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2025-03-18 13:55

11|日本刀は本当に戦いに使ったの?【前編】/こども記者質問箱 教えて!九博の学芸員さん③

西日本新聞のこども記者やその卒業生が身近な話題から専門家へのインタビューまでさまざまなトピックで番組をお届けします。こども記者とは、毎年8月から1年間の任期で取材・執筆活動をする公募の小学4年生から中学3年生です。

2025年で20周年を迎える九州国立博物館を見学したこども記者卒業生が、学芸員のみなさんに質問をするシリーズ「こども記者質問箱 教えて!九博の学芸員さん」。今回は、五つに分かれている九博の「文化交流展示室」の中でも特にテーマ3「遣唐使の時代」とテーマ4「アジアの海は日々これ交易」にフォーカス。どうして昔の人は仏様の教えを書いた経典を地中に埋めたの? 日本刀は本当に戦いに使っていたの?など展示品にまつわる質問を投げかけます。その答えを聞いたら、今すぐにでも九博に足を運びたくなるのではないでしょうか。

◆出演:望月規史(九州国立博物館企画課主任研究員)/浦川莉子(第10期こども記者)/八幡原万貴(第12期こども記者)/中野慧(MC/こどもタイムズ編集部)/音声編集:中富一史(販売部)/映像編集:井上知哉(ビジネス開発部)

◆収録日:2025年2月2日

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サマリー

このエピソードでは、子ども記者たちが日本刀の使用について質問し、九州国立博物館の学芸員がその歴史的背景や文化との関連性を解説しています。特に、奈良時代から平安時代にかけての文化交流や、刀や仏教の教えの保存方法について詳しく説明されています。日本刀の使用に関する疑問や歴史的背景が語られ、特にモンゴル軍との戦いにおける日本の戦術に焦点が当てられています。武器としての鉄砲の役割や、その影響を受けた日本の戦闘方法についても考察されています。

