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寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xマでどうぞ。
さて、今日は坂口安吾さんの続堕落論を読みたいと思います。
何度か読んでるんですが、坂口安吾さん。
日本の小説家、評論家、それから随筆家、戦後発表の堕落論、
それから博智、らが評価され、
太宰治と並んで無礼派と呼ばれるということで、
僕もですね、この寝落ちの本ポッドキャストではシャープ30で堕落論を読んでるんですが、
今回はその続きというか、続堕落論、内容をさらっと読みましたが、
似てることは似たような、堕落論では戦後直後の日本を切り取っている感じでしたが、
今回は過去にも遡っている感じがするな。
武士の時代の話とかもしてそうな気がします。
歴史小説も書く人らしいんですよ。
今のところ僕は小説をこのポッドキャストでやるつもりはないですが、
とりあえずね、そういうことで、
そういう時代交渉的なことも頭に入っていらっしゃる方だということでしょうね。
はい、それでは参ります。
堕落論
敗戦後、国民の道義大敗せりというのだが、
しからば戦前の健全なる道義に服することが望ましきことなりや、
がすべきことなりや、私は最も然らずと思う。
私の生まれ育った新潟市は石油の産地であり、
したがって石油成金の産地でもあるが、
私が小学校の頃、中野勘一という成金の一人が産を成して後も大いに倹約であり、
停車場から人力車に乗ると値が何がしか高いので、
バンダイ橋という橋のたもとまで歩いてきてそこで安い車を拾うという話を、
校長先生の訓示において幾度となく聞かされたものであった。
ところが先日、脅威の人が来ての話に、
この話が今日では、ニーズなにがしという新しい石油成金の逸話に変わり、
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現になお新潟市民の日常の教訓となり、生活の規範となっていることを知った。
百万長者が50銭の車代を30銭に握ることが美徳なりや、
我らの日常をお手本とすべき生活であるか。
この話一つについての問題ではない。
問題は、かかる話の底を貫く精神であり、生活の在り方である。
戦争中、私は日本映画社というところで食卓をしていた。
その時やっぱり食卓の一人に、Sという新聞連合の理事だか何かをしている威勢のいい男がいて、
談論風発。
吉川英二と佐藤幸六が日本で偉い文学者だとか、そういう大先生であるが、
会議の席でこういう映画を作ったらよかろうと言って意見を述べた。
その映画というのは老いたる農夫のゴツゴツ節くれだった手だとか、継ぎはぎの着物だとか、
父から子へ、子から孫へ伝えられる忍苦と、
待望の魂の象徴を綴り、合わせ、移せという、
なぜなら日本文化は農村文化でなければならず、
農村文化から都会文化に移ったところに日本の堕落があり、
今日の悲劇があるからだ、というのであった。
この話は会議の席では大いに反響を呼んだもので、
事実上の社長である専務などは大感覆。
僕を帰り見て、君、あれを脚本にしないか、などと言われて、
私はご自体申し上げるのに苦労したものであるが、
この話とてもこの場限りの戦時中の一部はの悪夢ではないだろう。
戦争中は農村文化へ帰れ、農村の魂へ帰れ、
ということが絶叫し続けられていたのであるが、
それは一時の流行の思想であるとともに、
日本大衆の精神でもあった。
一口農村文化と言うけれども、そもそも農村に文化があるか。
盆踊りだろう、お祭礼風俗だろう、待望精神だろう、
本能的な貯蓄精神はあるかもしれないが、
文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関するけ一筋の陰だにない。
あるものは這いた精神と、絶え絶えする不信、疑り深い魂だけで、
尊徳の必要な経産が発達しているだけである。
農村は純木だという奇妙な言葉が無反省に使用せられてきたものだが、
元来農村はその成立の始めから純木などという性格は無かった。
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大化の開始以来、農村精神とは脱税を暗出する不当不屈の精神で、
不老人となって脱税し、戸籍を誤魔化して脱税し、
そして彼ら農民たちの小さな個々の悪戦苦闘の脱税行為が、
実は日本経済の結び目であり、
それによって硝煙が起こり、硝煙が栄え、硝煙が衰え、貴族が滅びて武士が起こった。
