1.
小石川のキリシタン坂から極楽船に出る道のダラダラ坂を降りようとして彼は考えた。
これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。
36にもなって子供も3人あって、あんなことを考えたかと思うとバカバカしくなる。
けれど、けれど、本当にこれが事実だろうか。
あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか。
数多い感情づくめの手紙。
二人の関係はどうしても尋常ではなかった。
妻があり、子があり、世間があり、指定の関係があればこそ、あえて激しい恋に落ちなかったが、
語り合う胸のとどろき、相見る目の光、その底には確かに凄まじい嵐が潜んでいたのである。
機会に出くわしさえすれば、その底の底の嵐はたちまち気を酔えて、妻子も世間も道徳も指定の関係も一挙にして破れてしまうであろうと思われた。
少なくとも男はそう信じていた。
それであるのに、2、3日来この出来事。
これから考えると、女は確かにその感情を偽り売ったのだ。
自分を欺いたのだと男はいく度も思った。
けれど文学者だけに、この男は自ら自分の真理を客観するだけの余裕を持っていた。
年若い女の真理は容易に判断し得られるものではない。
かの温かい嬉しい愛情は、単に女性特有の自然の発展で美しく見えた目の表情も、優しく感じられた態度も全て無意識で無意味で、
自然の花が見る人に一種の慰みを与えたかのようなものかもしれない。
一歩を譲って、女は自分を愛して恋していたとしても、自分は死、かの女は門邸、
自分は妻あり子あるみ、かの女は妙麗の美しい花。
そこに互いに意識の加わるのを遺憾ともすることはできまい。
いや、さらに一歩を進めて、あの熱烈なる一風の手紙。
かげに悲に、その胸の悶えを訴えて、ちょうど自然の力がこの身を圧迫するかのように最後の情を伝えてきたとき、その謎をこの身が解いてやらなかった。
女性のすすましやかな作画として、その上に荒縄に迫ってくることがどうしてできよう。
そういう真理から、かの女は失望して、今回のようなことを起こしたのかもしれぬ。
とにかく時期は過ぎ去った。かの女はすでに人のものだ。
歩きながら彼はこう絶叫して、頭髪をむしった。
シマセルの背広に麦わら帽、フジズルのステッキをついて、やや前のめりにだらだらと坂を降りて行く。
時は九月の中旬。山床はまだ絶えがたく暑いが、空にはすでに清涼の周期が満ち渡って、深い緑の色が際立って人の感情を動かした。
魚屋、酒屋、雑貨店。その向こうに寺の門や裏棚の長屋やらが連なって、日坂田町の低い地には、数多の工場の煙突が黒い煙をみなぎらしていた。
その数多い工場の一つ、西洋風の二階の室。それが、彼の毎日昼から通うところで。
十畳敷ほどの広さの部屋の真ん中には、大きい一脚のテーブルがすれてあって、そばに高い西洋風の本箱。この中にはすべて朱書の地理書がいっぱい入れられてある。
彼はある書籍会社の職託を受けて、地理書の編集の手伝いに従っているのである。
文学者に地理書の編集。彼は、自分が地理の趣味をあっているからと称して、進んでこれに従事しているが、内心これに甘んじておらんことは言うまでもない。
遅れがちなる文学上の越歴。断片のみを作って、いまだに全力の試みをする機会に遭遇せぬ反問。
青年雑誌から月ごとに受ける馬票の苦痛。
彼自らはその他非なすあるべきを意識してはいるものの、中心これを苦にやまぬわけにはいかなかった。社会は日増しに進歩する。電車は東京市の交通を一変させた。
女学生は勢力になって、もう自分が恋をした頃のような旧式の娘や見たくも見られなくなった。
青年はまた青年で、恋を得にも文学を断ずるにも、政治を語るにも、その態度がすべて一変して、自分らとは永久に愛触れることができないように感じられた。
で、毎日機械のように同じ道を通って、同じ大きい門を入って、輪転機関の家を動かす音と食行の臭い汗との混じった細い間を通って、事務室の人々に軽く挨拶して、コツコツと長い狭い梯子を登って、さてその部屋に入るのだが。
東と南にめいたこの部屋は、午後の激しい日陰を受けて実に絶えがたく暑い。それに小僧が部署で掃除をせぬので、宅の上には白い埃がザラザラと心地悪い。
彼は椅子に腰をかけて、煙草を一服吸って、立ち上がって、厚い統計書と地図と案内機と地理書等を本箱から出して、さて静かに昨日の続きの筆を取り始めた。
けれど二、三日来、頭がむちゃくちゃしているので筆が容易に進まない。
一行書いては筆を止めてそのことを思う。また一行書く。またとどめる。また書いてはまたとどめるという風。
そしてその間に、頭に浮かんでくる考えはすべて断片的で猛烈で急激で絶望的な分子が多い。
ふと、どういう連想か。ハウプトマンの寂しき人々を思い出した。
こうならぬ前に、この戯曲を彼の女の日課として教えてやろうかと思ったことがあった。
ヨハンネス・フォケラートの真珠とヒアイトを教えてやりたかった。
この戯曲を彼が読んだのは今から三年以前。
まだ彼の女のことをこの世にあることをも夢にも知らなかった頃であったが、その頃から彼は寂しい人であった。
あえてヨハンネスにその身をひそうとはしなかったが、アンナのような女がもしあったなら、そういうトラジディに陥るのは当然だとしみじみ同情した。
今はそのヨハンネスにさえ慣れぬ身だと思って長短した。
さすがに寂しき日々を彼の女に教えなかったが、ズルゲネーフのファーストという短編を教えたことがあった。
ランプの光明らかなる四畳半の書斎。
彼の女の若々しい心は色彩ある恋物語に憧れ渡って、表情ある目はさらに深い深い意味を持って輝き渡った。
はいからな日差し紙、櫛、リボン、洋灯の光線がその半身を照らして、
一巻の書籍に顔を近く寄せると、ゆうに言われぬ香水の香り、肉の香り、女の香り。
書中の主人公が昔の恋人にファーストを読んで聞かせる役を講釈するときには、男の声も激しく震えた。
けれどもうダメだ、と彼は再び紙をむしった。
2. 彼は名を竹中時夫と言った。
今より三年前、三人目の子が細君の腹にできて、新婚の快楽などはとうに冷め尽くした頃であった。
世の中の忙しい事業も意味がなく、ライフワークに力を尽くす勇気もなく、日常の生活。
朝起きて出勤して、午後4時に帰ってきて、同じように細君の顔を見て飯を食って眠るという単調なる生活に、つくづく飽き果ててしまった。
家を引っ越し歩いても面白くない。
友人と語り合っても面白くない。
外国小説を読みやさっても満足ができぬ。
いや、庭木の茂り、雨の点滴、花の快楽などという自然の状態さえ平凡なる生活をして、さらに平凡ならしめるような気がして身を送るところはないほど寂しかった。
道を歩いて常に見る若い美しい女。できるならば新しい恋をしたいと痛切に思った。
三十四後。実際この頃には誰にでもある繁文で、この年頃に癒やしい女に戯るる者の多いのも、必強その寂しさを癒すためである。
世間に妻を離縁する者もこの年頃に多い。
出勤する途上に毎朝出会う美しい女教師があった。
彼はその頃、この女に会うのをその日その日の唯一の楽しみとして、その女についているいろいろな空想をたくましゅうした。
声が鳴りたって、架片坂あたりの小町屋に連れて行って一目をしのんで楽しんだらどう。
妻君に知れずに二人近郊を散歩したらどう。
いや、それどころではない。その時妻君が解任しておったから、ふと南山して死ぬ。
その後にその女を入れるとしてどうであろう。平気で御妻に入れることができるだろうかどうかなどと考えて歩いた。
神戸の女学院の生徒で、生まれは日中の新見町で、彼の著作の崇拝者で、なお横山よし子という女から崇拝の情をもって見出された一通の手紙を受けたったのはその頃であった。
竹中小嬢といえば、微文的小説を書いて多少世間に聞こえておったので、地方から来る崇拝者、格好者の手紙はこれまでもずいぶん多かった。
やれ文章を直してくれの、弟子にしてくれのといちいち取り合ってはいられなかった。
だからその女の手紙を受け取っても別に返事を出そうとまでその好奇心は募らなかった。
けれど同じ人の熱心なる手紙を三通までもらっては、さすがの時代も注意をせずにはいられなかった。
年は十九だそうだが、手紙の文句から押して、その表情の巧みなのは驚くべきほどで、いかなることがあっても先生の文科生になって一生文学に従事したいとの切なる望み。
文字は走り書きのスラスラした字で、よほどハイカラの女らしい。
返事を書いたのは例の工場の二階の部屋で、その日は毎日の家業の地理を二枚書いてよして、長い数尺に渡る手紙をよし子に送った。
その手紙には女のみとして文学に携わることの不心得、女は生理的に母たるの義務を尽さなければならぬ理由、
諸々にして文学者たるの秘剣などをるるとして説いて、いくらか罵倒的文字をも並べて、これならもう愛想をつかしてあきらめてしまうであろうと、時夫は思って微笑した。
そして本箱の中から岡山県の地図を探して、あてつ群新見町の所在を研究した。
山陽線から高橋川の谷を遡って奥十数里、こんな山の中にもこんな肺からの女があるかと思うと、それでもなんとなく懐かしく時夫はその付近の地形やら山やら川やらを司祭に見た。
で、これで返事をよこすまいと思ったら、それどころか四日目にはさらに厚い封書が届いて、紫印記で青いKの入った西洋誌に横に細字で三枚。
どうか将来見捨てずに弟子にしてくれという意味が返す返すも書いてあって、父母に願って許可を得たならば東京に出て叱るべき学校に入って、完全に忠実に文学を学んでみたいとのことであった。
時夫は女の志に関絶にはいられなかった。東京でさえ。女学校を卒業したものでさえ文学の値打ちなどはわからぬものなのに、何もかもよく知っているらしい手紙の文句。早速返事を出して指定への関係を結んだ。
それからたびたびの手紙と文章。文章はまだ幼稚な点はあるが、癖のないスラスラした将来発達の見込みは十分にあると時夫は思った。
