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今日お話ししたいのは、パワーポジはノートが取れないという意見をTwitterで拝見したからなんですね。
これ、実は昨日、一昨日ぐらいだったかな、見たんですよ。
その後、さっき見てみたら、一応問題は解決されているみたいなので、特にその人へのコメントという意味では全くないんですけど、
でもですね、そういう誤解みたいなのは本当にいろんなところでよく聞くので、
ちょっと皆さんにも、ここでまずリアクションで聞いてみたいと思うんですけど、
パワーポイントでは、ノートが取れないからダメだっていうね、そういう意見聞いたことがありますでしょうか。
もしある方は、ハートのマーク、いやーそういうのは聞いたことないなーという方は、涙のマークでリアクションいただけますかね。
どうでしょうか。ちょっと今日はタイムラグが少しあるみたいなんですけど、あんまり聞いたことないかな、そういうことは。
まあね、最近はもしかしたらあんまり言われないかもしれませんね。でもね、僕が、あのね、涙のマーク来てますね、はい。
たぶんね、日本語教育の世界で、パワーポイントのことね、これとっても役に立ちますよっていうことを論文の形で書いたのはね、
たぶん僕が初めてなんじゃないかなと思うんですね。2001年とかそのぐらいだったと思います。
だからもう23年前ですよね。でもその頃はね、まだ結構そういう声が非常に多かったんですね。
で、久しぶりにちょっとそういう声を見たので、
ちょっとですね、まあその当時よく言っていたことをちょっともう少しだけ話してみたいと思います。
でね、実際にはね、パワーポイントで授業をすると学習者がノートを取る時間がないんじゃないだろうかっていうのは時々聞くんですけど、
でね、それに対して僕はね、全く意味がないというふうに批判するつもりはないんですけど、
意味は多少はあります。パワーポイントでプレゼンしてそれにノートを取るっていうことにも多少の意味はあります。
で、何でかというとですね、ただ話を聞くよりは手でも何でも動かした方が記憶しやすいということですね。
で、それがパソコンでですね、キーボードでノートを取ると、そのほうがたくさんノートが取れちゃうんですね。
で、手書きよりだって早いですからね、キーボードのほうがね。
だからその記録を残す、例えばパワーポイントを先生がシェアしてくれないから、
何が何でもその場で書いてあることを全部映し取らなければいけないというときは、僕はキーボードのほうがいいんですけど、
でもそのキーボードのほうが絶対効果があると思うんですけどね、その記録を残すという意味ではね。
だけど、後でね、どうせパワーポイントをシェアしてもらえるんだけど、
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例えば画面とかもね、全部ビデオで共有されているんだけど、でもそれを覚えるためにノートを取るという意味だったら、
手書きのほうが実際、記憶に残るという研究があるんですね。
それは何でかというと、手書きのほうが遅いからですね、何を書いて何を書かないかということを聞きながら考えなきゃいけないわけですね。
それで、深く考えることにつながるので、結果的にノートを見なくても考える過程があるから、記憶に残りやすいんじゃないかというふうに言われています。
だけどですね、それでもね、ちょっと僕は、そういう意味ではノートを取ることにも全く意味がないとは僕は思っていないんですね。
でも、パワーポイントを先生がもともと共有してくれたりですね、
そういう状況にまで、先生がパワーポイントを共有とかしてくれないから、
だから、その情報を書き留めるためにノートを取らなければいけないような事業というのが、まだね、大学とかでも時々聞くんですよ。
講義中にしっかりノートを取らないと、要するにそれが試験に出るから記録として残しておかなければいけないという話ですよね。
そういうので、そのノートを取るというのが非常に僕はもったいないというか、時間の無駄というか、しかも教育的な価値があまりないことだと僕は思っています。
何でかというと、それを目的にしてはいけないということですよね。
教えることの目的にノートを取ることを目的にしてはいけないと思うわけです。
情報を伝えることですね。情報を伝えるためにノートを取ると、それを目的にしては意味がないと僕は思っています。
要するに情報を伝えるだけでは意味がないんですよね。意味がないというか、それは知識にならないということです。
情報というのは確かに伝えることができます。ノートを取って情報を伝えることはできますよね。
先生がパワポを見せて、それで学生がノートを取る。そしたらそのノートに情報が移動するわけですよね。