農民たちと税との戦い、その不当不屈の脱税行為によって日本の政治が変動し、
日本の歴史が移り変わっている。
人を見たら泥棒と思いというのが王朝の農村精神であり、
時々軍闘を横行し、
自闘は転んだ時でも何か掴んで起き上がるという達人であるから、
他への不信、排他精神というものは農村の魂であった。
彼らは常に受け身である。
自分の方からこうしたいとは言わず、また言えない。
その代わり、押し付けられた事柄を、
彼ら独特のずるさによって処理しておるので、
そしてその受け身のずるさが志士として、
日本の歴史を動かしてきたのであった。
日本の農村は今日においてもなお奈良町の農村である。
今日初方の農村における相似た民事裁判の例、
協会のうねを5寸3寸ずつ動かして隣人を裏切り、
証文なしで他を借りて返さず親友を裏切る。
彼らは親友隣人を執拗に裏切り続けているではないか。
尊徳という利害の打算が生活の根底で、
より高い精神への渇望。
自我のない性と他の発見は、
農村の精神に見出すことができない。
他の発見のないところに真実の文化がありうべきはずはない。
自我の消殺のないところに文化のありうべきはずはない。
農村の美徳は待望、認苦の精神だという。
乏式に耐える精神などが何で美徳であるものか。
必要は発明の母という。
乏式に耐えず、不便に耐え得ず、
必要を求めるところに発明が起こり、文化が起こり、
進歩というものが行われてくるのである。
日本の兵隊は待望の兵隊で、
便利の機械は渇望されず、
肉体の酷使待望が多化せられて兵器は発達せず、
根底的に作戦の基礎が欠けてしまって、
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今日の無残極まる大敗北となっている。
兄兵隊のみならんや、
日本の精神そのものが待望の精神であり、
変化を欲せず、進歩を欲せず、
生計産美が過去へ向けられ、
魂坂に現れ入れる進歩的精神は、
この待望的反動精神の一撃を受けて、
常に過去へ引き戻されてしまうのである。
必要は発明の母という、
その必要を求める精神を、
日本では生クラの精神などといい、
待望を美徳と称す。
一理二理は歩けという、
五階六階へエレベーターなどとは
生クラ千万の根性だという。
機械に頼って勤労精神を忘れるのは、
亡国のもとだという。
全てがあべこべなのだ。
真理はいつわらぬものである。
すなわち真理によって復習せられ、
肉体の勤労に頼り、
待望の精神に頼って、
今日、亡国の幸運を招いたではないか。
ボタン一つ押し、
ハンドルを回すだけで済むことを、
一日中永遠苦労して、
汗の結晶だの勤労の喜びなどと、
馬鹿げた話である。
しかも日本全体が、
日本の根底そのものが、
核のごとく馬鹿げ切っているのだ。
いまだに大義士諸侯は天皇制について、
皇室の尊厳などと馬鹿げ切ったことをいい、
大騒ぎしている。
天皇制というものは、
日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、
天皇の尊厳というものは、
常に利用者の道具に過ぎず、
真に実在した試しはなかった。
藤原氏や将軍家にとって、
何がためにも天皇制が必要であったか。
何が故に彼ら自身が最高の主権を握らなかったか。
それは彼らが自ら主権を握るよりも、
天皇制が都合が良かったからで、
彼らは自分自身が天下に号令するよりも、
天皇に号令させ、
自分が真っ先にその号令に服従してみせることによって、
号令がさらによく行き渡ることを心得ていた。
その天皇の号令とは、天皇自身の意思ではなく、
実は彼らの号令であり、
彼らは自分の保守するところを天皇の名に置いて行い、
自分がまず真っ先にその号令に服してみせる。
自分が天皇に服す藩を人民に押し付けることによって、
自分の号令を押し付けるのである。
自分自らを神と称し、
絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。
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だが自分が天皇にぬかずくことによって、
天皇を神たらしめ、
それを人民に押し付けることは可能なのである。
そこで彼らは天皇の擁立を自分勝手にやりながら、
天皇の前にぬかずき、
自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に供養し、
その尊厳を利用して号令していた。
それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。
