00:06
こんにちは。横浜で15年以上犬の保育園の先生を行っている、なおちゃん先生と申します。
こちらの番組では、あなたとワンちゃんの10年をよりよく変えるをもとに、犬と生きる10数年をもっと本気で楽しみたいあなたに、幅広い分野から犬に関するお話をお届けしています。
大好きな旅の話、子育ての話も時々お届けしています。
飼い主さんが変われば、犬が変わる。犬のことをもっと知って、あなたも犬育てのプロになりませんか?
より具体的なトレーニング、質疑、アニマルコミュニケーション、そして今月はペットロスについて、もっと深くメンバーシップでお話ししていく予定です。
さて、6月に入って1週目が過ぎましたね。
今回は子どもたちにとって愛犬と旅立ちについてを少しお話ししてみたいと思います。
長男は今年10歳。娘は4歳。
私の子どもたちにとって、先月亡くなった私の愛犬、みごとは生まれる前から家族の中に当然のようにいる存在でした。
一番身近な動物であり、家族であり、犬でした。
犬によって違いはあると思いますが、我が家の愛犬、みごとさんは色も白っぽく、体も小柄で、一見するとおじいちゃん犬にはあまり見えない見かけだったので、
特に息子にとっては、みごとがそんなに年をとっていたなんて、こうなってみるまで考えられなかったと言います。
確かに外に出れば子犬と間違えられるような顔をしていました。
人間の高齢者の方が小さい子どもと間違えられることは稀ですから、犬は不思議ですよね。
息子は小さい時から犬にとても親しんでいました。
反面、みごとは自分がパピーから生犬になるまでの間、子どもに親しんではいませんでしたので、最初は子どもが苦手だったんです。
というより、どうしたらいいのかわからなかったんでしょう。
息子が赤ちゃんの時は、それはまあ厳しく接していました。
そして、それはまた、私の第一心に対する混乱や苛立ち、ちゃんと育てなくてはならないという焦りをそのままみごとが感じ取っていたということも原因としてあると思います。
みごとに対して子どもになれるトレーニングはある程度していましたので、
子どもや赤ちゃんに対して過度に興奮したり、吠えたり、怯えたりすることはありませんでしたが、正直、外でお子さんや小さい赤ちゃんとすれ違うのと、一つ屋根の下で共に暮らすというのは訳が違います。
03:14
それでも時間をかけてみごとと長男はそれなりに二人だけの絆を築いていきました。
ある時からベビーカーを同じような都市学校の子がいると意識したり近寄ったりするようになりました。
みごとが長男をきちんと理解していて、彼のことがとても好きなんだということがはっきりとわかったのは、長男が小学校に入ってからでした。
ランドセルを背負っている子どもがいると、男の子ですね、顔を確認するように近寄って顔を見に行っていたからです。
ベビーカーやよちよち歩きの赤ちゃんには保護者が必ずついていますよね。
なので子どもそのものではなくて親を意識して近づいている場合があるんですが、ランドセルの子というのは親と一緒に歩くということは実際少ないですよね。
いつの間にか私がいなくても長男をしっかりと意識している姿に、ひそかに感動を覚えたものでした。
長男のことはよく舐めていました。
娘には献成の意味やお世辞の意味でちょっと舐めるということはありましたが、長男には自分から寄って行ってしつこく手足を舐めるので、息子は見事が離してくれないんだよとくすぐったそうに舐めさせていました。
小さな頃は長男は熱を出してよく保育園を休んでいて、リビングでそのまま寝落ちしているときなど必ず寄り添っていたなぁと思い出します。
見事にとって息子は手のかかるやんちゃな弟、自分はまさしく兄だったんだなぁと思います。
息子は興味が次々と移る子で、根に持たず執着しないという性格なのですが、感情の起伏が激しいところがあります。
動物に対しては小さな頃からどんな動物も好きで、距離感をとって接することが身についているので、動物の方も安心できるようです。
これは何よりも見事から教えてもらった彼の動物に対する態度の仕方だと思います。
子どもたちには、見事はもう長く生きられないんだよということを何度も伝えていました。
何かしてあげたいという気持ちを息子は持っていたと思います。
小学4年生なりに転校をして、彼なりに難しい新年度のスタートを切った矢先の出来事でした。