で一度は一度より、だんだん互いの気質が知れて、時夫はその手紙の来るのを待つようになった。ある時などは写真を送れと言ってやろうと思って、手紙の隅に小さく書いて、そしてまたこれを黒黒と塗ってしまった。
女性に器量というものがぜひ必要である。器量の悪い女はいくら才があっても男が相手にしない。
時夫もないない胸の中でどうせ文学をやろうというような女だから武器量に相違ないと思った。けれどなるべくは見られるくらいの女で欲しいと思った。
吉子が父母に許しを得て、父に連れられて時夫の門をお供たのは翌年の二月で、ちょうど時夫の三番目の男の子の生まれた七夜の日であった。
座敷の隣の部屋は妻君の三尺で、妻君は手伝いに来ている姉から若い文科生の美しい器量であることを聞いて少なからず怒鳴した。姉もああいう若い美しい女を弟子にしてどうする気だろうと心配した。
時夫は吉子と父とを並べてるるとして文学者の境遇と目的とお語り、女の結婚問題についてあらかじめ父親の説をたたいた。
吉子の家は新見町でも第三とはくだらぬ豪華で、父も母も厳格なるクリスチャン。母はことに優れた信者で、かつては同志者女学校に学んだこともあるという。
僧侶の兄は英国へ要講して、基調後は某管理図学校の教授となっている。
吉子は町の小学校を卒業するとすぐ神戸に出て神戸の女学院に入り、そこではいからな女学校生活を送った。キリスト教の女学校は他の女学校に比して文学に対してすべて自由だ。
その頃こそ魔風蓮風や金色夜叉などを読んではならんとの規定も出ていたが、文部省で鑑賞しない以前は、教場でさえなくば何を読んでも差し支えなかった。
学校に付属した教会、そこで祈祷の尊いこと、クリスマスの晩の面白いこと、理想を養うということの味をもって知って、人間のいやしいことを隠して美しいことを評謗するという群れの仲間となった。
母の膝元が恋しいとか、ふるさとが懐かしいということは来た遠ざこそ切実につらくも感じたが、やがては全く忘れて女学生の寄宿生活をこの上なく面白く思うようになった。
おいしいかぼちゃを食べさせないといっては、お鉢の飯に醤油をかけてまかない方をいじめたり、社官のひねくれた老婦の顔色を見て影ひなたに物を言ったりする女学生の群れの中に入っていては、家庭に養われた少女のように単純に物を見ることがどうしてできよう。
美しいこと、理想を養うこと、虚栄心の高いこと。
こういう傾向をいつとなしに受けて吉子は明治の女学生の長所と短所等を遺憾なく備えていた。少なくとも時代の孤独なる生活はこれによって破られた。昔の恋人、今の西君。
かつては恋人にはそういなかったが、今は時勢が移り変わった。
四五年来の女子教育の没効、女子大学の設立、日差し髪、エビ茶ばかま。男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人もなくなった。この世の中に旧式の丸曲げ、アヒルのような歩きぶり。
温純と低節とより他に何者をも有せぬ西君に甘んじていることは時代には何よりも情けなかった。道を行けば美しい今世の西君を連れてのむつまじい散歩。
友を伴えば夫の席に出て流暢に会話をにぎやかす若い西君。ましてその身が骨を負って書いた小説を読もうでもなく、夫の苦悶反問には全く風馬牛で子供さえ満足に育てればいいという自分の西君に対すると、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。
寂しき人々のヨハンネスと共に、火災というものの無意味を感ぜざるにはいられなかった。これが、この孤独が吉子によって破られた。
ハイカラな紳士気な美しい女文科生が先生先生と世にも偉い人のように活動してくるのに胸を動かさずに誰がおられようか。最初の一月ほどは時を抜けに家具をしていた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な寂しい彼の生活に何との対象。
三十から出たばかりの西君を助けて靴下を編む、襟巻きを編む、着物を縫う、子供を遊ばせるという生々した態度。時代は新婚討座に再び帰ったような気がして、家門近くに来るとそそるように胸が動いた。
門を開けると玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供と共に西君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の部屋にいたずらに明らかなランプも、かえってわびっさを増すの種であったが、今はいかに夜更けて帰ってきてもランプの下には白い手が巧みに編み物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉。
賑やかな笑い声が丑米の奥の腰羽垣の中に満ちた。けれど一つ気ならずして、時代はこの愛すべき女弟子を、その家に置くことの不可能なのを悟った。
従順なる家妻はあえてそのことに不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色は次第に悪くなった。限りなき笑い声の中に限りなき不安の情が満ち渡った。
妻の里方の親戚間などには厳に、一問題として高級されつつあることを知った。
時代は、いろいろに反問した後、妻君の姉の家、軍人の未亡人で恩急と裁縫とで暮らしている姉の家に危遇させて、そこから工事町の某女塾に通学させることにした。
3.それから、今回の事件まで一年半の年月が経過した。その間二度、吉子は故郷を制した。
短編小説を五集、長編小説を一集、その度分、新大集を数十編作った。
某女塾では英語は優等のできで、得意の選択でズルゲネーフの全集を丸善から買った。
始めは、初中休暇に帰省。二度目は神経衰弱で、時々尺のような痙攣を起こすので、しばし、故山の静かなところに帰って休養する方がいいという意思の進めに従ったのである。
その偶していた家は工事町の土手三番町、甲部の電車の通る土手際で、吉子の所在はその家での客座敷、八条のひと間。
前に往来の頻繁な道路があって、がやがやと往来の人やら子供やらでやかましい。
渡郷の所在にある西洋本箱を小さくしたような本箱が一貫張りの机のそばにあって、その上には鏡と紅皿とお城への瓶と今一つ、収束裏の入った大きな瓶がある。
これは神経過敏で、頭が痛くって仕方がないときに飲むのだという。
本箱には紅葉全集、地下松世話常瑠璃、英語の教科書、ことに新しく買ったツルゲネーフ全集が際立って目につく。
で、未来の継修作家は学校から帰ってくると机に向かって文を書くというよりは、むしろ多く手紙を書くので男の友達もずいぶん多い。
男文字の手紙もずいぶん来る。中にも高等師範の学生に一人、松田大学の学生に一人、それが時々遊びに来たことがあったそうだ。
高寿町土手三番町の一角には女学生もそうハイカラなのがたくさんいない。
それに一ヶ谷三つ家のあちらには時代の西君の里の家があるのだが、この付近はことさらに昔風の消化の娘が多い。
で、少なくとも吉子の神戸仕込みのハイカラはあたりの人の目をそばだたしめた。
時代は姉の言葉として妻から常に次のようなことを聞かされる。
吉子さんにも困ったものですねと姉が今日も言っていましたよ。
男の友達が来るのはいいけれど夜などに一緒に日七不動に出かけて遅くまで帰ってこないことがあるんですって。
そりゃ吉子さんはそんなことはないのに決まっているけれど世間の口がやかましくって仕方がないと言っていました。
これを聞くと時代は決まって吉子の肩を持つのでお前たちのような旧式の人間には吉子のやることなどはわかりやせんよ。
男女が二人で歩いたり話したりさえすればすぐ怪しいとか変だとかいう思うのだが。
一体そんなことを思ったり言ったりするのが旧式だ。
今では女も自覚しているからしようと思うことは勝手にするさ。
この議論を時代はまた得意になって吉子にも説法した。
女子ももう自覚せんければいかん。
昔の女のように偉い心を持っていてはだめだ。
ズーデルマンのマグナの言った通り父の手からすぐに夫の手に移るような育児なしでは仕方がない。
日本の新しい婦人としては自ら考えて自ら行うようにしなければいかん。
こういってはイブセンのノラの話やツルゲネーフのエレネの話やロシアドイツあたりの婦人の意思と感情とともに富んでいることを話し、
さて、けれど自覚というのは自制ということも含んでおるですからな。
むやみに意思や自我を振り回しては困るですよ。
自分のやったことには自分が全責任を帯びる覚悟がなくては。
ヨシコにはこの時代の教訓が何より意味があるように聞えて、
活動の念がいよいよ加わった。
キリスト教の教訓より自由でそして権威があるように考えられた。
ヨシコは女学生としてはみなりが派手すぎた。
金の呼び輪をはめて、流行を追った美しい帯をしめてすっきりとした立ち姿は、
ロボーの一目をひくに十分であった。
美しい顔というよりは表情のある顔。
非常に美しい時もあればなんだか見にくい時もあった。
目に光があってそれが非常によく働いた。
四五年前までの女は感情を表すのに極めて単純で、
怒った形とか笑った形とか三種四種くらいしかその感情を表すことができなかったが、
今では女王巧みに顔に表す女が多くなった。
ヨシコもその一人であると時代は常に思った。
ヨシコと時代との関係は常に指定の間柄としてはあまりに親密であった。
この二人の様子を観察したある第三者の女の一人が妻に向かって、
ヨシコさんが来てから時代さんの様子はまるで変わりましたよ。
二人で話しているところを見ると魂は二人とも憧れ渡っているようで、
それは本当に油断がなりませんよ、と言った。
旗から見ればむろんそう見えたにそういなかった。
けれど二人は果たしてそう親密であったかどうか。
若い女の浮かれがちな心、浮かれるかと思えばすぐ沈む。
些細なことにも胸を動かし、つまらぬことにも心を痛める。
恋でもない、恋でなくもないというような優しい態度。
時代は絶えず思い惑った。
道義の力、習俗の力。
機会一度至ればこれを破るのは絹を裂くよりも容易だ。
ただ容易にきたらぬのはこれを破るに至る機会である。
この機会が一年の間に少なくとも二度近寄ったと時代は自分だけで思った。
