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2024-08-27 43:45

058森鴎外「二人の友」

058森鴎外「二人の友」

軍医として従軍する前に出来た二人の友人の話し。約100年前の人の書いた文章だと思うと味わいがあります。あとドイツ語とか入れ込むの辞めて!今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト。 こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。 エッセイには面白すぎない突っ込みを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。 ご意見、ご感想、ご依頼は公式エックスまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。 さて、今日は、
森鴎外さんの二人の友というテキストを読もうと思います。 よくね、名前はわかってたんですけどね、いろんな作品の中で森鴎外先生、森鴎外先生つってね。
森鴎外さん、明治大正の小説家・評論家、大学卒業後陸軍軍医となり、ドイツで4年過ごした。
代表作に舞姫、歌方の木、踏み遣いなどがあるということです。
はい。 二人の友というテキストですね。
全然読まずに今回もぶっつけていきます。 それでは参ります。二人の友。
私は武善の小倉に足かけ4年いた。 その初めの年の10月であった。
6月の隣羽の最中に来て、借りた梶町の家で。 私は寂しく夏を過ごしたが、
まだその夏の名残がどこやらに残っていて暖かい日が続いた。 毎日通う役所から4時過ぎに帰って、
住所ばかりの間に座っていると、 家主の飼う蜜蜂がおりおり軒のあたりを飛んで行く。
2台の人力車が楽に行き交うだけの道を隔てて、 迎えぬ家で糸をよる糸車の音がブーンブーンと聞こえる。
糸をよっているのは固めの老女女で、 私のところで女中が宿に下がった日には、それが手伝いに来てくれるのであった。
ある日、役所から帰って机の上に読みさしておいてあった文都の心理学を開いて、 ハンページばかり読んだが気乗りがせぬのでやめた。
そしていつもの糸車の音を聞いてぼんやりしていた。 そこへ女中が知らぬ人の名刺を持ってきた。
どんな人かと問えば洋服を着た若い人だという。 とにかく通せと言うとすぐにその人が入ってきた。
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二十歳をわずかに越したぐらいの男で快活な人に遠慮せぬ立ちらしく見えた。 この人が私にそういう印象を与えたのは、多く外国人に混じって知らず知らずの間に遠慮深い
東洋風を捨てたのだということが後に私にわかった。 初対面の挨拶が済んで私は来位を尋ねた。
この人のことを私はF君と書く。 F君の言うところはすこぶる人情に異なるものであった。
君は私とは同じ岩見人であるが、 私は津波野に生まれたから
亀池寮内の人。 君はいわゆる天寮の人である。
早くからドイツ語を専修しようと思い立って東京へ出た。 ところどころの学校に席を置き、いろいろの教師に二重を取ってみたが、今の立場から言えばどの学校もどの教師も自分に満足を与えることができない。
ドイツ人にも広く交際を求めてみたが、 ちょうど日本人に日本の国語を系統的に知った人が少ないと同じことで、
ドイツ人もドイツ語に精通してはいない。 それから日本人の書いたドイツ文や日本人のドイツ語から訳した国文を少量してみたが、
どれもどれも語尾だらけである。 そのうちでF君は私が最も自由にドイツ文を書き、最も正確にドイツ文を訳するということを発見した。
しかし東京にいた時の私の生活は、いかにも反撃らしいので接近しようとせずにいた。 その私が小倉へ来た。
そこで君はわざわざ東京から私の後を追ってきた。 これから小倉にいて私にドイツ語を学びたいというのである。
これを聞いて私はF君の自信の大きいのに驚き、 また私の買いかぶられていることの華々しいのに驚いて、しばらく君の顔を見て黙っていた。
後に思えば気の毒であるが、この時は私の心中に、 もし狂人ではあるまいかという疑いさえきざしていた。
それから私はとりあえずこんな返事をした。 君は私を買いかぶっている。
私はそんなに偉くはない。 しかし私のことはしばらく置くとして、君は果たして東京で支持すべき人を求めることのできぬほど
ドイツ語に通じているか。 失敬ながら私はそれを疑う。
