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寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見、ご感想、ご依頼は公式Xまでどうぞ。
寝落ちの本で検索してください。
それと番組フォローもどうぞよろしくお願いします。
林芙美子の生涯と作品
さて、今日は林芙美子さんの落合町山川記というテキストを読もうかと思います。
山川記は山に川ですね。
林芙美子さん、初めて読みます。
日本の小説家。
幼少期からの不遇の繁盛を綴った自伝的小説《放浪記》で一躍人気作家となる。
史上豊かな文体で暗い現実をリアルに描く作風。
一貫して庶民の生活を共感を込めて描き、流行作家として明治・大正・昭和を駆け抜けた。
代表作は他に万菊、浮雲などがあるということで。
この落合町っていうのが東西線高田の婆駅と中野駅の間にある落合駅というのがあるんですが、この駅の近くのところの話ですね。
実は僕この落合駅近所って5、6年間住んだことがあるんで、この山手通り沿いに林芙美子記念館はこちらみたいな看板が立っているのを見たことがあったんで、つい沿い行くことはなかったんですけど、
あ、あのその林芙美子さんだなという感じですね。
記念館ができるぐらいの作家さんということですよね。人気のね。
今日は読んでいこうと思います。
中井、西武線と大江戸線の中井駅のね、どちらかっていうと大江戸線の中井駅の入り口の近くに看板がポツンと山手通り沿いに置いてあるんですけど。
だから僕としては少し馴染みのある土地なんで、楽しみではありますが、まあね、皆さん知らない人は全然絵が浮かばないと思いますけど、まあお付き合いください。
それでは参ります。
落合地区の思い出
落合町参戦記
遠き故郷の参戦を思い出す心地するなり
私は和田堀の明宝寺の森の中の家から、席のある落合川のそばの庭の家に引っ越しをしてきたとき、畑を使いながらこのような歌を思わず口ずさんだものであった。
この席の見える落合の窪地に越してきたのは尾崎みどりさんという非常にいい小説を書く女友達が、
ずっと前、私のいた家が空いているから来ませんか?とこのように誘ってくれたことに原因していた。
前の明宝寺のように荒れ果てた感じではなく、木口のいい家で近所は大変にぎやかであった。
二階の障子を開けると川沿いにネムの花が咲いていて、川の水が遠くまで見えた。
東中野の駅までは私の足で十五分であり、西武線中井の駅までは四分ぐらいの地点で、
ここも明宝寺の境内にいたときのように落合の火葬場の煙突がすぐ背後に見えて、雨の避難図はきな臭い火灯焼く匂いが流れてきた。
その頃、一乗七線の原稿用紙を買いに、中井の駅のそばの文房具屋まで行くのに、
おいはぎが出るという横丁を走って通らなければならなかった。
夜など何か書きかけていても原稿用紙がなくなると我慢して眠ってしまう。
ほんの一、二丁の暗がりの間であったが、ここには墓地があったり、
掘り返した赤土の中から昔の人骨が出てきたなどという風評があったり、
また時々おいはぎが出ると聞くと、なかなかこの暗がり横丁は気味の悪いものであった。
その頃はまだ手紙を出すのに、東京市街上落合と書いていた頃で、
私のところは窪地にありながら、あざ上落合みわと呼んでいた。
その上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合といって文化住宅がたくさん並んでいた。
この下落合と上落合の間を落合川が流れているのだが、
本当は苗生寺川というのかもしれん。
この川沿いにはまるで並木のようにネムの木が多い。
5月頃になるとぼんやりした薄紅の花がふさぶさと咲いて、