一度は吉子が熱い風書を寄せて自分の不つかなこと、
先生の高音に報ゆることができぬから自分はふるさとに帰って、
農夫の妻になって田舎に埋もれてしまおうということを涙混じりに書いたとき。
一度はある夜吉子が一人で留守番をしているところへ、
ゆっくり泣く時代が行って訪問したとき、
この二度だ。
はじめの時は時夫はその手紙の意味を明らかに了解した。
その返事をいかに書くべきかについて一夜眠らずに往々した。
穏やかに眠れる妻の顔、それを幾度か伺って
自己の両親のいかに麻痺せるかを自ら責めた。
そしてあくる朝送った手紙は厳古たる死としての態度であった。
二度目はそれから二月ほど経った春の夜。
ゆっくり泣く時夫が訪問すると、
吉子はおしろいをつけて美しい顔をして火鉢の前にぽつねんとしていた。
「どうしたの?」と聞くと、
「お留守番ですの。」
「姉はどこへ行った?」
「四谷へ買い物に。」
と言ってじっと時夫の顔を見る。いかにも生めかしい。
時夫はこの力ある一別に意気地なく胸を躍らした。
二子と美子と普通のことを語り合ったが、
その平凡なる物語がさらに平凡でないことを互いに思い知ったらしかった。
この時、今十五分も一緒に話し合ったならばどうなったであろうか。
女の表情の目は輝き、
言葉は生めき態度がいかにも世の常でなかった。
「今夜は大変きれいにしてますね。」
男はわざと軽く出た。
「え、先ほど湯に入りましたのよ。」
「大変にお城が白いから。」
「あらまあ先生。」
と言って笑って体をはすに胸体を呈した。
時夫はすぐ帰った。
「まあいいでしょう。」と四子は立ってとどめたが、
どうしても帰るというので名残惜しげに月の湯をそこまで送ってきた。
その白い顔には確かにある深い神秘が込められてあった。
四月に入ってからよし子は多病で青白い顔をして神経過敏に陥っていた。
腫瘤狩りをよほど多量に服してもどうも眠られぬとて困っていた。
絶えざる欲望と生殖の力とは年頃の女を誘うのに躊躇しない。
よし子は多く薬に親しんでいた。
四月末に帰国、九月に上京、そして今度の事件が起こった。
今回の事件とは他でもない。よし子は恋人を得た。
そして上京を訪ぎ、恋人と愛携えて京都佐賀に遊んだ。
その遊んだ二日の日数が出発と着京との日時に符号せぬので、
東京と備中との間に手紙の往復があって、
質問した結果は恋愛、神聖なる恋愛。
二人は決して罪を犯してはあわらぬが、将来はいかにしてもこの恋を遂げたいとの切なる願い。
時代はよし子の死としてこの恋の承認として一面月下標準の役目を余儀なくさせられたのであった。
よし子の恋人は同志者の学生、神戸教会の秀才、田中秀夫、年二十一。
よし子は死の前にその恋の神聖なるを神かけて誓った。
故郷の親たちは学生の身で密かに男と佐賀に遊んだのは既にその精神の堕落であるといったが、決してそんな穢れた行為はない。
互いに恋を自覚したのはむしろ京都で別れてからで、東京に帰ってきてみると男から熱烈なる手紙が来ていた。
それで初めて将来の約束をしたような次第で決して罪を犯したようなことはないと女は涙を流していった。
時代は胸に次代の犠牲を感じながらもその二人のいわゆる神聖なる恋のために力を尽くすべく余儀なくされた。
時代はもだえざるを得なかった。我が愛する者を奪われたということは甚だしくその心を暗くした。
もとより進んでその女弟子を自分の恋人にする考えはない。
そういう明らかな定まった考えがあれば、前にすでに二度までも近寄ってきた機会を掴むにおいてあえて躊躇するところはないはずだ。
けれどその愛する女弟子、寂しい生活に美しい色彩を添え、限りなき力を添えてくれた吉子を突然人の奪い去るに任すに忍びようか。
機会を二度まで掴むことは躊躇したが、三度来る機会、四度来る機会を待って、新たなる運命と新たなる生活を作りたいとは彼の心の底の底のかすかなる願いであった。
時代はもだえた。思い乱れた。妬みと惜しみと悔やみとの念が一緒になって扇風のように頭の中を回転した。
死としての道義の念もこれに混じってますます炎を盛んにした。
我が愛する女の幸福のためという犠牲の念も加わった。
で、夕暮れの禅の上の酒はおびたたしく量を加えて、アヒルのごとく酔って寝た。
あくる日は日曜日の雨。浦の森にざんざん降って、時央のためには一倍に侘しい。
欅の古樹に降りかかる雨の足。
それが実に長く、限りない空から限りなく降っているとしか思われない。
時央は読書する勇気もない、筆を取る勇気もない。
もう秋で冷え冷えと背中の冷たい陶椅子に身を横たえつつ、
雨の長い足を見ながら今回の事件からその身の反省のことを考えた。
彼の経験にはこういう経験が幾度もあった。
一歩の相違で運命のただ中にいることができずに、いつも圏外に佇られた寂しい苦悶。
その苦しい味を彼は常に味わった。
文学の側でもそうだ。社会の側でもそうだ。恋、恋、恋。
酒でなければこの鬱をやるに絶えぬと言わぬばかりに。
三本目に妻は心配して、
この頃はどうかしましたね。
なぜ。
酔ってばかりいるじゃありませんか。
酔うということがどうかしたのか。
そうでしょう。何か気にかかることがあるからでしょう。
よしこさんのことなどはもうどうでもいいじゃありませんか。
バカ。
と時夫は一括した。
西君はそれにも懲りずに。
だってあまり飲んでは毒ですよ。
もういいかげん言いなさい。
また長妻でも入って寝るとあなたは大きいから。
私とおつるの手ばかりじゃどうにもなりゃしませんからさ。
まあいいからもう一本。
で、もう一本を半分ぐらい飲んだ。
もう酔いはよほど回ったらしい。
顔の色は尺道色に染まって目が少しくすわっていた。
急に立ち上がって。
おい、帯をどせ。
どこへいらっしゃる?
三番町まで行ってくる。
姉のところ?
うん。
およしなさんや危ないから。
なあに、大丈夫だ。
人の娘を預かって監督せずに投げやりにしてはおかれん。
男がこの東京に来て一緒に歩いたり何かしてるのを見ぬふりをしてはおかれん。
田川に預けておいても不安心だから、
今日行って早かったらよし子を家に連れてくる。
二階を掃除しておけ。
家に置くんですか、また。
もちろん。
妻君は容易に帯と着物等を出そうともせぬので。
よしよし、着物を出さんのならこれでいい。
と、白樹の一重に糸をちりめんの汚れたへこ帯、帽子もかぶらずにそのままに急いで郊外へ出た。
今出しますから。本当に困ってしまう。
という妻君の声が後に聞こえた。
夏の日はもう暮れかかっていた。
野来の堺の森にはカラスの声がやかましく聞こえる。
どの家でも夕飯がすんで、角口に若い娘の白い顔も見える。
ボールを投げている少年もある。
寒梨らしいドジョウヒゲの紳士が久しがみの若い妻君を連れて架空坂に散歩に出かけるのにも一苦味か出くわした。
時代は月光した心と泥水した体とに激しく漂わされて、あたりに見えるものがみな別の世界のもののように思われた。
両側の家も動くよう、地も足の下に落ちいるよう、天も頭の上に覆いかぶさるように感じた。
もとからさほど強い狩猟でないのに、むやみにぐいぐい煽ったので、一時に酔いが発したのであろう。
ふと、ロシアの先民の先に寄って、路傍に倒れて寝ているのを思い出した。
そしてある友人と、ロシアの人間はこれだから偉い。
枠敵するならあくまで枠敵せんければだめだといったことを思い出した。
馬鹿な。恋に指定の別があってたまるものかと口へ出していった。
中根坂をあがって、師官学校の裏門から備え坂の上まで来たころは、日はもうとっぷりと暮れた。
白地の浴衣がぞろぞろと通る。
煙草屋の前に若い細君が出ている。
氷屋ののれんが涼しそうに夕風になびく。
時夫はこの夏の夜景をおぼろげに目には見ながら、前身柱に突き当たって倒れそうにしたり、浅い溝に落ちて膝頭をついたり、
食工廷の男に、「酔っ払いめ、しっかり歩け!」と罵られたりした。
急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて市街八幡の境内へと入った。
境内には人の影もなくひっそりとしていた。
大きい古い欅の木と松の木とが覆いかぶさって、左の隅に三五寺の大きい野が茂っていた。
ところどころの常夜灯はそろそろ光を放ち始めた。
時夫は、いかにしても苦しいので、いきなりその三五寺の陰に身を隠して、その根本の地上に身を横たえた。
興奮した心の状態、奔放な情けと悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に事後の状態を客観した。
はじめて恋するような熱烈な情けは、むろんなかった。
盲目にその運命に従うというよりは、むしろ冷ややかにその運命を批判した。
熱い主観の情けと冷たい客観の批判とが寄り合わせた糸のように、固く結びつけられて、一種異様の心の状態を呈した。
悲しい。実に、痛切に悲しい。
この悲哀は華やかな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の最大に潜んでいる大きな悲哀だ。
ゆく水の流れ、咲く花の頂落、この自然の底にわだかまれる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い、情けないものはない。
事実。
と時をは胸の中に繰り返した。
時をは、堪えがたい自然の力の圧迫に圧られたもののように、再び傍の炉波台に長い身を横たえた。
ふと見ると石像のような色をした光のない大きな月が、お堀の松の上に音もなく残っていた。
その色、その形、その姿がいかにも詫びしい。
その詫びしさがその身の今の詫びしさによくかなっていると時をは思って、また堪えがたい哀愁がその胸にみなぎり渡った。
宵はすでにさめた。
夜露は起き始めた。
土手三番町の家の前に来た。
覗いてみたが、吉子の部屋に灯火の光が見える。
まだ帰って来ぬと見える。
時をの胸はまた燃えた。
この夜、この暗い夜に恋しい男と二人。
何をしているかわからぬ。
こういう常識を変えた行為をあえてして、神聖なる行為とは何事?