しかもその過程でうまくいけば、学生はその情報を記憶することもできるかもしれません。
だけど記憶する情報を伝えられて、それを自分の脳に記憶するということと知識を得るということですね。
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知識を得るということは全然違うということですね。
これが公正主義とか言われている考え方なんですけど、要するに情報は伝わるけど知識は伝わらないということなんですね。
つまり情報は伝わって記憶になることはあるけど、それは知識ではない、それは知識にはならない、そのままではね、ということなわけです。
これについて前にもこのムラスペで話をしたことがありますけど、私たちはどう学んでいるのかという本がありますね。
この本についてもう一度ご紹介してみたいと思います。
やっぱりパワーポイントを見ながら一生懸命ノートを取って情報を伝えることが目的になってしまっているような事業がまだあるみたいなので、
それでちょっとこれはもう一回ここで紹介しておく必要があるなと思ったわけです。
そうですね、じゃあここまた大事なところ、これ前も同じところを引用したことがありますけど、もう一度引用しますね。
以下引用です。
知識は伝わらない、なぜならそれは主体が自らの持つ認知的リソース、環境の提供するリソースの中で送発するものだからだ。
ここまで引用なんですけど、送発の層は想像ですね、イマジネーションじゃなくてクリエイティブの層に、発は発明とか発見の発ですね。
知識というのは要するにそういう自分の頭の中で作るものだということなんですね。
だから構成主義と言われているんですけどね。
これについて、記憶とは違う知識とは何なのかということをこの本の中ではこういうふうに説明されています。
これは前のところではあまり詳しく、前に僕がこの本についてムラスペで話したときはこの知識の3つの性質っていうのがあるんですけど、
それを詳しく話す時間がなかったので今日はちょっとそれを詳しく話したいんですけど、
知識っていうのは3つの性質がなければいけないというわけですね。
1つは一般性、2つ目は関係性、3つ目が場面応答性ということですね。
知識の一般性っていうのは何かっていうと、この本の作者の鈴木先生ですね、鈴木博明さんだったかな。
鈴木博明さんの言葉では、いろんな場面で使えるということですね。
例としてですね、ウガンダの首都は、国ってアフリカの国がありますよね、ウガンダという国がね。
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ウガンダの首都は多くの日本人にとって使う場面はほとんどないというふうに言っています。
だからこれは知識ではないということですね。
でも考えてみると、ウガンダの首都には当然必要ですよね。
日本人にとって東京が首都であるということはとても役に立つ、いつでも使えるような情報ですからそれは知識としてはある。
だけどウガンダの首都はどこかということは大事だけど、多くの日本人にとって使う場面はほとんどない。
だから知識ではないということは、もしかしたらその人本人がね、
構成主義というのは個人に属するもの、属人的という言葉もありますけど、
みんなにとって有用な知識ではなくて、その人自体が構成する知識なので、
なので一般の日本人にとって使うことがほとんどない情報だったらそれは知識ではないということなんだと思いますね。
つまり自分にとって役に立つことがあるのかどうかということが関係してくるのかもしれません。
これもですね、例えば、昔ベトナム語を勉強しているときですね、
東京外語大のサイトで吹雪という言葉のベトナム語のね、出てきたことがあってすごくなんか幻滅してしまったことがあったんですけど、
これがやっぱりベトナム語でね、吹雪という言葉をそれが一般的に使われるかというと多分使われないだろうなと僕は思ったわけですよ。
だってベトナムってほぼ熱帯とかは熱帯の国ですからね。
僕が住んでいたのはハノイだったし、僕が住んでいたら雪すら降りませんでしたからね、当然吹雪なんてものも一度も会いませんでした。
だからそういう一般性が非常に低い情報、一般的に使える情報ではないので、
なのですごく僕が幻滅したというのはそういう状況なんだと思うんですね。
あとね、2番目ですね、関係性ということも言いました。
知識とは何かということに関係性という性質も必要だということですね。
この本の少し引用しますね、この関係性にかかるところね。
小学生たちがイワンのバカ、トルストイ、赤と黒、スタンダールなどと言い合っていた。
これは本当に意味がない。
イワンのバカがどんな小説であり、トルストイがどんな人物であるのか、どんな時代に生きたのか、
なぜトルストイはそんな小説を書いたのか、現代となったものは何か、オリジナルタイトルですね、現代ね。
