1. なかよしインターネッツ
  2. 276. 個展と表現と作品制作の..
2024-09-30 1:12:53

276. 個展と表現と作品制作の話をしよう(ゲスト 田中寛崇/イラストレーター)

イラストレーターの個展の裏側。作品を作品として成立させる設計と思想、受け手側の消費の話。超骨太回。

🎤ゲスト: 田中寛崇

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📍今日のお話📍
イラストレーターの個展/田中寛崇個展準備スケジュール/エディション付き作品/ミクストメディア化するイラスト作品/一回性とアウラ/ロートレックと時代/飛行機の中で見ると感動/「拾い画」とガラケー

📻なかよしインターネッツ
毎週月・金曜配信
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サマリー

このエピソードでは、田中寛崇が自身の個展について語り、その目的や活動内容を深く掘り下げています。彼はイラストレーターとしての仕事とアーティストとしての表現の違いについても考察し、アートやデザインの概念を探る姿勢が見られます。田中寛崇はファンとの関係や作品制作の過程についても深く掘り下げ、それぞれの作品がファンに向けられていること、そして創作のモチベーションがどのように形成されるのかについて考察しています。また、彼は個展における新旧作品の選定についても言及しています。 このエピソードでは、田中寛崇が個展の意義や作品制作について語り、ギャラリーやカフェでの展示方法、作品のサイズや展示空間の考慮点を探ります。さらに、デジタルアートの制作とその展示方法についても触れ、アーティストとしての経験や挑戦を共有する様子が伺えます。 田中寛崇は、デジタルアートとその展示の重要性について言及し、特に液晶画面でのアートと実際の展示物との間に生じる違和感や、テクノロジーを用いた作品制作の楽しさについての洞察を提示しています。 このエピソードでは、田中寛崇をゲストに迎え、表現や作品制作についての深い考察が行われます。特に、技術による制作プロセスや観賞者の視点、アウラという概念についての議論が展開され、多様な人々との協力の重要性について語られます。 田中寛崇さんをゲストに迎え、現代アートにおけるアウラや印刷物の存在について議論し、特にデジタル作品とその物理的表現が鑑賞者の感動に与える影響を深く掘り下げています。個展や作品制作に関する対話を通じて、理想的な展示方法と現実の課題について考察がなされます。

田中寛崇とのイントロダクション
2回戦目。田中寛崇先生です。よろしくお願いします。パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ。
ということで、月に1回ぐらいやるぞと言ってちゃんと有限実行する我々ということで。よろしくお願いします。
はい。えらいですね、社会人。
社会人なんで。そうだよね。そうだね。社会人だからね。
約束はね、守らないといけない。
約束は守らないといけない
しかもあれじゃないですか、ひろたかにマイク新しいの買ったらしいじゃないですか
そうなんですよ、ちょっと音質でね、分かってもらえたらいいかな
なんかね、前反響かな、ヘアなりを結構してたんですよね
それがちょっと緩和されてればいいかなぐらいのあれですけど
だいぶいいの買ったなっていう感じですけど
あのね、こういうのはおすすめされたものを買うといいっていうのは基本的に伊藤ぽよさんにおすすめされて
そう、今我々二人オソロッチのマイクを使って
オソロッチのソフトを通して収録をしておりますということで
安定性20まででございます
でですね、前回ひろたかにの画業
もう来年で何年でしたっけ
来年で15年ですね
15年、やばいよな、中学校3年生だぜっていうね
ちなみに反響もやっぱりいくつかありましてですね
え、田中ひろたか先生じゃんっていうような声
知ってる人も
え、みたいな、しゃべるんかい、あ、でもそっかみたいな、たしかに動画とかあるなみたいな
それはしゃべるんだ
しゃべったーみたいな
そういう感じだったらしくてですね
結構しゃべれるやんけというね
反抗議的な反響を多数いただいております
ありがとうございます
でですね、そんな画業15年の振り返りをね
コテンの意義と活動
前回来ていただいたときにお話しいただいたんですが
今回はテーマがコテン、コテンです
コテンについてちょっと聞きたいなと
なんでかっていうとですね
ひろたかには毎年コテンをやっているじゃないですか
そこにログインボーナスのように毎年行き
花を送ってみたり
飲んだことないスターバックスのやつを買って
おもむろに渡してみたり
でかい花を置いてみたりと
なんかこういろいろ毎年荒らして帰るっていう
1年に1回の風物詩があるんですねと
その場合ログインボーナスもらってるのは僕の方ですよね
なんかあれですね
つねきちみたいな感じですね流れてきてこう
ということで毎年コテンをやってるんですが
そのコテンってちょっと聞いてみたかったのが
コテンってどういう目的でやってるのか
どういう意図があるのかみたいなものと
あと実際にやってるコテンをじゃあやろうって思ったときに
どういう風にしてやってるのかもちろん言える範囲で
いわゆる公開情報というか見てわかる範囲で
ちょっと聞きたいなといわゆるなんかこう
コテンというかある種アナログの現実の場所で
コミティアとかコミケ以外で
何か自分の作品をどんって置いて
よしバッチコイみたいなのがやりたいという
和コードがもしかしたらリスナー電機の中にいるかもしれないと
その人たちの疑問を代弁して
伊藤ぽよが今回はいろいろひろたかにに聞いていきたいと
はいよろしくお願いします
毎年もちろんやってらしてるとは思うんですが
コテンってこうひろたかに的には
どういうポジションでやるんですか
イラストレーターの仕事とは完全に分離してはいるんですよね
例えばコテンをきっかけにお仕事をいただけるみたいなことは当然あるんですけど
あくまでイラストレーターとしてやってるわけではないと言うと
語弊があるな
イラストレーターの定義ってあるんです
僕が考える定義なんですけど
イラストレーターってマスメディアで絵を
絵ないしは反立体とか立体物何でもいいんです
何かビジュアルイメージを提示するお仕事のことを
イラストレーターの仕事ってしてるんですよね
マスメディアって例えば雑誌だったりとか
テレビだったりとかそういったもの
社会的な部分にしっかり役割を持った
表現をお出しするのが
イラストレーターの仕事みたいな
コテンってあくまで自分の好きな絵
好きな絵ってちょっとまた違うんですけど
自分が表現したいものとかっていうのを
自分勝手に気ままに描いたものを
お出ししてるみたいな場だから
イラストレーターの仕事とはまた違う
感覚でやってるものなんだよね
今の分け方面白いなと思って
よく一般的に言われてるのがもちろんイラストレーターだけじゃなく
幅広く商業クリエイターの分け方として言われるのが
いわゆる商業作家とアーティストの違いみたいなね
いわゆる2Bでお金をもらって制作する
いわゆる求められて制作するパターンと
社会から求められてるか否かは関係なく
自分が表現するんだするぜしなければ
みたいな思いで表現していくアーティスト
みたいな分け方ってよくされるんですよ
例えば広告クリエイターとかの話になった時に結構この話出てるんですね
だけど今のひろたアカデミーの分け方で
なるほど面白いなと思ったのが社会に役割を持って
何かの役割を担う
イラストもしくは反立体みたいなものを作るんだ
それとそうじゃなくて
意図っぽいのなりに解釈するとすれば
いわゆる社会の中に組み込まれるアウトプットと
社会に対して
ある種提起する
それは問題提起なのか課題提起なのか
もしくは投げかけなのか声かけなのか
何でもいいんですけど組み込まれるものか
こっちから打って出るものなのかっていうので
イラストレーターという職業なのか
アプローチ
みたいな感じなんだろうなと思って
2b2cとかクライアントワークだけじゃなくて
社会の中で役割を担うアウトプットを作る人
これは非常に明確でいいなというか
なるほどねっていう
この分け方するとクライアントワークする人と
クライアントワークしない人2bと2cの分け方になっちゃうと
議論が結構小さくなっちゃうというか
狭くなっちゃう
そういう分け方したら確かにそれいいなと思って聞いてましたね
古典は結構高者味があるって感じ
高者味がある
だから一番身も蓋もないというか
分かりやすい
誰にでも伝わる言い方をするのであれば
アーティスト活動みたいな言い方の方が伝わりやすいと思うんだけど