いろいろな小鳥が関の横の小さい島になった土の上に飛んでくる。
まず引っ越しをしてくると庭の雑草をむしり、柿根を取り払ってほうせん花や岩雷香などを植えた。
庭が川で尽きてしまうところに大きな榎木があるので、
その下が薄い日陰になり、なかなか趣があった。
私は障子を張るのが下手なので、16枚の障子を全部尾崎女子に任せてしまって、
私は大きな声で自分の作品を尾崎女子に読んで聞いてもらったのを覚えている。
尾崎さんは鳥取の生まれで、海国的な寂しい声を出す人であった。
私より十年もの先輩で、庭の家から芽と花のところに草原の見える二階を借りてつましく一人で住んでいた。
この尾崎女子は誰よりも早く私の書くものを愛してくれて、私の詩などを時々反省してくれては心を熱くしてくれたものであった。
明宝寺に住んでいた頃、やっとどうやら私の原稿が売れ出してきていたのだが、この家へ越して一ヶ月すると、私は放浪機を出版することになった。
原稿が売れるといってもまだまだ、国へまで送金どころか、自分たちの口が時々冷やがるのが多くて、私はその日も勤め口を探して足を突っ払して帰ったのであった。
玄関のコンクリートの濡れた上、速達が落ちていたのを、めったにないことだと胸をドキドキさせて読んでいくと、放浪機出版という通知なのであった。
しばらくは私は目がクラクラして台所で水をごくごく飲んだものだ。嘘のような気がした。誰かがいたずらしたのだろうと思った。
七八年という長い間、私の原稿などは満足に発表されたことなんぞなかったのだ。
原稿を持って雑誌社へ行って、電車賃もないのでぶらぶら歩いて帰ってくると、時に持って行った原稿の方が先回りして速達で帰っていることがあった。
この放浪機では、なんだかずいぶん印税をもらったような気がして嬉しかった。
長い間の借金や不義利を済ませて、私は一人で市内に遊びに行った。
ハルピンや長州、宝天、武潤、錦州、三重利保、新丹、上海、南京、甲州、蘇州。
これだけを約二か月で回って、放浪機の印税はみんな使い果たして、神の地合いの小さい家に帰ってきた。
作家としての成長
帰ってくると、放線化はみなはじけていて、元来行ももう終わりであった。
その年の十二月には、東京朝日の夕刊小説を書かせてもらった。
雪の降りそうな夜更けのことで、私は十銭玉を持って風呂へでも行ってこようとしていたときであった。
朝日の時岡さんが、「富子さん、今日はいい知らせを持ってきました。」と言って上がってこられた。
私は大馬力でその夕刊小説を書いた。
暮れの二十八日にもらった千円以上の金に。
私は馬鹿のようになってしまって、井の一番に銀座の山野でハンガリアンラプソディのディスクを買った。
転勤で一番いい天ぷらをくださいと言って、女中さんに笑われた。
そして一番いい自動車に乗って帰ろうと思って、あんまり良くないのに乗って家まで帰ったのを覚えている。
家には夫や二、三人の絵描きさんたちがいた。
みんな貧乏で、お正月はしなそば会をしようと言っていた連中も、私の持って帰った札束を見るとみんな、「憂鬱じゃのー。」と言ってひっくり返ってしまった。
お正月はこの貧しく有望な絵描きさんたちを呼んで、実に壮大な宴を張った。
国には二百円も送ってやり、あっという両親の声が東京まで聞こえてきたような気がした。
両親は私の描くものを一番軽蔑していたので、その申し開きの見栄もあり、なかなかに人生愉快なものの一つであった。
家の前には井戸があった。
朝夕この井戸はにぎわって子どもたちがたくさん群れていた。
私は玄関の前に御座を敷いて子どもたちとママゴトをして遊んだ。
一生のうちこのような幸福なことはないと思った。
有感小説は出来がよくなかったが、いろいろな人が金をもらいに来た。
