00:01
はい、お疲れ様です。なおくんです。ということで、今日もよろしくお願いします。今日は2024年の10月の30日、水曜日でございます。
はい、あっという間にもう10月も終わりですね。皆様いかがお過ごしでしょうか。
はい、ということで、今日もね、やっていきたいと思うんですけども、
えーっとですね、まあ僕はね、本当にね、自己表現がめちゃくちゃ苦手なんですよね。
あのー、子供の頃はね、作文が書けない子供だったのでね、
あのさ、なんていうか、算数とか国語とか理科みたいな、
ね、算数国語理科社会みたいなテストとかあって、それって答えがあるんですよね。
これを書けば100%合ってるみたいな、そういう答えが確実にあるものに関してはめちゃくちゃ得意だったんですよ。
だって答え書けばいいだけだから、なんでこんな簡単なもので点数が取れないの?みたいな感じで本当に得意だったんですけど、
ただね、その一方で作文とかが全然書けない子供だったんですよね。
なんでかっていうと、作文って答えがないんですよね。どう書けばいいかっていうそのお手本というか答えというかそういうものがないので、
もうなんか作文の時間になるとね、フリーズしちゃうんですね。もう手が全然動かない。一行も書けない。
なんかさ、何を書いていいのかわからないっていう感じになっちゃって。
でもさ、得意な人はさ、全然もう書けるわけですよね。まあ大人になった今思えばさ、別に何書いてもいいっていうことだから、
何を悩んでるのって感じかもしれないけど、当時の自分にとってはもうマジでその作文の時間が苦痛すぎて、
本当にね、何も書けないんですよね。 いや何書いてもいいっていうのはさ、頭ではわかってるんだけど、なんかね体が固まっちゃうんですよね。
それはね、なんでかっていうと、今思い返してみると、
あの、なんていうか、自由に
発言をすることへの恐れみたいなのがあったと思うんですよね。 自由に何かを表現してそれにバッテンをつけられたら
どうしようみたいな。 なんか自由に表現した結果、それに点数をつけられて評価されて、それが悪い結果だったら
もうなんか、自信をなくしてしまうというか、自分自身を否定されたような感じになってしまうんじゃないか、みたいなところで
なんかね、そういうことにビビってたんですよね。 その感覚は多分ね、大人になった今も未だに引きずっておりまして、
やっぱりなんかこう、 自由に何かを表現していいよっていうのは本当に
03:04
苦手なんですよね。 だからその苦手を克服するためにこうやって
ちょっとした、こうなんか表現活動みたいなものをやってるんですよね。 だからラジオトークで収録トークしてるのも本当は
めちゃくちゃ苦手なことなんですよね。 別にやんなくたっていいんだけど、その苦手を克服したいから
自分の今できる環境で自己表現をしているのかもしれないですね。 で結局さ、自己表現をさ、なんでこんなに怖がってたかっていうと、さっきも言ったように
なんかあの 自分
の表現したことによって その点数をつけられて、もしバッテンをつけられたらどうしようっていうね
そのつまり なんていうかさ
学校教育の弊害でもあるんですよね。 つまり学校というところで成績という丸か×、そしてそのそれによるランキングみたいなもので
こうなんかこう丸を取ることが正解だ、良い評価を得ることが正解だみたいな価値観に
洗脳されてしまって、そこでテストとかそういったものは100%ね、これを書けば正解っていうのが分かっているからいいんだけど
作文みたいなものだと本当に何をやっていいかわかんないし、何が正解、何が不正解かもわからない状況なので
なんかね、そこで正解を求めようとすると本当に体がフリーズしちゃう、脳がフリーズしちゃうっていうこと
だったんですよね。ただね、正解か不正解を求めることがそもそもね、間違いなんですよね。
それは今になったらわかるんだけどさ、子供の頃はそんな客観視できないからね。 だから
その本当にね、地獄の時間だった、作文の時間。 作文とかね、あとまぁ
絵を自由に描いていいよみたいなね、そういうのも本当にね、苦手でしたね。
図工の時間ですかね、図画工作。で、なんか
写真とかそういうお手本みたいなものがあって、それをまんま模写しなさいとか、そっくりに書きなさいっていうのはすごい得意だったんですよね。
それも同じようになんでかっていうと、これをなるべくそっくりに書けばそれでオッケーってことでしょう。
だからお手本がある、答えがあるものはできるんだけど、何にもない真っ白な画用紙に自由に何でも書いていいよ
みたいな、そういうものはなんかやっぱりね、固まっちゃうんですよね。 何が正解なんだろうとか考え出しちゃうんでしょうね、きっと。
そうするとやっぱりさ、答えがないから何も書けないのかみたいな感じになっちゃってさ、で
で、まぁそれがなんでかっていうと、さっきもまたちょっと話に戻りますけど、あの学校教育の弊害、つまりその正解を求めようとしてしまう
06:02
その思い込みというか、反応みたいなものができてしまう。それはそういった学校教育の弊害でもあるんですが