とはいえ僕自身美大出身だったりとか
現代美術とか現代芸術みたいなところの分野と
近いところで学生時代勉強してたので
いわゆるアーティストが作るアート作品みたいなものって
どういうものが必要とか
どういう考え方で作られるのかっていうのが
分かっちゃってる分
自分の古典的な古典でやってるような活動っていうのが
これがアーティストの活動ですとは言えない感じがすごくあって
面白い
アートとデザインの違い
僕の感覚ですけどね
僕が一番恥ずかしいと思うのは
アーティストですっていう顔で
アートじゃないものを
アートの場に出すこと
話聞いてる途中で
来るぞ来るぞ来るぞ
笑いが止まらなかったんだけど
言いたいことは分かる
すごく触ってきた
結局アートっていう言葉が
日本の美術教育の中で
曖昧なものと捉えられてしまってるっていう
ずっと続いてきてるものの
上に成り立ってしまってるものだから
だからこれを僕が個人で
恥ずかしいなって思うことと
そういうことをやってる人がいるっていうのは
あくまで自分がこういうことはしたくないなっていう話で
別にそういう活動してる人たち具体的にいるとして
そういう人たちを非難したいとか
見てて恥ずかしい気持ちになるみたいなことは一切ない
一応一言言っておくっていうのはある
これ本当にマンガブルーピリオの中で
同じようなシーンがあって
主人公が最新巻から
最新はもしかしたら単行本になってないから
いやでも単行本になってるはずな最新巻の内容なんだけど
主人公が作品を作って
いわゆる大会みたいな
わかりやすく言うと大会みたいなものに出すんだけど
その時にいわゆる受賞作品みたいな感じで
飾られてるわけですよね
その前に自分が立って
いわゆる説明をする作者としてってなった時に
他のいわゆる作家さんというか
説明してる
文脈をすごくアートっぽく説明するというか
っていうのを見て
あれ?みたいな
そこは主人公は何かしら明確に
イエスノーっていうのを提示しなかったんだけど
かなり意識的にというか
ある種老悪的に
そういうふうなわざとらしい
社会的な問題があってそれを作品にしてて
みたいないう作者さんを
隣で見て
ちょっとおってなるっていうシーンがあったわけよ
でももちろんそれが必要な場所とか
それによって
もちろん表現とビジネスの話はすごく難しい問題だけれども
それによって作品が成立して
そして書いてがつくとか
説明することによってその作品が完成するとか
もちろんそういった場合はあっても
そういうアートっぽい雰囲気みたいな
ある種の答えというか
街中華の味みたいな感じなんだよね
ちょっと待って一般化しすぎててわかんない
なんかあるじゃん
最近全ての答えを見隠れ例えしまいがちなんだけど
こうしておくと美味しいよねみたいな
こうしておくとみんなそうだねっていうふうになるというか
消費をするにあたっての
一つのルールというかコードというか
そういったものをやるのかやらないのか
乗るか反るかみたいな
そういう問題ってずっとそういえばアートの世界で
言われてはいるがしかしうーんみたいな
難しい問題だなとは思う
わかるわなんか
好評会とか日常的にあるところに至って
プレゼンって必ず必要になってくるわけですよ
プレゼン自分の作品がどういう意図を持って
制作されてみたいな話を
講師陣とか評価してくれる人たちに向けて
説明する場っていうのが
アーティストを慣れしてくるとか
現場慣れしてくると
どちらかというと言葉を操って
自分の作品を言葉で
アートっぽく装飾していくことに慣れてくる
それがすごい上手くなっていくと
作品としての
価値というか作品自体が持っている
意味合いとかスタンスみたいなのを
虚飾してしまっている感じが出てきて
それがまといて
ちゃんとしているものだったりすることもいっぱいある
そればっかりが上手くなる人も
そういう人を見ると
うわとは思うし
社会的にこういう問題があるからこういう作品を制作している
アートとはちょっと違う
よく美大とかに行くとアートとデザインの違い
面白い
概念が2つあったとして
実際に具体的にどういう作品がアートで
どういうデザインに分類するのか
世間話的に話される
僕が思うのはデザインは
社会にある問題を解決するもの
もしくはもっとミクロで個人でも
何かしらの問題を解決するものが出て
何かしらの問題を浮き彫りにしたり
何かしらの問題に目を向けさせるのがアート
アートってよく
SNSとかで言われるの
露悪的な表現しているアート作品に対して
美しくないとか
そもそもこれをアート作品と認めたくないみたいな
一般人の言論があったりするんだけど
世の中にある問題を浮き彫りにしたりとか
それ自体が美しいことに必ず必要ないし
それを見て優しい気持ちになったり
嬉しい気持ちになったり感動するのは
アートには必要ないんですよ
もちろんそういうのを想起するアート作品が
あるしあっても
現代美術の分野においては
むしろそういうのって少ないというのは
現場観視で
そのイラストが欲しい
手にしたいなって思わせるものの方が多いし
意味合いを持つもので言うと
明確にそういう意味で
アート分野とは全然違うところにいじって
作っているし
自分がアーティストって名乗れないし
アートの現場にその先を持っていくことはできない
だから自分がいくら個展を開いたとしても
開いたという職業からの個展でもないという
不思議な部分
難しくない?
どうしてもイラストレーション
すごい大事ストでまとめると
イラストレーションというジャンルというか
表現手法を使っている限り
ある程度人間の感動とかポジティブな心であったり
ファンとの関係性
欲望を喚起させたりとか
ベクトルをぐっと引き付けるというような
そういうアプローチ
そういうのを本質にはらむアプローチであると
それを使っている限り
アート的なアプローチというのが
逆というよりももはや別次元の
戦い方
地球の裏側というのではなくて本当に別の次元というか
別の土俵にいるという感じだから
これを実続きで影響するというのがちょっと難しい
でも古典をやっているわけじゃん
どうしたもんかなっていうのが
いつも毎年多分考えていらっしゃることだと思うんですけど
それどうしている?
例えば前回言っていたことが
自分の絵をこの絵をうちに飾りたいみたいな
作品単体で
それを持ち帰って飾りたいというところにする
しかもそれは何の絵とかじゃないわけじゃん
例えば原作があるとかipものだったりとか
あと何かのお話のイメージをした
だから表紙のイラストですよね
そういうものじゃなくてある程度
いきなりポンって出てくる
リトゥーンバイ田中ひろたかの作品として
これうちに飾りたいなっていうので書いている
っていうのは教えてくれたじゃん
じゃあそれを踏まえて
何を考えて作ってる?
シンプルな理由付けだけではないとは思う
いくつか理由というか
自分の中のモチベーションとしてあるものとしては
いくつかあるなっていうのは自覚として
1個はファンサービス的な意味合い
なるほどね
自分のことをイラストレーターとして評価してくれる人たち
今よりファンの人たちだったりとか
その場合あんまり業界の人に向けては
基本的に個人的にファンでいてくれる人たちに対しては
僕の絵をやっぱり絵柄とか表現スタイルとかを
多分好きになってくれるね
それっていうのは今僕はイラストレーターとして
世の中で仕事してますけに
世の中に出てくる僕の絵
誰かそのファンのために描いたものじゃないものが出てくる
確かにそうだよね
それを見てもちろん好きになってくれるみたいな人がいて
でもファンサービスの意味合いとしては
そのファンに向けた絵を描きたいな
面白い
でもそのファンに向けて描くんだけどさ
その描いているものの
例えば題材決めたりとかこういう絵描こうみたいなのは
いわゆる結構自分の好きなものみたいなものも
入れてるわけじゃん
だから完全なる
いわゆるファンをクライアントとして考えるんじゃなくて
クライアントワークいわゆる他のお仕事の
絵仕事の場合は
本当にクライアントがいて
ある種そのクライアントが欲しいものというか
こうあったら多分全体がいい感じだろうなっていうのを
いわゆる作家として提案したりもするわけじゃん
でもファンに向けてっていうところと
あとは自分の好きなものを作ろうっていうところって
何対何ぐらい共存するのそれって
実は100ゼロで共存するというか
100、100、100ゼロ?いや50、50
言い方むずいけど完全に共存してて
まじ?
共存っていうか同一なんです僕の中で
うん!なるほどね
だから自分が好きなものを描くってことは
自分の絵柄が好きなファンは
それが好きなはずっていう気持ちでやってる
うーやばい!