穢れたる行為のないのを弁明するとは何事?
すぐ家に入ろうとしたが、まだ当人が帰っておらぬのにあがっても仕方がないと思って、その前をまっすぐ通り抜けた。
女とすれ違うたびに、吉子ではないかと顔を覗きつつ歩いた。
土手の上、松の木陰、街角の曲がり角。
往来の人に怪しまれるまであっちこっちを徘徊した。
もう九時、十時に近い。
いかに夏の夜であるからといって、そう遅くまで出歩いているはずがない。
もう帰ったにそういないと思って、引き返して姉の家に行ったが、やはりまだ帰っていない。
時をは家に入った。
奥の六畳に通るや否。
吉さんはどうしました?
その答えより何より、姉は時をの着物におびただしく泥のついているのに驚いて、
まあ、どうしたんです、時をさん。
明るかなランプの光で見ると、なるほど、白地の浴衣に肩、膝、腰の嫌いなくおびただしい泥跡。
なあに、そこでちょっと転んだもんだから。
だって肩までついているじゃありませんか。また酔っ払ったんでしょう。
なあに、と時をは強いて笑って紛らした。
さて、時を打ち出す。
吉さん、どこに行ったんです?
今朝、ちょっと中野の方にお友達と散歩に行ってくると言って出たきりですがね。
もう帰ってくるでしょう。何か用?
えー、少し、と言って。
昨日は帰りは遅かったですか?
いいえ、お友達を新橋に迎えに行くんだって。
四時過ぎに出かけて、八時ごろに帰ってきましたよ。
時をの顔を見て。
どうかしたんですの?
なあに、けれどね、姉さん。
と時をの声は改まった。
実は姉さんにお任せしておいても、この間の京都のようなことがまたあると困るですから、
吉子を私の家に置いて十分監督しようと思うんですがね。
そう、それはいいですよ。本当に吉子さんはああいうしっかり者だから、私みたいな無教育の者では。
ああいや、そういうわけでもないですがね。あまり自由にさせすぎても、かえって当人のためにならんですから。
ひとつ家に置いて十分監督してみようと思うんです。
それがいいですよ。本当に吉子さんにもね。
どこと悪いことのない、発明な利口な、今のように珍しい方ですけれど、ひとつ悪いことがあってね。
男の友達と平気で夜を歩いたりなんかするんですからね。
それさえよすといいんだけれど、とよく言うんですの。
すると吉子さんはまた、おばさんの休閉が始まったって笑ってるんですもの。
いつかなぞも、あまり男と一緒に歩いたりなんかするものだから、角の交番でね、不審にしてね、
格装での巡査が家の前に立っていたことがあったと言いますよ。
それはそんなことはないんだから構いはしませんけどもね。
どれはいつのことです?
昨年の暮れでしたかね。
どうも早からすぎて困る。
と時をは言ったが、時計の針のすでに十時半のところを指すのを見て、
それにしてもどうしたんだろう、若い身空で高速まで一人で出て歩くというのは。
もう帰ってきますよ。
こんなことはいく度もあるんですか?
いいえ、めったにありはしませんよ。
夏の夜だから、まだ酔いの口ぐらいに思って歩いているんですよ。
姉は話しながら仕事の針を止めるのである。
前に胃腸の大きい建物板が据えられて、絹の立ち切れや糸やハサミやが順序なくあたりに見られている。
女ものの美しい色にランプの光が明らかに照り渡った。
九月中旬の夜は更けてやや肌寒く、裏の土手下を後部の貨物汽車がすさましい地響きを立てて通る。
下駄の音がするたびに、今度こそは、今度こそは、と交わったが、
十一時が打って間もなく、小刻みな軽い跡葉の音が静かな夜を遠くに響いてきた。
今度のこそ吉子さんですよ。
と姉は言った。
果たしてその足音が、家の入口の前に止まってガラガラと格子が開く。
吉子さん?
ええ、とあでやかな声がする。
玄関から竹の高い久し髪の美しい女がすっと入ってきたが、
あらまあ先生、と声を立てた。
その声には驚きと遠わくと調子が十分にこもっていた。
大変遅くなって、と言って座敷と居間との間のしきりのところに来て、
半ば座ってチラリと電光のように時代の顔色を伺ったが、
すぐ紫の服装に何か包んだものを出して、黙って姉の方に押し合った。
何ですか?お土産?いつもお気の毒ね。
いいえ、私も召し上がるんですもの。
と吉子は快活に言った。
そして次の間へ行こうとしたのを、無理にランプの明るい眩しい居間の一隅に座らせた。
美しい姿、東西流の久し髪、派手なネルにオリーブ色の夏帯を形よく締めて、
少し端に座った艶やかさ。
時代はその姿と相対して、一種上滑らざる満足を胸に感じ、
今までの反問と苦痛とを半ば忘れてしまった。
有力な敵があっても、その恋人を謎に占領すれば、
それで心の休まるのは恋する者の状態である。
大変に遅くなってしまって。
いかにもやるせないというように微かに弁明した。
中野へ散歩に行ったって?
時代は突如として問うた。
ええ。
吉子は時代の顔色をまたちらりと見た。
姉は茶を入れる。
さればといって時代はわざとそういう態度にするのではない。
女に向かっている刹那、
その愛した女の関心を得るには、いかなる犠牲もはなはだ効果に過ぎなかった。
で、吉子は死を信頼した。
時期が来て父母にこの恋を継ぐるとき、旧思想と新思想と衝突するようなことがあっても、
この恵み深い死の承認を得さえすればそれでたくさんだとまで思った。
9月は10月になった。
寂しい風が浦の森を鳴らして空の色は深く青く、
夜の光は透き通った空気に差し渡って夕の影が濃く辺りをくまどるようになった。
取り残した芋の葉に雨は終日降りしきって八百屋の店には松茸が並べられた。
柿の虫の声は梅雨に衰えて庭の霧の葉も脆くも落ちた。
午前の中の一時間、9時より10時までを鶴毛姉夫の小説の解釈、
吉子は死の輝く眼の下に机に端に座って、
オン・ゼ・イブの長い長い物語に耳を傾けた。
エレネの感情に激しく意思の強い性格と、
その悲しい悲壮たる末路とは、いかにかの女を動かしたか。
吉子はエレネの恋物語を自分に引き比べて、その身を小説の中に置いた。
恋の運命、恋すべき人に恋する機会がなく、
思いもかけぬ人にその一生を任した運命、
実際吉子の当時の心情そのままであった。
妻の葉までゆっくりなく受け取った百合の花の一葉の葉書、
それがこうした運命になろうとは夢にも思い知らなかったのである。
雨の森、闇の森、月の森に向かって、吉子は様々にそのことを思った。
京都の夜汽車、佐賀の月、
ぜぜに遊んだ時には湖水に夕日が美しく差し渡って、
旅館の中庭に萩が絵のように咲き乱れていた。
その二日の遊びは実に夢のようであったと思った。
続いてまだその人を恋せぬ前のこと、
妻の海水浴、ふるさとの山の中の月、
病気にならぬ以前、ことにその時の反問を考えると、
頬がおのずから赤くなった。
空想から空想、その空想はいつか長い手紙となって京都に行った。
京都からもほとんど確実のように熱い熱い風書が届いた。
書いても書いても尽くされぬ二人の情け。
あまりその文通の頻繁なのに、時夫は吉子の不在をうかがって、
監督という口実のもとにその良心を抑えてこっそり机の引き出しやら、
布箱やらを探した。
探し出した二三通の男の手紙を走り読みに読んだ。
恋人のするような甘ったるい言葉はいたるところに満ちていた。
けれど時夫はそれ以上にある秘密を探し出そうと苦心した。
切分の跡、性欲の跡がどこかに現れてはおりはせぬか。
神聖なる恋以上に二人の間は進歩しておりはせぬか。
けれど手紙にもわからぬのは恋の誠の消息であった。
一ヶ月は過ぎた。
ところがある日、時夫は吉子にあてた一通の葉書を受け取った。
英語で書いてある葉書であった。
何気なく読むと一月ほどの生活費は準備していく、
あとは東京で遺植の職業が見つかるかどうかという意味、
京都田中としてあった。
時夫は胸をとどろかした。
平和は一時にして敗れた。
晩餐後、吉子はそのことを問われたのである。
吉子は困ったというふうで、
先生、本当に困ってしまったんですの。
田中が東京に出てくると言うんですもの。
私は二度三度まで止めてやったんですけれど、
なんだか宗教に従事して、
虚偽に生活していることが今度の動機で、
すっかり嫌になってしまったとか何とかで、
どうしても東京に出てくるって言うんですよ。
東京に来て何をするつもりなんだ。
文学をやりたいと。
文学?文学ってなんだ。小説を書こうというのか。
うーん、そうでしょう。
馬鹿な。と時夫は一括した。
本当に困ってしまうんですの。
あなたはそんなことを進めたんじゃないか。
いいえ。
激しく首を振って。
私はそんなこと、私は今の場合困るから、
せめてどうしただけでも卒業してくれって。
こないだ初めに申してきた時に、
