2021-09-27 11:47

【108日間🚢世界一周の船旅の思い出】思い出の旅へ❣️いざ出航

さあ❣️20年前の旅の日記を紐解きながら
共に世界一周の船旅へ、参りませんか⁉️

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00:06
こんにちは。横浜で15年以上、犬の保育園の先生を行っている、なおちゃん先生と申します。
さて、今回からは私が20歳の時、ピースボートで世界一周の船旅をした時のお話を少しずつしていこうと思います。
というのは、思い返せば私の世界一周の船旅から今年はちょうど、あるアニバーサリーイヤーなんですね。
この時は、世界19ヶ国、22の港を巡る合計108日間の船旅でした。
遥か昔の記憶にも関わらず、今でも数々のシーンが時が止まったように鮮明に思い出されるのは、私が年をとった証拠でしょうか。
その記憶を辿る旅を、これからしばらくの間お付き合いいただければと思います。
朝靄の中、大極拳をデッキで行いながら入港した上海のバンド。
警官バッジを売りつけられそうになったアンコールワットと、ラピュタを思い出したアンコールトム。
昨年行った時とは全く違う、うらさぶれた漁村だったダナン。
16箇所採寸して作ってもらったセミオーダーの青鞘。
透き通る航海でシュノーケリングに時を忘れて魚を追いかけたマーレ。
旅行中、一番おいしかった焼きたてパン屋さんに出会い、魔女の宅急便の世界に迷い込んだような気がしたドブロブニク。
暑かったプラカ地区とアクロポリスから、出港時間に間に合わないと大急ぎで走り抜けたアテネの港の風景。
世界一で一番意外性にあふれた未知の独裁国家、リビア。
一日中変わらない砂漠の景色にゆっくりとオレンジ色の太陽が沈んでいったスウェズウンガと、そこに架かった橋の鹿島建設の文字。
着眼したと同時にたくさんの軍用車と警察車両、警察官に囲まれて移動したルクソウル。
あって3秒でプリーズマリーミーと言われたクフオーピラミッドの前のラクダの物売り。
アンネの悲惨な生涯に涙し、飾り窓の前で立ちすくんだアムステルダム。
ひたすらな静寂と波一つない鏡のような湖面に妖精トロルが出てきそうだったガイランゲルフィオルド。
ムンクの部屋の迫力、大好きなレンブラントの夜景の大きさに圧倒されたオスロの国立美術館。
03:08
観光船が着いたのなんて初めてだから、海岸に落書きしてくれと言われてみんなで落書きをしたポンタデルガータ。
野生の馬たちの美しさに心打たれながら、緑と木々の濃さに圧倒されたビルバオとピカソのゲロフィニカ。
タワープリッジを開かせて通行したのにすぐに逆戻りをして、両岸で見ていた観光客たちをアゼンとさせたロンドン。
パナマ運河で活躍する三菱のロボットたちと一時離脱。
イグワナ公園で光合成中に木から落ちるイグワナを見たエクアドルのグアヤギル。
天敵がいないために逃げるということを知らない動物たちの楽園。
二度と立ち入ってはいけないという気がしたガラパグス諸島のクルーズ。
ブエナシスターソシアルクラブを大音量で流しながら入港し、現地の若者たちとキューバリブレに酔いしれながら踊り明かしたキューバ・ハバナの夜。
人間は大きな山にこれほど心を打たれるものなのかと荒々しい雄大な自然に威風し、野生のビーバーを探して50か所以上蚊に刺されたバンフ国立公園とカナディアン・ロッキー。
当時留学していたいとこに久しぶりに会ってご飯を食べた美しい港町バンクーバー。
野生のクマが酒を求めて水面を叩いていたのを真横に仰ざめながら、みんなでカヌーで必死に通り抜けたペトロパブルフスクカムチャツキ。
さあ、皆さんはどのお話に興味がありますか?
世界一周の最初のお話は乗船から出港までとなります。長い長い旅路に一緒にお付き合いいただけましたら幸いです。
私の人生編歴でお話をしたように、私は大学4年の5月から108日間、世界一周の船旅に出ました。
NGO団体が運営するピースボートというものをご存知ですか?個人営業の居酒屋さんのトイレとかにポスターが貼ってあるあれです。
なぜ世界一周の船旅に出ることになったのか。
それもこれも、父が若い頃、2年半、イギリスのケンブリッジの子学校に留学していた経験から、親が子供にしてあげられることは、世界の広さと人生の選択肢を示してあげること。
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海外の経験は、人生をより豊かにさせ、見聞を広げる、という教育方針のもとに育ったからなんです。