こう言いつつ私は机の上にあった文章を取ってF君の前に出していった。 これは少し専門に偏った本で、単にドイツ語を試験するには適していぬが、
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もしそれでもいいならそこで1ページほど読んで、 その意味を私に話して聞かせてもらいたい。
もし他の本がいいなら小説もあり雑誌もあるからその方にしようと言った。 F君は私の手から本を受け取って醍醐を見た。
そして 心理学ですねと言った。
そうだ君それが読めるか。 読めないことはありますまい。
この本のことは聞いていただけでまだ見たことはなかったのです。 しかし私がパエダ語義句を研究したとき、どうしても心理学から入らなくてはダメだと思って少し心理学の本を
覗いてみたことがあります。 どこを読みましょう。
こう言って本を翻しているうちに漢末に近い大聖霊という一章が出た。
そこを少し読んで聞かせたまえと私は言った。 F君は少し間の悪そうに低い声で五六行を読んだ。
声は低いが発音はいい。 スラスラと読むのを私は聞いていて意味をはっきり聞き取ることができた。
もういいから君その意味を言って聞かせたまえと私は言った。 F君はほとんど述語のみから組み立ててある原文の意味を
くもなく解き明かした。 私は再び驚いた。
F君は狂人どころではない。君の自信の大きいのは当然のことである。 私は言った。
それだけ読めれば君と僕との間に何の堅持すべきところもないね。 何そんなことありません。お祝い質問します。とF君は言った。
これでF君がみだりに大言相互したのではないということだけはわかった。 しかしそれ以外のことは私のためにはすべて疑問である。
私はこの疑問を徐々に解決しようと思った。 ただその中に急に知らなくてはならぬことが一つある。
それはF君の生活状態である。身の上である。 私はこう言った。
それは君のドイツ語を研究する相談相手になれということなら僕はならないことはない。 ところで君はどうしてここらで暮らしていくつもりだ。
こう言ったがF君は黙っている。 私はすぐに畳みかけて露骨に言った。
君金があるのか。 F君は黙っていられなくなった。
金は東京から来る汽車賃に皆使ってしまったのです。 国から取れば多少取れないこともありませんが目前のようには立ちません。
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当分あなたのところに置いてくださるわけには行きますまいか。 この言葉は私の評価に少なからず影響した。
F君のドイツ語の造形は初め強靭かとまで疑った義を打ち消して大いに君を重くしたのに この言葉はまたすこぶる君を軽くした。
もとより人間は貧乏だからといってその才能の評価を減ずることはない。 しかしF君が現に一線のたくあいもなくて私を頼ってきたとすると
前に私を褒めたのが貝かぶりでなくてセジではあるまいか アユではあるまいかと疑われる。
修行しようという望みに希釈しようという望みが付帯しているとすると F君の私を目指してきた動機がだいぶ不純になってしまう。
人間の行為に全く純粋な動機はほとんどないとしても F君の行為を再起した動機はその不純の程度がややはなはだしくあるまいかと疑われる。
これまで私に獣学したいと言って名乗り出た人にF君のような造形のあったことはかつてない。 この側から見ればF君は奇跡である。
しかしこれまで私の家に起職したいと言ってきた人に一文の蓄えもなかったことはいくらでもある。 この側から見ればF君は平凡な行行者である。
そういう行行者を偶する道は私のためには熟路である。 私はこの熟路を行くに奇跡たる他の一面を顧慮して多少の手加減をすればいいのである。
私は決して行行者に現金を渡さない。 これが行行者に対する一つの原則である。
そこで私はF君にこんなことを言った。 君はドイツ語がよくできる。私の君を知っているのはただそれだけである。
それだけでは君と同居しようとまでは私には思われない。 そこで私は君を私の心安い宿屋に紹介する。
宿屋では私に対する信用で君を泊まらせて食わせておく。 その間に私は君のために位置を求める。
それも君だけの才能があってみれば多少の心当たりがないわけでもない。 もしうまくいったら君は自ら勝ち得た報酬で宿屋の勧奨をするがいい。
それがうまくいかず、また故郷からも金が来なかったら、 宿屋の勧奨だけを私が引き受ける。私にはそれ以上の約束はできない。