立って止めてやったんですけれども、
もうすっかり一人でそうしてしまったんですって。
今さら取り返しが使うようになってしまったんですって。
どうして。
神戸の信者で、神戸の教会のために
田中に学士を出してくれている甲図という人があるんですの。
その人に、田中川宗教は自分にできぬから
将来文学で立とうと思う。
どうか東京に出してくれと言ってやったんですの。
すると大勢怒って、
翌日は会って、立って勇めてどうしても京都に帰らせるようにすると言って、
吉子はその恋人の元を通った。
その男は停車場前の鶴屋という旗子屋に泊まっているのである。
時代が車から帰ったときには、
まだとても帰る前と思った吉子が、
すでにその笑顔を玄関に現していた。
聞くと、田中はすでにこうして出てきた以上、
どうしても京都には帰らぬとのことだ。
で、吉子はほとんど喧嘩をするまでに争ったが、やはりダンとして聞かぬ。
先生を頼りにして出居したのではあるが、
そう聞けばなるほどごもっともである。
監督上都合の悪いというものもよくわかりました。
けれど今さら帰れませんから、
自分でいかようにしても自分の道を求めて、
目的地に進むより他はないとまで言ったそうだ。
時代は不快を感じた。
時代は一時は勝手にしろと思った。放っておけとも思った。
けれど県内の一員たる彼に、
どうして全く風馬牛たることを得ようぞ。
吉子はその後、二、三日訪問した形跡もなく、
学校の時間には正確に帰ってくるが、
学校に行くと称して恋人のもとに寄りはせぬかと思うと、
胸は疑惑と嫉妬とに燃えた。
時は往々した。
その心は日に逝くへんとなく変わった。
ある時は全く犠牲になって二人のために尽くそうと思った。
ある時は一部始終を国に奉じて一挙に破壊してしまおうかと思った。
けれどこのいずれをあえてすることもできぬのが今の心の状態であった。
西君がふと時代に事後した。
「あなた、二階ではこれよ。」と、
針で着物を縫う真似をして小声で、
「きっとあげるんでしょう。コンガスリの書生羽織。
白い森の長い紐も買ってありますよ。」
「ほんとうか。」
「え?」と西君は笑った。
時代は笑うどころではなかった。
吉子が、
「今日は先生少し遅くなりますから。」と顔を赤くして言った。
「あそこに行くのか。」と問うと、
「いいえ。ちょっと友達のところに用があって寄ってきますから。」
その夕方で時代は思い切って吉子の恋人の下宿を訪問した。
「誠に先生には要申し訳がありまえんのやけど。」
長い演説章の夕弁で形式的な申し訳をした後、
田中という中世の少し超えた色の白い男が
祈祷するときのような願職をして、さも同情を求めるように言った。
時代は熱視していた。
「しかし君、わかったらそうしたらいいじゃありませんか。
僕は君らの将来を思って言うのです。吉子は僕の弟子です。
僕の責任として吉子に配学させるには忍びん。
君が東京にどうしてもいるというなら、吉子を国に返すか、
この関係を夫婦に打ち明けて許可を得うか、
二つの中一つを選ばんければならん。
君は君の愛する女を君のために山の中に埋もらせるほどエゴイスチックな人間じゃありますまい。
君は宗教に従事することが今度の事件のために嫌になったというが、
それは一種の考えで、君は死ぬんで京都におりさえすれば、
万事円満に二人の間からも将来希望があるのですから。
よう、わかっております。
けれどできんですか。
どうもすみませんけれど制服も帽子も売ってしもうたで、
今更帰るにも帰らまえんという時代で。
それじゃあ吉子を国に返すですか。
彼は黙っている。
国に行ってやりましょうか。
やはり黙っていた。
私の東京に参りましたんは、そういうことにはむしろ関係しないつもりでおます。
別段こちらにおりましても二人の間にはどうという。
それは君はそういうでしょう。
けれどそれでは私は監督はできん。
声はいつわくできするかもわからん。
私は備えなことないつもりですけどな。
近いえるですか。
静かに勉強して行かれさえすらやな。
備えなことはありませんけどな。
だから困るんです。
こういう会話。
容量を得ない会話を繰り返して長く相対した。
時代は将来の希望という点、男子の犠牲という点、
事件の進行という点からいろいろさまざまに帰国を進めた。
時代の目に映じた田中秀夫は、
そうしたような一個修齢な丈夫でもなく、天才肌の人とも見えなかった。
広島町3番町通りの安畑子。
散歩を壁で仕切られた厚い部屋に初めて相対したとき、
まず彼の身に迫ったのはキリスト教に養われた、
いや、取り澄ました、都市に似合わぬ老成な、
いやな不愉快な態度であった。
京都鉛の言葉、色の白い顔。
優しいところはいくらかあるが、
青年の中からこうした男を特に選んだ吉子の気が知れなかった。
ことさらに時代が最も嫌に感じたのは、
とはいえ、実を言えば時代の激しい頭には、
それが直感的に明らかに映ったというのではなく、
座敷の隅に置かれた小さい旅カバンや、
哀れにもし折れた白地の浴衣などを見ると、
青年空想の昔が思い出されて、
こうした恋のため反問もし、
怒鳴もしているかと思って憐憫の情けも起こらぬではなかった。
この厚い一室に相対して、
あぐらもかかず二人は少なくとも一時間以上語った。
話は遂に容量を得なかった。
まず今一度考え直してみたまえ、
暗いが最後で、時は別れて帰都に着いた。
愚かなる行為をしたように感じられて、自らその身を嘲笑した。
心にもないお世辞を思い、
自分の胸の底の秘密を覆うためには、
二人の恋の恩情なる保護者となろうとまで言ったことを思い出した。
安本役の仕事を修繕してもらうため、
帽子に紹介のローを取ろうと言ったことも思い出した。
そして自分ながら自分の意気地なく好人物なのを罵った。
時代は幾度か考えた。
むしろ国に放置してやろうか、と。
けれどそれを放置するにどういう態度を持ってしようかというのが大問題であった。
二人の恋の鍵を自ら握っていると信ずるだけ、
それだけ時は責任を重く感じた。
その身の不当の嫉妬、不正の恋情のために、
その愛する女の熱烈なる恋を犠牲にするには忍びぬとともに、
自ら言った恩情なる保護者として、
道徳家のごとく身を処するにも堪えなかった。
また一方にはこのことが国に知れて、
吉子が父母のために伴われて帰国するようになるのを恐れた。
吉子が渡郷の書斎に来て頭を垂れ、恋を悲哭して、
その希望を述べたのはその翌日の夜であった。
いかにといても男は帰らぬ。
さりとて国へ放置すれば父母の許さぬのを知れたこと。
時期によればたちまち迎えに来るのとも限らぬ。
男もせっかくああして出てきたことでもあり、
二人の間も世の中の男女の恋のように浅く、
重い浅く恋したわけでもないから、
決して穢れた恋などはなく、
若敵するようなことは誓ってしない。
文学は難しい道。
小説を書いて一家を成そうとするのは田中のようなものにはできぬかもしれねど、
はて不思議だと思ったけれど、
名を聞きますと田中。
ああ、それでその人だなと思ったんですよ。
やな人ねえ、あんな人。
書生さんを恋人にしないたって、いくらもいいのがあるでしょうに。
吉子さんはよほど物好きね。あれじゃとても望みはありませんよ。
それでどうした。
吉子さんは嬉しいんでしょうけど、なんだか決まりが悪そうでしたよ。
私がお茶を持って行ってあげると、
吉子さんは机の前に座っている。
その前にその人がいて、今まで何か話していたのを
急に寄与して黙ってしまった。
私は変だからすぐ折れてきたですがね。なんだか変ね。
今の若い人はよくああいうことができてね。
私のその頃には男に見られるのすら恥ずかしくて、
恥ずかしくて仕方がなかったですのに。
時代が違うからなあ。
いくら時代が違っても、あまり心配すぎると思いましたよ。
堕落書生と同じですからね。
そりゃ上辺が似ているだけで心はそんなことないでしょうけれど、
なんだか変ですよ。
そんなことはどうでもいい。それでどうした。
お釣りももらっていましたよ。
お湯を差しに上がると、
二人で美味しそうにお札を食べていたところでしたって。
時代も笑わざるを得なかった。
西君はなお語り継いだ。
そしてずいぶん長く高い声で話していましたよ。
議論みたいなことも言って、吉子さんもなかなか負けない様子でした。
そしていつ帰った。
もう少しさっき。
吉子はいるか。
いいえ、道がわからないから一緒にそこまで送って行ってくるって出かけて行ったんですよ。
時代は顔を曇らせた。
夕飯を食っていると裏口から吉子が帰ってきた。
急いで走ってきたとおぼしく、せいせい息を切っている。
どこまでいらした?
