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2024-08-20 30:23

056坂口安吾「親が捨てられる世相」

056坂口安吾「親が捨てられる世相」

離れて暮らしてるのに、親の面倒を見る動物って人間だけなんだよなぁ。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


ご意見・ご感想は公式X(旧Twitter)まで。寝落ちの本で検索してください。

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寝落ちの本ポッドキャスト。 こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。 エッセイには面白すぎないずっくりを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。 ご意見ご感想ご依頼は公式 x までどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。 さて今日は、
坂口安吾さんの「親が捨てられる世相」というテキストを読もうと思います。
結構ね、過激なタイトルというか、 物騒、物騒というか穏やかじゃない感じしますね。
坂口安吾さん、日本の小説家、評論家、そして随筆家。 戦後発表の「堕落論」、「白痴」などが評価され、
太宰治と並んで、無礼派と呼ばれるということです。 一番最後には結局、戦争が悪かったんだよね、みたいな着陸になってますが、
この時代、この人は戦後間もなくにこの文章を書いているので、 ですとはいえ、今僕たちもね、
こう、 親の面倒を見るのがどうなんだ、みたいなのを考えることもある人もいると思うんですよね。
そんなことをなぜ寝る前に突きつけられなきゃいけないんだという気持ちもありそうですが、 とりあえず聞いてみてください。
それでは参ります。 親が捨てられる世相
戦争中は他に楽しみもなかったので、 私はよく御会所のお世話になった。
若い人は戦争に行ってるから、常連の多くは年配の人であったが、 後日に至って、捨てられる親たちの様相はその頃から私の目につくようになった。
彼らの多くは、かなり強要の高い人でも、おおむね捨て鉢になっていた。 働かざる者食うべからず、
極潰し、というような思想が、 思想よりも強力な精度が、
例えば、配給料という当時の最も切実なものの上で、 お前は極潰しだ、という無言の審判を押し付けてくる。
あの頃は、まるでもう配給料が人間の値打ちを規定していたようなものだ。 老人が孫の特配を盗んで、野良猫のような罵倒を受ける例は、近隣でしばしば見かける風景であった。
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御会所の常連に一人の老人があった。 半世、外地で会社勤めをして、老後を東京で暮らす計画を立てて、
そしてそれを設計通りに実行した人である。 東京に3、4千円の家を作り、
子供たちにもそれぞれ高等教育を授け、退職して東京へ移住し、 隠居生活を始めた時には2万5千円の貯蓄があった。
しかし、主職の闇音が吊り上がるにつれて、彼の動揺は深刻であった。 40何年も汗水垂らして、歯を食いしばるようにして蓄えた2万5千円という金が、この先2年間持つかどうか。
老後を考えて一生の経営を立て、 青春や人並みの楽しみすらも犠牲にして、流々深苦の挙句にこれですよ。
実に馬鹿を見たものだ。これは彼の口癖だった。 もっとも旋盤な愚痴ではあるが、どこにも吐け口のない暗い愚痴だから、聞かされる方にも救いがなくてやりきれなかったものだ。
その彼が気を取り直して、 いや、いや、こう愚痴を言っちゃいられない。
何か私の働く愚痴はありませんかな? と言う。
言葉の方はちょっと人の気を引いてみるという程度に軽いが、 目つきがギラギラして、食いつくような真剣さがあった。
もちろん、安い徴用車でいくらでも間に合う時だから、 彼の働く口などはない。
強制疎開で御開所が閉鎖という時、 何年間かお世話になった御医師を眺めている彼の目つきは、私たちの識別と違って真剣な執着がこもっていた。
御石格安売りますという張り紙が、 ガラス窓も、店内の壁にも貼り付けられていたのである。