そういうことが繋がらなければクイズ王くらいにしかなれないというふうに、
この関係性がないダメな例、ダメな知識としてこういうことを言っていますね。
ちなみにクイズ王くらいにしかなれないと言ってますけど、
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クイズ王というのはこの本には何回も出てきて、かなり批判的に知識じゃないただの情報をたくさん抱えているだけのダメな人という意味で、
このクイズ王というのが何回も出てきますね。
つまりクイズ王が知っていることは情報であって知識ではないということですよね。
これを見て考えたのが、ここを読んで僕が考えたのが、要するにイワンのバカを書いたのは誰ですか、トルストイですよとかね、
そういうことを、そういう情報を生きた知識にするためには、まずイワンのバカがどんな小説か、内容を読んでなければいけないし、
トルストイがどんな人物であるのかとか、どんな時代に生きたのかとか、そういうことを背景の知識として知っていないと、
要するにそれが繋がらないわけですよね。
それが孤立している情報なので、それが関わってくる背景の情報を持っていて初めてそれが知識となるわけですけど、
でも逆に言うと、そういう繋がってくる知識がないと、どんな情報でも最初は孤立した情報になってしまうんですよね。
そういう背景に繋がってくる知識っていうのが、いわゆる教養っていうものじゃないのかなというふうに僕は思います。
そういう教養っていうのがあれば、そういう知識が一つの記憶とか情報がすぐに他の知識と繋がってくるので、生きた知識になるっていうことですね。
単なる記憶が生きた知識になるためにはこういう教がたくさんあると僕はいいんじゃないかと思います。
これも本当に僕みたいに引っ越しの多い人間にとってはすごくよくわかるんですよね。
インドに来て、例えば食べ物の名前とか地名とかそういうことを聞いても、全然一つ一つが孤立した情報なんですよ。
なので、そうすると本当にそれがただの情報であって知識じゃないっていうのはすごくよくわかります。
例えば、今モディ首相がインドにいますよね。モディ首相はグジャラート州の出身であるっていうことを言われて、
グジャラートって名前はその時に覚えますけど、でもそれだけじゃ全然意味がないわけですよね。
その後、映画とか色々読んでいると、例えばこの間も、今度日本でも上映されるんですけど、エンドロールの続きっていうのがグジャラート州で撮られた映画ですごい自然がきれいなんですよ。
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インドの自然というと、僕がいる南インドの木がたくさん生い茂っている地域と、北のほうの砂漠っぽい地域みたいなところしか知らなかったんですけど、
グジャラート州のエンドロールの続きっていう映画に出てくるのは、アフリカのケニアに出てくるようなサバンナ地域なんですよ。
ライオンとかもいるんですよね。野生のライオンとかが。
そういうのは僕すごく知らなかったので、グジャラートってこういうところなのねと思っていたところに、その後に見たインドの映画で、カイポーチェという、またこれもグジャラート州の舞台にした映画なんですけど、
そこでもグジャラート州というのが出てきて、これがモディ首相の出身のグジャラート州で、かつエンドロールの続きにも出てきた自然の美しいグジャラート州なのねと思っているところに、今読んでいる本でも、
またアーメダバードというところで、主人公の2人が出会うというシーンがあってですね、そういう感じでどんどん繋がっていくわけですよ、一つの情報がね。
そうすることによって、例えばグジャラートとかアーメダバードという地名を聞いたときに、いろんな周りの知っている、すでに僕が本で読んだり映画で、実は言ったことないんですよ、グジャラート州って言ったことないですけど、
本で読んだり映画で見たりしたね、そういう光景とかと繋がってきて、それが本当に、例えば今度グジャラート州出身の人と会ったときとかにも、私グジャラート州ですって言われたら、あのグジャラート州から来た人かという感じで繋がっていくんだと思います。
そういうのが関係性というものだと思うんですね。
これが知識に必要な3つの性質のうちの2つ目でした。
3つ目は場面応答性というものですね。
これもちょっとその本から、私たちはどう学んでいるのかという、鈴木ひろわきさんの本から引用するとこういうものです。
知識はそれが必要とされる場面において発動、起動されなければならない。
これがその場面応答性というものです。
特に語学については、これが本当に重要だと思うんですね。
まだそれが書くときとか読むときはいいんですよ。
文脈でもう勉強したけど覚えてないというときに、そのときにもう一回調べればいいわけですよね。