番組の紹介と子ども記者の活動
西日本新聞Podcast
西日本新聞こども記者Podcast
この番組は、西日本新聞の子ども記者や、その卒業生が中心になっておしゃべりをするPodcastです。
子ども記者とは、毎年8月から1年間の任期で活動する工房の小学4年生から中学3年生の子どもたち、現在は15期74人が元気に活動中です。
子ども記者は年間を通して各地に取材に出向き、記事を書いて長官の子どもタイムズ面にその成果を掲載しています。
活動は今年で15年になり、卒業生は計837人になります。
こんにちは、西日本新聞こどもタイムズ編集部の中野圭衣です。
さて、前回に引き続き、子ども記者質問箱 教えて九博の学芸員さんと題したシリーズをお届けします。
スタジオには、九州国立博物館学芸員の餅月範文さんと子ども記者卒業生の2人に来ていただいています。
餅月さん、自己紹介をお願いします。
餅月範文と申します。
私は日本とかアジアの工芸、特に金属でできたもの、例えばお寺の鐘であるとか、あとは刀であるとか、鎧だとか、鉄とか銅で作られたようなものを専門に調査研究をしています。
第10期子ども記者の浦川梨子です。高校2年生です。よろしくお願いします。
第12期子ども記者の八幡原真希です。現在中学2年生です。よろしくお願いします。
お願いします。2人は普段博物館とか美術館に行くことはありますか?
私は美術館にはほとんど行くことがないんですが、博物館には自分の興味がある古代遺跡などの展示があっている場合は行きます。
八幡原さんいかがですか?
私は浦川さんと逆で、美術館によく行くことがあるんですけど、昔日本人の方がたしなんでいたお茶だったり、宴会だったりというのにすごく興味があってよく行きます。
ありがとうございます。今回も旧博の常設展にあたる文化交流展示室を見学した2人からの質問になります。
こちらの展示室では日本とアジアやヨーロッパとの文化交流の歴史を様々な展示物を通して紹介しているということです。
時代ごとに5つのテーマに分かれていて、今回はテーマ3・4からの質問になりますが、
餅月さんこちらのテーマ3・4は、いつの時代のどのような展示物が並んでいるんでしょうか?
テーマ3については、奈良時代から平安時代の生徒代まで、7世紀から12世紀くらいを展示の対象としています。
いわゆる剣刀師が登場したり、平安時代に仏教が栄えたり、仏教の文化が栄えたりというのがテーマ3。
それからテーマ4については、その後の時代、12世紀から16世紀ですかね、武士が、いわゆる侍が登場して活躍するような時代であるとか、
アジアの様々な地域からいろんな商人が海を渡ってやってきて、彼らがいろんなものを日本に伝えたりとかというような、
人の動きがすごく盛んになるような時代、この時代を取り上げているということになります。
仏教の教えと保存方法
はい、ありがとうございます。では早速、畑原さんから質問をお願いします。
はい、展示を見てお経典を地中に埋めていたということを知りました。
仏様の教えを書き記したお経典を後世に伝えるためには、他の方法もあったなというふうに思っているのですが、なぜ地中に埋める方法を取ったのですか。
なるほど、ちょっと写真を見ながら読もうかな。
今おっしゃっているのがこういう筒、ちょっと錆びたお茶缶みたいなのがありますけど、この中に実はお経を入れて地面に埋めたということなんですけど、
これは非常に仏教で大切な経典を安全に後のように伝えようとして、こういう筒に入れて埋めたということになっています。
なぜこういうことをするのかということなんですけれども、お釈迦様が死んだ後、お釈迦様の教えというのが死んだ後、だんだん廃れていく。
廃れていってしまうんだけれども、後のようにお釈迦様の代わりになる方が登場するまで大切なお経を保存しようということで、
それでこういうふうなお経を埋め立つかというものが作られるということになります。
ちなみになんですけど、大体どのくらい埋める想定で考えたと思いますか、お二人。
100。
100ね。
50くらいだと思います。
なるほどですね。実はお釈迦様が亡くなってから、その次の方ミロクって言うんですけど、その方が出てくるまでどのくらいあるか。
56億7千万年。
長い。
桁が非常に違ってですね。その56億7千万年後にそのミロクっていう人が出てくるまで、お経を大切に守り伝えようとして、こういうふうなことをされたと。
結果的に中で腐ってしまったりとかして、残らないということも結構あるんですが、こういう目的のもとにいわゆる共通化というのを作ってあるんです。
こういうものっていうのはですね、街中とかではやっぱり作られないんですね。
なんでかって言うと、やっぱり世の中っていろいろ動きがあって、戦争があったり火災があったりとかっていうことがあると、やっぱり人がたくさん住んでるところで作ったりとかするとですね、それが失われてしまうということもあったりしますので、
人があんまり立ち入らないような山の中とか、そういうところで作られた。
まだからお経が地面の中に埋められて作られるということになったようです。
その56億年間ぐらいお経を保存するっていうのは、すごい途中で見つかったりしたら、人が書き換えてしまったりとかそういうこともあったと思うので、こういう方法を取ったっていうのは、すごい自分だったら考えつかないからすごく勉強になったし、びっくりしました。
びっくりしますよね。はい、ありがとうございます。では浦川さんお願いします。
検討誌は最大600人っていう大勢で島に渡っていたっていうふうに書いてあったんですが、なぜその中でも有名な人は数えられるほどしかいないんですか?
検討誌で有名な人っていうと、佳人の山上奥良だったり仏教の天台宗、神功宗を開いた最澄や空海は有名ですよね。
そうですね。まず検討誌ってどういう存在だったのかというと、この検討誌っていうのは一人二人で行くわけではなくて、今浦川さんおっしゃったみたいにものすごいたくさんの人が一緒に渡っているんですよね。
これは中国の最新の政府であるとか学問であるとか技術の輸入なんかを目的として、日本から当時東と呼ばれた中国へ派遣された大きな施設団だったわけです。
彼らが中国から持ってきたものは仏教の教えであったり、さっき出てきた経典であったり仏具であったり、さまざまなものがあるわけなんですが、それぞれ学ぶときにはいろんな人が必要なわけですよね。
外交を行う政治家もいるんだけれども、それ以外で仏教を学ぼうと思っている文房さんだったり、あるいは技術を学ぼうと思っている職人さんのような方も。