こわ!刺さるな!なるほどね
でもちろんね
いくつも作品作るから
その中で刺さるものを刺さらないものっていうのは
あっても当然いいし
あって自然なことだと思うんですけど
いくつか作品、毎年作品作って
新作をバーンっていくつも出してる中で
今年はこの作品好きだなみたいなのが
必ずね誰かがどれかに刺さるわ
自分のファンで
だからそこであんまり身構えたりとか
これファンの人がこれ求めてるかなとか
っていう風にやるとむしろスタンス崩れちゃう
ファンの人が求めるものを出す
田中裕隆じゃなくなるんですよ
作品制作のモチベーション
うんうんうんうん
存在として
だからあくまで
それを例えば悪い言い方すると
友様商売みたいな話
もうちょっとセンチメンタルな気持ちで
ついてきてくれる
ついてきてくれるというか
ずっと見てくれてる
自分の英語を好きで言ってくれる人たちに対して
みんなが好きなものを
ちゃんと作ってますよ
そういうものを出す
プラス実はこういうのも作れるんだけど
こういうの好き?みたいな意味合いもあったりとかして
だから一個一個
新作描くとき
一枚一枚当然自分の好きなもの
これも自分これも自分という形で
僕自身が結構飽き性なのも
あんまり同じスタイルの作品って何枚も描かないんですよ
個人的にはね
他から見て
田中裕隆の絵ってこういう感じだよね
っていうイメージは当然あると思うし
この絵とこの絵似てる
似てるとかっていうイメージはもちろんあると思う
なんか個人
その製作者個人の感覚で言うと
一枚一枚やっぱりちょっと違うし
今回こういうの描いたからちょっと
次は違うタイプか
個展で並べる部屋
部屋にこうバーって作品が並ぶ
同じ色が隣あって言うとやだ
なるほどね
でも確かに
そうだよねシリーズものとかじゃない限り
結構違うよねパッと見
そうそうそうそう
前回この色使ったから今回は
こっちの色使った
逆に言ったら前回この色使ったから
この色使えないなって感じで
作品作って
自分の作風の中で色んな幅見せながら
ファンの人たちに楽しんでもらう
楽しんでもらうよね
あのさ
個展のさ
話聞いて
これめっちゃ聞きたいんだけど
例えば最新の
この間やってた個展って
例えば全部新作
っていうアプローチじゃなくて
ある程度ここ数年の
エポックメイキングなものも並べつつ
で新作があってっていう感じで
ラインナップ組んでたじゃないですか
はいはいはい
すっげー聞きたいのが
結構糸っぽいの悩んでることなんだけど
前の作品である
例えば2年前とか4年前とか
下手したら10年前とかの
前の作品好きだった
って言われた時って
どうしてる?
いやでも
シンプル嬉しい
シンプル嬉しいし
例えばその
相対的な話で言ったら
今この間の新作すごい好きだ
っていうのと10年前の
あの作品すごい好きだったんですよって言われるんだったら
それは当然新しい作品を持ち上げられた方が
嬉しいけど
嬉しいはどっちも変わるし
でなんかこれ僕の経験
の話になっちゃうからあれだけど
昔の方が好きだったとは言われたことない
あーまあ確かに
昔の方がって言われてたら
あんま嬉しくないとは思う
ただ昔のものを
取り上げて嬉しい
好きでしたみたいな話をされるときは
シンプル嬉しいし
そんな昔から見てくれてたんで
なんかさ
昔のものをさ
糸っぽいのも
悪性であると
外から見ててバレバレなんだけど
いやマジでバレバレだよ
極みみたいな感じだと思うんだけど
あのー
いやさ
どうすればいいのこれ
あのさ
いわゆる
同じものをずっと伝統芸能のように
やり続けた方が
いいのかっていう
あーうん
いやわかんないけど
糸っぽいの
伸び盛りですよと
急に言うけど
急に言うけど
あのー
成長していきますと
レベルアップしていきたいでちゅと
そのためには
もちろんしゅはりやおんこちしんやら
いろいろ考え方あるとは思うんだけども
いわゆる人気になったとか
好きになってもらえたもの
っていうのをずっとお届け
し続けないといけないのか
ずっとお届けし続けた方が
いいのかそれとも
それはもちろんあるとして
全く新しいのをやった方が
いいのかそれとも50%くらい
ヒントした要素を
混ぜて
いい感じに
繋いでった方がいいのかとか
それって悩んだことってない?
あるある
悩んだというか
僕も秋生で
これ
分かりやすい話にしちゃうけど
これ
ツイッターで何いいねつきましたみたいな
はいはいはいはい
絵で1万いいねつきましたみたいな
絵があったとして
じゃあこんなタイプの絵を描き続けようとは
思えないタイプ
そう思えない
もう完全独立1枚1枚で
もちろん自分の作風
っていうのは大切にしつつ
ここまでやったら自分の絵じゃないな
とかここまでやらないと自分の絵になってこないな
みたいな
もうヒキイチみたいな絵には
絵を描くときに考えててあるんだけど
例えば
前の作品だけど
駅の近い駅の線路
正確にあれ地下鉄じゃないんだけど
西へ向かうと言っていた
あそう
トンネルみたいなやつ
そうそうトンネルみたいな線路があって
ちょっと離れているところに女の子がいる
あの絵が
すごいバズって
バズって
素敵な話ですけどね。何万イイネとかついて、僕にしては珍しいんですよ。Twitterでそこまでのイイネ数がつくって。
すげーなんかいっぱい見られたし、いっぱい評価されたなーみたいな気持ちになったんだけど、じゃあこのタイプの絵を描き続けようとやっぱ思えなくて。
もともとあんまり数字を気にしないタチなのもあるんだけど。だから僕はやっぱり、じゃあこれすごい評価された良かった嬉しかったねつって次の絵描こうかな。
でもあの時はそれでももともと想定してたものとして、あの描かれてる主人公の女の子っていうのを主役として、主軸として何作か連作を描こうっていうのを決めてたから。
だからその時は言ってもそんなに馬鹿違う作品を作るとかじゃなくて、流れがある程度感じられるような作品をしばらく連作として。
だからそういった意味では1作目が評価されたことから、形としてはそこから繋がりを持たせた作品を連作で作っていったんだけど、
気持ちとしては別にその最初の作品がバズるかバズらなかろうが連作することは決まってたし、本当にあんまり気にしてなかったなっていうのがあって、
それプラスね、自分の悩みの話とTwitterとかで1回受けたものをやり続けるとか繰り返して何回も何回も同じスタイルで何万いいねとかもらっていくタイプの絵描きの人たちに対して、
僕は羨ましいってずっと思ってる。
面白い。なんでなんでなんでなんでなんで。
だって僕はそれができないから。
なるほどね。
作家としてっていう言い方もちょっとぎょうぎょうしいけど、やりたくないんだよね。やっぱりそういう感じの活動の仕方っていうのは。
ただそういうのを無心でできる人の方が絶対強いと思ってる。
なるほどね。
だから羨ましいし、そういう人たちの方がすごいスピードで階段駆け上がって有名になっていくし、結果的にそういう人たちはある程度ね、作家としてのバリューが生まれるから、今でいうとすぐ広告案件とか繋がっていくし、
確かにね。
だから一個受けたものを、そのスタイルをやり続ける人みたいなのはシンプルに活動の仕方として賢いなと。
経営的にやっぱり合理性があるよね。
そう合理性があるから、だからそれができる人っていうのは羨ましい。
そうなのか。
それができない自分に対してはちょっと悩んでた時期もある。
個展についての考察
逆にそうなんだ。そっちなんだ。
あ、そっか。
じゃあ個展やる時って何?
結構いわゆるロングテイルでというか、
もう個展まで残り半年か。
よし、じゃあ個展に向けて、仕事のボリュームがこんぐらいだから自分の自主制作に使える時間こんぐらいだと。
じゃあこんぐらいだったら、じゃあこういう作品作ろうかな。こういう連作やってみようかな。よし、やるかって言って結構前から準備して個展のこと考えて書き始めてるタイプ。
これはね、半分合ってて半分間違うと。
事前に考えることは考えてる。
考えることは考えてる。
そう。で、例えば、もう年明けたし、個展まで半年だと。お正月ぐらいに見ますとか。
お正月ぐらいに考えて。
で、今から書けば個展の時期までに新作こんぐらい書けるなって。
時間もね、今から進めればなんとかなんだろうって思ったら、
個展の制作過程
だいたいその後新作を書けるのって1月とか2月ぐらいの最初の1枚2枚ぐらいしか書けなくて、
その後3、4、5ぐらいまでもうがっつりオリジナル作品を書く時間なんかなくて。
もうね、個展直前になってうわーって書き始める。
その残りのね、枚数を書いて仕上げるみたいなタイプだから。
毎年そうなっちゃう。
だから本当は今年こそはそうしないようにするぞっていうのを考えてるんですけど、毎年そうなっちゃう。
マジで?結構やってるじゃん。毎回。
結構な枚数用意してはいるけど、毎回そんな感じ。
マジで?あ、そうなの?
あとさ、じゃあそれ踏まえた上でこの質問聞きたいんだけど、
いわゆる個展ってもちろん考え方にもよるけれども、
ギャラリーさんとかね、あとは最近だとね、カフェの壁とかでね、やったりとか、なんかいろいろ形式はあると思うんだけど、
壁に何かを、もちろん立体だったら床に置くけどさ、壁に何かを飾る。
空間をね、やっていくという、やっていくっていう動詞も変だけどさ、空間をやっていくじゃないですかとか。
ここのリスナーさんはもうみんな聞き慣れた感じですよ。
やっていくっていうね。
やっていくで全部伝わる。
そう、空間やっていくじゃん。で、やっぱりこう並びもそうだけど、
その入ってきてどういう感じで作品を見せるか、いわゆる作品のキャンバス通過、カンバス通過、その印刷された媒体のこの端っこだけではないところも、
ある種干渉の文脈というか、どうしてもついてもあるじゃないですか。
古典ってなると。
Twitterのタイムラインと違うから。
タイムラインだったらさ、これはもうイーロンが決めたUIだからさ、ここに合わせるしかないんだよ。
とにかく顔、顔面でアップしとくぜ。
そうやってできる。でも古典ってさ、イーロンいないからさ、自分で決めなきゃいけないじゃん。
ホワイトキューブの中をどう使うかって。
その空間をやっていくやつって、古典毎年やっててどのくらい考えてる?