今ならこの御石をそっくり買うこともできる。 せめて十面買えば、自分も楽しみながら暮らしの年になるかもしれん。
農家の一室を借りて、荷物だけ疎開の段取りでもできましたのでなぁ。 しかし我々が再び御を楽しむような生活が何年先に訪れることやら、
彼は決断がつかなかった。 トツオイツというシアンの様はこれを言うのであろうが、
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私には彼のギラギラした執念の目が恐ろしいものに見えた。 飛行機も、爆弾も、焼け跡も、焼けた死体も、
これほど生臭いものには見えなかった。 負け戦の土壇場のこの時になっても、
ただ老後を考えるのみの彼の執念に、当時はその同感も持てなかった。 思えば、彼は一生の設計を戦争で不意にし、
戦後の設計にも一足踏みかけながら、これも逃してしまった。 彼としてはギリギリに思い詰めた人生であったといえよう。
平凡で、まともで、 恩恵着実だったこのような老人たちの何パーセントかが、
戦争に至って生まれて初めての破れかぶれ、 手のつけられないジジイになっても憎むわけにはいかない。
罪は、戦争にあったことは実にはっきりしているのだ。 文人らの芸能人というものは、
サラリーマンのように着実でまともな一生の設計を立てているものではない。 収入がサラリーマンのようにきちんきちんとしていないし、
明日があまりにも不安定で設計の立てようがないものだ。 だから、いつどうなっても構わねえやというような心構えも、
芸術家の人生設計においては背骨の一つとなるべきものだ。 小田原海岸の釜矛小屋で何十年孤独の生活を続けている川崎長太郎君などは、
文子のうちでも特にそのような背骨のがっしりした人であろう。 川崎君とは挨拶を交わしたこともないが、私も小田原に住んでいたので、
彼の日課の食堂通いの姿を稀に見かけることがあった。 私の見た彼の姿はいつも一人であった。
彼の当時の小説によると三女子船を手に握って、 ダルマとかアサヒとかいう大きくて殺風景な食堂へ、
チラシ丼とかカツライスを食べに通っていたのだそうだ。 彼は戦争中に徴用されて小笠原島へ渡り、
土方のようなことをやらされたそうだ。 小田原の蒲鉾小屋から引きずり出されて、孤島で土方をやりながらも、
その日々の感傷は極めて当たり前で、 全てを、戦争をも素直に受け入れて、
いかなる環境の変化にも、彼の人生の土台を揺り動かされるような動揺を受けたことはない。
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彼が小笠原の徴用生活を書いたものは、 この戦争生活の日本人の手記としてはず抜けてまともで、
一行の力んだところもない清々しい賃品であったといえよ。 その生活中に彼が読んだ和歌なども、
元気がなくて実に素直なものであった。 彼は私の五形の五海城の老人のように、この戦争のために一生の設計を破壊されるような
ことがなかった。 日々新しく訪れる現実に、そのまま順応できる心構えができていたからである。
もっとも、この心構えをそう高く評価するわけにも行くまい、 人生には当然もっと積極的な設計があって然るべきで、
この両者の価値は比較論相すべきことではないようだ。 しかし私が面白いと思うのは、この川崎くんにしても老後ということをちゃんと考えている
ということであった。 彼の小説を読むと、彼が非常に中風を恐れ、
この中風は中の風って書くんですけど、 えっと全身麻痺とか半身風水とか、まあいわゆる麻痺のことですね。
彼が非常に中風を恐れ、 その予防として毎日長時間の散歩をせっせとやっていることがしばしば出てくる。
それは彼の母が中風で倒れて10年も寝込み、 糞尿まで人の世話になって家族に嫌がられて生き延びていた
哀れな生活を見ているから、 そういう風にはなりたくないというのが発信のもとのようである。
魚屋の長男に生まれて家業を弟に譲り、 自分は海岸のかまぼこ小屋に住んで好きな小説を書いて暮らし中風になれば、
まあ兄のことだからと、いやいやながらも弟夫婦が面倒を見てくれるであろうが、 そういう惨めな病床生活をしたくないというような。
しかしどうすればそれを防げるか、それに対処する方法が貯金でもなければ最大でもなく、 主として毎日長時間の散歩であるということ。
一般の人々から見れば滑稽かもしれんが、 実は私なども戦時詰めればその程度の設計や方策しか持ち合わせていないのだ。
