ばれたということですね。
被爆地長崎の平和の教育という文化が今もなお続いていくというのがお礼なのかなというふうには見てます。
それこそ今では長崎と広島の高校生だけじゃなくて今言ったように全国でそういった子たちが活動されてるってことになるんですね。
そうですね。熊本の子も一人行ってました。先日記者会見見ました。
それこそ少し話は逸れるかもしれないんですけども、
2025年はいわゆる終戦から80年ということもあって、
それこそ西日本新聞ではその戦争の記録と記憶を書き留めるというところから、
うちにも戦争があったっていう、キャンペーン報道って言い方をしてますけどね、僕らは。
せっかくなんでちょっとその果たしを。
うち戦で、うちにも戦争があった。
なんていうか、戦争っていうのがすごくもう経験された方もご存命でなかったり、今の被爆症もそうですけど、
そういう中で少しでも顔も知らない、話も聞かなかった、今更聞けないという先祖の歴史を文歴からひもとこうって記録と記憶ってよく言ってるんですけど、
記憶として残ってるあの時のあの言葉とこの持ち物とか、この残ってたこの手紙とかいうのを、
その軍歴という記録から紐づけていくというか、そういうことだったのかとか、
実際に私は何か取材をしたんですけど、話を聞いてこなかった父さんや父親の兄、おじさんの手紙やら日記やらが残ってるけどどうしていいかわからないっていう人たちが軍歴を取ってきて。
軍歴ってあれなんですよね、簡単に言ったら変だけど取れるんでしょ。
取れます取れます。戸籍がある出生地の自治体に申請を出したら、陸軍でしたとか海軍でしたとかいうのが。
誰々おじいちゃんの孫ですが非孫ですがって言って。
南進島までとかいうのは決まってるんですけど、そういうふうに申請をしたら残ってる記録を出してくるなんで足りないこともあるんです。
ここだけ抜けてるとかいうのもあるんですけど、そこでどこの部隊に行ったとか、最後どこで亡くなったとか、戻ってきたとか、そういう記録があることでつながっていくことがすごく多くてですね。
今あっている戦争の話もそうなんです。各国の戦争の話もありますけど、そうやって過去を振り返ることも今しかできないことかもしれないです。
ありがとうございました。ちょっと話それちゃいましたけど。
それこそお二人にと思うんですけど、こういったいわゆる平和であるとか戦争であるとかの取材をしていく中で、今後どんな取材していきたい、仕事していきたいってあります?
私はなんかもうすごくこう、今回EUに行かせてもらったのもあって、世界から見えてる日本っていうのとか、アジアから見える日本とかを考えるきっかけになったなと思っていて、
それがその日本の中で見る九州っていうのを見るのもなんか一つだなと思った。一緒に行ってる記者たちが結構東京の記者が多かったので、九州視点で長崎が飛沫地であるとか、九州にはすごく軍事基地が多いんだとか沖縄があるとか、そういう見方で質問できる人っていないんだなというのをちょっと思ったので、
日本から見た九州がどうやっていくのかっていうのをしっかり見なきゃいけないし、それが引いては世界から見た日本のような構図、そういうのを読者にわかりやすくは伝えられたらいいなとは思ってます。思ってます。
思ってはいます。頑張ります。ちょっと宣言みたいになったら嫌だなと思って、言語から出るから。そうなの。ちょっと怖かった。宣言でな。思ってはいます。あなたが見るかな。もういいな、ちょっと。やめてよ。
すごい最後に。 ああそうですね。私もあんまり具体的に何かとちょっと考えてしまうんですけれども、この夏に戦争や平和の端部に戻ってと言いますか、改めてなってみて、以前長崎総局にいた頃と比べるとやっぱりかなり戦争への関心っていうのが高まっているなという実感はあります。
それは子どもたちだったりとか若い世代も含めてでして、そういった今の現象を追いながら過去の戦争の検証をするという指針で進めていければなと思っています。戦争戦後80年という節目でもありますし、改めて読者の方に戦争って何なのか、平和って何なのかっていうことを考えてもらう機会になるような記事を書いていければと思ってます。
戦争の記憶と今後の取材
お二人ともありがとうございました。
ありがとうございました。
エンディングです。ここまで聞いていただきありがとうございます。二人の記事が読みたい西日本新聞やこの番組を応援したいと思っていただける方、ぜひ西日本新聞もしくはスマホアプリの西日本新聞MEのご購読をお願いいたします。本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
22:16
コメント
スクロール