それでいいかと私は言った。 F君は私の言葉を聞いて少し勝手が違うように、
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余儀に反したように感じられたらしかったが、とにかく同意した。 多分君は私が許諾するか拒絶するかと思っていただろう。
それに私の答えは許諾でもなければ拒絶でもなかったから、君のために意外であったかと思われる。
とにかく君は格別ありがたがる様子もなく私に同意した。 私は使いをやって下役の人を呼んで、それに用事を言い含めた。
そしてF君を連れて立見という宿屋へ行かせた。 立見というのは小倉停車場に近い宿屋で、私はこの土地に着いた時泊まった家である。
主人は四十を越した家婦で、珍を可愛がっている。 礼儀で何の話でもよくわかる。
私はF君をこの女の手に託したのである。 私がF君に多少の心当たりがあると言ったのは、ちょうどその頃小倉に青年の団体があって、ドイツ語の教師を探していたからである。
そこで早速その団体の世話人に話して君を閉することにさせた。 立見の誕生は私が払わなくてもいいことになった。
F君はほとんど毎日のように私のところへ遊びに来た。 話はドイツ語のことを離れぬが、別に私に難問をするでもない。
新たに得た地位に休んじて、熱心に初学者にドイツ語を教える方法を研究して、それを私に相談する。
そういう話を聞くうちに、私は次第に君と私とのドイツ語の知識にだいぶ相違のあることを知った。 それは互いに特質があるのである。
君は語格文法に詳しい。文章を分析して細かいことを言う。 私はそんな時に初めて聞く述語に出くわして驚くことがある。
しかし君の書いたドイツ文には漢学者の言う和習がある。 ドイツ人ならばそうは言わぬと私が指摘する。
君が伏せぬと私は旅中にも持っているレクラム版のゴーゼなどを出して証拠立てる。 こんなお題がなかなか面白いので、私も君の来るのを待つようになった。
天気の良い土曜、日曜などは私はF君を連れて散歩した。 狭い小倉の街は端から端まで歩いても歩き足らぬので、
海岸を大理まで行ったり、汽車に乗ってカシーの方へ行ったりした。 格別読む暇もないのに君はいつも格子にドイツの本を入れて歩く。
ゴスチェン版の認識論や民類学などである。 なぜかと問うと暇があったら読もうと思うのは楽しみだと君は答える。
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ひどく知識欲の強い人である。 2、3週間経ってからある日、私はF君がどんな生活をしているかと思って役所から帰りがけに立ち見を訪れた。
ちょうど狼さんが門口から一匹の子犬を追い出しているところであった。 どうもうちのチンがメスだもんですから、いろんな犬が来て困ります。と言っておいて、
畜生畜生と帰り見がちに出ていく犬を叱っている。 チンは町場からよそよそしい様子をして見ている。
F君はどうしていますか?と私は問うた。 あなたがお世話なさるだけあって変わった方でございますね。と狼さんは笑顔をして言った。
私が世話するだけあって変わっているのですって?それは困るなぁ。 一体どう変わっています?
こう言いつつ、私は町場の前に腰をかけた。 いいえ、たいそう言い方でございますが、もうこんなに朝晩寒くなりましたのに、まだ人獲物一枚でいらっしゃいます。
寒い時は上からケットをかぶって本を読んでいらっしゃるのでございます。 狼さんは私に座布団を出してこう言った。
はてなぁ、苦面が悪いのかしら。 一人言のように私は言った。
そうじゃございません。お泊りになってから少し経ちますと、今なら金があるからとおっしゃって、今月末までの勘定を済ませておしまいになったくらいでございます。
もう11月に入っているから、F君は先月青年団からもらった金で、毎払いをしたのである。
とにかく会ってみようと思って私は2階へ上がった。 たちみの家では奥の離れ座敷に上等の客を止めることにしている。
次は主屋の中庭に向いた2階である。 表通りに向いた2階の小部屋は細かい格子の窓があって、そこには客を止まらせない。
F君は一番安いところでいいと言ってそこに落ち着いた。 F君、いるかね。
と言って声をかけると君は家から障子を開けた。 なるほど、フランネルのシャツの上に浴衣を着ている。
細かい格子に日を遮られた薄暗い窓の下に、手洗い机の古いのが据えてあって、そこが君の席になっている。
私は多鈍の竹であるコヒバチを挟んで君と退座した。 この時すぐに目をいたのは、机の向こう側にエビスビールの空き箱が縦に据えて本箱にしてあることであった。