見たまえ、この戦争がそうではないか。
実際天皇は知らないのだ。
命令してはいないのだ。
ただ軍人の意思である。
満州の一角で事変の火の手が上がったという。
北州の一角で火の手が切られたという。
はなはなしいかな。
総理大臣までその実相を告げ知らされていない。
何たる軍部の戦団王公であるか。
しかもその軍人たるや閣のごとくに天皇をないがしろにし、
根底的に天皇を謀得しながら、
盲目的に天皇を崇拝しているのである。
ナンセンス。
ああ、ナンセンス極まれり。
しかもこれが日本歴史を一貫する天皇性真実の層であり、
日本史の偽らざる実態なのである。
藤原氏の昔から、
最も天皇を謀得する者が最も天皇を崇拝していた。
彼らは真に骨の髄から盲目的に崇拝し、
同時に天皇をもてあそび、
我が身の便利の道具とし、
謀得の限りを尽くしていた。
現在に至るまで、そして現在もなお、
大義士諸公は天皇の尊厳を云々し、
国民はまたおおむねそれを支持している。
昨年8月15日、
天皇の名によって終戦となり、
天皇によって救われたと人々は言うけれども、
日本歴史の称するとこを見れば、
常に天皇とはかかる非常の処理に対して、
日本歴史の編み出した独創的な作品であり、
宝作であり、奥の手であり、
軍部はこの奥の手を本能的に知っており、
我々国民はまた、
この奥の手を本能的に待ち構えており、
確定、軍部日本人合作の大詰めの一幕が、
8月15日となった。
耐えがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、
陳の命令に服してくれと言う。
すると国民は泣いて、
他ならぬ陛下の命令だから、
忍びがたいけれども忍んで負けようと言う。
嘘をつけ、嘘をつけ、嘘をつけ。
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我ら国民は戦争を止めたくて仕方がなかったのではないか。
竹槍をしごいて戦車に立ち向かい、
土人形のごとくにバタバタ死ぬのが嫌で、
たまらなかったのではないか。
戦争の終わることを最も切に欲していた。
そのくせ、それが言えないのだ。
そして大義名分と言い、
また天皇の命令と言う。
忍びがたきを忍ぶと言う。
何というからくりだろう。
惨めともまた情けない歴史的大義名ではないか。
しかも我らはその義名を知らぬ。
天皇の定戦命令がなければ、
実際戦車に体当たりをし、
嫌々ながら憂壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。
最も天皇を暴徳する軍人が、
天皇を崇拝するがごとくに、
我々国民は、
さのみ天皇を崇拝しないが、
天皇を利用することには慣れており、
その自らの狡猾さ、
大義名分というずるい看板を悟らずに、
天皇の尊厳のご利益を謳歌している。
何たるからくり、また狡猾さであろうか。
我々はこの歴史的からくりに疲れ、
そして人間の、人生の、
正しい姿を失ったのである。
人間の、また人生の正しい姿とは何ぞや。
欲するところを素直に欲しし、
嫌なものを嫌だと言う。
要はただそれだけのことだ。
好きなものを好きだと言う。
好きな女を好きだと言う。
大義名分だの。
不義は御法都だの。
義理人情という偽の着物を脱ぎ去り、
セキララな心になろう。
このセキララな姿を突き止め、
認めることがまず、
人間の復活の第一条件だ。
そこから自我と、そして人生の、
真実の誕生と、その発足が始められる。
日本国民諸君、
私は諸君に、
日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。
日本及び日本人は、
復活しなければならぬと叫ぶ。
天皇制が存続し、
かかる歴史的からくりが、
日本の観念に絡みとって作用する限り、
日本に人間の、人生の、
正しい開花は望むことができないのだ。
人間の正しい光は永遠に閉ざされ、
真の人間的幸福も、人間的苦悩も、
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すべて人間の真実なる姿は、
訪れる時がないだろう。
私は、日本は堕落せよと叫んでいるが、
実際の意味はあべこべであり、
現在の日本が、そして日本的思考が、
現に大いなる堕落に沈隣しているのであって、
我々はかかる法権威勢のからくりに満ちた、
健全なる道義から転落し、
裸となって真実の大地へ、
我々は、健全なる道義から堕落することによって、
真実の人間へ復帰しなければならない。
かかる諸々の偽の着物をはぎ取り、裸となり、
ともかく人間となって出発し直す必要がある。
