祖父はなかなか強烈な人でした
2025-09-19追記
最近母に確認したところ、祖父は教官ではなく特攻隊員だったそうです。上官に残れと言われて残ったまま終戦になったので生きながらえたとのことでした。
サマリー
このエピソードでは、戦争に対する興味のきっかけとして、祖父の影響が語られます。特に、祖父が特攻隊教官としての経歴や戦争に関する体験を通じて、彼のバックグラウンドと戦争への関心がどのように形成されたかが描かれています。
祖父との思い出
こんにちは、ninjinkunです。
私は、戦争、特に第二次大戦とか、そのあたりの時代にすごい興味を持っているんですけど、
これはね、なんでかというふうに考えてみたら、祖父の影響がすごく大きいなと思いました。
なので今日は、私の母方の祖父について語ってみたいと思います。
祖父はもう亡くなっていて、多分15年ぐらい前、自分が社会人になって1年目か2年目ぐらいで亡くなりましたね。
なので結構長い間、もう自分が子供時代も祖父の家とかに遊びに行くのはよくあって、
自分は名古屋に住んでて、祖父は三重県の松坂の西の方に住んでたんで、
夏休みとか春休みとか、そういう時は祖父の家に行くというのが結構定番でしたね。
海も川も山もあるんで、なかなかいいところでしたね。
で、祖父はですね、とにかくね、戦争の話をめちゃくちゃしてくる人で、
やっぱりね、自分がティーネイジャーだった時に戦争の終戦を経験してるんで、
それがすごい強烈な体験だったようで、とにかくもうね、同じ話をですね、何回も聞かされると。
しかもね、いちいちちょっと面白いんですよね。
なので自分は祖父の話聞くの嫌いじゃなかったんですけど、
それもあって、小学生とかでね、戦争話だと聞かされたら、戦争のことに嫌でもね、ちょっと詳しくなりますよね。
まあそういうなかなか面白い人だったんですけど、結構強烈なところとしては、
祖父はですね、特攻隊の教官だったという経歴があって、
高知のね、白木特攻隊かな、という特攻隊の祖父は特攻隊として行ったわけではなくて、
その行く人たちを教育する係だったと。
で、経緯はですね、そんなに細かくは知らないんですけど、
祖父は士官学校を出て、終戦の時は中尉だったみたいなので、
そこそこ幹部というか、士官クラスで、
当時はいろいろ学徒動員の人たちが来てたから、祖父はよく自分の部隊にはいろんな大学から来た人がめっちゃいたみたいな、
東大とか京大とか、いろいろ他にも私立大学とか、あらゆる大学の人が集められて、
特に特攻にも組み込まれていったみたいな。
これは自分は推測なんですけど、おそらく飛行機に乗ったりするにはそこそこ、
学力というか、教育が必要なのではないかなという気がするんで、
おそらくそこに学徒動員の人が当てられたんじゃないかなと思ってるんですけど、
そういう感じで、そういう部隊を指揮する立場だったということですね。
まあ指揮じゃないのかな、教育かな、ちょっとその辺の区分が曖昧なんですけど、
なんで自分の部隊の人たちが特攻隊員としてどんどん出ていくのを見送る側だったっていう立場ですね。
なんで優位言には、自分の骨は高知の海に撒いてくれという優位言があり、
実はこれはなかなか厄介な優位言で、なぜなら勝手に早い撒いてはいけないんですけど、
どうもゴニョゴニョゴニョと、こっそりゴニョゴニョゴニョなどをしたようですということがあって、
なかなかそういう強烈な、しかも当時祖父は19とか言ってたかな、
終戦が19歳と言ってたような気がするんで、
特攻隊と教育
多分当時その師官学校を短縮で出てるんですよね、早期育成みたいな感じで、
とにかく前線というか、実戦に送られると。
ただ言っても祖父自体は出撃してるわけじゃないんで、
これがなかなか微妙な立場で、実際に敵と戦ったことはないっていう立場なんですよね。
祖父が書いた式みたいなのがあって、これをワープロで書いていろんな人に配ってたんですけど、
我が通行の終戦っていう内容なんですよね。
これがね、文章面白いんですよね。
ところどころ笑いシーンみたいなのがあって、