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しかもその箱の半以上を茶化粥の背側の大きい本3冊が閉めていて、 あとは小さい本と雑記帳とで埋まっている。
3冊の大きい本は極新しい。 薄暗い箱から背側に記してある金字が光を放っている。
私は首をかがめて金字を読もうとした。 メイヤーの章ですよ、とエフ君が言った。
そうか、ひどく立派な本になったね。 それに僕の持っているのは2冊ものだが。
それは古いのです。 これは南港堂に来たものを見ておいたから郵便かわせをやって取り寄せました。
しかしこんなに膨張しては。 縄章でも邪魔になるね。
なぜわざわざ取り寄せたんだ。 何、教書をしていると人名や地名の説明を求められますから、このくらいの本がないと心細いのです。
エフ君と私とは会話辞書の話をした。 メイヤーとブロックハウスとの特質を論ずる。
こういうドイツの本がラ・ルースやブリタニカと違うゆえんを論ずる。 続書がだんだん科学的の書に接近してくる風潮を論ずる。
とうとう私はランプのつくまでいて帰った。 私は仮家に帰ると古合わせを一枚女中に持たせてエフ君のところへ行った。
50日分の宿料を払って会話辞書を買っては君のもらった月給はみんななくなって、 タバコもやたらには飲まれぬわけだと思ったからである。
私はエフ君の行行者の一面があると思っていたので最初から君と交わるに多少の距離を保留しておくようにした。
しかし葬式になってから時が経つにしたがってこの距離がだんだん縮まってきた。 それには遺書にことを書いても書物を買うという君の学問好きを認めたためもあるが決してそればかりではない。
ドイツ語における君の造形の深いことは初対面の日にもう知れていた。 そうしてみれば君が学問好きだということは問わずして明らかなわけである。
エフ君と私との距離を縮めた主な原因は私が君の童貞を発見したところに存ずる。 君がほとんど異性に関する知識を有せぬことを発見したところに存ずる。
これはあるいは私の見誤りであったかもしれない。 しかし私は今でも君に欺かれたとは信じない。
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私はエフ君に秘密がなかったとは思わない。 また君が嘘をつかなかったとは思わない。
しかし君は事さら構えて嘘をつく人ではなかったらしい。 嘘のために言葉を設けるほどの面倒をせぬ人であったらしい。
私と対座して構えて嘘をついてみるがいい。 私はすぐに強烈な反感を起こす。これは私の本能である。
私はこの本能があるのであまり多く人に欺かれない。 多数の人を陥れた詐欺師を私が一見して感覇したことは度々ある。
これに反して義務心の欠けた人、エイモラルな人、 世間で当てにならぬという人でも、私と対座してセキュララに意思を発表すれば、私は愉快を感じる。
私は年久しくそういう人と相逆らわずに往来したことがある。 さて私は前にも言った通りに最初から行行者を持ってエフ君を待った。
しかし君の対話は少しも私に反感を起こさせたことがない。 君の言語は衝動的である。
君の教育は明白に私の前に展開せられて時として無遠慮を極めることがある。 バーブルフントに真実を解くことがある。
私はいつもそれを甘んじて受けて帰って面白く感じた。 ほとんど毎日会って時として終日一緒にいることさえあるので、エフ君と私との話はドイツ語のことや哲学のことには限らぬようになった。
ある日私は君にこういうことを言った。 私はこの土地で役をしていて多くの人に知られている。
その人たちがもうエフ君をも知ってきた。 そして二人を兄弟だと言うそうである。
本通りの雑貨店特見に行ったら、「弟子さんもお店おいでになりましたよ。」と主人が言った。
誰のことかと思えば君のことである。 同じ国ではあるが親類ではないと私は答えた。
主人は不審に思うらしい様子で、「へえ、あんなによく似ておいでになって。」と言った。
私は君に似ているだろうか。君はどう思うと思ってエフ君を見た。 エフ君がその時、それは他人の空にということがずいぶんあるものと見えると言って、こういう話をした。
君が尾道に泊まった晩のことである。 中庭を囲んだ二階の一方にある座敷に君は入れられた。
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すると二階の向こう側に泊まった客が芸者を大勢呼んで大騒ぎをしていた。 君は無料に耐えぬので廊下に出て向こうを見る。
