日本全国いろいろな地方の土器が展示されていましたが、なぜ地方ごとに土器の形が違うんですか?
はい、これはですね、実はですね、地方ごとに土器の形が違う時代と地方ごとの土器の形がすごく似てる時代っていうのがあるっていうのをまず知ってもらうと面白いかもしれません。
私は領事大の一番最初の稲作が伝わった頃の展示ケースを担当しているんですけど、そこでは北部九州の土器とそれから機内の土器と四国の土器が実はすごくよく似てるっていう展示をしています。
一方では江頭さんおっしゃったように、地方によって全然違う土器を作るときがありますよね。
これはですね、言葉とよく似てるんです。ちょっと意味わかんないかもしれません。説明しますね。方言って知ってます?
はい。
わかりますよね。今お二人はほぼ標準語を喋ってますよね。
はい。
私も多分そうだと思うんですけど、あんまり自信がないんですけど。
標準語っていうのは、日本全国でテレビが流れてきてて、そこから同じ言葉が喋られていて、それを僕らが耳で聞いて育っているので、その言葉を喋れるわけですけど、おじいちゃんおばあちゃん、方言喋りますよね。
はい。
まだテレビが、皆さんのおじいちゃんおばあちゃんはもうテレビっ子だかもしれませんけど、私のおじいさんおばあさんくらいになると、まだテレビがなくてラジオ放送を聞いてたかどうかくらいの子供時代に過ごされてるんですよね。
そうすると標準語なんて聞けないんですよね。
耳にすることがないんです。
そうすると周りの大人が喋っている言葉を喋りますよね。
真似して喋るんです。
そうすると必然的に言葉がなまります。
方言ができるんですね。
人っていうのは、真似をするっていうのが最初に得意になった生き物で、そこから少しずつ自分を出していくんですよね。
だから言葉もそうなんですけど、何かを作るって言ったときに、まず真似から始めるんです。
例えば、お母さんが川から水を汲んできて欲しいんだけど、そのための器を作ってくれって言われたらどういうのを作ります?
桶みたいなやつ。
桶みたいなやつ。江頭さんは。
家にあるような桶みたいなやつを作ります。
まずそういうのを見てるからそういうのを作りますよね。
これが全然違うものを水汲み容器にしているところっていうのは、全然違うものを作るんですよ。
頭にあってよく見ているものを真似するので、似たような土器が作られるっていうのがまず最初にあります。
もうちょっと進めて考えてみると、例えば四国の地域の人と有明海沿岸の地域の人っていうのは、間に高い山があって日常的に行き来するっていうのは今だったらできますけど、
昔はあんまりそういうことができなかった時代っていうのがあったと。
そういう中で畜法の人たちはずっと水を汲むものとして桶みたいなのを作ってきたと。
有明海の方での人たちっていうのも同じように桶みたいなのを作ってたんだけども、ある人がちょっと深めの桶みたいなのを作り出したと。
そしたらそっちの方が汲みやすくなったらだんだんバケツみたいなのに変わっていく。
こんなことあり得ると思いません?
はい。
基本的に真似はしていくんですけど、人っていうのは工夫する生き物なので、少しちょっと変わったものを作るときがあって、あるいはちょっと失敗しちゃったものを作ってもいいんですけれども、それが実はいつの間にか流行ることがあるんです。
そうすると山とか川とかで隔たれていて、日常的に行き来ができにくい地域の人々の間に情報の伝える濃度の薄さっていうのができてしまって、こっちでは何も知らないまま昔のままを作ってる。
こっちではちょっと新しいものが流行り始めるっていうことが起きるんです。
それがどんどんどんどんいくと、全く違うような形のものを作り出すんですね。
ということは土器の地域性っていうのは、おそらく人々が密に情報交流をしている、行き来をして情報を伝えている地域内においてはとっても似たものを作るんだけど、全然その情報の交流はできない遠い地域の人たちはまた別のものをどんどんどんどん作り始めると、それが全然違うものになっていくっていうことが起きるんです。
ところが最初に言いましたけど、稲作を作り始めた人たちの時代の土器っていうのは全く同じような形のものの土器を西日本全体で作るんですね。
北部九州の土器と四国の土器と、機内の土器がほぼ同じような形をしている。これなんでかっていうと、稲作を持って人が盛んに移動していって、そこで住むっていうことを頻繁にやると、土器の形の情報が伝わっていくので、同じようなものが作られる。そういう時代があるんです。古墳時代の始まりっていうのもそうなんですよ。