私は子どもたちと御座の上で遊びながら、お金をもらいに本所から歩いて来たとか、深川から歩いて来たとかいう人たちに、
林さんはさっき出て行きましたよ、と嘘を言った。
中には、あなたが女中さんですか、お妹さんですか、と聞く人もあったが、
写真に出ている顔は満足に私に似ているのがないので、誰も不思議がりもせず帰って行った。
初めの頃は正直に1円、2円とあげていたのだが、日に3、4人も来られると、まるで話し合わされたようで、もう不快で仕方がなかった。
持ちや貸しをくれという人の方がよっぽど好意が持てた。
落合川を隔てた丘の下落合には、片岡鉄平さんや吉谷信子さんが住んでいた。
鉄平さんにはよく中井の駅の通りであった。
吉谷さんは玄関の前に井戸のある私の牢屋に時々訪れて、面白い話をして行かれた。
実際、牢屋と呼ぶにふさわしく、玄関の前に井戸があるので、家の前は水の乾く暇もなくて、訪ねてくる人たちは足元を用心しなければならない。
新聞社で写真を撮りに来ると外に写す場所がないので、よく井戸を背景にして写してもらった。
前は二軒長屋の平屋で法平交渉に勤める人と下駄の配慮をする人。
隣家は宝石類の飾り屋さんで、三軒とも子供が三、四人ずついた。
その子供たちがみな元気で、家に飼っていた犬の毛をむしりに来て困った。
この落合川に沿って上流へ行くと、バツケという大きな関があった。
この辺に住んでいる絵描きで、この関の滝のある風景を知らない者は潜りだろうと思われるほど、春や夏や秋には、この関を中心にして画家を置いている絵描きたちがたくさんいた。
中井の町から沼袋への境なので、人貨が途切れて広漠たる原野が続いていた。
鷹をあげている人や模型飛行機を飛ばしている人たちがいた。
馬小屋種の花がいっぱいだし、ピクニックをするに格好の場所である。
この草原の尽きたところに大きな豚小屋があって、その豚小屋の近くに貝ひとよさんという二家の絵描きさんが住んでいた。
ご主人を中出さんやさんと言って、この人は定点派だ。
お二人とも酒が好きで、画壇には二人とも古い人たちである。
私はこの貝さんの半生半鈍の絵が好きで、馬付の席を越しては豚小屋の奥の可愛いアトリエへ遊びに行った。
夕方などこの馬付の板橋の上から目白商業の山を見ると、まるで六甲の山を遠くから見るように色々に色が変わって暮れていってしまう。
目白商業といえば、この学校の運動場を借りては、よく絵を描く人たちが野球をやった。
のんびり校などという発揮を来た連中などの中に中出さんも何かも混じっていて、応援の方が汗が出る始末であった。
来る人たちが、お茶屋は遠いから大久保あたりか、いっそ本郷あたりに越してきてはどうかと言われるのだけれど、
2ヶ月や3ヶ月は平気で貸してくれる店屋もできているので、なかなか好きにはなれない。
それに散歩の道がたくさんあるし、哲学堂も近かった。
春の哲学堂の中は静かで素敵だ。認識への道の下にある心をかたどった池の中には、
お玉着紙が泳いで秋間にいっぱいすくって帰ってきたものだ。
シナに遊んだ翌年の秋、私は一冊の本を出して、欧州へ一カ年の旅程で旅立った。
パリへ行ってもロンドンへ行っても、よくバツケの白い席や哲学堂のお化けの夢なんぞを見て困った。
もう帰れないのではないかと思った欧州から去年の夏、また神落合の絵の木のある家に帰ってきた。
庭にはダリヤやサッコウやカカリヤなどの盛りで、絵の木はよく茂って深い影をつくっていた。
その頃尾崎さんも健在で鳥取から上京してきていた。
相変わらず草原の見える二階部屋で、私が欧州へ旅立っていく時のままな部屋の構図で、
机は机、鏡台は鏡台という風に、ちっと無一を変えないで畳が赤く焼け付いていた。
障子にぴっちりつけて机があった。
その机の上には障子に風呂敷が秒で止めてあった。