しかしながら五海城の老人のような人に一生の設計が戦争で不意になった場合には、 その混乱ややけは
暗く救いのないものであろうが、 川崎君が恐れている中風に本当になった場合には、そう暗くはないだろう。
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彼は己の最も恐れていることに出会わしても平凡に受け入れて順応できるだけの背骨はできているであろうから、
かまぼこ小屋の川崎君に比べれば、 徳川無生老の設計は資生人のまともな生活に即してはいるが、
しかし半世酒を飲み、 時には睡眠薬のガブ飲みの曲芸もやらかすというような人生の希望というようなものと相当
また徹底的にいたしごっこをやらかした人は、 その心構えの背骨も余人に比して相当しっかりした人と目すべきであろう。
しかるにその無生老にしても、お嬢さんがお嫁に行くと、 お嬢さんに捨てられて天外の無生孤独になったような大層な反問錯乱も致されるようである。
そしてついに近来、養老院志願という悲痛な心境に傾きつつあるよしである。
川崎君も素直であるが、無生老はさらに素直なのであろう。
人生の希望とか孤独というものと、半世の相当に壮烈な長い争いを続けた人でも、老後ということになると、
大所の心構えに安定を欠かざるを得ないようである。 老後というものはどうやらそれほど通説なもののようだ。
ところがそれは当人にとってのみの通説な心境であって、 これに対する相手方、
つまり若い家族の方は全然その通説なところに理解がない。 これは宿命である。
老人の心境にいたわりがあるような若夫婦などというものは、 そろそろ老後の方に近づいた私の目から見ても、
なんとなくその物分りの良さが薄気味悪くて付き合いにくいような気がするのである。 人間には年齢の生活があり思想がある。
基本的人権同様に、これをはっきりと認めてかかる立場がなければいけないだろう。 親が子を育てるのは一般に本能的で自発的な愛情によるものだが、
子供が親を養うのはもっと義務的で、どうしても親の方が分が悪い。 子供を育ててやったことは恩に着せる性質のものではないようだ。
どの人間でも子供の時は親に育てられ、 自分が親になるとその子供から至当な愛情の報いを受けないというこれも定めのようなものだ。
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報われるものは義務でしかない。 そういうものだということをはっきり心得ておく方が何より無難であろう。
おいては子に従えと古いことわざが庶民生活の中では長く生きてきたものだ。 うちのせがれも私の代わりが立派に勤まるようになりましたよ。
というようなせがれ自慢から始まって、 いつの間にやらせがれやせがれの女房の尻に惹かれてしまう。
昔から一般にそんなものだ。 むしろ昔の老人の方が諦めが良かったと言えよ。
昔の老人の方が、おいては子に従えという認住の原理を心得ておったと言えよ。 終戦後の得意な社会現象として、親を捨てる子が多いというが、昔から子は親を捨てがちであったが、親の方が認住した。
こういう関係の場合は、弱い方が認住する方が難を避ける自然の良策である。 終戦後は子供の親扱いも荒っぽくなったかもしれんが、親が認住を忘れ、民主主義的になりすぎた趣の方が強いのではないかと私は思う。
無生老のごとく、日本一の流行時にして、お嬢さんがお嫁に行くと、天外の孤独感に襲われて、桜んあそばし、養老院志願を一年発揮するに至られるという、これが、まともで素直で健全な老人の諦めの心境と称すべきであるかもしれない。
しかし、無生老と違って無職で無収入で、毎日の生活をそっくり子供に恩付せざるを得ない親には、もっと複雑な悲願みがある。
彼らの一生の生活史というものが悲願んだ鏡に映されて再生し、その部分だけ強められて、現実の生活感情を規定する。親子の関係ぐらい深刻なものはありやしない。
他人同士の関係には儀礼的な隔てがあるが、親子憎しんの関係は全然むき出しの裸の付き合いだから、一旦もつれてしまうとこれぐらい深刻な関係はない。
親子の愛情にしろ憎悪にしろ、一生のそして生まれながらの生活史の奥底の根っこに絡んでいるのだから、憎しみのいちいちにも最も鮮満な深い根が当然あるべきものだ。
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親が子を殺したり、子が親を殺すのは、他人同士で殺し合うよりも、もっと当たり前で平凡な、そして悲痛な理屈が揃っている性質のものである。