さもなければ、我々は再び、
赤実の欺瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。
まず裸となり、
囚われたるタブーをして、
己の真実の声を求めよ。
未亡人は恋愛し、地獄へ落ちよ。
福音軍人は闇夜となれ。
堕落自体は悪いことに決まっているが、
もと出をかけずに本物をつかみ出すことはできない。
表面のきれいごとで真実の代償を求めることは無理であり、
血をかけ、肉をかけ、
真実の悲鳴をかけねばならぬ。
堕落すべきときには、
真っ当に、真っ逆さまに落ちねばならぬ。
道義大敗、混乱せよ。
血を流し、毒にまみれよ。
まず、地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。
手と足の二十本の爪を血ににじませ、
はぎ落としてじりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。
堕落自体は常につまらぬものであり、
悪であるに過ぎないけれども、
堕落の持つ性格の一つには、
孤独という偉大なる人間の実相が原として損している。
すなわち堕落は常に孤独なものであり、
他の人々に見捨てられ、
父母にまで見捨てられ、
ただ自らに頼る以外すべのない宿命を帯びている。
善人は気楽なもので、
父母兄弟、
人間共のむなしい義理や約束の上に安眠し、
社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んでゆく。
だが堕落者は常にそこからはみ出して、
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ただ一人荒野を歩いてゆくのである。
悪徳はつまらぬものであるけれども、
孤独という通路は神に通じる道であり、
善人なおもて王女をとぐ、
祝いや悪人親とはこの道だ。
キリストがインバイフにぬかずくのも、
この荒野の一人行く道に対してであり、
この道だけが天国に通じているのだ。
何万何億の堕落者は常に天国に至り得ず、
むなしく地獄を一人さまようにしても、
この道が天国に通じているということに変わりはない。
悲しいかな人間の実相はここにある。
しかり実に悲しいかな人間の実相はここにある。
この実相は社会制度により、
政治により永遠に救いうべきものではない。
尾崎学造は政治の神様だというのであるが、
終戦後世界連邦論ということを唱え始めた。
彼によると原始的な人間は部落と部落で対立していた。
明治までの日本にはまだ日本という観念がなく、
藩と藩とで対立しており、日本人ではなく藩人であった。
そこで非藩人というものが現れ、
藩の対立意識を打破することによって日本人が誕生したのである。
現在の日本人は日本国人で、国によって対立しているが、
明治における非藩人のごとく非国民となり、
国会意識を破ることによって国際人となることが必要で、
非国民とは大いなる名誉な言葉であると称している。
これが彼の世界連邦論の根底で、
日本人だの、米国人だの、シナ人だのと区別するのはなお、
原始的思想の残りにつかれてのことであり、
世界人となり、藩民国籍の区別などを失うのが正しいという論である。
一応、傾聴すべき論であり、
日本人の地などと称して御所を大事に守るべき地などあるはずがないと方言するあたり、
いささか危機を勘でしむる凄みがあるのだが、
私の記憶に誤りがなければ、彼の夫人はフランス人のはずであり、
日本人の女房があり、日本人の娘があると、なかなかこうは言い切れない。
だが、私はあえて学童に問う。
学童曰く、原始人は部落と部落で対立し、
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少し進んで藩と藩で対立し、国と国とで対立し、
所詮対立は文化の低いせいだというが、果たして然りや、
学童は人間という大事なことを忘れているのだ。
対立感情は文化の低いせいだというが、
国と国の対立がなくなっても、人間同士、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。
むしろ文化の進むにつれて、この対立は激しくなるばかりなのである。
原始人の生活においては家庭というものは確立しておらず、
多夫多才野豪であり、嫉妬も少なく、この対立というものは極めて希薄だ。
文化の進むにつれて家庭の姿は明確となり、
この対立は激化し、先鋭化する一方なのである。
この人間の対立、この基本的な最大の深淵を忘れて対立感情を論じ、