向こうでも芸者が一人出て欄間に手をかけてこっちを見る。 その芸者が連れの芸者を呼び出す。二人で何か囁いてこっちを見る。
こっちで見るのはいいが向こうから見られるのは嫌だと思って君は部屋に入った。 向こう側の騒ぎは夜遅くなるまで続いた。
君は床に入って三味線の声をやかましく思いつつ寝入った。 しばらく寝ているうちに部屋に人が来たように思って目を覚ました。
見れば芸者が来て枕元に座っている。 君は驚いて起き上がった。そしてどうしたのだと問うと
少し伺いたいことがございます と言う。
君は立って余具を畳んだ。 それから芸者に用事を尋ねた。
芸者の向上はこうであった。 自分は向こう側の座敷に大勢来て泊まっている芸者のうちの一人である。
この土地の生まれで兄が一人あった。 それが家出をして行方が知れずにいる。
しかるに先刻向こう側からあなたを見てすぐにその兄だと思った。 別れてからだいぶ年が経ったが毎日会いたい会いたいと思うのでこっちでは忘れずにいる。
あなたを見た時すぐにかけてこようかと思ったが一目があるのでこらえていた。 もし人違いであったら許してもらいたい。
恋しい兄だと思う人を見たのに会って物を言わずに別れては後々まで残り惜しい。 一体あなたはどちらのお方かというのであった。
君はこう答えた。 それは気の毒なことだ僕は赤州のもので尾道へは初めて来た。
ここへ来たのが知れるといけないから早く帰るがいいと言ったというのである。 F君のこの話を私は面白く思って聞いた。
私の誤性から見れば初め君が他人の空にはあるものだと言ったのは反語でなくてはならない。 芸者が伏洞へ来た時君は浜地に襲われた犬塚忍のように薬を片付けて開き直って
陽向きを尋ねた。 さて芸者の言葉をあくまで真面目に聞いてうまく軽して遠ざけたのである。
君が語り終わる時私は君の表を凝視してそこにアイロニーの表情を求めた。 しかしそれはいたずら事でもあった。
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F君は芸者の言葉を真実だと思ってそのまま私に話したのであった。 私は驚いたそして言った。
日本の女は傲弱なようでおとなしい、それが西洋人であったらきっと肉迫してきたのだ。 すると君だってビルヘルムがフィレーヌの胸を押しのける勇気がなかったように女の虜になるのだった。
私がこう言うと今度はF君が驚く番になった。 後に聞けばある西洋人に忌ましめられて小説というものを読まぬ君も
ビルヘルムメイスターやガイスタルザーくらいは知っていたので私の言葉を聞いて 白内障の手術を受けたように悟ったのだそうである。
このことがあってから私はF君の異性に対する行動に細かに注意した。 そして君がこの方面において全く無経験であることを知った。
君は異色の欠乏を憂えない。君は性欲を制している。 君は尋常の行行者とは違う。
君はとにかく偉いと私は思った。 そこで初め君との間に保留しておいた距離が次第に短縮するのを私は妨げようとしなかった。
私の感識はあるいは誤っていたかもしれない。 しかし私は今でも君に欺かれたとは信ぜない。
12月になった。 私が小倉に来てから6ヶ月目。
F君が私の後を追ってきてから3ヶ月目である。 私はフランス語の稽古を始めて毎日夕食後に馬釈町の専教師のところへ通うことになった。
これがすこぶる私と君との交際の上に影響した。 なぜかというと君が尋ねてきても私はフランス語のことを話すからである。
君はフランス語も面白いでしょうが僕は2つの語を浅く知るより1つの語を深く知りたいのです。 と言う。
また一節だねと私は言う。 この背面にはそうばかりはいかぬという意味がある。
君はそれを察するそして多少気まずく思う。 その上あまりしきりに往来した逆に必然起こる縁見の情も混じってくる。
そこで毎日来た君が1日隔ててくるようになる。 2日を隔ててくるようになる。
例えて言えば2人は最初遠く離れた平行線のように生活していたのに 一時その距離が迫り近づいてきて今また近く離れた平行線のように生活することになったのである。
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F君はドイツ語の教師をして暮らす。 私は役人をして傍らフランス語の稽古をして暮らす。
そして時々会って遠慮のない話をする。 2人の間には世間並みの友人関係が成り立ったのである。
翌年になった。 4月の初めにF君が来て父の病気のために帰省しなくてはならぬから旅費を貸してもらいたいと言った。