親子の関係ぐらい我慢に我慢を重ねている関係はないであろう。本質的には非常に暗い関係であるが、親子の愛情や義務感や、半ば本能的な忍術などが、その暗さを救いもするし、積極的に楽しいものとする支えともなっている。
その支えが崩れてしまえば、その破綻はどうにも救いようがないのは昔からのことで、今に始まったことではない。他人同士の関係は、もともと儀礼という加工された上のものだから、蛇が割れても妥協の余地があるが、
肉親の関係はもっと骨を刺すほど決定的に痛烈なものだ。この戦争も、子を育てる親の愛情を破壊しはしなかった。 子供は空腹であっても、親の愛情に特に飢えたり、ひがまなければならないほどの片手落ちを痛感する理由は少なかったであろう。
徹底的にひがみを植え付けられざるを得なかったのは、この親のまた親たる老人であった。 彼らは背給料という肉体的では絶対的な階級制度に、首の根っこに縄をつけて引きずり回されて、甘やかしようのない深い傷を受けた。
おいては子に従えという諦めと忍術の心境は、子供自慢の心境などから発して自発的に生まれ深まるところに、それに耐える力もあるのだが、
背給料という甘やかしようのない規定で、お前は極潰しであるという抜き差しならぬ審判を押し付けられては、ひがまざるを得ない。自発的な忍術や諦めの代わりに、親の恩を売り物にし、不審を呪う嫌がらせの心境の黒雲のごとくに生じたのは不思議ではなかろう。
戦後特に子に捨てられる親の問題が多くなったのは、民主主義がこれに味方して親を捨てやすくしたというよりも、親の方に忍術の心境が薄れて悲願みが多くなり、親子の摩擦が多くなったせいだろうと私は思う。
遺産相続法が変わって、すべての子供に平等になったので、長子が親の養育の責任を持つ封が薄れ、全部の子で親をたらい回しに養育する封が生まれたそうであるが、そういうたらい回しは戦前にもあった。
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私の親兵になって、そういうたらい回しは戦前にも普通見かけることであった。日本の親の多くは、もともと子供に相続させるような遺産というほどのものを持たないのが主であったといえよう。
親のたらい回し。結構ではないか。あまりに義務的だというのは当たらない。親を養うこの心境は義務的なものと定めて、高く多く望まない方が平穏無難というべきだ。
高く多く望むためにむしろ破綻が来るのである。こういうと、いかにも親に割が悪いようだが、どの子供もいずれは親になって割が悪くなるだけの話で、人間はそういうものだと考える方が穏当である。
無性老のように生活力旺盛な人が養老院志願を一年発起するというのは、いかにも悲願で世を拗ねるもののごとくで、またご当人も多分にその自虐味を含ろうしていられる心境かもしれないが、実はその方が老人にとって素直で必死の心境ではないでしょうか。
捨てられるという心境は、金銭によるものでもないし、養われたり捨てられたりする事実によるわけでもない。人間の老後というものは、捨てられるような孤独感がその絶対の性格と思うすものではあるまいか。川崎君のような一生を孤独で通した人にも、老後という特別な孤独を避けるわけにはいかないものだ。
老後という一つの不安と言ってもよかろう。老後という年齢の必然的な不安であり、衰弱であり思想でもあろう。しかし昔から老後というものは、そういたわられたものではない。
定年制というような退職規定も、老人の側から言えば暗淡として残酷極まる規定で、そこを割れば配給料と同じように切なく厳しいものである。しかし、こうなりなとげて、定年の境界線を目標に人生の設計を立てる。
設計という建設作業の目標線となっているから、老人の心境は甘やかされることができる。ただ甘やかされることができるというだけの相違で、昔から人生は常に若い人間のものであり、老人のものではなかったのである。甘やかされることができるから、自発的に子に従う認住も諦めも穏やかに育ち得るのであろう。
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所詮、いつの世も老人にとっては割の悪いのが当然の人生であるが、それゆえ老後に備える設計が考えられ、用意されるのは当然であろう。