世界連邦論を唱え、人間の幸福を論じて、それが何のまじないになるというのか。
家庭の対立、個人の対立、これを忘れて人間の幸福を論ずるなどとは馬鹿げきった話であり、
しかして政治というものは元来こういうものである。
共産主義も要するに世界連邦論の一つであるが、
彼らも人間の対立について、人間について、人生について、
学道と大道章位の不要意を暴露している。
けだし政治は人間に、また人生に触れることは不可能なのだ。
政治、そして社会制度は目の荒い網であり、
人間は永遠に網にかからぬ魚である。
天皇制というからくりを打破して新たな制度を作っても、
それも所詮からくりの一つの進化に過ぎないことも免れがたい運命なのだ。
人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復習される。
私は元来世界連邦も大いに結構だと思っており、
学道の徳ごとく守るに値する日本人の血などありはしないと思っているが、
しかしそれによって人間が幸福になり得るか。
人の幸福はそういうところには存在しない。
人間の真実の生活はさようなところには存在しない。
日本人が世界人になることは不可能ではなく、
実は案外簡単になり得るものであるのだが、
人間と人間、子の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、
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しかして人間の真実の生活とは常にただこの子の対立の生活の中に損しておる。
この生活は世界連邦論だの共産主義などというものが
いかように逆立ちしてもどうなし得るものでもない。
しかしてこの子の生活によりその魂の声を吐くものを文学と言う。
文学は常に制度のまた政治への反逆であり、
人間の制度に対する復習であり、
しかしてその反逆と復習によって政治に協力しているのだ。
反逆自体が強力なのだ。愛情なのだ。
これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。
人間の一生は儚いものだが、またしかし人間というものはべらぼうなオプチミストで、
トンチンカンな訳のわからぬオッチョコチョイの存在で、
あの戦争の最中に東京の人たちの大半は家を焼かれ豪に住み、
雨に濡れ、行きたくても行き場がないよとこぼしていたが、
そういう人もいたかもしれぬが、しかしあの生活に妙な落ち着きと、
決別しがたい愛情を感じ出していた人間も少なくなかったはずで。
雨には濡れ、爆撃にはビクビクしながら、
その毎日を結構楽しみ始めていたオプチミストが少なくなかった。
私の近所のおかみさんは、爆撃のない日は退屈ねと
井戸端会議でふと漏らしてみんなに笑われてごまかしたが、
笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。
闇の女は社会制度の欠陥だというが、
本人たちの多くは徴用されて機械に絡みついていた時より、
面白いと思っているかもしれず。
女に制服を着せて号令かけて働かせて、
その生活が健全だと断定は成し得るべきものではない。
無限なる人間の永遠の未来に対して、
我々の一生などは梅雨の命であるに過ぎず、
その我々が絶対不変の制度だの。
永遠の幸福を云々し、
未来に対して約束するなどちょこざい千万なナンセンスに過ぎない。
無限、また永遠の時間に対して、
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その人間の進化に対して恐るべき冒涜ではないか。
我々の成し得ることはただ少しずつ良くなれ、
ということで、人間の堕落の限界も実は案外その程度しかあり得ない。
人は無限に落ちきれるほど堅牢な精神に恵まれていない。
何者かからくりに頼って落下を食い止めずにいられなくなるであろう。
そのからくりを作り、そのからくりを崩し、そして人間は進む。
堕落は制度の母体であり、
その切ない人間の実相を我々はまず最も厳しく見つめることが必要なだけだ。
2008年発行。
いわなみ文庫。
いわなみ書店。
堕落論。
日本文化史観。
ほか22編より読み終わりです。
いい案の定、なんかね、ビシビシいう感じでしたね。
怖いんだよな、この人のテキスト。
好きなんですけど、ぞくぞくする怖さがありますね。
当然見たことないけど、戦後直後にワープしたような気持ちに一瞬なりますね。
それでは今日のところはこの辺で、また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。