と西君が問うと、
神楽坂までと答えたが、いつもする
おかえりなさいましを時代に向かって行って、
そのままバタバタ二階へやがった。
すぐ降りてくるかと思うになかなか降りてこない。
吉子さん、吉子さんと三度ほど西君が呼ぶと、
はーい、という長い返事が聞こえてやはり降りてこない。
お鶴が迎えに行ってようやく二階を降りてきたが、
準備した夕飯の前をよそに柱に近く端に座った。
ご飯は?
もう食べたくないの。お腹がいっぱいで。
あまりお札を召し上がったせいでしょう。
あらま、ひどいわ奥さん。
いいわ奥さん、と睨む真似をする。
西君は笑って、
吉子さん、なんだか変ね。
なぜ?と長く引っ張る。
なぜもないわ。いいことよ奥さん、とまた睨んだ。
時代は黙ってこの筐体に対していた。
胸の騒ぐのは無論である。
不快の情は必死と押し寄せてきた。
吉子はちらと時夫の顔をうかがったが、
その不機嫌なのが一目でわかった。
で、すぐ態度を改めて、
先生、今日田中が参りましてね。
そうだってね。
お目にかかってお礼を申し上げなければならんのですけれども、
また改めてあがりますからってよろしく申し上げて。
そうか、と言ったが、そのまま不意と立って書斎に入ってしまった。
その恋人が東京にいては、
その二回において監督しても、
時夫は心を休んずる暇はなかった。
二人の会うことを妨げることは絶対に不可能である。
手紙は無論、差し止めることはできぬし、
今日ちょっと田中に寄ってまわりますから、
一時間遅くなります、と口善と断っていくのを
どうこういうわけにはいかなかった。
またその男が訪問してくるのを非常に不快に思うけれど、
今さらそれを諸説することもできなかった。
恋人がいつの間にか、この二人からその恋に対しての
恩情の保護者として認められてしまった。
時夫は常にイライラしていた。
書かなければならぬ原稿がいく種もある。
書士からも催促される。金も欲しい。
けれどどうしても筆を取って文を綴るような
落ち着いた心の状態になれなかった。
強いて試みてみることがあっても考えがまとまらない。
本を読んでも二ページも続けて読む気になれない。
二人の恋の温かさを見るたびに胸を燃やして、
罪もない細君にやたり散らして酒を飲んだ。
晩餐の際が気になると言ってお膳を蹴飛ばした。
夜は十二時過ぎに酔って帰ってくることもあった。
吉子はこの乱暴な不調子な時夫の行為に少なからず心を痛めて、
私がいろいろご心配をかけるもんですからね。
私が悪いんですよ。と詫びるように細君に言った。
吉子はなるだけ手紙の往復を人に見せぬようにし、
訪問も三度に一度は学校を休んでこっそり行くようにした。
時夫はそれに気がついて一層御斧の堂を増した。
野は秋も枯れて小枯らしの風がたった。
裏の森のイチョウももみじして夕の空を美しく彩った。
垣根道には反り返った落ち葉がガサガサと転がっていく。
坊主の泣き声がけたたましく聞こえる。
若い二人の恋がいよいよ人目に余るようになったのはこの頃であった。
時夫は監督所を見るに見かねて吉子をときすすめて、
この一部始終をふるさとの父母にほうぜしめた。
そして時夫もこの恋に関して長い手紙を吉子の父に寄せた。
この場合にも時夫は吉子の感謝の情を十分に勝ち得るように努めた。
時夫は心を欺いて、
悲惨なる犠牲と称してこの恋の恩情なる保護者となった。
日中の三昼から数通の手紙が来た。
その翌年の一月には時夫は地理の用事で
上部の境にある利根川藩に出張していた。
彼は昨年の年末からこの地に来ているので
家のこと、吉子のことがことに心配になる。
されどて公務を行かんとすることができなかった。
正月になって二日にちょっと寄居したが、
その時は次男が歯をやんで、
妻と吉子とがしきりにそれを解放していた。
妻に聞くと吉子の恋はさらに枠敵の度を加えた様子。
大晦日の晩に田中が生活の立ち気を得ず、
下宿に帰ることもできずに
終夜運転の電車に一夜を過ごしたということ。
あまり頻繁に二人が往来するので
それをそれとなしに注意して吉子と口争いをしたということ。
その他様々なことを聞いた。
困ったことだと思った。
一晩泊まって再び利根川藩に戻った。
今は五日の夜であった。
ぼうとした空に月や傘を帯びて、
その光が川の中央にキラキラと金を砕いていた。
時代は机の上に一粒の風書を開いて深く住むことを考えていた。
その手紙は今少し前旗子の下女が置いていった吉子の筆である。
先生、誠に申し訳がございません。
先生の同情ある御恩は決して一生経っても忘れることではなく、
今もそのお心を思うと涙がこぼれるのです。
父母はあの通りです。
先生があのようにおっしゃってくだすっても昔風の堅くなで、
私どもの心を汲んでくれようとも致しませず、
泣いて訴えましたけれど許してくれません。
母の手紙を見れば泣かずにはおられませんけれど、
少しは私の心も汲んでくれてもいいと思います。
恋とはこう苦しいものかと今つくづく思い当たりました。
先生、私は決心いたしました。
聖書にも女は親に離れて夫に従うとございますとおり、
私は田中に従うと存じます。
田中は未だに生活の立つ気を得ませず準備した金はすでに尽き、
昨年の暮れは裏ぶれの悲しい生活を送ったのでございます。
私はもう見ているに忍びません。
国からの補助を受けませんでも、
私らは私ら二人でできるまでこのように生きてみようと思います。
先生に御心配をかけるのは誠にすみません。
監督上御心配になさるのも御もっともです。
けれどせっかく先生があのように私らのために国の父母をおとき下すったにもかかわらず、
父母はただ無意味に怒ってばかりいて取り合ってくりませんのは、
あまりと申せば無慈悲です。感動されても仕方がございません。
堕落堕落と申してほとんど弱いせぬばかりに申しておりますが、
私たちの恋はそんなに不真面目なものでございましょうか。
それに家の文字文字と申しますが、
私は恋を父母の都合によって至すような古い女ではないことは先生もお許し下さることでしょう。
先生、私は決心いたしました。
昨日上野図書館で女の見習い生がいるようだという広告がありましたから応じてみようと思います。
二人して一生懸命に働きましたらまさかに植えるようなこともございますまい。
先生のお家にこうしておりますればこそ先生にも奥様にも御心配かけてすまんのでございます。
どうか先生、私の決心をお許し下さい。
吉子 先生恩も問え
恋の力はついに二人の深い枠敵の淵に沈めたのである。
時代はもうこうしては置かれぬと思った。
時代が吉子の関心を得るためにとった恩情の保護者としての態度を考えた。
別中の父親に寄せた手紙。
その手紙には極力二人の恋を秘補してどうしてもこの恋を許してもらわねばならぬという趣旨であった。
時代は父母の到底これを承知せぬことを知っていた。
むしろ父母の極力反対することを希望していた。
父母は果たして極力反対してきた。
いうことを悲観なら感動するとまで言ってきた。
二人はまさに行くべき恋の報酬を受けた。
時代は吉子のためにあくまで弁明し、穢れた目的のために行われたる恋ではないことを言い、
父母の中一人、ぜひ出居してこの問題を解決してもらいたいと言い送った。
けれど、ふるさとの父母は監督なる時代がそういう主張であるのと、
到底その口から許可することができぬのとで、
上京しても無駄であると言って出てこなかった。
時代は今、吉子の手紙に対して考えた。
二人の状態はもはや一刻もいよいよすべからざるものとなっている。
時代の監督は離れて、二人一緒に暮らしたいという大胆な言葉。
その言葉の中には警戒すべき分子の多いのを思った。
いや、すでに一歩を進めているかもしれぬと思った。
また一面にはこれほどそのために尽力しているのに、
その行為を無にして、こういう決心をするとは義理知らず、
情け知らず、勝手にするがいいとまで激した。
時代は胸のとどろきを沈めるため、
月朧なる利根川の包みの上を散歩した。
月が傘を帯びた夜は冬ながらやや暖かく、
土手下の家々の窓には平和なランプが静かに輝いていた。
川の上には薄いもやがかかって、
折々通る船の炉の音がギーと聞こえる。
下流で、大いと私を呼ぶものがある。
船橋を渡る車の音がとどろに響いて、
そしてまた一時静かになる。
時代は土手を歩きながら様々なことを考えた。
吉子のことよりは一層通勢せずに、
自己の家庭の寂しさということが胸を往来した。
35、6歳の男女の最も味わうべき生活の苦痛、
事業に対する煩悩、性欲より起こる不満俗等が
凄まじい力でその胸を圧迫した。
吉子は彼のために平凡なる生活の花でもあり、
また家庭でもあった。
吉子の美しい力によって荒野のごとき胸に花咲き、
錆び果てた鐘は再び鳴ろうとした。
吉子のために復活の活気は新しくこすいされた。
であるのに再び石爆、高齢たる以前の平凡なる生活に
帰らなければならぬとは。
不平よりも嫉妬よりも熱い熱い涙が
彼の頬を伝った。
若い者の心などわからぬ親父。
それでもこの父は優しい父であった。
母親万事に気がついてよく面倒を見てくれたけれど
なぜか吉子には母よりもこの父の方が良かった。
その身の今の窮迫を訴え
泣いてこの恋の真面目なのを訴えたら
父親もよもや動かされぬことはあるまいと思った。
吉子しばらくじゃったの。
ただ上下の
お父様。吉子は後を言えなかった。
今度来ますときに
父親はそばに座っている時をに語った。
佐野島御殿場でしたかな。
汽車に故障がありましてな。
二時間ほど待ちました。
機関が破裂しましてな。
全速力で進行している中にすさまじい音がしたと思えましたけ。
ザラザラと逆行しましてな。
何事かと思いました。
機関が破裂して皮膚が二人とか即死した。
それは危険でしたな。
沼津から機関車を持ってきて着けるまで二時間も待ちましたけ。
その間もな、思いまして。
これのためこうして東京へ出てきている途中、もしものことがあったら
よし、お前も兄弟に申し訳なかろうと思ったじゃわ。
吉子は頭をたれて黙っていた。
それでも別におけがもなくて結構でした。
え、まあ。
父親と東京はしばらくその機関破裂のことについて語り合った。
ふと吉子は
お父様、家ではみんな変わることはございません?