ただ彼らの記録というのは当時の記録というのはあまり数としては残ってはいないので、その中でも施設団のトップだった人の記録だけが残っていたりということはあるんですが、実は名前は残っていないけれどもかなりたくさんの人たちが中国に渡っていたということはどうも言えるようです。
記録が残っていないだけで、今知られているような山の上のオクラたち並みに活躍した人がいるかもしれないと思うとすごく面白いと思います。
知らないだけで、いろんな活躍者がいたのかもしれないですね。
質問なんですが、島まで船で行っていたと思うんですが、どれくらいの時間がかかったんですか。
今でこそ中国に例えば高架空港から行くとなったら数時間で着いちゃうわけなんですけど、やっぱり当時道のりは非常に長かったというふうに思います。
どこを出発点として考えるかにもよるんですけど、一般的には奈良の大仏様がいる平城郷というところから出発して、まず大阪湾に。
大阪湾から船に乗って瀬戸内海をずっと経由して九州に入り、九州の博多湾からようやく中国大陸という形になるわけです。
中国に着いてからさらに陸路で長安というところに行くんですけど、大体距離とルートにもよるんですけど、2000キロぐらいからですね。
非常に長い距離を移動して、海の上だけでも大体一番近かったとしても10日ぐらいどうもかかったんじゃないかということを言ってますし、日数についても天候によっても大分大きく左右されたということだったので、非常に危険な長旅というものをして、
彼らが中国大連邦に渡っていったということが言えるかなと思います。
ありがとうございます。畑原さん、次の質問お願いします。
テーマ4の時代は鎌倉時代から室町時代でアジア諸国の貿易商人たちが各国を盛んに行き来したということを書いてあったんですけど、アジアとの往来が盛んになることについて当時の日本の人々はどのように思っていたと思いますか。
なるほど。ここは結構テーマの3と大きく違うところで、テーマの3というのは例えば検討士に代表されるように、正式な施設、施設団が行ってそこでいろんなやり取りをして、商売も含めてやって帰っていくということになるわけなんですが、
テーマの4の時代になると、それまでの時代よりもはるかにたくさんの人たちが海を越えて往来をするという時代になるんですよね。
そうすると、日本にいる側の人たちから取ってみると、自分海の向こうに自分たちが知らない国があって、そこで作られた非常に珍しいものとか美しいものというのがだんだん日本に入ってくる。
よくそういうものを当時の人たちは空物というふうな言い方をしたわけなんですが、さっきお茶の話が出ましたけど、お茶の中で使うお茶道具の中にも結構中国由来のものとか朝鮮半島由来のもの、さらには東南アジアから入ってきたものというふうに、
さまざまいわゆる迫来物というか、そういう海外から入ってくるものに対する好奇心とか、そういったものが非常に強くなったのかなというふうに思います。
日本人が空物だったり、アジアのものを取り入れたっていうのが、日本人にとってはすごく楽しみの一つだったと思うので、そこを聞いてすごく面白いなというふうに思いました。
ありがとうございます。では、浦川さん、次の質問お願いします。
モンゴル軍との戦い
原稿についての展示コーナーもあり、鉄砲という武器も並んでいました。モンゴル軍の武器に対して、どのように日本の軍は抵抗しようとしたのでしょうか。
そうですね。まず、今お話に出てきたとおりでいうと、鉄砲からちょっと説明をしておきましょうか。写真をちょっと用意しておきました。こちらも見ていただきたいんですけど。
これはですね、絵巻物なんかに書かれているんですけど、いわゆる爆弾といったらいいか、炸裂弾といったらいいか、火薬を使った武器なんですね。
ものすごく大きな音がするということが当時の記録にもあって、当時も迎え撃ったが、日本の人たちはそれを見てすごく驚いたという記録が残っています。
単に音がすごいだけじゃなくて、これ、中にですね、実は火薬とともに焼き物の破片とかをギュッと詰め込んでいて、爆発するとそれが飛び散って人に刺さるという非常に危ないんですよ。すごい危ないものだったんです。
昔はそれが絵の中でしか表現されてなくて、具体的にどういうものだったのかなというのは分からなかったんですけど、近年になってですね、高島というところの海底の遺跡を発掘したときに、これぞ鉄砲だという遺物が出土したので、どういうものだったのかというのはこれで分かったということになります。
この鉄砲という当時最新鋭の武器を使って、モンゴルの人たちが攻めてきたわけなんですけど、合計2回あったんですよね。これは多分社会の教科書とかでお二人とも知っているかもしれませんけど、一度目は文芸の駅で行って、1274年に行われたんですけれども、この時に鉄砲というものを初めて日本人は目の当たりにして、ものすごいびっくりした。すごい愚戦をしたということが言われています。
2回目に来たときは1281年で、10年近く期間は空くんですけれども、この時には、どうももう一回来るらしいぞという情報が入っていたので、あらかじめ博多湾の沿岸に防壁とか石類とかって言うんですけれども、石の壁を築いて、それで元の人たちを迎え撃ったということになっています。
だいたい博多湾に入ってきた文豪の軍というのが、その防壁に引っかかって、そこから中に入れなかったという記録があるので、2回目は非常にどうも前線したようです。こういう暴露役というのは、今でも実は博多湾の周辺に結構残っているということでも知られますね。
福岡は西区の方にもいますよね。
一度目の援軍の侵攻に圧倒された日本の軍は、2回目こそリベンジしようと思って、頑張って石垣を築いたんだなと思いました。
そうですね。現地に行ってみるとよくわかるんですけど、すごい頑張って作っているというのがわかるのと同時に、これでこの世界帝国というか、この連中を防ごうとしたんだなというある種の気投げさというか、ちょっとそういうことなのかも考えてしまうので、もしまだご覧になっていないんだったら、一度現地を訪れてみてもいいかもしれません。
はい。現地物に関連するところを訪れるというのは面白いですよね。はい、ありがとうございます。
ではここまで、九州国立博物館学芸員の餅月さん、子供不知卒業生の八幡原さん、寺川さんありがとうございました。
次回も3人でお届けをしていきたいと思います。お楽しみに。
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