この動かない構図の中で、尾崎さんはコツコツ小説を書いていたのに、
私は移り気なのか、市内へ行ってみたり、欧州へ行ってみたり、そして部屋の模様を変えてみたりした。
十畳ぐらいの部屋に小さい机が一つに鈴振り箱のいいのでもあったらというのが理想なのだが、
みわの家は物置のように狭くて、ちょっと油断しているとすぐ散らかって困った。
私は欧州から帰ってくると、すぐまた戸隠し山に出かけた。
尾崎さんとの思い出
山で一ヶ月を暮らして帰ってくると、尾崎さんは体を悪くして困っていた。
見ぐれ人の小さい瓶を二日で開けてしまうので、その作用なのか、夜になるとトンボがたくさん飛んで行っているようだと言ったり、
狩りが家の中へ入ってくるようだと、夜更けまで寂しがって私を話さなかった。
目の下の草原にはずいぶん草がほうけてよく虫が鳴いた。
ずいぶん虫が鳴くわねえと言うと、
あなたも少し頭がへんよ。あれはラジオよと言ったりした。
私も空を見ていると本当にトンボが飛んできそうに思えた。
風が吹くと本当に狩りが部屋の中へ入ってきそうに思えた。
ベランダに楽しみに植えていた幾本かの麻顔のツルも切り取ってしまってあった。
そんな状態で体が疲れていたのか、
尾崎さんはもう秋になろうとしている頃、
国から出てこられたお父さんと鳥取へ帰って行かれた。
尾崎さんが帰って行くと、
この草原に家が建ったら嫌だなあと言っていたのを裏切るように。
新しい30円検討の家が次々と建っていって、
紫色の花をつけたキリの木も、
季節の匂いを運んだ栗の木も、
てんてんとしていた桃の木もみんな切られてしまった。
尾崎さんが鳥取へ帰って行ってから間もなく、
私は吉谷さんの家に近い下落合に越した。
落合はやっぱり離れがたいのか。
前の家から川一つ隔てた近さであった。
誰かが植民地の領事館みたいだと言ったが、
外から見ると丘の上にあってずいぶん背が高く見えた。
庭が広くて、庭の真ん中には水蜜桃のなる桃の木の大きいのが一本あった。
伊藤真筋さんは何も褒めないでこの桃の木だけを褒めて行った。
庭にいる頃も草花を植える趣味をひどく軽蔑して、
何でも木を植えなさいと言っていたが案の定。
下落合の家に来ても桃は春のうちに枝を下ろしてやれとか、
なかなか交釈が難しかった。
ここへ移ってきてからもいろいろの人たちが来た。
女流作家の人たちもたくさん来てくれた。
みんな若い人たちで、暗く長い私の文運つたな彼氏コールの人たちと違って、
もう一年か二年で頭角を表した華やかな人たちばかりであった。
鳥取へ帰った尾崎さんからは、勉強しながら西洋しているという恩心があった。
非常に稀な才能を持っている人が鳥取の海辺に引っ込んでいったのを私は寂しく考えるのである。
時々かつて尾崎さんが二階狩りをしていた家の前を通るのだが、
口かけた物欲しのある部屋で尾崎さんは、
私よりも古く御茶屋に住んでいて、霧や栗や桃などの風景に愛護されながら、
第七感慨奉公という実に素晴らしい小説を書いた。
文壇というものに孤独であり、痴筆で病心なので、
この第七感慨奉公が素晴らしいものでありながら地味に終わってしまった。
年配もかなりな方なので、一方の損かもしれないが、
この第七感慨奉公という作品は、どのような女流作家も及びもつかない高謝なものがあった。
新しい環境の変化
私は御茶屋側に貸した湊橋というのを渡って、
私や尾崎さんの住んでいた町へ来ると、この地味な作家を思い出すのだ。
いい作品というものは、一度読めば恋よりも思い出が苦しい。
私の家の出口には中井ダンスホールというのがある。
まだ一度も行ったことはないが、なかなか盛っているのだろう。
門を入ると足のすれ合っている音やレコードが鳴っている。