心にもやもやを抱えていて、でも犬のことで一喜一憂している母親、私には言えなかったこともあったでしょう。
06:09
学校でのトラブルを担任の先生から電話で聞いたのは、愛犬みことが旅立った次の日でした。
彼なりにきっと心が不安定だったのに、私はそれに気づいていられなかったことを反省しました。
それと同時に、優しい子だなあと思いました。
愛犬が旅立つ日の朝、君たちが帰ってきた時、見事はもういないかもしれないから挨拶をきちんとしなさいといった言葉を子どもたちは素直に聞いてくれました。
あの時にお別れがきちんとできて本当に良かったと思います。
息子は旅立った日の夜、見事の隣で眠ると言って、冷たくなってしまった見事の隣に布団を並べて寝ていました。
それは彼なりの精一杯の供養だったと思います。
若者の一日は刺激的で、彼らは大人と違って過去を振り返ることなく未来に邁進していきます。
それでも時々ふと愛犬のことを思い出すようで、涙ぐんだり愛犬と過ごした時のことを話してくれます。
大人になった時、愛する存在の喪失の一つとして息子の中にどのような記憶として刻まれるのか、大きくなったらまた聞いてみたいと思います。
そして娘はというと、彼女にとって見事との思い出というのはどのぐらいあるものなのか、どういう形で残っているのか、それは母親である私にも正確には把握できていないと思います。
ただ彼女にとっては貴重な触らせてくれる温かい小さい動物ということは確かで、
彼女はこの触れ合いができなくなってしまったことを何より悲しんでいます。
そして大人たちが悲しがるのとは全く違って、見事は死んじゃったね、じゃあ次は猫を飼おうかと言い出したのです。
ロス状態にあった私は最初娘の発言にイラっとしてしまったのですが、よく考えてみると非常に論理的ではあるんですよね。
感情的ではなくて。
そして私には大きな気づきがありました。
小さな子はそれが大きなショックやトラウマでなければ、昔のことを振り返ったり、懐かしんだり、執着するということは大人に比べて少ない。
特に幼年期は子どもの思考はきっと常に前向きで、次のこと、明日のことへの期待に満ち溢れているんだろうなと感じたのです。
09:01
反面、大人は過去の良かったことや楽しかったこと、思い出に目を向けがちで、そこにとらわれて前に進めないということがあります。
子どもというのは背負っている分、物が少ない分、そして過ごしてきた時間が短い分、軽やかに前に進んでいく。
面白いなあと思いました。
娘にとって見事は、小さくて優しくて、いつも触らせてくれる優しいお兄さんでした。
息子に対して怒ったようなことでも、娘には怒らなかった見事さんでした。
そんなことをされて、少しは怒ってもいいんだよ、怒ってごらんと言った時の困った顔の彼が、目によみがえります。
おかげさまで、今娘は誰も触らせてくれないと憤慨しています。
改めて、彼女に好きなようにさせてくれている他動物、見事は特別な存在だったんだなあと認識し始めているようです。
犬や猫に触りたい、抱っこしたい、温かさを感じたい、ふわふわを感じたい、舐めてほしいとよく言います。
これは彼女なりのペットロスなんだろうなあと私は感じます。
4歳児にとって死というものは、なかなか理解がしにくいだろうと思うのですが、
仮想場で最後に挨拶をして、おこつになって愛犬が出てきた時、相当衝撃を受けたようでした。
檻に触れて彼女は、見事ちゃんは死んで焼かれちゃって骨になっちゃったからもう会えないんだよね、と言います。
彼女に一連の死を悼む儀式に参加してもらうことで、死というものの概念が身についたことは、娘を大きく成長させたと思います。
それは最後に見事さんがその肉体を持って彼女に教えてくれた貴重な教えでした。
こちらも大きくなった時、あの時どんな思いだったかというのを娘に聞いてみたいなあと思っています。
同じ一つ屋根の下に住んでいても、失ったペットへの思い、その表し方、表現は違います。
誰もが悲しい気持ちを持ち、愛せるものを失ったという感情を持っている。
それが違うからといって良い悪いではなく、これも一つの一緒に生きた証、
一つの愛情の証なんだなと私自身が子どもたちから学ぶことも多くあります。
まったく最後の最後までたくさんの学びをくれた愛犬だなと、私はまた愛犬に感謝をするばかりです。
最後まで聞いていただきありがとうございました。