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寝落ちの本ポッドキャスト
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本を淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xまでどうぞ。
さて、前回ちょっと長すぎたので、今日は短くいきたいと思うんですけど、
今日は、石川欣一さん著、飢えは最善のソースか、というエッセイを読もうと思います。
この方は、戦時中のエピソードが印象的な作家さんだそうなんですけれども、僕は初めて読みますね。
ただ、作中に出てくる柳宗則さんという方がですね、
僕は家具の中で椅子とかが好きなんですけど、
その椅子のバタフライチェアと呼んでましたが、
正式にはバタフライスツールと呼ぶそうなんですが、
それのデザイナーをしている方が、それからこの方はカトラリーフォークとかスプーンですね。
この辺のデザイナーとして有名な方が、ちょっと作品中に出てくるので、今回それをチョイスしました。
それで読んでいきます。
でも、なんかわかりますよね。
休符の時ってご飯が美味しいので。
この雑誌にこんなことを書くと皮肉みたいに思われるかもしれないが、
西洋の言葉図は、上は最善のソースには相当の真理が含まれている。
一流の料理人が腕を振るって作り上げたソースをかけて食えば、
料理は美味いに決まっているが、それよりも腹の減った時に食う方が美味いという意味である。
60年を越す生涯で色々な場合、色々なものを食ってきたが、
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今でも美味かったと記憶しているものはあまりたくさんない。
その中で上をソースにしたものをちょっと考えてみると、
中学校の時、冬休みに葉山へ行っていて、ある日の午後、何と思ってか横須賀まで歩いた。
着いた時は日暮れ時で寒く、駅前のそば屋で食った親子丼が実に美味かった。
しかしこれは飢えばかりでないプラス寒気で、湯気を立てる丼飯を私の冷えた体が歓迎したのだろう。
大人になってからも似たような経験をした。
毎日新聞の記者として足屋に取材に出かけ、晩方の9時ごろ仕事を済ませて、やはり駅に近いそば屋で天ぷらそばを食った。
これも冬だったが七味唐辛子をうんと振り込み、最後に汁を飲んで、喉がヒリヒリしたことまで覚えている。
これは飢えプラス寒さプラス仕事を終わった満足感である。
大正12年、大震災の時には大阪にいたが、生まれ故郷が東京なのですぐ行けと命令され、
中央線周りで上京した。
その途中、笹子のあたりで山津波があり、汽車が半分埋まってしまった。
その泥の流れの中を歩いて抜けて、ちょっとした高台にある村にたどり着き、
一軒の飲み屋で酒を消耗すると、前米を一緒に出した。
もちろん干した前米を戻し、煮干しで味をつけたものだが、
その煮干しのガサガサした歯触りさえ覚えているのだから、相当感銘したに違いない。
この場合は飢えプラス山津波を促れた安心感だろう。
親子丼、天ぷらそば、前米等、実にありふれた食物だが、
飢えプラス何ものかが最上のソースになったのである。
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私が冒頭で相当の真理と言ったのはこれなのである。
つまり飢え単独では腹が張った満足があっても、決してうまいとは感じない。
私が若い頃登った山には万人のいる小屋が極めて少なく、
だいたい水に近い場所にテントを張り、飯を炊いて食事をしたものである。
食物としては米、味噌が主で、味噌の実にはそこらに生えている食物を使った。
缶詰類は重いので、せいぜい福神漬か山と煮よ。
それもたくさんは持っていかず、動物性タンパク質は干しだらだった。
飯を炊き、味噌汁を作った焚火のおきに、縦半分に裂いた干しだらをのせ、
あっちあっちと言いながら指でちぎって食うのである。
満腹はするがちっともうまくないので、
東京へ帰ったら何を食おう?