私の家はかなり広いので、セットの貧弱なのが心残りなのだが、
あんまり漠然としているので、早々旅をしなくなった。
あっちの片隅、こっちの片隅と自分の机を移していくのだが、
こんな大きな家で案外暗中の書斎がない。
時に台所の台の上で書いたり、茶の間で書いたりして旅へ出たような気でいたりした。
ここの家からは中井の駅が3分くらいになり、吉谷さんの家が近くなった。
近くなったくせに訪問し合うことはまれで、なかなか余韻のあるご近所だと思っている。
東中野へ出ていく道には、大名座さで囲まれた板垣直子さんのおくゆかしい構えがある。
ひと頃、太田陽子さんもお茶屋の材木屋の2階にいたのだが、牛米の方へ越してしまった。
中井の駅の前には辻山春子さんの旦那さんがお医者を開業されたし、
上塚一子女子もお茶屋には古くから健在だ。
これでなかなか女流作家が多い。
お茶屋には女流作家とプロレタリア作家が多いというけれど、一体に人癖ある人がたくさん住んでいる。
私がお茶屋に移り住んだ頃、夏になると川沿いをポッカチョーか何かを歌っている男がいた。
決まって夜の8時か9時頃になると、根室木の梢を通して丸みのある男の声が響いてきていた。
その頃、うちにいた女の書生さんは、
どんな人でしょうね、と興味を持っていたが、ある夜、使いから帰ってくると、
コンガソリーを着て蛇の目の傘をさして、ちょっといい男でしたわ、と言った。
悠々と歌いながら歩いていたというのだ。
それが下落合の高台の家に越してきてからも夏の夜はその歌声が聞こえていた。
だんだんあの声はうまくなっていくわね、と噂をしていると、
もうその声は蓄音器に入っていると女中がどこからか聞いてきた。
あの人は朝鮮の人ですって、いい声ですね。
前の家の近くの和歌屋という喫茶店では、その朝鮮の人のディスクをかけていた。
音楽の思い出というものはちょっといいものだ。
その頃はその歌を歌ってお茶屋を歩いた人も偉くなってしまったのか、
夏になっても歌が聞こえなくなってしまった。
私の隣がダンスホール、その隣が波室舞会をやっている家で、
ダブリューショー会というのだけれど、ダブリューショー会なんてちょっと変わった名前だ。
その次が通りを一つ越して武藤大正亭なのだが、
お葬式のある日にどこからか花輪を間違えて私の家へ持ち込んできた。
大方、託務省の受動車や武藤家の受動車が家の前まで並んでいたからであろう。
遊びに来ていた母親は大変縁起が良いと言って喜んでいた。
町内の人が国旗を出してほしいというので国旗を買いに行くやらして、
ひっそりと同じ町内のご不幸を哀悼していたのに、
武藤亭の近くで磯節か何かのラジオが鳴っているのには驚いてしまった。
武藤亭の前にはアルプスという小カフェがあって、
小さい女級さんが武藤亭の伝心柱に持たれてよくすずみながら煙草を吸っている。
武藤亭の白い長い石垣を出外れると、
山の方へ登って行く誰にもそんなに知られていない石の団団がある。
実に静かで長い団団なので、私は月の良い夜などこの石の団団へ犬を連れてすずみに行く。
昼間見ても良い石の団団だ。
この家へ越して来た頃、駐在にいい巡査士がいた。
もうかなりな年配な人だが、道で子供たちがキャッチボールか何ぞをしていると、
自分も青年のようにその中へ入って行ってしまって、子供たちに人気を呼んでいた。
何かメイクを一つ描いて頂けませんか?と戸籍調べの折頼まれたのだが、
そのままになってその巡査士もいつからかもう変わってしまった。
越して来た頃、石の巻の女でおきみという非常に美しい女を女中に使っていた。
21歳で本を読むことが嫌いであったが、目のキリッとした娘で髪の毛が実に黒かった。
2ヶ月くらいして里へ帰って行ったが、すぐ地震に見舞われて、