作品順は考える。並び順はとにかく割と考える。ただ考えると言っても結構現地で考える。
面白い。
あまり凝った空間設計してないからってのもあるけど、単純にその壁にかけていく。
等間隔にかけていくだけであまり事前準備が必要ないのもある。
現地に行って作品見てこの順番かなみたいな決める流れがターンとしてある。
あと単純にホワイトキューブ、完全なっていうか割と天井とかごちゃごちゃしてるから、しっかりしたホワイトキューブだよね。
でも割と壁の白とかっていうのを割と大事にする。
どういうこと?どういう大事にするの?
作品と作品の間の間隔って、作品数が多くなったら当然詰めなきゃいけない。
でもこれ以上詰めたら邪魔すぎるのがあって。
それをこれ以上詰めたら邪魔の敷地っていうのを割と広めにとってる印象、イメージは自分は。
例えば作品数これぐらい何枚持っていきますってなって持って行って、現地に行って並べてみたけど、
これ全部入れたらちょっと狭すぎるなって減らしたりとかもする。
え、マジで?そんなあり?
そうそうそうそう。
マジで?
ってぐらいは。
せっかく作ったのに。
いや、もちろん全部新作だったらそこまでそんなことはしにくいけど、
既存作、古い作品もリバイバル展示とかよく何枚かするから、大体その古い作品を抜いたりするっていうだけなの。
展示空間の設計
なるほど。
でもそれくらいはどちらかというと空間ファーストになる。
周り回って作品ファーストの話なんだけど、
作品をたくさん見てもらうよりかは、作品をどういう見え方して欲しいかの方に思う気がする。
それさ、じゃあ真っ先にさ、伊藤プレイラーだったらこれどうしてるのって聞きたいのがさ、作品の大きさよ。
大きさね。
でもあれは正直個展してる会場がもう慣れ親しんでるから、これくらいの作品サイズでこれくらいの枚数だったらこれくらい埋まるなみたいな感覚がなんとなくあるからあんまり考えてない。
とはいえ最初にそのサイズ決めた時に考えたのは、やっぱり日本の家屋で飾りやすいサイズ感。
あーそこにあるのか。なるほどね。
それがどれくらいのサイズかと、僕的にはB3だとちょいでかいな。
B3ね。B3でかいね。B3タペストリーで想像するけど。
ただキービジュアルとかその年に見せたいとかっていうのは結構大きめにする。
だいたい長い長辺で600ミリくらいの作品で出力する。
とはいえ飾りにくいサイズ感にすると、それはもうシンプルに売上的な部分で影響が出ちゃう。
まあ確かにね。持って帰れないなこれはって思っちゃったらね。
これ飾れないな家に。ってなってくると買って欲しいなって思ってこの辺を考えたかなっていうのは。
でも最近は僕作品がデジタルだし、パネル加工とかいわゆるデジタルを出力したものをいい具合に加工してもらっている状態のものだから。
別にサイズの制約って実はない。
確かに。
だから大きく出力してそれを自由なサイズで買えますよって言っちゃえば別にそれでもいい。
ちょっと煩雑だな。めんどくささが勝つか若干勝つかなくらい。できればこのまま買って欲しいかなみたいな。
これは気合い入れたやつだから。
もしこれを聞いているリスナーの人が、もういいからひろたかにぃの話を全部聞かせろよって思ってしまうかもしれないんだけれども。
例えば伊藤ぽゆがさあの空間をなんかやるってなった瞬間にさ、まず何と見立ててみたいな。
そういう無をやり始める人は絶対伊藤ぽゆのことだから。こいつのことだからよ。また無をやり始めるからこいつは。
そうなるとさ、これは売るとかじゃなくて見せ玉ででっかくやるんだみたいな。
でこれによって他のものが初めてかけがえてくる成立してみたいな。でこやつらを買ってもらえればよしとするみたいな。
なんかいわゆるこうなんていうのかなその空間を作品ファーストよりも空間をやりにやっていくのが予想つくじゃん。
なんか伊藤ぽゆって。やりそうじゃんなんか。やりそう。やりそうじゃん。
もう一挙一投足に能書きがあるみたいなさ。もううるせえみたいな。なんかそういうのやりそうじゃないですかと。
でやっぱりそれでやっぱ気になるのがあのキービジュアルになるような、まあいわゆる今年のYはこれやみたいなやつ。
このYのテーマはこれやみたいな。そういうものをでっかくやるぜとか、なんか違うメディアでやるぜとかミクストメディアでやるぜとか。
なんかそういうアプローチってもう軸に考えたりとかはしない?
したいっていう気持ちはある。
なにそれどういうことどういうこと。
例えば僕もイラストレーターになる前はアーティストだったんですよ。さっきなんかアーティストの話を散々しながらやるんだけど、僕1年間アーティストとして生活してて。
ほんとだよね。しっかりやってたじゃん。
まあいわゆるね、アーティストの活動ってざっくり言ったらギャラリーで展示して作品を売ってお金を稼いで食べる。
絵をねちゃんと買ってもらうというかね、絵を描いて売ると。
活動をしてたんだけど、なんか僕がその当時からやっぱり制作してるスタイルっていうのはデジタルアートだったから、作品に価値をつけるにはエディションナンバー必須だし。
エディションナンバーを入れたところで、あんまりその単価はやっぱり上げにくい分なんですよね。
確かにね。
とはいえ新人作家の作品だけど、そんなポンポン売れるものでもないし。
で売れたところでギャラリーとの合体後で接班するからは、だから全然その商業的に食えなくて、食えなすぎてイラストレーターになる。
自分の略歴があるから。
作家時代に、アーティスト時代にやってたものの中で、縦2メートルの作品を2つ用意して、周り小作品とA3ぐらいの塔を他のところの壁で使って、
メインのビジュアルは縦2メートルで出力したものを展示してみたいな展示空間を作った。
それすごい楽しかったし、それぐらい派手なことをやりたい気持ちはずっとあるんだけど、これ正直現実問題。
そういう作品が売れることは、よっぽどのことがない限りなくて、売れないってことは、それは在庫として自分が持ってなきゃいけないわけ。
それを置いておく場所がない。
確かにね。
破棄するわけにもいかない。
もし今後、自分がすごい広い土地を買って広い家を建てて、そこに作品の在庫をボンボン置けるようなことになれば、そういう作品のアプローチもしていけるけど、現状なかなか考えにくいみたいなのはある。
できるとしたら、ペーパーでやるぐらい。
例えばターポリンでもなんでもいいけど、2、3メートル、天井高ちょうどぐらいの出力をして描ける形で、あくまでビジュアル、空間を占めるものとして演出して、
実際に破けていくだろうなみたいな作品は、いつも通りの現実的なサイズ感で、みたいなことはできない。
どうしようかな、ちょっと考えつつ、今回はいいかなって毎年なっていうのもある。
毎年なってんの?