父は子供たちに海外留学をしてもらいたかったんですが、大学生の私は全くそんな気はしなかったんですね。
大学4年になり、就職活動をどうしようかなと考えていた私に、留学しないのかと怒られて、私は留学するなら世界一周させてほしいと言って快諾を得たのでした。
それまでも海外に行く機会はあったし、親と離れて海外旅行をすることもありましたが、船旅、そして世界一周というものには憧れがありました。
それを決めた日からひたすらバイトをし、ピースボートのポスターを貼りまくりました。
当時のピースボートは乗船客の7割が30代以下という若者が回している船でした。
私をはじめ若者はお金がないので、船の最下層またはその上の部屋の4人部屋を主に使っていて、お金に余裕のある中高年以上の方々は窓のある上層階のツインルームなどを使っていましたよ。
私はもちろん下から2番目の階でした。
3ヶ月間同じ部屋で過ごす仲間との相性はとても大切です。
狭い先室に窓はなく、カーテン付きの2段ベッドが2組、後衣室のような細長いロッカーが4つ、それでもシャワーとトイレはきちんとついていましたよ。
私の部屋は同年代の女の子が私を含めて4人、その中でなんと私は最年長でした。
1番年下の子は18歳で、高校を卒業してすぐに乗船したそうです。
今はピースボートは関東圏では横浜港が出港場所ですが、当時はまだあの素敵な大桟橋はなくて、私は当日は晴海不動まで両親に見送りに来てもらったのを覚えています。
部屋を確認し荷物を置いて、同部屋の子たちと挨拶をするとすぐ出港式の時間ですと船内放送が流れました。
私たちはデッキに出ました。
両親と弟が船の下で手を振っていました。
紙テープが渡され、みんなでてんてんに投げたのを覚えています。
ですが私はうまく投げられず垂直に落下して家族に笑われたのは良い思い出です。
ピースボートは若者の船でしたので、出境曲もその当時流行りの曲でした。
私たちの船でよく使われている曲です。
今でもあの曲のイントロを聴くと出港や着岸を思い出します。
晴海ふとんを出発し、最初の帰港地は神戸港。そこで関西からの乗船客を迎えます。
割合は関東が6割、関西が4割でした。
船はオリビアグラウンドに乗り込みました。
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昼食と朝食はビュッフェ形式、夕飯は2階の入れ替え制で、クルーによるフルサビス。
私たちの船でよく使われている曲です。
ピースボートは若者の船でしたので、みんなでてんてんに投げられず垂直に落下して家族に笑われたのは良い思い出です。
私たちの船でよく使われている曲です。
昼食と朝食はビュッフェ形式、夕飯は2階の入れ替え制で、クルーによるフルサビス。
そして、おやつの時間もありましたよ。
108日間の間にいろいろと趣向が凝らされ、
帰港地が近くなるとその国の名物料理や、長期航海の時には日本食ナイト、ガラパーティ、フォーマルディナーなどもありました。
一番長い洋上航海は、インド洋の7日間と、ロシアからハルミに帰国する8日間でした。
ピースボートは南回りと北回りを航空隊で航海しているのですが、
私は北回り航路だったので、赤道から北の国が多かったです。
ちなみに十数年後、父が全く同じくピースボートに乗船するのですが、それは南回りでした。
船上での生活に退屈しない?と聞かれることがありますが、全くそういうことはありません。
船上ゲストによるさまざまな公演やサロン、乗船客が趣味で集まって作るサークル、船内イベント、映画、
私は朝6時の船内放送で起きて、対極拳サークルを甲板デッキの上で行い、
次に授教術、そして朝食をとり、それから英会話までがルーティーンで、
その朝の船内新聞を見て、あ、ここで誰々が○○をやっているなというのをチェックして、
その日のイベントに行ったり、海を見たり、友達としゃべったり、時々卒論の勉強をしたりしていました。
あっという間に1日は終わるもんですよ。
船上イベントでは洋上にいる時間が長い航海、例えばインド洋、大西洋、太平洋を横断するときには日数がかかるので、
その際には船上運動会が行われたり、幅なに到着する前にはサルサナイトやサルサダンスの講師が特別乗船して、
船の上が全体的にダンス教室となったりしました。
まあ、とにかく退屈している暇はなかったですよ。
さて、次回は最初の帰港地、上海の思い出をお話ししたいと思います。
今回も最後まで聞いていただきありがとうございました。
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