うん。みんな達者じゃ。
母さんも。
うん。今度も私が忙しいけえな。
母に来てもらうように言うてちゃったが、やはり私の方がいいじゃろうと思って。
兄さんもご達者?
うん。あらもこの頃は少し落ち着いている。
カレカレする中に昼飯の膳が出た。
吉子は自分の部屋に戻った。
食事を終わって茶を飲みながら、時代は前からのその問題を語り継いだ。
で、あなたはどうしても不賛成?
賛成しようにもしまいにもまだ問題になりおりませんけえ。
今仮に許して二人一緒にするにいたしても
男が二十二で同志者の三年生では。
それはそうですが
人物をご覧の上、将来の約束でも。
いや約束などとそんなことは致しますまい。
私は人物を見たわけではありませんけえ。
よく知りませんけどな。
女学生の状況の突如を要して途中に泊まらせたり、
年来の恩ある教会の恩人を一町にして捨てさせたりするような男ですけえ。
とても話にはならんと思いますじゃ。
この間、吉から母へ起こした手紙に
その男が苦しんでおるじゃで、どうかお察し下すって。
何かそういう計画で吉が騙されておるんではないですかな。
そんなことはないでしょうと思うですが。
どうも怪しいことがあるです。
吉子と約束ができて、すぐ宗教が嫌になって文学が好きになったというのもおかしいし、
その後すぐ追って出てきて、
あなたなどのご説言も聞かずに
異色に苦しんでもあでもこの東京に居るなど意味がありそうですわい。
それは恋の悪敵であるかもしれませんが。
それにしても許可するのとせるのとは問題になりませんけえ。
結婚の約束は大きなことでして、
それにはその者の身分も調べて、
こっちの身分との釣り合いも考えなければなりませんし、
決闘を調べなければなりません。
それに人物が第一です。
あなたのご覧になるところでは修施されたとかおっしゃってですが。
いや、そういうわけでもなかったです。
人物が第一です。
いや、そういうわけでもなかったです。
一体人物はどういう。
それはかえって母さんなどがご存知だということですが。
なあに妻の日曜学校で一、二度会ったことがあるくらい、
妻もよく知らんそうですけえ。
何でも神戸では多少仲裁とか何とか呼ばれた男で、
よしは女学院に居る頃から知っておるそうでしょうがなあ。
絶叫や鬼闘などをやらせると、
大人も及ばぬような上手いことをやりおったそうですけえ。
それで話が演説調になるのだ。形式的になるのだ。
あの嫌な上目を使うのは鬼闘をするときの表情だ。
と時代は心の中に我転した。
あの嫌な表情で若い女を迷わせるのだなと続いて思って、
嫌な気がした。
それにしても結局はどうしましょう。
よし子さんを連れてお帰りになりますか。
されば、なるだけは連れて帰りたくないと思いますがなあ。
村に娘を連れて帰るとどうも今日はだって面白くありません。
私も妻も主婦、村の事前事業や名誉職などをやっておりますけえ、
今度のことなどがパッとしますと非常に困る場合もあるです。
で、私はあなたのおっしゃる通り、
できうべくば男を元の京都に帰して、
ここ一、二年。
娘はなおお世話になりたいと存じておりますじゃが。
それがいいですな。
と時代は言った。
二人の間柄についての談話も一にあった。
京都佐賀の事情、その以後の経過を話し、
二人の間には神聖の霊の恋のみ成り立っていて、
汚い関係はないであろうと言った。
父親はそれを聞いて頷きはしたが、
でもまあ、その方の関係もあるものとして見なければなりますまい。
と言った。
父親の胸には今さら娘についての戒婚の情が多かった。
田舎者の虚栄心のために、
神戸女学院のようなハイカラな学校に入れて、
娘の切なる希望を入れて小説を学ぶべく東京に出したことや、
他病のために優雅ままにしてあまり研促を加えなかったことや、
いろいろなことがムラムラと胸に浮かんだ。
一時間後には、
わざわざ迎えに行った田中がこの部屋に来ていた。
吉子もその側に日差し髪を垂れて、
談話を聞いていた。
父親の夢に映じた田中は、もとより気に入った人物ではなかった。
その白島の袴を着け、
女性姿は軽蔑の念と憎悪の念等をその胸にみなぎらしめた。
その所有物を奪った憎むべき男という勘は、
かつて時代がその下宿でこの男を見た時の勘と
花々よく似ていた。
田中は袴のひだをただして、
ちゃんと座ったまま、
多く二尺先くらいの畳のみを見ていた。
服従という態度よりも反抗という態度がありありとしていた。
どうも少し固くなりすぎて、
吉子を自分の自由にするある権利を
持っているというふうに見えていた。
談話は真面目にかつ激しかった。
父親はそのハレンチをあえて正面から攻めはしないが、
折々苦い皮肉をその言葉の中に交えた。
はじめは時代が口を切ったが、
中頃から主に父親と田中とが語った。
父親は見解議員をした人だけあって、
言葉の抑揚とんざがなかなか巧みであった。
現実になれた田中も時々沈黙させられた。
二人の恋の許可・不許可も問題に上がったが、
それは今研究すべき大目でないとして退けられ、
当面の京都機関問題が漏ぜられた。
恋する二人。
ことに男にとってはこの分離は花々辛いらしかった。
男は宗教的資格を全く失ったということ。
帰るべく家をも国をも持たぬということ。
二、三月来、表礼の結果、
ようやく東京に全都の公明を認め始めたのに、
それを捨てて去るに忍びぬということなぞを盾として、
しきりに帰国の不可能を主張した。
父親はコンコンとして説いた。
今さら京都に帰れないという、それは帰れないに違いない。
けれど、今の場合である。
愛する女子ならその女子のために犠牲になれるということはあるまいじゃ。
京都に帰れないから田舎に帰る。
帰れば自分の目的が達成されるというが、そこを言うのじゃ。
田中は甘くして下を向いた。
容易に脱出そうにもない。
先ほどから黙って聞いていた時代は、
男があまりに頑固なのに急に声を励まして、
君、僕は先ほどから聞いていたが、
あれほどに言うお父さんの言葉がわからんですか。
お父さんは君の罪をも問わず、ハレンチをも問わず、
将来もし縁があったらこの恋愛を承諾せぬではない。
君もまだ年が若い。
お父さんも今修行最中である。
だから二人は今しばらくこの恋愛問題を未解決のうちにそのままにしておいて、
そしてその行く末を見ようというのがわからんですか。
今の場合、二人はどうしても一緒には置かれん。
どっちかこの東京を去らなくってはならん。
この東京を去るということについては、君がまず去るのが至当だ。
なぜかと言えば君は吉子の後を追うてきたのだから。
よう、わかっております。
と田中は答えた。
私が万事悪いのでございますから、私が一番に去らなければなりません。
先生は今この恋愛を承諾してくださるのではないとおっしゃったが、
お父様の先ほどの言葉はまだ満足いたされぬようなわけでして、
どういう意味です。
と東京は反問した。
本当に約束せぬというのが不満だというのですであろう。
と父親は言葉を入れて。
けれどこれは先ほどもよく話したはずじゃけ。
今の場合許可不許可ということはできんじゃ。
独立することもできぬ修行中のみで
二人一緒にこの世の中に立っていこうと言えるはどうも不信用じゃ。
だから私は今三四年はお互いに勉強するがいいじゃと思う。
真面目ならば今まで言った話はわからんけれやならん。
私が一時を満着して吉をよそに片付けるとか言うのやなら
それは不満足じゃろう。
けれど私は神に誓って言う。
先生を前に置いて言う。
三年は吉を私から進んで嫁にやるようなことはせんじゃ。
人の世はえほばのおぼし飯次第。
罪の多い人間はその力ある裁きを待つより他に仕方がないけ。
私は吉は君に信ずるとまでは言うことはできん。
今の心が許さんけ。
今度のことは神のおぼし飯にかなっていないと思うけ。
三年たって神のおぼし飯にかなうかどうか
それは今から予言はできんが。
君の心が真実真面目で誠実であったなら
必ず神のおぼし飯にかなうことと思うじゃ。
あれほどお父さんがわかっていらっしゃる。
と時代は父親の言葉を受けて
三年、君がために待つ。
君を信用するに足りる三年のとき日を
君に与えると言われたのは実にこの上ない恵みでしょう。
人の娘を誘惑するような奴には真面目に反示をする必要がないと言って
このまま吉子を連れて帰られても
君は一言も恨む席はないのですのに
三年待とう君の真心の見えるまでは
他に訪がせるようなことはすまいと言う。
実に恵みある言葉だ。許可すると言ったより一層恩義が深い。
君はこれがわからんですか。
田中はうつむいて顔をしかめると思ったら
涙がはらはらとその頬を伝った。
一座は水を振ったように静かになった。
田中はあふれいずる涙を手の拳で拭った。
時代は今ぞ時と
どうです返事をしたまえ
私などはどうなってもよう思す。
田中に埋もれてもかまわんどす。
また涙を拭った。
それではいかん。そう反抗的に言ったって仕方がない。
腹の底を打ち明けて互いに不満足のないように
しようとするためのこの会合です。
君がたって田中に帰るのがいやだとならば