そっか。
ちょこちょこ考えて。でもそれの一端が、今言った問題点で、おおむねサイズ感の話だよね。
このサイズ感の問題さえなければ、そういうことはできるんじゃ。
デジタルアートの挑戦
と思って去年やったのは、パネルの裏にLEDを仕込んで光らせるみたいな。
あの綺麗なやつ。
僕の作品って出力の仕方が、アクリルフォトっていう加工をしてて、
プリントしたものを上からアクリル板で圧着して、アクリル板でプラス裏からアルミ板で裏打ちしてて、
アクリルの板に作品が印刷じゃなくて入ってる、包まれてる状態の加工をしてもらってるんだけど、
それに裏に高さが1センチか10センチのアルミの下板を履かせるとかくっつけて、
それがあると壁から1センチ浮くわけです。絵の面。
そうするとギャラリーに展示するとライティングの関係で影もできるし、壁から浮き上がってすごい綺麗だし、
自分の作とかデジタルのイラストとかにアナログ出力されたときのイメージとして、
すごいぴったりだなと思ってやったのがあって。
だから壁と作品の間に1センチの隙間があります。そこの隙間にLEDテープで外側に向けて光らせる。
作品の裏側が光っているときに使ったLEDテープの色がブルーだった。
青色でフワーってなってたよね。
作品のタイトルもコバルトブルーオーバー。
全体的に青基調の作品の外側に青が漏れてオーバーフローしてるっていうのを作って、
これだったらサイズの問題はないし、
空間とかもギャラリースペースの演出として成り立つし、これいいなと思って。
まあまあまあ楽しかった感じで。
でも毎年光らせるのはちょっとなんかゲイがないというか、
そこもねまた飽き性というか、
同じことをやりたくない農民さんがそういうところにも来るから、
前にやったからことじゃやらないみたいなね。
このアプローチをやってるってことは、
これはさ、2023年のコピー&バーストのタイトルの、
青い車が並んでて、
ボートが並んでて、真ん中に女の子がいて、
青いジャケットを着てこっち振り向いてるあのイラストだと思うんだけど、
それの外側、いわゆるあのイラストの外側、
いわゆるハードウェアの外側でやったじゃないですか。
のを拡張してるっていう感じじゃないですか。
これだからあれでしょ、内側も拡張するみたいなアプローチも、
もちろんなんかこう想像したり、なんなりっていうのは考えてしたんでしょ。
例えば透明にするとか、なんかイラストの一部を光らせるなり、
いわゆるミックスメディアと言われるようなね手法というか、
いわゆる絵を、それこそ、
ひきな例で言っちゃうと、書店とかのさ、
書店員さんがすごい表紙を一個一個カッターでレイヤー分けて切ってさ、
あるじゃんこれ立体的にするやつ。
シャドーボックス的な。
そうそうそうそう、みたいなやつとか、
なんかアクリルに印刷してそれをレイヤーっぽく重ねて、
全体をこう、なんていうの、額縁みたいなのでグンってやって、
ちょっと立体テイストみたいな感じにしたり、
透明にしたり、なんか抜いてみたり、いろいろあるじゃないですか。
そういうアプローチも、まあ考えたり、
なんかそういうのもあるんだろうなっていうのは、
こう検討したりみたいなのはしてる。
考えたし、
結構いろんなイラストレーター、
古典やるのが流行って、いろんな人がいろいろやってるじゃない、手法で。
いろいろやってる。
そういうのを見て、いいなと思うものもあったり、
自分でもやりたいなと思いつつも、
なんか個人的にあんまりしっくりこない。
デジタルでイラストを描いてる人間としての境地、
境地って言うと意味が重くなっちゃうけど、
あれなんですけど、なんていうかな、
デジタルで描いたもので、
例えば画面で見る、ブラウザで見る、
要するに液晶に画面に写されたものを見るわけじゃないですか。
デジタルアートの現状
それがいわゆる一時ソース的なものなわけじゃないですか。
それと違った印象をアウトプットしたときに
持たせてることが果たして正解なのかっていうのは、
僕の中であんまり答えが出てない。
面白い。なるほどね。
僕の中でデジタルでイラストを描いてる作家である以上は、
液晶画面で見てるものが完成であってしかるべきだと思うし、
完成だとして、例えばツイッターとかに載せて人に見せてる。
それを今度古典でリアルの現場でアナログじゃないか、
現実に出力したものを展示して、
自分の目で実際に見てもらえますってなったときに、
なんか特殊な加工をしてたりとか、
凸凹にしてたりとか、
ここ一部分だけ半透明にしてたりとか、
なんか光ってたりみたいな、
その会場で展示されてるものを見て初めて感じられるものっていうのも、
もちろん貴重なものだし、
すごい価値のあるものだとは思いつつも、
なんか自分がこうデジタルで絵を描いてる人間っていう感覚からすると、
画面の中にあるものと外に出てきたものっていうので、
凸凹が発生してることにすごい違和感がある。
いや面白い面白い。
うわーなんかもうその一言だけでなんか白飯3倍ぐらい食える。
技術と作品制作の関係
もうその一言だけで作品が作れるレベルで飯が食える。
白飯がうまい。
でもさすげー納得感。
いやこれね、なんで伊藤ぽれはこんなに白飯をバクバク食ってるかっていうと、
いやこれリスナーには伝わってないかもしれないけれども、
これのやっぱり白飯のうまいところとしては、
ひろたかにぃは、
だから普通の人はいわゆる絵を、
例えばキャラを描きたいとか、
こう描きたいものがあって、
でそれの描く手段の一つとして、
ある種デジタルを使って描いてると。
便利だし消せるしレイヤーもあるしみたいな、
なんかいろいろ描きやすいしみたいな。
でなんだけどひろたかにぃは前さ、
前っていうかもうめっちゃ最初じゃない?
それこそガリベンガーさんとかの、
メイキングやった時に、
アンチエイリアスやんだかやんないんだかって、
すっごいアップにしてさ、
すーごいアップにしてさ、
チバチバチバチバチバチバってこうやって描いてるところさ、
すっごいアップで紹介させてもらったとこあんじゃん。
あれを知ってるポイント化すると、
いやあれを、だからなんて言えばいいかな、
ちょっとこれはある種変な言い方というか、
間違った言い方になっちゃうんだけど、
例えばドット絵描いてる人とかって、
ドットの大きさのずれとか、
なんかこのドット斜めじゃんけみたいなのとかっていうのに、
いやそれはドット絵とちゃうやんけっていうのってあるじゃないですか。
昔はやっぱりそれ結構強かったけど今はね、
もうなんかドット絵というアプローチがかなり人口に感謝して、
そういうのもある。
動画にするんだったら動きやすい方がいいでしょうみたいな、
雰囲気になってきたけど、
ある種その世界というか、
その液晶の視覚なのよ。
もうすーげー、
すーげー、
チバチバチバチバチバっていうのを綺麗に、
チバチバチバチバチバチバチバって一生懸命描いてるわけ。
本当に映像見てほしいんだけど、
頭が狂うよ普通に。
糸っぽいのだったら発狂する本当に。
フゥーみたいな感じになってるやつをやってる。
で、それを選んでやってる。
ひろたかに本人はこれが一番楽だからって、
楽とはなんだって意味がわからんっていう感じなんですけど、
ポイントとしては。
でもあれをこうやってるわけ。
だからあれをやっている人がそれを言うってなったら、
すごいそれはそうだねってなって、
もうご飯パクパクパクなわけ。
すごく。
そうね。
あれをやってるんだったら、
まあそうだねってなるよ。確かに。
だからそういう意味では、
全部モニターの展示でもいいと思うんですよね。
そうだよね。そういうことになっちゃうよね。究極はね。
なんかそこまで行くとさすがにちょっと現代美術すぎて、
あんまりこう僕のファンに向けた展示じゃなくなっちゃうから、
現実問題はそこまでやることはないとは思う。
それこそ何年前だろう。
10年以上前だよな。15年前とか。
ジュリアン・オピーっているじゃないですか。
はい、います。
ブラーのジャケットとかで有名な。
ジュリアン・オピーが古典で、
すごい巨大な液晶モニターを展示してて、
そこにジュリアン・オピーの絵画、
イラストチックな絵画を展示してるっていう場所があって、
それで完成なんですよ。
あとさ、わって思ったのが、エキスニモさんだっけな。
なんかさ、それこそインターネット闇道とかやられてた方。
日本の作家さんというか。
で、床にめちゃくちゃケーブルが敷き詰められてて、
で、すっげえでっかいディスプレイに映った、
女性と男性かな?わかんないけど、
キス顔みたいなのがでっかく映ってて、
そのディスプレイ同士がくっついてて、
チューしてるみたいなやつとかがあるのよ。
面白い。
そうそうそうそう。
で、2018年だったかな。
あ、ごめん。もうちょっと前かもしんない。
あのー、美兎の現代美術センターかなんかにあった記憶があるんだけど、
あのー、なんかそういうアプローチ。
でっかい、でっかいモニターに、
なんかこう、アニメーションとなんかイラスト作品みたいなのを、
なんかこう、VJ的にこう流したりとか、
なんか、あとディスプレイをちょっと斜めに置いてみたり、
上から映ってみたりみたいな。
あとはまあ、その、もしかしたらちょっと、
それこそ全ゼロ的になっちゃうかもしんないけど、ね。
ブラウン管を積んでみたり、みたいな、あるじゃないですか。
なんか、いろいろそういう。