じゃあ学校教育のせい、せいだからとかって言ってたら、結局それってまあ多責になっちゃうんですね。
要は誰かのせいにしてしまうということなので、それだとなかなかね、自分自身が改善していかないので
まああえてね、この自分に原因があるというふうに考えていくと
結局ね、自分自身のエゴということに気づいたんですよね。 自分自身のエゴってどういうことかって言うと、自分のことしか考えてないっていうことなんですね。
自分さえ良ければとかそういうことをエゴって言いますよね。 自己本位というかさ、自分中心みたいな。
で、それはどういうことかって言うと、 つまり自分の作文が恥ずかしい、自分が作文で
こう書いたら周りからどう思われるだろうかとか、自分の作文がなんか評価されたいとか、なんかそういうふうに自分がどう見られるかっていうことを過剰に
意識してたんですよね。 それはみんな多少なりともあると思うんだけど、僕はそれが異常に強くて、それは多分今もそうなんですけど
なんか自分がどう見られるかっていうことに異常なまでにこう執着してしまうことによって、何にも書けなくなっちゃうっていうことがあって
でもさ、それってすごく邪魔な感情なんですよね。邪魔な思いというか。
でもさ、それでさ、結局自分がどう見られるかっていうことに執着してしまって、作文が一行も書けないと先生が困るんですよね。
担任の先生が。だって僕が作文書けないと先生帰れないんですよ。 で、僕ね居残りしてたんですよね。
あの作文できた人から帰っていいよみたいな感じになってさ、あのみんな帰っていくんだけど、僕だけ作文書けないでいるわけ。
でも作文なんてさ、別に何書いたっていいんだから適当に書けばいいじゃんとかってさ、言うわけよ。
で、クラスメイトとかもそうやってさ、なんで書けないのみたいな。もう適当に書けばいいじゃんみたいな感じで言ってくる子たちもいましたね。
でも僕はね、何も書けないんですよね。で、担任の先生も本当にね困り果ててね、担任の先生もね、こう書きなさいとは言えないんですよね、多分ね。
だからなんかこう、もう本当にただただ、もうあの、早くしてみたいな感じで待ってるんですよね。
でもさ、まあ大人になって今思えばめちゃくちゃ迷惑な子供だなって思うわけなんですけど、その当時の子供時代の僕はそんな余裕ないですから、
まあ申し訳ないなっていう気持ちは多分あったと思うんですけど、それ以上に自分がどう見られたらどうか恥ずかしいとか、なんか
09:05
ね、こんな作文書いて評価が×くだされたらどうしようとかそういうことでいっぱいいっぱいでね、なんかね、書けなかったんですよね。
でもそれはもう本当にどうでもいい感じなんですよね。僕が何書こうか周りは別にどうでもいいんですよね、正直。そうじゃないですか。だって作文なんて30人がいろんな作文書いてるけど、
他のクラスメイトの作文が何書いたかとか別にどうでもいいじゃないですか、ぶっちゃけ。覚えてないし、で下手くそな作文書いてた子がいたとしても別に
それに対してね、なんとも正直思わないですよね。だけどいざ自分自身のことになってみると、それがどう見られるかっていうことを異常に気にしてしまって、全く一行も書けなかったっていうね、ことがあったわけなんですよね。
だからね、それね、あの、でさ、
もう結局そういうことなんですよね。それは大人になった今も、やっぱりなんか克服しようと思っても、まだ根っこにはそういうのがあって、
なんというかさ、こういう安全な場では割とこう発信ができるんだけど、なんかたくさんいる人のなんかそのライブ配信とかで、なんか全くコメントができなくなってしまったりとか、
そういうのも多分ね、なんかね、やっぱりその当時の作文が書けない子供だった自分のトラウマというか、そういうなんか気持ちを引きずってるんですよね。
つまりたくさん人がいるライブ配信で自分がコメントしてしまうと、そのコメントをどう評価されるんだろうっていうことを異常に考えすぎてしまうと、自分がフリーズしてしまう。
でもそれはもう完全に自分本位の考え方で、そうじゃなくて、この場を盛り上げようとか、この場を盛り上げるためにどうすればいいかっていう視点に立てば、自分がコメントしたことが周りからどう思われるかとか、マジでどうでもよくなるんですよね。
だからこの、この場の、この枠主さんの場を盛り上げるために何か自分が貢献できるか、そういうそのエゴと反対の他者のために何かできるかっていう視点に立つことができれば、
なんていうかね、自分のことってある意味どうでもよくなるんですよね。それは理屈でわかってるんだけど、なかなかできないっていうね、そういうことがあるんですよね。
ということなので、まあなんかね、あの、なんか自分のことがなかなか発信できないなとか、なんかあの、なかなかこう自分のことが表現できないなっていうふうに思ってる人は、そういう
なんかこう、自分のこと、自分がどう思われるかに異常な場で執着してしまっていることが結構ね、根深くあるかもしれないので、その相手を喜ばせるためにはどうすればいいかって考えると、割とこうなんか何でも表現できるようになるんじゃないかなというふうに思った
という話です。はい、ありがとうございます。