吉子を国に返すばかりです。
二人一緒に東京にいることはできんですか。
二人の将来のためにもできん。
それでは田中に埋もれてもよう思ます。
いいえ私が帰ります。
と吉子も涙を声にふるわして。
私は女、女です。あなたさえ成功してくだされば
私は田中に埋もれてもかまわしません。私が帰ります。
一座はまた沈黙に落ちた。
しばらくしてから時夫は調子を改めて。
それにしても君はどうして京都に帰れんのです。
神戸の恩人に一部指示を話して
今までの不心得を写して造詞社に戻ったらいいじゃありませんか。
吉子さんが文学志願だから君も文学家にならんければならん
というようなことはない。
宗教家として、信学者として、牧師として
往々に立ったらいいでしょう。
宗教家にはもうとても用をなりまへん。
人に向かって教えを説くような偉い人間ではないでおますで。
それに残念ですのは三月の間苦労しまして
実はようやくある親友の世話で
異色の道が開けましたで
田舎に埋もれるには忍びまへんで。
三人は名を語った。
話はついに一焦段落を告げた。
田中は今夜親友に相談して
明日かあさってまでかっこたる返事をもたらそうと言って
十
田中は翌朝、時夫を問うた。
彼は対戦の既に定まったのを知らずに
己の事情の帰国に適せぬことをルルとして説こうとした。
礼に行く友に許した恋人の習いとして
如何ようにしても離れまいとするのである。
時夫の顔には得意の色が昇った。
いや、もうその問題は決着したです。
吉子が一部始終をすっかり話した。
君らは僕を欺いていたということが分かった。
大変に神聖な恋でしたな。
田中の顔はにわかに変わった。
羞恥の念頭、月光の上等、絶望のモダエトがその胸をついた。
彼は言うところを知らなかった。
もうやむを得んです。と時夫は言葉をついで。
僕はこの恋に関係することができません。
いや、もう嫌です。吉子を父親の監督に移したです。
男は黙って座っていた。
青いその顔には肉の旋律がありありと見えた。
ふと急に辞儀をして、こうしてはいられぬという態度でここを出て行った。
午前十時ごろ、父親は吉子を伴って来た。
いよいよ今夜六時の神戸急行で帰国するので
大体の荷物は後から送ってもらうとして
手回りのものだけまとめて行こうというのであった。
吉子は自分の二階に上ってそのまま荷物の整理に取り掛かった。
時雄の胸は激しておったが、以前よりは軽快であった。
二百余りの山下を隔てて
もうその美しい表情も見ることができなくなると思うという
に言われぬ侘しさを感じるが
その恋する女を競争者の手から父親の手に移したことは
少なくとも愉快であった。
で、時雄は父親とむしろ快活に
種々なる物語にふけった。
父親は田舎の紳士によく見るような諸賀道楽
摂集、王教、要塞の絵画
山陽、蓄電、海獄、サザンの書を愛し
その名副を無数に増していた。
話は自らそれに移った。
平凡なる諸賀物語は
この室に一時栄えた。
田中が来て時雄に会いたいと言った。
八畳と六畳との仲仕切りをしみて八畳であった。
父親は六畳にいた。
吉子は二階の室にいた。
ご帰国になるんでしょうか?
どうせ帰るんでしょう。
吉さんも一緒に?
それはそうでしょう。
いつですか?お話下されますまいか?
どうも今の場合お話することはできませんな。
それでもちょっとでも吉さんに会わせていただくわけには参りますまいか?
それはだめでしょう。
では、お父様はどちらへお泊まりですか?
ちょっと番長を伺いたいですが。
それも僕には教えていいか悪いかわからんですから。
取り尽くしまがない。
田中は黙ってしばし座っていたが、そのまま辞儀をして去った。
昼飯の膳がやがて八畳に並んだ。
これがお別れだというので、
西君は事に注意して酒魚を揃えた。
時雄も別れの印に三人相並んで会食しようとしたのである。
けれど吉子はどうしても食べたくないという。
西君が時進めても来ない。
時雄は自身二階に上った。
東の窓を一枚開けたばかり、
暗い衣室には本やら雑誌やら着物やら帯やら瓶やら氷やら品カバンやらが足の踏み場もないほどに散らばっていて、
埃の香りがおびただしく鼻をつく中に吉子は目を泣き晴らして荷物の整理をしていた。
三年前、青春の希望枠がごとき心を抱いて東京に出てきた時の様に比べて、
何らの悲惨、何らの暗黒であろう。
優れた作品ひとつ得ず、こうして田舎に帰る運命かと思うとたまらなく悲しくならずにはいられない。
せっかく支度したから食ったらどうです。
もうしばらくは一緒にご飯も食べられんから。
先生、と吉子は泣き出した。
時雄も胸をついた。
師としての恩情と責任とを尽くしたかと激しく反省した。
彼も泣きたいほど詫びしくなった。
交戦の暗い室、氷や書籍の三逸せる中に恋せる女の帰国の涙、これを慰むる言葉もなかった。
午後三時、車が三台来た。
玄関に出した氷、品カバン、信玄袋をシャフは運んで車に乗せた。
吉子は栗梅の皮膚を着て、白いリボンを髪に刺して目を泣き晴らしていた。
送って出た西君の手を固く握って、
奥さん、さようなら。私またきっと来てよ。きっと来てよ。来ないでおきはしないわ。
本当にね、また出ていらっしゃいよ。一年くらいしたらきっとね。
と西君は固く手を握り返した。その目には涙があふれた。
女心の弱く、同情の念はその小さい胸にみなぎり渡ったのである。
冬の日のやや薄寒き丑米の屋敷町。
松崎に父親、次に吉子、次に時男という順序で車を走り出した。
西君と女とは流れを惜しんでその車の光栄を見送っていた。
その後に隣の西君がこのにわかの出発を何事かと思って見ていた。
なお、その後ろの小道の曲がり角に茶色の帽子をかぶった男が立っていた。
吉子は二度三度まで振り返った。
車が工事町の通りを日比谷へ向かうとき、都教の胸に今の女学生ということが浮かんだ。
前に行く車上の吉子。高い二役三甲血巻、白いリボン。やや猫背がちになる姿。
こういう形をして、こういう事情のもとに、荷物とともに父に連れられて帰国する女学生はさぞ多いことであろう。
吉子。あの意思の強い吉子でさえこうした運命を得た。
教育課のやかましく女子問題を言うのも無理はない。
時代は父親の苦痛と吉子の涙とその身の高齢をたる生活等を思った。
道行く人の中にはこの荷物を満載して父親と中年の男子に保護されていく花のごとき女学生を意味ありげに見送る者もあった。
京橋の旅館について荷物をまとめ会計を済ました。
この家は三年前、吉子が初めて父に連れられて出居した時泊まった旅館で、時代はここに二人を訪問したことがあった。
三人はその時と今と胸にひかくして感慨たたんであったが、しかも互いに避けて表には現わさなかった。
五時には新橋の停車場に行って二等待合室に入った。
混雑また混雑。群衆また群衆。
行く人送る人の心はみな空になって、天井に響く物音がさらに旅客の胸に反響した。
悲しみと喜びと好奇心とが停車場の至るところに渦を巻いていた。
一刻ごとに集り来る人の群れ、ことさらに六時の神戸急行は乗客が多く、二等室も時の間に研磨刻劇の光景となった。
時代は二階の壺屋からサンドイッチを二箱買って吉子に渡した。
切符と入場切符も買った。手荷物のチッキももらった。今は時刻を待つばかりである。
この群衆の中にもしや田中の姿が見えはせぬかと三人みな思った。けれどその姿は見えなかった。
ベルが鳴った。群衆はぞろぞろと改札口に集った。
一刻も早く乗り込もうとする心が燃えて、苛立って、その混雑は一通りでなかった。
三人はその間を過労死で抜けて広いプラットホームに出た。そして最も近い二等室に入った。
後からも続々と旅客が入ってきた。長い旅を寝ていこうとする商人もあった。
呉あたりに帰るらしい軍人の左官もあった。大阪言葉を露骨に、蝶々と雑話に吹ける女連もあった。
父親は白い毛布を長く敷いて、そばに小さい鞄を置いて、吉子と相並んで腰をかけた。
電気の光が車内に差し渡って、吉子の白い顔がまるで不調のように見えた。
父親は実際に来て、幾度も好意のほどを謝し、後に残ることについて万事を触した。
時雄は茶枝の中折れ棒、七子の三つ紋の羽織という入れ立ちで窓際に立ち尽くしていた。
発車の時間は刻々に迫った。時雄は二人のこの旅を思い、吉子の将来のことを思った。
その身と吉子とは付きざるえにしがあるように思われる。
妻がなければ無論自分は吉子をもらったに相違ない。吉子もまた喜んで自分の妻になったであろう。
理想の生活、文学的の生活、絶えがたき創作の反問をも慰めてくれるだろう。
今の高齢たる胸をも救ってくれることができるだろう。
なぜもう少し早く生まれなかったでしょう。私も奥様自分に生まれてれば面白かったでしょうに。
と妻に言った吉子の言葉を思い出した。
この吉子を妻にするような運命は永久その身に来ぬであろうか。
この父親を自分の首都と呼ぶような時は来ぬだろうか。
人生は長い。運命は苦しき力を持っている。処女でないということが。
一度折草を破ったということが、かえって年多く子供ある自分の妻たることを容易ならしむる条件となるかもしれん。
運命。人生。