まあ正直そういうの嫌いじゃないし、
いつかやってみたいっていう気持ちしかないんだけど、
一回でいいからやってみたいみたいなのもあるんだけど、
なんかディスプレイがいっぱいあるみたいな、
かっこいいみたいな思っちゃうんだけど、
それ系って、なんか考えたこととかってないの?なんか。
まあ、その、舞台装置としていろいろ使うみたいなの、
実際はあんまり考えたことないというか、
考えられるような現場で今まで展示してなかった。
ああ、そっか。でも確かにあそこだったら、
それは違うアプローチになるよな、ちょっとね。
まあ、でも正直今やってるあそこのギャラリーだったら、
させてくれると思うんですよ。
でも、それより前にやってた場所って、
新宿の雑貨屋さんの壁面だったんで、
表現の可能性
ってなるとできないんですよね。
お店ができないね。
で、あとまあ、平行していろんなイベントだったりとか、
っていうのがメインの作品の発表の場だったりとか、
そういうこと考えてると、
あんまり広い場所、ある程度広さがある場所で、
すごい大掛かりな装置を使うか、
ビジュアル的にガツンとくるような、
何か象徴的なものを立体とかで作ってみる、
みたいなことのアプローチは、
正直考える余地がないぐらいの場所でしかやってなかった。
ただまあ、学生時代とかそういう作品をいっぱい見てるような、
勉強してたのかな。
勉強してたって言ったけど、
全く勉強してないですけど、僕自身は。
不真面目な学生だったから。
その場にいて、その空気感に触れてたぐらいなんですけど。
正確に。
まあでも、そういうのをいろいろ見聞きしたりとかして、
近いところにいた感じだったから、
そういうのに対する憧れみたいなものは、
わりとシンプルに持ってて、
やれるならやりたい感じはあるね。
難しいよね。
なんかさ、今、イートポイラーの問題で高速にさ、
田中寛高に大斬りかけるディスプレイで、
うわーって考えてたんだけど、
これディスプレイの開発になるなと思って。
これハードウェアの開発が本質になっちゃうなっていうのがちょっと思って。
例えば今、ものすごく大きい、
それこそ中国とかで展開されてるような、
すげーでっかいディスプレイなんだけど、
一個一個小さいモジュールになってて、
それこそドット絵みたいなのがバコって、
ここだけ壊れたらバコって外して直せますみたいなやつあるわけよ今はね。
それプラス、
例えば小さい、それこそ電子工作とかのアプローチでも、
ちっちゃい液晶とかもあるわけなんですよ。
それを組み合わせると、
変な形のディスプレイって作れなくはないんですよね。
いわゆるベゼルがないディスプレイということなんですよ、
共通項としてはやっぱり。
ベゼルがないディスプレイというのが、
これだけ技術的にコンパクトになるようになった。
で、変えるようになった。
それを組み合わせて、
例えばギザギザの、
それこそドット絵で雷マークのディスプレイを作るみたいなのって、
技術的に全然できるわけですよ。
秋葉原の秋月電子と、
スイッチサイエンスをフンってやれば、
多分できるんですよ。
なんか。
電子ピコ太郎するよね。
そうそうそうそう。
でもそれって、もはやそれじゃんっていう。
でも、もちろんそれがあった上で、
できるよねって分かった上で、
じゃあ作品作る。
それこそフンってやれば、
そうだねっていう感じにはなるけど、
これむずいなと思った。
確かに技術が先にあるか、作品が先にあるかみたいな。
それなんですよ。
技術大切りみたいなところあるじゃん。
あるあるある。
だから現代芸術ってやっぱりその側面がすごい強いから。
めちゃめちゃあるじゃん。
これが例えば、
例えばそれこそアニメジャパンとかでよくあるのが、
日本の伝統芸能を描けるアニメ作品みたいな。
だから技術があって、
それをFGOコラボですみたいな、
とか全然あるし、
もちろん伝統芸能みたいなもの、
例えばそれは巻絵だったりとか、
漆であったりとか、
それこそまさしく描くっていう技術だったりもするんだけれども、
そういうものが技術があって、
ただ製品化されてない、
高い技術があるんだけれども、
それをどうにかこうにかして売れるような形でプロダクトに落とし込んだりとか、
あとは、
それこそIPですよね。
作家さんと言いつつも、
それはIPに近いのでとガッチャンコしてなんかやりますみたいな。
プロダクト開発、売れるものの商品開発としては、
技術先行で、
なんかできないですか?なんて、
まさしく糸っぽいだろうな、
申し訳ないんですけれども、
ごめんなさいみたいな、
反省の気持ちしかないんだけども、
なんかこれで面白いことできないですかね?みたいなのを、
ずっとやり続けて、
無をやり続けてきてしまったので、
それの良し悪しというのはすごく痛感してるわけですよ。
良し悪しっていうか足足というか、
足足ね。
その問題あるじゃん、マジで。
あるあるある。
これいかんともしがたいよなっていう。
なんかだからそこに、
結局違和感感じちゃってるうちは、
あんまり触れるべきではないかなね。
あー確かにね。
気持ちもありつつ。
でも本当に何がやりたいかによってくると思う。
結局そういうことがやりたいっていうのが、
先にあっても全然いいと思う。
作品制作のモチベーションとして。
別にお堅いアートをやるわけじゃないし、
どっちでもいいなとは思うけど、
それをやってまで本当に表現したいものですかって言われると、
そうでもないかもな。
マジでそこら辺はマジでわかる。
本当にその問題ね。
例えば作るの楽しいっていうプリミティブな楽しさってあるじゃん。
それは結構感じやすいっちゃ感じやすいのよ。
何かこう形になっていく楽しさとか、
だんだん出来上がっていく。
世の中になかったものが出来上がっていく楽しさみたいな。
ある種結構ソフトウェア開発に近いというか、
ウェブサービスの開発に近いというか。
それ結構やっぱある。
特に技術とか使ってると、
技術単体だと特に何もならないけど、
作品制作の快感
その技術を何かしらの形になるっていう時の快感っていうのは、
我々インターネット世代とかあるじゃないですか。
IFTTTでなんかめちゃくちゃ上手くいった時、
よいしょーみたいな。
懐かしすぎる。
やれやれ分かる。
ショーみたいなあるじゃないですか。
児童館みたいな。
まずはみんな全てのSNSアカウントで同時にツイートツイートを投稿することを目指すから。
そうそうそうそう。
何かさ、
まあ何ていうかこのまま眠り続けて死ぬのを、
あの楽しさじゃないけどさ、
シェーみたいなのがあるじゃないですか。
もちろんそれもあるんだけど、
ただそのね、
絵というアプローチで、
じゃあそれをやるのかい?やる?やれんのかい?みたいなのって、
またちょっとね、
別の話になってくるよなっていうのは、
やっぱり鑑賞者目線でも、
うーんって思う。
目の超えてる鑑賞者もやっぱ少なからずいるんで、
技術ありきで制作しちゃったりとか、
例えば世の中にあるもの、
例えば銃器的なもの、
銃器っていうのは要するに設備的な部分だったりとか、
資材か材料、
この既製品のこれを使って作品作ってみたいなのが仮にあったとして、
やっぱそのわざわざ展示に来て、
絵を買うまでしてる人たちって、
現場慣れって言うとおかしいけど、
ある程度ね、
展示に行く作品を買うみたいなものに対して、
抵抗感がそんなにない人だから、
当然日常的にいろんな作品を見てて、
目は超えてる。
ってなると、
世の中にある既製品を使って面白い表現をするみたいなものに対して、
あんまり評価がされないというか、
これ使ったのねみたいなのとか、
っていうのがバレちゃうとあんまり良くない感覚がある。
バレね。
バレ。
あるね。
それは何も、
物に対してだけ起こるわけで、
技術に対して、
例えば、
僕はあんまりそういうスタイルじゃないから、
結構厚塗り系だったりとか、
レイヤーエフェクトをよく多用するような絵を描く人だとか、
あとまあ、
水彩厚塗り、
それ系の人たちで、
展示までする人たちの中であんまり、
インターネットとかで見る中で言うと、
これあのフィルター使ってるねとか、
これあのブラシ使ってるねとか、
っていうのが分かっちゃうし、
この表現するのには、
このフィルターとこのフィルターとこのフィルターをこの順番で描けたらこうね、
なんとなく分かっちゃう、
みたいなのがあって、
それって、
そこまで分かるのって、
当然、絵描きの人だけなんだけど。
でも、
そこが分かっちゃう。
分かるような絵を描いてるのを見ちゃうと、
それに対しては、
やっぱりちょっと冷めた目を見ちゃう。
で、見ちゃうというか、
なんかこうね、
どうやって描いてるの?って思わせてほしいっていう、
なんか自分勝手な欲望があったりして、
この綺麗な表現、
どういうブラシ使ってんだろう、
どういう効果使ってんだろう、
分からない絵の方がやっぱりよくて、
で、
なんか、
それが結局一緒なんだよね。
そのものに対して、
あ、このもの使ったんだねっていうのがバレる。
バレて、
ちょっと冷めちゃう。
作品に対して冷めるみたいな感覚と、
デジタル上のイラストデータに対しても、
同じように、
あ、このブラシ使ったんだねっていうのがバレると、
冷めちゃうから。
作者の概念とその必要性
面白いね。
そうか、そういうふうに。
例えばさ、
いとっぽいのだとさ、