生きているのか死んだのか未だに見当がつかない。
この女の姉は芸者をしていた。
家にいる間中気立ての優しい娘で、帰って行ってからも俺に触れては、
おきみはどうしたかしら?と私たちの口に出てきた。
今は15歳になる新州から来た女中がいる。
これも百姓の娘で気立てのいい子だ。
国への恩神に、隣が武藤大将様のお屋敷で、
お葬式はお祭りよりもにぎやかでありました。と葉書に書き送っていた。
原稿用紙もやっぱり中井の駅の近くの文房具屋で、
この頃は千枚ずつ届けてもらうのだが、
十年一日のごとく、
小学生の使う紙落合池添支店製のを使っている。
こうして来た頃、黒狩横丁を走って出なければ、
原稿用紙が買いに行けなかったあの通りにも、
家が四五軒も建ち、何か保家卿のような家もできた。
寂しかった黒狩横丁の名残に、
今はネムの木が一本残っているきりで、
面白いことに、その黒狩横丁にできた二階屋の一つに、
私の母たちが引っ越して行った。
夏は涼しいが、冬は北向きで日が刺さんので引っ越しする。
と矢野氏さんに言うと、
一円くらいはお前すぐ負けてくれるそうだよ。
どこから聞いてきたのか、母はこんなことを言って笑っていた。
母のところへ行くたび、
母を目をつぶって走って通り抜けた三、四年前を思い出すのであった。
その北向きの家には、二階をヴァイオリンを弾くご夫婦に貸して、
もう老夫婦の住処らしい色に染めてしまって、
台所から見える墓場なども案外に賑やかなものだと言っていた。
老いはぎの出た黒狩の横丁に家が建ち、
その一軒に自分の親たちが住もうなどとは思いも寄らなかった。
それに二階のご夫婦は世にも善良な人たちで、
奥さんはスラリとしたスペイン型の美人であった。
御弟子は活動の方へ出ている人なのだが、
時々母の持ってくる話では、
陶器中は何かの虐待がいらんごとになってしまって、
お前二階で遊んでおんなさるが、
孤独と交流の記録
ということであったが、
市内になってしまったとは言っても、
郊外らしい活動感まで陶器家になってしまっては、
学士さんもなかなか骨なことであろう。
今は秋らしくなった。
だが日中はなかなか暑い。
私は二階の板の間に寝台を持ち出して寝ている。
寝ていると月が体に降り注ぐように明るんで、
火を消していると虫になったような気がしてくる。
高台なので川の向こうの昔住んでいた家や
尾崎さんのいた家。
昔は広い草の原であった住宅地などが
一望の家に見える。
前いた家には、
家に働いてくれていた花子という女が
世帯を持って住むようになった。
小さい屋根に私たちがしていたように
時々布団が干してある。
私が所在なくしたように、
小窓からぼんやりした花子の顔が
川一つ隔てた向こうに見える。
下地合いの丘には
あの細々と背の高い榎木はないが、
アカシアとポプラと桜が私の家を囲んで、
春は柿根の八重桜が見事に咲き、
右手の桜の柿根の向こうは
ひろびろとした荒地になっている。
この荒地には山芋ができるので、
よく家中で大変な格好をして掘りに出た。
誰も彼もいなくなったので
庭を作ることも嫌になり、
庭は雑草と月見草の格好に任せている。
時々空き家ではないかと聞きに来る人がある。
私は上落や庭の家で、
家へ来る青年が作ってくれた
かまぼこ板の標札を
ここでも玄関へ釘付けて
それで平気でいるのだ。
だいぶ古びていい色になったが、
この字が下に書けなくなってしまって、
小さく書いてあるのが気にかかって仕方がない。
また夏になった。
もう前ほど女流の人たちも来なくなった。
城夏子さんや辻山さんがやってくるくらいで
男の人たちの来客が多い。
山田正三郎さんもこの辺では古い住み手だし、
村山智義さんも古い一人だ。
また私の家の上の方には
川口気返しのアトリエもあって、