あれを食おうと第一日の晩から食べ物の話ばかりで、
時々東京へ帰って腹をこわしたりした。
それでいて翌年の夏には同じことを繰り返すのだから山の魅力は大したものである。
いつだったか本格的なアルピニストであるアイエー・リチャーズ夫妻とともに
後立山を歩いたことがある。
籠川を入って行くと松虫癖が咲いていた。
暑い日で一度お金に参っていたが、リチャーズはこの花を見て、
外側に雫が露になっているガクテルグラスを思い出し、
初日からそんなことを言い出すとは、
アウトオブフォームだと奥さんに叱られた。
こうなるとイギリス人も日本人も同じである。
ところがこの度で万人のいる唯一な小屋に罠でとったウサギがあり、
その肉を地産のバターで炒め、
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運び上げてあったビールで流し込んだ時、
リチャーズはこんなに贅沢な山小屋は世界中にないと感激した。
太平洋戦争の末期の近く、
私は北部ルソンのジャングルの中に隠れて生活していた。
大きな部隊が移動した後に入り込んだ狙いは誤たず、
ここには米と塩がかなりたくさん残してあった。
だがそれ以外の食物はスベリヒューとタケノコ、
長く伸びたヤッコの頭の方に寸ばかりにヒルガオの葉である。
私は現在インダストリアルデザイナーとして活動している柳宗道君と組んで、
盛んに食物を探した。
まず川のカニである。
あれを半合に入れて火にかけると、
最初はガサガサ音を立てるが、やがて静かになる。
真っ赤なやつを食うのだが、
とにかくその辺を這い回っているカニだから、
肉など全然なく、ちっともうまくない。
私はすっかり歯を悪くしてしまった。
その数年後、阿佐ヶ谷の飲み屋で伊勢のどこかで獲れるカニを出された。
1年中で獲れる日が1週間とか10日とかに限られているそうである。
これも小さいカニではないが、足やハサミはカリカリしていていい味がする。
ちょっと余談になるが食いしん坊の私は、
他の人たちよりも食えるものをよく見つけ出した。
野生のレモン、唐辛子。
我が国ではタカの爪と呼ぶ種類。
レイシがそれである。
そしてパパイヤの木の芯が大根そっくりで、
少し古くなるとおなら臭くなることまで発見したので、
これを刻み、太い竹の筒に、
これも刻んだ唐辛子の葉と実。
レイシ。
緑、秋、赤と順々に色が変わるレモンの皮と混ぜて押し込み、
使用して一晩置いた。
これはとても素晴らしい漬物で、
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いつか有名になり、もらえに来る人が増えるようになった。
いよいよ終戦。
投稿と決まると、自殺用に持っていた手榴弾の使い道がない。
これも私が主張して、隠れ場の近くの川の深淵にいくつか投げ込み、
下流の浅瀬で待っていると、
大正の魚が無数に目を流して流れてきた。
みんな大喜びをしたが、
特に私たちはひね生姜とニンニクを持っていたので、
ボラの刺身を作り、
その骨でだしをとって結び、
さよりのおついものを作り、
アジの塩焼き、
その他で夜中の十時近くまでご馳走を送った。
この時のごとき、
全く上プラス。
もう負けてしまったんだから仕方がないや。
どういうことが起こるか、
とにかく捕虜になってみよう、
という気持ちと、
こちらが変な真似をしなければ、
アメリカ人は捕虜を虐待したりしない人間である、
という私の知識経験が、
このジャングルでの晩飯を記憶すべくうまいものにしたのである。
だから、上だけが最善のソースではない。
このお話は終わる。
1995年、第一冊発行。
富山坊、富山坊百科文庫。
天からより読み終わりです。
戦時中の人の話はだいぶ刺激的ですね。
ルソンってどこですかね。
ジャングルの中、フィリピンとかかな。
日本が攻めてった地域ですもんね。
後半、刺激的な話が出てきましたが、
みなさん、寝落ちができたでしょうか。
それでは今日はこのあたりで、みなさまおやすみなさい。