ブラシが分かんない代わりに、
座組で分かっちゃうみたいなのがあるじゃん。
あー、はいはいはい。
この印刷会社がクレジットに書いてあるっていうことは、
この人たちが頑張ったんだろうな、みたいな。
うんうんうん。
例えば、
アクリルの会社ここだなとか、
バッグになんとかの会社ついてるってことは、
もう慣れたもんだな、この展示は。
とか、
分かるわけよ。
生実家業界人だから、
ここの会社バッグについて、
それはだってアニメジャパンにめちゃくちゃ出展してるんだから、
なんていうか、
こういう重機組むところの会社さんなんて、
もう、
いくらでも知っとるやがな、
みたいな。
とかね。
で、もちろんただ、
これを語るときに、
すごくこれ、
人類の歴史的に難しいのが、
作者という概念ないと、
難しいところとしてあると思ってて、
いわゆるね、
すごい昔のね、
絵描きさんというか、
美術、
作家って言ってるか分かんないけど、
でっかい天井の絵を描くみたいなときに、
こう、
全部一人で描くわけじゃないって、
あるじゃないですか、やっぱり。
みんなでね、手分けして描いたりとか。
そうそうそう。
とか、
また一つの作品作るにあたって、
いろんな人が関わってるじゃないですか。
で、
例えば音楽とかも、
今も例えば、
それこそね、
スタジオミュージシャンの方々であったり、
作、
編曲、
あとはね、
プロデューサーさん、
音楽プロデューサーさんとか、
マスタリング、
エンジニアさんであったりとか、
いろいろあるわけですよ。
で、
いろんな人が、
いろんな人がやって、
で、
一個の作品というのができてる。
だけれども、
ただ、
人間というのは、
そんなに脳みそ、
そんなにできてないので、
作品を語るっていうときに、
どうしてもその作者というか、
どうしてもその作者というものが、
立ってないと、
作品同士を相対的に比較したりとか、
まる、
なんていうか、
同じ作者だから、
この昔はこうで、
今はこうでみたいな、
作品を語りづらい、
語るのがちょっと難しいっていう、
だから、
概念として、
仮の概念として、
作者というのを一人立てる必要があると。
例えば、
エヴァンゲリオンとかさ、
とにかく庵野さんの、
庵野さん、
庵野監督の作品、
もちろん庵野監督の思想がすごい強いし、
シナリオもそうだと思うんだけど、
でもやっぱり絵コンテ、
第一回戦切ってるのは、
別のアニメーターさんであったりとか、
いるわけじゃないですか。
いろんな人がやってるじゃないですか。
意外とその人の作風だったりもするわけじゃん。
作画オタクから見ると。
でも庵野さんとして語るじゃん。
みたいな感じで、
話戻して、
いかに座組があったとしても、
言って、
最終的なゴー、
ノーゴーの判断を、
例えば作家さんがしてると、
それがイラストレーターさんであって、
そのイラストが立体になるのか、
印刷して、
それがなんか、
ごちゃごちゃっと何かいろんなものが、
ごちゃごちゃっとあって、
あんな感じの印刷したのが、
ズンってあるとかね。
最近流行りですけれども、
みんなやってるけど、
そんなのね。
それも最終的なゴー、ノーゴーは、
その人がやってるし、
主題となっている作品が、
その絵で、
その絵は一人で、
クリスタなり、
フォトショップなりで、
一人で描いてるのでは、
その人の作品だろうと、
作者はその人だろうと。
アウラと印刷技術
だから、
別にええやろっていう、
この話も、
あるっちゃあるんだけど、
でもそれはそうとして、
いやこれはどう考えても、
どう考えても、
これはなんか絵があって、
それで何かやろうかみたいな、
そういう系じゃん、
ね?みたいなのって、
こう、
親?みたいな、
いとぷにも、
なんか変なところで目が超えてるので、
っていうのも、
まあ、
邪推してしまう、
いわゆるあってるかどうかは分かんないですよ。
けど、
勝手に変に想像してしまう、
みたいなところもあって、
これ、
これなーって毎回思ってる。
なんか、
で、
だんだん、
関わる人が大きくなってくると、
いや、
本当に分かんないんだけど、
例えばこれが、
キャラクターという一つの抽象的な概念から、
キャラクターって結局のところは、
いろんなところに、
それこそコピー&ペーストされるというか、
展開していくというか、
っていうのが本質にあるから、
そういうアプローチも、
確かに言って納得感あるんですよ。
表現として、
そうだねみたいな、
いろんな人が言ってたかって、
みたいな、
なんだけど、
絵ってなったときに、
絵の1枚、
デジタルの絵の1枚ってなったときに、
その絵の1枚を、
いろいろ印刷したり、
言ってたかってってなった場合って、
それこそ、
カッパ印刷の話にならないかみたいな、
複製技術、
それこそベンやミンじゃないですけど、
でも、
そうなったときに、
なんか新しいのってあるかなとか、
なんか表現で面白いことできるかなってなったときに、
ふーん、
みたいな気持ちになるみたいな、
みんなスマホ持ってね、
みたいな、
そっちの方がすごくないかい?
みたいなのがあって、
むずいなと思って見てる、
なんか、
印刷、
デジタルを印刷するということに対しての、
いわゆる一回性のアウラ、
神話性っていうものを、
どう作るか、
っていうか、
それって作る必要あるんだっけ?
とか、
もちろんその、
作った上で、
誰かがハッピーになるっていうのは、
絶対ある。
だってどこでも印刷されたやつ、
大好きだからね、
本当にね。
確かに。
大好きだから、
めっちゃ買うし、
好きなんだけど、
でも作品としてやるってなったときに、
これ毎回悩むよなと思って。
そうねー、
なんかアウラっていう意識に対して言えば、
もう割ととっくに諦めちゃってるところがあるかもしれない。
あー、
なるほどね。
もう出るはずがないから。
はいはいはいはい。
やっぱどうしたって大量生産を、
うん。
できるもんだし、
で、
仮にそれをじゃあ大量生産しません、
エディション1で、
1のみですっていう形で、
発表して販売したとしても、
そこにアウラがあるかどうかで言ったら、
正直ないと。
はいはいはいはい。
だって、
なんだろう、
うまく言えない。
これについてはうまく言えないけど、
なんか、
アウラの有無って、
その、
唯一性だけじゃないから、
わかる。
うん。
その、
インクジェットとかで、
均一にならされた形で出力されたものに対して、
アウラを感じられますかって言われたら、
正直難しい。
例えばそれが、
うんと、
なんだろう、
同じ印刷っていう技術を用いていたとしても、
例えば、
大昔の、
大昔じゃなくて、
アウラと歴史の影響
なんかロードレックとか、
はいはいはい。
えっと、
チラシみたいな、
ポスターみたいなものが現存していて、
それが、
に対してアウラを感じるかって言ったら、
それは感じられると思う。
うんうんうんうん。
でもそれは、
歴史が乗っかってるからね。
あの、
一個どころかたくさんの歴史が乗っかって、
ロードレックっていう、
その作家のパーソナルの部分も、
全部乗っかった上で、
それに対してアウラを感じられるけど、
今、
現代の作家が、
印刷したデジタルイラストを、
ポンって出して、
これにアウラを感じてくださいって言ったら、
さすがに無理、
通じるな、
話になっちゃうなっていうのは思ってる。
割と最初期の段階で諦めちゃってるところではある気がする。
なんかさ、
あの、
いや今のロードレックの例え、
あ、めちゃくちゃいい例えだなと思ったのが、
うん。
結論から言うと、
柄形の壁紙って、
うん。
柄形の壁紙、
えっとね、
え、
柄形時代に、
いやもちろんこういう言葉は良くないよ、
全く良くないと思うけれども、
拾い画という謎の言葉あったじゃないですか。
あーありましたね。
懐かしすぎる。
拾い画。
あの、
拾って、
いや拾ってるわけじゃないんだけどさ、
それはダウンロードさせていただいてるものなんだけれども、
まあその、
なんかさ、
好きな、
なんか好きな絵、
で、
ワンチャン作者不明、
うん。
で、
それを保存して、
柄形の壁紙にして、
いた、
あの柄形の壁紙という、
うん。
そこには、
何か素敵な何かがあったはずなんだよっていうのを、
はいはいはい。
最近すげえ思ってて、
うん。
で、
これ何だろうと思った時に、
やはり、
時間の区引きから解放されてるっていうところが一つあると思って、
はいはいはい。
いわゆる、
時間が止まっていることの重要性っていうものを、
まあだからそれこそアウラの例えを、
大学生っぽく引っ張ってくるのならば、
いわゆる、
まあ、
えっと、
教会のステンドグラスに太陽の光が当たって、
うわーみたいな感じになって、
やば、
クソエモみたいな、
あるじゃないですかと。
で、
その時に感じる時って、
別にそのステンドグラス、
いつ作られたかとかじゃなくて、
うん。
今、
わしがここで見てて、
エモいと感じており、
で、
なんかちょっと人生とか振り返っちゃって、
みたいな、
やばくない?
みたいな、
ここの今、
今ここの空間と、
それを感じているわしの、
この、
NOWのこの気持ち、
このNOW、
時間、
うん。
やばくない?
みたいな、
なんか、
そういうもの、
表現のものではなくて、
鑑賞者の心の中で生まれるものが、
感動ってことでしょ?