だけどその会話のときは、この場面応答性がない、要するに知識がない、つまり知識になっていないただの記憶、
それだと本当に使えないんですね。
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これもね、僕も今オフィスでなるべく英語を使わないでヒンディ語だけで話しようと思っているんですけど、
話をしている途中にどうしても上手く言えなくて、単語が思いつかなくて、
この単語がちゃんと言えたらもっと上手く伝わったのになと思って、
あとで辞書を引いてみると、もうすごい簡単な言葉で、
なんでこんな単純な、こんな手法的な言葉を自分はあのとき思い出せなかったんだろうということがとってもたくさんあるんですね。
これはね、たぶんこの情報が、場面応答性がないただの記憶だったからですよね。
要するに僕にとってそれが知識になっていなかったということなんです。
こういうことはですね、本当にちょっと今日話しているようなパワーポイントを見せてノートを取らせるだけの、
そういう事業形式ではもうこういうことが非常に起きてしまうと思います。
すみません、僕はね、今別にヒンディ語っていうのはそうやって人から教わってないので、
誰かを僕がこうやって批判しているわけではないです。
僕のヒンディ語の先生っていうのはいないですから、そもそもね。
なんですけど、まあでもこういうことっていうのはもう本当によくあることなんだと思いますね。
こういうことを、特にこの場面応答性ですよね。
これがですね、ちゃんと教えた、つまり伝えた情報を記憶にして、
それをその場面応答性も持った知識にしてもらうにはやっぱり必要なのがそのロールプレイですよね。
実際の場面に近いロールプレイですよね。
教室でやるんだったら、はい。
まあ教室でやるからにはやっぱり教室の中で再現できるような場面になってしまうので、
ちょっと限界はありますけれども、
それでも実際の場面に近いロールプレイをすることで、
この場面応答性を、つまり孤立している情報を他の関係性を持たせて、
しかもこの場面応答性を持った知識に変える、そういうことができると思います。
実際の場面に近いロールプレイをするということですね。
これがね、もし日本に住んでいらっしゃる方だったら、
日本で教えている、日本にある日本語学校だったら、
せっかくね、日本語を使う場面というのがもういくらでもあるわけなので、
教室の外にね、それを利用する方がもっといいと思います。
例えばね、彩りとか、彩りはまさに日本でやるべき行動を教材にした、
行動中心アプローチの考えでね、教材にしたそういうものですから、
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それも必ず日本でできること、
しかもその多くは日本じゃなきゃできないことがあったりするんですよね。
例えばその駅でね、駅のホームで駅員さんとか周りの人にね、
この電車は新宿に行きますかって聞いたりとか、そういうことをするっていう、
そういう、なんていうんですかね、キャンドゥがあります、CDSがね。
なので実際にですね、それを教室の中じゃなくて、駅のホームに実際に行って、
別にみんなで一緒に行く必要はないと思うんですよ。
それを一人一人がね、それを実際の駅のホームで、
すいません、この電車は新宿に行きますかっていうことを聞いて、
お客さんなり駅員さんなりに答えてもらう。
しかもそれをできればスマホかなんかで録音しておいて、それを提出してもらう。
そういうところまでやると、こういう場面応答性のある知識になるわけですよね。
教室でただ教えた情報で、それが記憶にまでなったかもしれないけど、
その記憶を実際に知識として定着させるには、
まずは実際の場面に近いロールプレイを海外だったらやればいいと思いますし、
日本の学校、日本にある学校だったら、実際にその駅なら駅、バス停ならバス停で、
そういうところに行って、その場面そのものでそれをやってみるという。
そこまでやれば、その授業の教えたことが生きた知識になってくるんじゃないかと思います。
はい、それではですね、ちょっと僕が言いたいのはここまでになりますので、
もしリスナーの皆さんも、教えた情報が記憶にして、それを生きた知識として定着させたい方は、
こういうやり方を考えていただければと思います。
はい、それでは本日もムラスペにご参加いただきましてありがとうございました。
今日のこのパワーポジャノートが撮れないという音声配信につきまして、
ご感想とかコメントとか、ありがとうございます、いいねいただいてますね。
質問とかもいいですので、質問とかありましたら、ぜひこのムラスペのハッシュタグ付きでご共有をいただければと思います。
はい、それでは本日も良い一日をお過ごしください。
そして冒険は続きます。