古墳時代の始まりも、人々がそれぞれの地域の塊を越えて交流を盛んに行った時代なんです。そうすると土器の情報というのも伝わって、同じような土器を作るようになる。土器だけじゃなくて、お墓の作り方も一緒ですよね。
前方後円墳というお墓を作って、なぜかお墓の形、日本全国で同じですよね。その中に作る石室のやり方も一緒だし、刀を入れたりとか飾りを入れたりとかにも全部似てくる。それぞれの地域で安定してそういうのが受け継がれるようになって、地域間の情報のやりとりが少し薄い時期に入ると、地域地域でまた独自の発展が始まる。
日本の歴史はそれの繰り返しなんです。だから土器の形が似ている時代と違う時代に注目すると、とても面白いかもしれないと思います。
ありがとうございます。
今でいう情報隠しじゃないけど、そういうところが昔でも起こっていて、それによって独自の文化が発展したりじゃないけど、そういうのがあって、とても面白いなと思いました。
土器の形から情報がどれくらい引き継いだかが見えてくるということですね。
そうです。まさにその通りですね。
ありがとうございます。最後の質問では梁さんからお願いします。
古墳から出てきた埴輪や土器などもたくさん展示してありましたが、古墳とは昔の人のお墓だと思いますが、お墓を作ってもらったのは立場の高い人だっただけですかね。
これ気になりますよね。これ結構難しい質問なんですよ。
まずですね、僕が専門にしている弥生時代、弥生時代の前期から中期にかけて、九州の北部、まさに僕たちが住んでいる福岡県とか、あと長崎県の東の方とか佐賀県から熊本県の北の方、この辺りっていうのは亀かんぼっていうお墓が大流行した地域で時代なんですね。
亀かんぼっていうのは大きな艶きの亀を2つ口を合わせて、その中に死んだ人を入れて土の中に埋めるっていうお墓なんですけど、この亀かんぼはですね、流行った地域時代っていうのはお墓の数がめちゃくちゃ多いです。
このタイプのお墓が流行った時代っていうのは、ほとんどの人が亀かんぼに埋められたっていうふうに考えられます。お墓の亀の大きさも、僕が3人くらい入るくらいのでっかいのもあれば、赤ちゃんしか入らないのに小さなの。
本当にいろんな種類があるので、おそらく本当に生まれた直後に亡くなってしまった赤ちゃんから80歳まで生きたおじいさんまで、男性も女性も多くの人が亀かんぼに入れられた。
そういう時代があるっていうのはまず一つあります。一方で、りょうさんが言ったように古墳時代っていうのは大きな森戸を持つお墓である古墳っていうのが作られるんですけど、みんなにこれを作ってたら大変ですよね。
毎日毎日古墳を作りに出かけなきゃいけないじゃないですか。
そうしたら米も作れないし、魚も取れないし、何も食べられないってなってみんな絶滅しちゃいますので、古墳時代っていうのは本当に一族の中でも特に偉い人、地位が高い人だけが入ることが許されるお墓だったんですよね。
そうしたら、そこの他の人たちは亡くなってしまったらどうしたんでしょうかね。
これが困ったことに、考古学ではよくわからないんですね。
考古学っていうのは、地面の中に何か埋めたものを掘り出すっていうのはとっても得意なんですけど、地面の上で行われたことを明らかにするのが意外と苦手なんです。
発掘調査をして調べていくので、埋まってないものはなくなっちゃったらもう戻せないということなんですよ。
具体的にお墓のことでいうと、どういうことが考えられるかっていうと、風葬とか蝶葬とか水葬とかいうお葬式のやり方っていうのが、世界の各地の民族事例で知られています。
蝶葬っていうのは、例えばインドやチベットなどの一部の地域で、死んだ人の体を高い山の上など、あるいは高い木の上などにかけたりとかして、鳥が来るのを待つ。
鳥はその人の体を肉を食べて、最後は骨だけになると。
そうすると骨の大事なところを持って帰って、それを穴に埋めたりとか、あるいは川に流したりだとか、火にかけて燃やしてしまったりとかする。
そういうお葬式の仕方が民族例として知られているんですね。
それから、今でもガンジス川に遺体を流すっていう、そういうお葬式のやり方をするインドの一種派ありますし、地面の上に、人があまり行かないような奥地の地面の上に遺体を置いておいて、自然にその肉体が腐っていくのを待つ。
腐ったら骨をちょっと取りに行って、それをちょっと祀ったりする。そんなようなやり方をするお葬式の風水を持っている人たちもいるんですよ。
こういうタイプのお墓って、地面の中に痕跡が残りにくいんで、考古学者にはなかなかよくわからない、苦手なタイプの儀式になっちゃうんですね。