いくらいるかといえば25円あればいいという私はすぐに出して渡した。 もう行行者扱いはしなかったのである。
この金のことはその後私も口に出さず君も口に出さずにしまった。 私は返してもらうことを予期しなかったのである。
君はまたそんなことに肯定せぬ性分であったのである。 これは傲弱なのでも知らばっくれたものでもないと私は思っていた。
年久しく交際した君が物質的に私を患わしたのはただこれだけである。 ほどなくF君は帰ってきて鳥町に下宿した。
そしてこれまでのようにドイツ語の教師をしていた。 夏の日には私は一度君を訪ねてラムネをちそうせられたことがある。
年の暮れにカジマチの家主が急に家賃をあげたので私は京町へ引っ越した。 糸車の音のする家から太鼓の音のする家に移ったのである。
京町は小倉の友女町の裏通りになっていて絶えずシャミセンと太鼓が聞こえていた。 この家へもF君は度々話しに来た。また年が改まった。
私が小倉に来てから3年目である。 8月の半頃にF君は山口高等学校に閉鎖されて不任した。
そのまた次の年の3月に私は役が変わって東京へ帰った。 ちょうど4年目に小倉の土地を離れたのである。
私は無妻で小倉へ行って妻を連れて東京へ帰った。 しかし私についてきた人は妻ばかりではなくて今一人すぐに後から来た人がある。
それはまだ年の若い僧侶で私の家では安国寺さんと呼んでいた。 安国寺さんは私が小倉で京町に引き越した頃から毎日私のところへ来ることになった。
私が役所から帰ってみるときっと安国寺さんが来て待っていて夕食の時までいる。 この間に私は安国寺さんにドイツ文の哲学入門の約読をしてあげる。
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安国寺さんはまた私に有意識論の講義をしてくれるのである。 安国寺さんを送り出してから私は夕食をして
馬釈町の専教師のところへフランス語を習いに行った。 そんな風であったから私が小倉を立つとき停車場に送ってくれた同僚やら知人やらは非常に多かったが、
その中で一番別を惜しんだものは安国寺さんであった。 君がいなくなっては安国寺さんにお気の毒だね。と知人はからかい半分に私に言った。
果たして安国寺さんは私との交際を立つに忍びないので、 自分の夕食をしていたテロを人に譲って氷山と小倉を去った。
そして東京で私の住まうダンゴ坂上の家の迎えに来て下宿した。 もと私の家の向かいは崖で根津へ続く低地に接しているので、その崖の上には世に言う猫の額ほどの平地しかなかった。
そこに根津が幽閣であった時代に八太郎の陰居のいる小さい寮があった。 後にそれを買い潰して崖の下に長い柱を建てて、私の家と軒が相対するような二階屋の広いのを建てたものがある。
長房の良かった私の家はその二階屋ができたために陰気な住まいになった。 安国寺さんの来たのはこの二階造りの下宿屋である。
しかし東京に帰った私の生活は小倉にいた時とは違って忙しい。 せっかく来た安国寺さんは前のように私と知識の交換をすることができない。
それを残念に思っているとちょうどそこへF君が来て下宿した。 東京で暮らそうと思って山口の地位を捨てて来たということであった。
そこで安国寺さんは哲学入門の訳読を私にしてもらう代わりにF君にしてもらおうとした。
しからに私とF君とは外国語の扱い方が違う。 私は口語でも文語でも全体として扱う。
F君はそれをいちいち語覚上から分析せずにはおかない。 私は神戸さんの哲学入門を開いて初めのページから字を追って訳してきかせた。
しかも努めて仏教の語を用いて訳するようにした。 有意識を自在に考釈するだけの力のある安国寺さんだからそれをちょうど人情の人がフィーベルや読本を
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解するように解した。 F君はこの流儀を踏襲することをがえんせずに安国寺さんに語覚から教え込もうとした。
安国寺さんは全く違った方面の労力をしなくてはならぬのでひどく苦しんだ。 しばらくたってF君は第一高等学校に閉せられたがやはり同じ下宿にいて
そこからほど近い学校に通うので君と安国寺さんとの関係は元のままであった。 私が東京に帰ってから桜が咲き、桜が散って気候は暖かいという間もなく暑くなった。
2階に上って向かいの下宿屋を見ればそこでも2階の扉を開け放っている。 幕数が多いのでF君や安国寺さんのいる部屋は見えない。
見えるのは若い女学生のいる部屋である。 欄間に赤い襟裏のついた着物やエビ茶の袴がさらしてあることがある。
