はい、ありがとうございます。では早速、畑原さんから質問をお願いします。
はい、展示を見てお経典を地中に埋めていたということを知りました。
仏様の教えを書き記したお経典を後世に伝えるためには、他の方法もあったなというふうに思っているのですが、なぜ地中に埋める方法を取ったのですか。
なるほど、ちょっと写真を見ながら読もうかな。
今おっしゃっているのがこういう筒、ちょっと錆びたお茶缶みたいなのがありますけど、この中に実はお経を入れて地面に埋めたということなんですけど、
これは非常に仏教で大切な経典を安全に後のように伝えようとして、こういう筒に入れて埋めたということになっています。
なぜこういうことをするのかということなんですけれども、お釈迦様が死んだ後、お釈迦様の教えというのが死んだ後、だんだん廃れていく。
廃れていってしまうんだけれども、後のようにお釈迦様の代わりになる方が登場するまで大切なお経を保存しようということで、
それでこういうふうなお経を埋め立つかというものが作られるということになります。
ちなみになんですけど、大体どのくらい埋める想定で考えたと思いますか、お二人。
100。
100ね。
50くらいだと思います。
なるほどですね。実はお釈迦様が亡くなってから、その次の方ミロクって言うんですけど、その方が出てくるまでどのくらいあるか。
56億7千万年。
長い。
桁が非常に違ってですね。その56億7千万年後にそのミロクっていう人が出てくるまで、お経を大切に守り伝えようとして、こういうふうなことをされたと。
結果的に中で腐ってしまったりとかして、残らないということも結構あるんですが、こういう目的のもとにいわゆる共通化というのを作ってあるんです。
こういうものっていうのはですね、街中とかではやっぱり作られないんですね。
なんでかって言うと、やっぱり世の中っていろいろ動きがあって、戦争があったり火災があったりとかっていうことがあると、やっぱり人がたくさん住んでるところで作ったりとかするとですね、それが失われてしまうということもあったりしますので、
人があんまり立ち入らないような山の中とか、そういうところで作られた。
まだからお経が地面の中に埋められて作られるということになったようです。
その56億年間ぐらいお経を保存するっていうのは、すごい途中で見つかったりしたら、人が書き換えてしまったりとかそういうこともあったと思うので、こういう方法を取ったっていうのは、すごい自分だったら考えつかないからすごく勉強になったし、びっくりしました。
びっくりしますよね。はい、ありがとうございます。では浦川さんお願いします。
検討誌は最大600人っていう大勢で島に渡っていたっていうふうに書いてあったんですが、なぜその中でも有名な人は数えられるほどしかいないんですか?
検討誌で有名な人っていうと、佳人の山上奥良だったり仏教の天台宗、神功宗を開いた最澄や空海は有名ですよね。
そうですね。まず検討誌ってどういう存在だったのかというと、この検討誌っていうのは一人二人で行くわけではなくて、今浦川さんおっしゃったみたいにものすごいたくさんの人が一緒に渡っているんですよね。
これは中国の最新の政府であるとか学問であるとか技術の輸入なんかを目的として、日本から当時東と呼ばれた中国へ派遣された大きな施設団だったわけです。
彼らが中国から持ってきたものは仏教の教えであったり、さっき出てきた経典であったり仏具であったり、さまざまなものがあるわけなんですが、それぞれ学ぶときにはいろんな人が必要なわけですよね。
外交を行う政治家もいるんだけれども、それ以外で仏教を学ぼうと思っている文房さんだったり、あるいは技術を学ぼうと思っている職人さんのような方も。
ただ彼らの記録というのは当時の記録というのはあまり数としては残ってはいないので、その中でも施設団のトップだった人の記録だけが残っていたりということはあるんですが、実は名前は残っていないけれどもかなりたくさんの人たちが中国に渡っていたということはどうも言えるようです。
記録が残っていないだけで、今知られているような山の上のオクラたち並みに活躍した人がいるかもしれないと思うとすごく面白いと思います。
知らないだけで、いろんな活躍者がいたのかもしれないですね。
質問なんですが、島まで船で行っていたと思うんですが、どれくらいの時間がかかったんですか。
今でこそ中国に例えば高架空港から行くとなったら数時間で着いちゃうわけなんですけど、やっぱり当時道のりは非常に長かったというふうに思います。
どこを出発点として考えるかにもよるんですけど、一般的には奈良の大仏様がいる平城郷というところから出発して、まず大阪湾に。
大阪湾から船に乗って瀬戸内海をずっと経由して九州に入り、九州の博多湾からようやく中国大陸という形になるわけです。
中国に着いてからさらに陸路で長安というところに行くんですけど、大体距離とルートにもよるんですけど、2000キロぐらいからですね。
非常に長い距離を移動して、海の上だけでも大体一番近かったとしても10日ぐらいどうもかかったんじゃないかということを言ってますし、日数についても天候によっても大分大きく左右されたということだったので、非常に危険な長旅というものをして、
彼らが中国大連邦に渡っていったということが言えるかなと思います。
ありがとうございます。畑原さん、次の質問お願いします。
テーマ4の時代は鎌倉時代から室町時代でアジア諸国の貿易商人たちが各国を盛んに行き来したということを書いてあったんですけど、アジアとの往来が盛んになることについて当時の日本の人々はどのように思っていたと思いますか。
なるほど。ここは結構テーマの3と大きく違うところで、テーマの3というのは例えば検討士に代表されるように、正式な施設、施設団が行ってそこでいろんなやり取りをして、商売も含めてやって帰っていくということになるわけなんですが、
テーマの4の時代になると、それまでの時代よりもはるかにたくさんの人たちが海を越えて往来をするという時代になるんですよね。
そうすると、日本にいる側の人たちから取ってみると、自分海の向こうに自分たちが知らない国があって、そこで作られた非常に珍しいものとか美しいものというのがだんだん日本に入ってくる。
よくそういうものを当時の人たちは空物というふうな言い方をしたわけなんですが、さっきお茶の話が出ましたけど、お茶の中で使うお茶道具の中にも結構中国由来のものとか朝鮮半島由来のもの、さらには東南アジアから入ってきたものというふうに、
さまざまいわゆる迫来物というか、そういう海外から入ってくるものに対する好奇心とか、そういったものが非常に強くなったのかなというふうに思います。
日本人が空物だったり、アジアのものを取り入れたっていうのが、日本人にとってはすごく楽しみの一つだったと思うので、そこを聞いてすごく面白いなというふうに思いました。
ありがとうございます。では、浦川さん、次の質問お願いします。