この戦争は多くの人々の設計を根本的に覆してしまった。若い人は取り返せるが、取り返しようのない老人たちが、最も深刻なデカダンスに陥る可能性があった。
定銀事件などは、そのデカダンスによる悲劇の一つともいえよう。
罪の元凶が戦争であったことは、ここでもはっきり指摘できよう。何十年がかりの流々深苦の設計を覆されれば、老人がやけくそになるのも自然であろう。
要するに、死聖人の必死でつつましやかな設計を覆すような戦争ほど呪うべきではないかというべきであろう。
しかし、何から何まで安直に戦争に罪を着せるのは、これまた当たらない。
戦争というちょうど手頃な境界線のような手がかりがあるから、何もかもアプレゲールで片付けるのは安直に好都合かもしれんが、理にあったことではない。
老人というものは、戦争がなくたって、いつの世でも現代というものに捨てられるものなのだ。
言うまでもなく若者たちのものである。 老人たちは、昔は良かった何もかも、と言う。
昔の芸人は立派なのがいた。 今の芸人の歯の浮くような芸なんて見ても聞いてもいられやしない、と言う。
しかし芸人の芸が今よりしっかりしていたわけではないのである。 昔は彼も現代に生きていた。
彼自身の現代に生きていたのだ。 現代とは、その時代のあらゆるものと共に生き、共に泣き、共に笑っているということだ。
相共に本当に血の通った生活をしているということである。 今の芸人がだらしなくなり、歯の浮くような芸になったわけではなくて、
彼の現代がすでに終わって、今の現代に彼が共に生きていなくなってしまったのである。 老人にとって現代風俗が怪しくて馬鹿げて見えるのは当然だ。
現代は常に変わりつつあるものであるし、共に生き、共に泣き、共に笑っている人のものでしかない。
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アプレゲールという安直な定義に頼ったのは、日本人の人生に対処する目が浅かったせいであろう。 その安直な定義は、ひいては今日の浅はかな逆光数を生むきっかけにすらなったようなものである。
親を捨てる子の現象も決してアプレゲールと限ったものではない。 いつのようにも親は子に捨てられる危険性を多分にはらんでいたものだ。
しかし戦後特に子に捨てられる親が多くなった一員として、 親の方に悲願ややけが生まれ、
認住や諦めを失った事実を指摘し得る点において、 これこそは戦争の生んだ得意現象の一つであり、
あるいは確かにアプレゲールと称してよろしいものではないかと思う。 そしてその責は老人の側にはなくて、どう考えたって戦争にある。
むろん遺産相続法の責任でもなく、 子供たちの責任でもない。
老人たちのつつましくて必死な設計を覆した戦争にだけ罪があるのだ。 もっともその他の理由による親子のいがみ合いならば、
それは昔からのもので、戦争のせいではなく、 またいつのようにも絶える見込みのなさそうなことでもある。
週刊朝日春季増刊号 昭和27年3月24日
1982年 高壇社坂口安吾全集第11巻エッセイ2
より読み終わりです。 いかがでしょうか、みなさん。
そもそもね、穏やかに老いを迎えることができるのかという感じもしますけど。
僕も家族とはほぼ関係が希薄なんで、実家とは、 住んでた実家がなくなって、親父が住んでるところに一度も行ったこともないですね。
この前、そうそう、あの、弟が結婚したっていうLINEが親父から来て、 おめでとうございますって返してそれっきりですけど。
だいぶうちもこじれてますんでね。 人それぞれというか、家族関係の形は人それぞれで。
さっき文中にもありましたけど、 血を分けた親子、兄弟だからこそ、なんかもうね、一度こじれるとのっぴきにならないっていうか、
それぞれはそれぞれで生活が成り立ったりすると、もう、 目の前から聞いてくれればそれでいいやみたいな感じになっちゃうんでしょうね。
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まあ、そういうような感じで、 遠くの親戚より近くの他人という言葉が、
骨身にしみて、そんな感じで僕は、 友人たちを大切に生きていこうと思っています。
はい、それでは今日のところはこのへんで、 また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
30:23

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