赤い袖の肌襦袢がしどけなく投げかけてあることもある。 この衣類の主が夕方には派手な浴衣を着て縁端ですずんでいる。
外から帰って着物を脱ぎ替えるのを不意に見て、こっちで顔を背けることもある。 私はいつとなくこの女の顔を見覚えたが、名を聞く折りもなく、どこの学校に通うということを知る縁もなかった。
女は美しくもなく醜くもなく、何一つ際立って人の目を惹くことのない人であった。
向かいの家の下宿人はたびたび入れ替わると見えて見知った人がいなくなり、 新しい人が見えるのに気のつくことがあった。
しかしF君と暗黒寺さんとは外へ移らずにいた。 私の家の2階から見える女学生も移らずにいた。
1年余り経って私が東京へ帰ってから2度目の夏になった。
ある日暗黒寺さんが来て、初中に帰省してくると言った。 暗黒寺さんは小倉の寺を人に譲ったが、
九州鉄道の奉修船のある小さい駅に俗縁の家がある。 それを見前に行くということであった。
暗黒寺さんの立った後で私の家の者が近所の噂を聞いてきた。 それは坊さんはF君の使いに四国へ行ったので、九州へはそのついでに帰るのだということであった。
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使いに行った先は向かいに下宿している女学生の親元である。 F君は女学生と秘密にいい仲になっていたが、
とうとう人に隠されの状況になったので、正式に結婚しようとした。
それを四国の親元で承認しない。 そこで親たちを時進めにF君が暗黒寺さんをやったというのである。
私はそれを聞いて、暗黒寺さんを縁談の使者に立てたとするとF君はお大名だなと言った。
無遠慮なエゴイストたるF君と学徳があって世情に疎く、 赤子の心を持っている暗黒寺さんとの間でなくては、そういうことは成り立たぬと思ったのである。
暗黒寺さんの誠は田舎の強情な親たちを感動させて女学生はF君の妻になることができた。
二人は小石川に家を持った。 また一年経った。
私はロシアとの戦争が起こったので戦地へ出発した。 F君は新橋の停車場まで送ってきて、私にドイツ文で書いたロシア語の文法書を送った。
この本と南高堂で買ったロシアドイツの大躍辞書とがあったので、 私は満州にいる間少なからぬ便利を感じた。
私が満州で受け取った手紙のうちに暗黒寺さんの手紙があった。 そのうちに重い病気のためにドイツ語の研究を思いとどまって、
某周辺の海岸へ天地療養に行くということが書いてあった。 私はすぐに返事をやって慰めた。
これは私の手紙としては最も長い手紙で、 世間で不治の病というものが必ず不治だと思ってはならぬ、
安心を得ようと志すものは病のために屈してはならぬということを、 非油断のように書いたものであった。
私は暗黒寺さんが語学のために甚だしく苦しんで、 その病を引き起こしたのではないかと疑った。
どんな複雑な論理をもたやすくたどって行く人が、 かえって機械的にそらんじなくてはならぬ語学の規則に悩まされたのは、
想像しても気の毒だと私はつくづく思った。 満州で年を越して私が凱旋したときには、暗黒寺さんはもう九州に帰っていた。
小倉に近い山の中の寺で住職をすることになったのである。 F君は相変わらず小石川に住んで第一高等学校に勤めていた。
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君と私との忙しい生活は互いに訪問することを許さぬので、 私は時々菅茂田線の電車の中で君と語を交えるにすぎなかった。
それから4,5年の後に私は突然F君の不韻に接した。 陰党の元首のために急に亡くなったということである。
1971年発行 新聴者
新聴日本文学1 森大外周
より読み終わりです。 あら、F君死んじゃいましたね。
冒頭、森大外の説明で読んだ軍医になって 従軍したというその直前まで
直前まで書いてありましたね。
そういえば森大外って本名が林太郎っていうらしいんですよ。 林太郎と書いて、だから森林太郎なんですよ。
森林太郎になるっていうね、有名なうんちくがあるらしいですよ。
クイズノックで言ってました、多分。 伊沢さんが言ってたような気がするな。
はい、今日はずいぶん長めになっていましたね。 寝落ちできてるんじゃないかと思います。
それでは今日のところはこの辺で、また次回お会いしましょう。 おやすみなさい。
43:45

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