食料用に拒否された豚が走り回って、なかなか殺せないから、
そこを剣に自信に嫌った祖父が一刀両断で首をバサッと落として拍手喝采を浴びて、
いい気持ちとかそういうことがいっぱい書いてあるんですよ。
そんな感じで、正直この明るさみたいなのは、
実際に自分で実戦に行ってないからなのではないかと思わせる節は結構あるんですけど、
そういう経験があったり、
でも例えば何かトイレに入ってたら、
米軍の機銃操車で便所が破壊されたり、
なんとか生き残ったとか、
あとは上官の人が終戦のあれが出た後に、
いろんな人が自殺してくるんですよね。
その時に上官がこれは死ぬんじゃないかと思って、
武器意識を隠したら、
目を離した時に上官が井戸に身を投げて自殺してしまったというので、
同僚からはお前はなんで、
もっと死に方を選ばせてあげなかったんだみたいな風になじられるとかね。
これはなかなか強烈な経験かなと思いますね。
などなどあるんですが、
全体としては割とカラッとしてガハハという感じの人なんで、
祖父の遺品と興味の背景
別に戦争を肯定したりしてる人ではないんですけど、
全体としては明るいトーンで話すっていうタイプの人でしたね。
なかなか酔っ払うと日本刀を持ち出してきて見せてくるみたいだね。
だいぶ困ったところもあって、もちろん幼い私はリアン亡きみたいなこともあったり、
昔はお酒を飲んで暴れるようなこともあったり、
あとやっぱりめちゃめちゃ過不調性な価値観を内面化してて、
母は相当困ったみたいですけど、
そういう熊本出身の祖父ですという感じですね。
まあ終戦後も祖父は海上自衛隊に入って、
そのまま定年まで海事で勤めたんで、
ずっと軍事畑の人だったんですけど、
あんま終戦後の話はね、
航空完成館になるためにアメリカに留学する予定だったんだけど、
直前で病気になってしまっていけなかったっていうのをずっとクエストに語ってて、
これが日本で何番目の無線の免許なんやみたいなことを
毎回見せてくるっていうのとかありましたね。
まあでもやっぱり自分的には祖父が特攻に
割と直接的に関わってたっていうのがね、
割と強い印象があって、
ちっちゃい頃はその辺の重要さってよくわからなかったんですけど、
大きくなって多少の知識がついてくると、
やっぱりその身近な人が特攻に関わってたって、
送り出してたから直接的に推奨したっていうか後押しした側だし、
もしかして戦争が長引いてたら、
祖父自身も最後は自分も特攻に出た可能性が多分あったと思うんで、
なかなかそうなると自分もいないことになるんで、
思わせるとこがありますね。
って感じかな。
なので今でも特攻の話とかそういうものを見ると、
結構興味を持って調べたり見たりするっていうのが、
自分の割とバックグラウンドになってるかなと思います。
という感じで、
祖父の思い出はもっといっぱいあるんですけど、
戦争に関わるところだとこんな感じかなっていうところですね。
ちなみに祖父の刀は、
遺語によりなんと私の所有物になっており、
今も実家に眠ってます。
刀の手入れなんてね、やり方わかんないんで、
もう絶対錆びついてると思いますけど、
昔は祖父が増免の時は祖父が自分で手入れしてたんですけど、
これ見てて怖いですよね。
ポンポンポンってやってるんですけど。
別に全然価値がある刀じゃないらしくて、
軍刀ですよね。
誰にでも支給された刀なんで、
歴史的な価値があるわけではなく、
他の量産品ということなんですけど、
しかし、捨てようにも簡単にも捨てられないし、
どうしようかなという。
あと銃刀法的には届け手を出さなければいけないはずで、
本当に出しているのか、出していると信じたいみたいなね。
そういう、なかなか威爆付きのものが、
自分の所有物として実家に置かれてるっていうのは、
なかなか微妙な気分ではありますね。
はい、という感じで、
今日はなんで自分が戦争に興味を持っているのかから、
祖父の話をしました。
ありがとうございました。
10:49
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