一、二度訪ねてこられた。
素朴な人で、長い間外国にいた人とも思えないほど
しっとりと日本風に落ち着いた人である。
風評で有名な中村恒子さんも
うちの近くの2階部屋を借りて絵を描いているし、
有望な絵描きの一人に入れていい
落合の風景と日常
独立の今西徹君も
私の白い玄関に100号の入線画を描けてくれて、
相変わらず飯屋の払いに困っている。
家の前は道を挟んで線路になっている。
その線路はどの辺まで伸びていっているのか。
こんなに長くいて沼袋までしか行ったことがないので知らない。
朝朝窓から覗いていると
近郊ピクニックの小学生たちの白い帽子が
電車の窓いっぱいに覗いて走って行く。
夕方になると疲れたようなピクニック帰りが
また一杯電車に群れて都会の方へ帰って行った。
私の仲のいい友達が
中井の駅をまるでロシアの商駅のようだと言ったが、
雨の日やお天気のいい夕方などは
低い線路沿いの気策にもたれて
上落合や下落合の神さんたちや奥さんたちが
誰かを迎えに出ている。
駅の前は広々としていて白い自動電話があり、
自動電話の前には前大詩人の奥さんであった人が
ワゴンという小さなカフェを開いている。
自動電話に沿って下へ降りると落合川だ。
嵐の日などはよくここが切れて
遠回りしなければ帰れなかったのだが、
この川を半分防岸工事をして
小鳥屋田の西洋洗濯屋田の麻雀草と
もう次々にできてしまって、
この頃はよなよな駅の横に植木市が建った。
この植木市には時々見覚えの
ネムの若木などが売りに出ていることがある。
植木市といっても本格的なものではなくて、
カーワイトの光と薪水霧で
美しく装っているようなものが多かった。
でも値段が安いので、私はツルバラや
唐辛子の鉢植えなどを買いに行った。
まるで気絶したようなんね、と冷やかすと
怒りながら負けてくれた。
八分ごとに来る電車で
友達が来るのを待っている間に
マチボウケを送って
花鉢を五つ六つも買わされたこともあった。
どっかいいところと思っているのだけれど、
落合は気楽なところだ。
もう私の家の壁のシミ一つ覚えてしまったのだが。
朝朝、寝床の中から白い壁を見ている。
白い壁にいつの間にか目のシミができてくると、
私はアルコールでイライラしながら拭いていくのです。
家が古いので、一人でいると
追い立てられるように寂しい時がある。
そんな時は女中と二人で
町へ飛び出して行ってしまう。
今のところ、落合の町より他に
そう落ち着ける場所もなさそうだ。
思い出と土地への愛着
この住み良さは四年もいるのによるのだろうが、
町の中に川や丘や畑などの起伏が
たくさんあるせいかもしれない。
2003年発行。
いわなみ書店。いわなみ文庫。
林文子随筆集。
より独了読み。
終わりです。
んー、四年住んだ時の文章か。
僕六年住んでましたからね。
ちょっと馴染みがあって嬉しかったなぁ。
あのね、新宿区の端っこなんですよ。
道の一本向こう行くと中野区とかね。
ちょっと北へ足伸ばせばすぐ、
あれはなんだ、豊島区か。
なんかね、新宿区の端っこ
っていう感じだったんです。
ちょっとあんまり新宿っぽくないんですよね。
んー、昔はそんな山とか川とかあったんだなぁ。
川はね、あるんですけど中井の近くに。
そんな草原があったっていうのはちょっと驚きですね。
いつの頃だろうな、これ。
初出が1933年、戦前か。
第二次世界大戦前。
なるほど。
んー、なるほどなるほど。
なんかいいですね。
近い人はこれ聞いたら嬉しいかも。
でも土地勘ないと全然わかんないでしょうけどね。
はい。
といったところで、
今日のところはこのへんで。
また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。