まあそれはそうだよね。
だって感動って言葉使うんだもん。
って言われたら、
まあ、
うっすっていうしかないんだけど、
でも、
あまりにも、
時間、
その、
NOWが尽きすぎてるっていうのは、
ちょっと問題だなと思ったんですよ、
なんか。
はいはいはい。
いわゆる、
この作品がNOWいものないと、
新しいものなのかっていうか、
うん。
っていうものが、
ちょっとその感動というのを、
薄れさせてしまってるんじゃないか。
で、
あのー、
いやー、
でも、
どうしよう、
どうしよう、
ジジババになってきてるのかな?
いとぽよが。
感動の新たな探求
ジジババになってきてるのかな?
ちょっと最近そこの区別が、
ちょっと自信ないんだけどさ。
うーん。
うーん。
うーん。
うーん。
なんか、
いわゆる、
インターネットから切断された状態で、
いやマジで、
飛行機の中、
飛行機の中、
飛行機の中で、
Wi-Fi繋がんなわけ。
で、
インターネットなんもないわけ。
で、
なんかよくわかんないけど、
iPhoneのフォルダの中、
ダウンロードフォルダみたいなのって、
あんま普段使わないようなところに、
なんかブースで買った、
なんかPDFかなんかが、
たまたま入ってたりしてて、
あーうんうん。
あとはこう仕事でね、
こう、
出先で確認したジップみたいなものが入ってて、
でもあまりにも暇すぎて、
もうそれしか見るもんなくて、
見るかっつって見た瞬間に、
絵めっちゃいいみたいな。
あーうんうん。
やばすぎるこの絵みたいな。
うん。
で、
そのなんか上空の、
いや福岡に向かう空港の話なんだけど、
あのー、
飛行機の中の話なんだけど、
それで見た時の、
割と最近だ。
そう。
絵の感動やばくて、
マジで。
めっちゃいい絵じゃんみたいな。
うん。
で、
あ、これじゃんみたいな。
いや何がこれじゃんなのか分かんないんだけど、
うん。
あのー、
なんというか、
時間の感覚、
いわゆる世の中の時間であったり、
他者の時間っていうものから、
ある種切り離されて、
自分とその作品、
その作品を見ている自分という時間、
っていうものだけが存在する。
まあ、
それこそある種、
絵と自分だけで、
こう、
愛対する状態。
まあよくね、
ベイヤミンとか言われますけれども、
あのー、
そこになった瞬間に、
うお、
っていう風になるっていうのは、
あると思っていて、
ある種、
印刷するっていうものは、
その、
結局、
インターネットネットワークというのが、
かなり、
現代においては、
時間、
流れる時間っていうもの、
いわゆる疑似動機性じゃなく、
動機性にかなり寄ってしまっている、
っていうところがあるから、
そのネットワークを、
切断した、
メディアとしての、
あのー、
まあ、
表現媒体。
で、
ある種、
見れる、
触れるじゃないけど、
その同じ空間にあるっていう意味で、
そこは、
結構まだ、
価値はあるかなっていうのは、
なんとなく思う。
なんていうのかな、
ああ、
そういえば、
この漫画、
まだ撮っといてたんだ、
っていう漫画を、
本棚で見つけて、
久しぶりに表紙見てみたら、
うわ、
え、
うま!
みたいな、
あの感覚というか、
なんかそれはね、
まだ、
まだ舞えるっていう、
感じは、
あるけれども、
いや、
お前、
お前そしたら、
それこそ、
なんだろう、
あのー、
美術館で、
スマホ見んな、
みたいな感じで、
こう、
作品こう、
見るみたいなので、
結構再現可能だから、
別に新しいこと、
なんもなくないすか、
って言われたら、
はい、
って言うしかないんだけどね、
なんか、
スマホ禁止って言われたら、
うっす、
ってなって、
それで結構感動できちゃうのかも、
しんないんだけど、
でもなんかね、
それ、
はね、
可能性を、
ちょっと、
正直感じている、
なんか、
うん、
うん、
現実いけるじゃん、
みたいな、
で、
その現実の中には、
ディスプレイっていうのも、
含まれるっていう感じ、
うん、
それはね、
なんか、
クリエイターとしては、
なんかやっていきたいという、
思いだけはある、
そう、
なんか、
それで言ったら、
鑑賞体験の重要性
今、
その、
AURA、
なんか、
AURAの話から発展している、
話になっちゃって、
うん、
まあ、
それこそ、
ジジババの世代になってきてるかな、
でも、
そうは言っても、
自分がやっている、
作品の制作の、
媒体というか、
スタイルというか、
現場って、
デジタルという、
はいはいはい、
部分があって、
そこに、
じゃあ、
そのデジタル作品の、
実存って何なのか、
部分と、
その、
印刷したものが、
じゃあ、
印刷すれば実存だ、
って言われると、
ちょっとどうなのかな、
っていう思いが常にあるから、
はいはいはいはい、
なんか、
そこでまあ、
あの、
いまいちこう、
自分の中で、
引き付けられてない、
みたいな感覚、
あって、
で、
なんか、
だからこう、
いろいろね、
その、
考え始めると、
ここ難しい話になりがちだったりとか、
こうなんか堂々巡りになっていきがち、
みたいな、
部分になってるかな、
みたいなのはあるけど、
まあでも、
さっきの話聞くと、
あの、
まあ、
干渉者側にあくまで委ねてしまう、
みたいなのも、
もちろん、
やっぱ考え方としては、
あって、
で、
まあ、
正直それでいいのかもな、
っていうのを、
それをするためにじゃあ、
展示空間の演出に、
まあどこまで行っても、
なってしまうのは、
あるかな、
みたいな、
なんか、
それこそ、
その電波が届かない場所で、
それ以外に見るものがない場所で見る、
みたいなのも、
その、
さっき言ったみたいに、
現実に置き換えたら、
じゃあ、
iPhoneなしにして、
ギャラリーに、
ギャラリーっていうか、
その美術館に展示見に行けばいい、
みたいな話になってから、
それと一緒で、
その、
個人で個展やってる部分に関しても、
なんか、
没入感を得られる、
それで言うと、
ちょっと話は、
自体は戻るけど、
ホワイトキューブの展示室を使う時に、
壁面の余白っていうのを、
なるべく広く持たせる、
っていう話をして、
その感覚が、
そのまんま、
まあ、
そういう演出に直結するのか、
確かにね、
その作品に、
フォーカスを当てた時に、
周りに何もノイズがない、
そうだよね、
パーって流れて見るんじゃなくて、
ノイズない方が、
おーってなって、
見るもんね、
一個ね、
展示方法と作品の現実
ちゃんと焦点合わせるもんね、
そうなると、
やっぱりそういう展示の仕方ぐらいは、
簡単にできそうだな、
っていうのと、
まあ、
とはいえ、
あのね、
僕が毎年やってるぐらいの規模の、
部屋感で言うと、
それをやろうと思うと、
作品クソ少なくなるな、
みたいなね、
問題も、
1個の壁に1個とかになっちゃうね、
究極言うと本当に、
そうそう、
まあだから、
それのね、
現実の部分、
現実的な部分と、
まあ、
理想というか、
こういうことだったら、
できるかもな、
みたいな部分っていうのが、
ある程度、
ある程度、
ある程度、
まあね、
なんか、
作品の鑑賞の仕方とか、
作品に対する、
感じ入り方、
アウラーの存在、
どうなれるか、
部分とかっていうのが、
まあ、
これはでもね、
正直答えなくて、
いいというか、
ある意味哲学というか、
全問答的なものでいいと思って、
常に考え続けてた方がいいし、
多分世の中的にも常に、
更新されていくべきだと思うし、
はいはいはいはい。
そういうふうに考え続けてた方がいいし、
多分世の中的にも常に、
更新されていくべきだと思うし、
はいはいはいはい。
それこそ、
えっと、
柄系の時代と、
スマホの時代、
もしくはその、
SNSがない時代から、
ある時代、
っていうので、
多分その辺も、
様変わりしてるはずで、
今、
柄系の時代の、
メールが、
拾いが、
とかが、
良かったよな、
みたいな思うのって、
僕の印象的には、
今思い返すから、
いいんだよ、
っていうのはある。
つぅ、
確かに。
今思い返すから、
いいんだよ、
っていうのはある。
つぅ、
確かに。
今思い返すから、
今まだ、
なお柄系の時代だったとしたら、
あれ、
拾い家、
みたいな文化っていうのを見て、
自分がどう思うかって言ったら、
割と、
肯定も否定も、
多分しないとは思うけど、
別に、
良いものとは思わなかっただろう。
そうだね。
そうだねって感想になるな、
多分。
そういうね、
それやってんのね、
みたいな感じ。
そうそうそうそうそうそう。
でも今、
思い返すと、
あの時代よかったな、
教習ですよね。
やばい。
ノスタルジック。
やばいぞこれ。
ノスタルジーでね。
ノスタルジーってこと?
これ。
ノスタルジーはでかい、
正直。
やばくない?
もちろんさ、
だけじゃん。
いやほんとだよ。
ガッて鉄格子掴んでさ。
01:12:53

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