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第5回、高校国語について話すラジオの時間となりました。
この番組では、高校の国語科教員であるなんばが、
普段の授業の話や研究の話などをして、国語科の先生のみならず、
いろんな先生に授業や教育について考えてもらうことを目的としたラジオです。
みなさん、こんにちは。パーソナリティを進めます。なんばむっとです。よろしくお願いします。
前回は第4回のところで、日本国語教育学会全国大会の校種別分科会の
1つ目の実践報告を簡単に紹介させていただきました。
前半の方は野口の追思性っていう言葉を紹介していたので、
ほんと簡単にっていう形でしたが、今回はその校種別分科会の2つ目について
ご報告していきたいと思います。早速なんですが、
校種別分科会の2つ目は、僕は高校の読むことの会場に行きました。
その読むことでは、秋田の方からお越しくださった先生が、
精査解釈を古典探求の授業実践を通して行ったという方向性です。
その先生の問題意識としては、どうしても古典の学習になると、
構造と内容の把握、いわゆる学習指導要領の系統表の一番初期の段階のところに、
古典の授業実践はどうしてもなってしまいがちだ、
もっと後ろの精査解釈とか考えの形成とかを授業の方でも充実していくことが大切だ
というふうにおっしゃっていて、そこの問題意識から古典探求で精査解釈をしたら
このような形ではどうですかという授業実践が行われました。
学習指導要領の系統表はいろいろな見方がありますけれども、
一つは読みとか話す機能、プロセスだとも言われていて、
読むことの領域だと、今の学習指導要領では構造の内容と把握、精査解釈、
考えの形成というふうに大きく3段階になっていくかなと思います。
その間のところですね、精査解釈。
実際に古典探求で何を教材に行われたかというと、
火山天皇の出家のところを大鏡と映画物語で読み比べをしていくというような単元でした。
もう一つ漢文の単元もありましたが、今回はその古文の火山天皇の出家の比較読みのところだけご紹介していこうと思います。
基本的には歴史物語とかの概要とか文化的背景を理解した後、
大鏡を読み、その後映画物語を読み、その後読み比べたものをベースに作品の特色について
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学習者がスライドを作っていく、そのような形になっておりました。
いろいろと成果とかも挙げられたんですが、その実践を聞いて、
あとは指定討論者の話とかも聞きながら、僕が思ったことをお話ししていきたいなと思います。
まず指定討論者が話したことなんですけれども、
精査解釈の授業実践をするときにはゴール設定が大切だという話でした。
どうしても行動の内容と把握とかはイメージがしやすいんですが、
精査解釈は誰もが納得するような致命なゴールっていうものがあるわけではないと。
ちょっと語弊があるかもしれないですけど、
そういう状態なので、授業者がここまでできたら精査解釈ができたとか、
考えの形成ができたっていうふうに位置付けることが大切なんだよというようなご指摘がありました。
僕自身も同じような問題意識があって、
古文で精査解釈とか考えの形成がどうしても行われづらい現状があるから、
充実させた方がいいなと思っているんですけれども、
その時にやっぱり授業者が目の前の学習者の相手に、
こういうような形姿になってほしいとかっていうゴール設定をするのが大切なんだなーってことを再度自覚できました。
あとは精査解釈と考えの形成の見分け方というか区分の仕方、
どうしても学習内容とか成果物も似通ってしまうだけれども、
これは見とるポイントでこの精査解釈か考えの形成っていうのは異なるよっていう話がありました。
具体的にはそのプロセスを注目した場合っていうのは精査解釈の方の授業展開になっていき、
成果物に着目した場合はその単元は考えの形成という単元になっていく。
ですので先ほどのゴール設定だけではなくて、
授業者が出てきたところ、いろんなものが進行していった時に、
どこを見とっていくのかっていうことも大切だよっていう話がありました。
自分自身もどうしてもこの精査解釈と考えの形成のフレームがどうしても2回打って、
これどっちなんだろうっていうふうに思うところあったんですけど、
この指定討論者の話とかを聞いて、
なるほどね、そういうことかっていうふうに納得したよってことを皆さんにも共有したいなと思います。
そして今回は古文の比較読み、原文で比較読みをしていくんですけど、
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原文でないといけない理由っていうものをやっぱり競技の中では出てきていて、
現代語訳でも比較読みが完成するというか成立するんだったら、
それでもいいじゃないかっていう話が出てきました。
これ僕も去年ぐらいですかね、言語文化で江戸市領主の比較読みをしたんですけれど、
その時にもやっぱり自分の反省点としては、
これ古文の原文、本文でやらなくてもいいんじゃないかっていうようなことを思ったんですね。
つまり学習活動との必然性が弱かったなっていうことを反省したんですけれども、
今回もそのような、そもそも古文の本文で比較する必然性があるのかという指摘がありました。
で、その時にはやっぱり教材研究がすごい大事で、
例えば大鏡と映画物語のその火山天皇の部分だと、
どれぐらいの季節というか月なのかとか、時間帯がどうなのかとか、
あとは暗いものから明るいもの、逆に明るいものから暗いものみたいに書いている表現が異なるのかっていうのは、
やっぱり現代語訳だけでは見とれない部分なので、
そういうふうなものは古文本文で読んだ方がいいだろうみたいな話があって、
そういうふうにやっぱり表現面とかそういうところに着目させていく必要が、
古文本文で比較読みをするときに、こちらの教材研究として大切なんだなというところをすごく感じた感じです。
なんかすごく今日、まどろっこしい言い方をしてるんですけど、
自分の中でやっぱりすごくいろんな気づきがあって、この実践を聞いてよかったなと思ってます。
最後になんですけど、自分も古典探究実際やったことがないので、まだ何とも言えないんですけど、
言語文化の発展的な科目として古典探究、学習指導要領上では位置づいていると思うんですが、
特に指導事項の違いとかをすごく気にしていて、
例えば、今回の精査解釈にあたるところ、古典探究で今回設定されたのは読むことの絵なので、
作品の成立した背景や他の作品などとの関係を踏まえながら古典などを読み、
その内容の解釈を深め、作品の価値について考察することができるっていうのは指導事項だったんですね。
これが言語文化の精査解釈だとどうなっているかというと、
先ほどの一番最後のところ、作品の価値について考察することができるっていう文言が基本的にはないだけなんです。
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つまり古典探究の方で実施しなければいけないのは、
この絵の指導事項だったら作品の価値について考察することができるような授業デザインが求められているわけです。
で、今回の昔からというか、結構この比較読み実践歴も長いと思うんですけど、
今回のこれを通して作品の価値についてまで言及ができるかっていうところが、
一個授業、実践を見るところの観点になるかなと思います。
一般的にというか、多く予想するのは、その作品とその作品について解説している文章とか、
そういうものの組み合わせだったら、作品の価値について考察することができるかなと思うんですけど、
一場面のものを比較しただけで、その作品の価値について考察できるのかっていうのは、
ちょっと自分が授業実践をする時とかにも必ず考えなきゃいけないなと思いました。
批判する気持ちとかは全くなく、自分の中で今後こういうような比較読み、
特に比較読みは早稲田の高田先生が言うように、
精査解釈や考えの形成のところで用いられる言語活動例だったりするので、
そういったところを考えるときに、今の精査解釈と考えの形成の区分だとか、
そのときに意識することだとか、いろいろ考えたよっていうような感じです。
次回のところは、実は今日も自分の院のときのゼミの合宿みたいなのに参加していて、
明日実践報告をするので、その合宿の話だとかをしていきたいなと思っています。
では、そんな感じで本日は終わりたいと思います。ありがとうございました。
またの放送を楽しみにしていてください。