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2024-02-20 21:36

人生が偶然の連続なら、教育もまた偶然で満ちたものである

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おっすおっす、おはようございます。こんにちは、こんばんは。地球元気食堂、開店でございます。
僕の名前は、もおちゃりと申します。薬前師をしたり、森林インストラクターをしております。どうぞ、よろしくお願いいたします。
森の保育 こういった保育園の活動があるんですね。
または、幼稚園の活動があるんですね。 森の幼稚園という言葉は、よく聞かれているかもと思います。
森の幼稚園というのは、海外で有名になった保育の方法でございます。
まず一つ目に、園舎を持たない。 つまり、建物を持たないということです。
そして毎日毎日、基本的には晴れだろうが雨だろうが、森に出かけて行って、その中で一日を過ごす。
そんな保育があるんですね。 日本でもこの森の幼稚園というものに
憧れて、それを実践している場所がいくつかあります。
僕は今、高知県で活動をしているんですけれども、 高知県には森の幼稚園、森の保育園というものはありません。
しかし、週に一日、
園で持っている山、森に出かけて行って、 そこで一日遊びながら過ごすという時間を持っている場所もあるんですね。
今日僕はその森の保育というものを、
保育への活動の一つとして行っている 幼稚園へ出かけてきました。
そして初めてその保育の様子を目の当たりにしたんですね。 いやーこれは非常に素晴らしかった。
子どもたちが一つ一つの発見、気づき、これを口にして、味わって、共有をして、
そして森の中を歩いていく、 そんな活動でした。
今日はこの森の保育で気がついたことを共有させていただきたいと思っております。
03:00
まず、僕は小学校で教員を11年間勤めてきた、
そんな背景があります。 そんな僕からしたら、この森の保育というものは非常に羨ましいものでした。
常々僕が感じていることの一つにこんなことがあるんですね。
人生というものは偶然の連続であるということです。
どんなに計画、プラン、青写真を作ろうとも、その通りに進んでいかないのが人生です。
そして、計画通りに行ってしまう人生ほど張り合いのないものはないのではないかと、そのように思うんですね。
同じように、教育もまたこれが当てはまるものだと思っております。
教える、育てる、これはいかにその子に人生というものを学ばせるか、学んでいただくか、学んでいくかを考えていく、そんな道なんですよね。
社会に出る前に、学校という現場で、もしくは家庭という現場で、人生の予行練習をしていく場です。
しかしながらどうでしょうかね。 現在、学校で行われている教育のほとんどは
偶然というものを排除し、効率的に、確実に、その目の前の子にある何らかの能力や技術やスキルを学ばせ、体得させようとするもの、そのようになっていはしないでしょうか。
僕は感じるんですね。非常に感じます。それはその教師、授業をデザインするものが、まず最初に考えることが授業の目的だからです。
学校とは授業を受けに来るものであり、そして授業、1時間で得る能力、スキル、経験値、これをまず考える。
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また、授業がいくつか集まった単元と言われているもの、これでまた一つ、何を子供たちが得るのかということを考えていくんですね。
その中には、必ず子供たちが体得してほしいこと、これをつぶさに書き出していきます。
つまり、それを全員が体得、得得することが目的なのであって、それ以外の目的というものが描かれません。
人生というものは偶然の連続です。そして自分の人生が大きく動いたなと思うその瞬間は、常に自分が思いもよらなかったことに気が付く、そんなタイミングではないでしょうか。
しかし、授業ということになれば、1秒単位で全てが計算し尽くされ、そしてそれを子供たちがトレースをすることによって得得していく、これが毎日毎時間繰り返され積み重ねられ、そして教育というものが語られていく。
カリキュラムという言葉があります。カリキュラム、僕たちはこのカリキュラムの意味をどこかで誤解をしています。
どんな学ぶ内容、学習内容を組んでいくのか、そしてどんなスキルを身につけることができるのか、それをいろんな仕掛け、いろんなテーマを用意して1時間1時間こさえていく、これの集合体がカリキュラムだと思っているんですね。
しかし、カリキュラムの本当の意味、これはそうではない。カリキュラムの本当の意味、それは学習者が受ける教育の総体である。カリキュラムとは学習者の受ける教育の総体である。
こういった意味があるんですね。つまり、授業の中で何を得るのか以上に、そこで起こる偶然、また授業の外、休み時間、給食の時間、また陶芸校の時間などなど、そういったところで起こるすべてのこと、これを含めて、
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カリキュラムと呼ぶのです。むしろ、僕たちが記憶に残っていることというものは、休み時間にどんな話を友人と行ったのかとか、僕たちがどんな学びをしたかよりもどんな遊びをしてきたかということになるのではないでしょうか。
その証拠に、僕たちは授業のことすべてをバッチリ覚えているわけではない。それよりも、休み時間のことやどんな友達がいたかということの方がよくよく覚えているのではないでしょうか。
森の保育、これは非常に意義深い教育活動だと思います。森の保育の中では、森で一日を活動するということ以外の目的は、子どもたちには特にはないんですね。
もちろん、森に連れて行く保育者たちは、一人ひとりが子どもたちにこんな思いをしてほしい、こんな体験をしてほしい、例えば今日の例では、雨上がりの森の様子はいつもの森とは違うんだよということを感じ取ってほしいという漠然とした、
しかし、どこか確固たる思い、願いというものを抱きながら森へ子どもたちを連れて行くんですね。
しかし、そこで行われている保育というものは、あれはダメだ、これをダメだと道を制限し、そして自分の思う道に引きずり込むのではなく、子どもたち一人ひとりの興味や関心、発言を拾いに拾ってリアクションをし、答えていき、
その中で保育者が得得してほしいと願った内容にも踏み込み、さらに子どもたち一人ひとりの興味、関心や、そして点数などでは表せない、そんな深い情操、心の弁、これを豊かに導いていくものでした。
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あたかも授業、あたかも教育となると、僕たちは、どこか子どもたちを自分たちの思い通りに思うような方向に導くことができると錯覚をしてしまう。
しかしそうではない、子どもほど難しいもの、コントロールすることが難しいものはないのだと、これはもうまさに何千年も前の昔から語り継がれている、今にも伝わる事実ですよね、そのことを僕は今日、この森の保育を通じて見させていただきました。
また、その保育に携わる一人ひとりのモチベーションたるや、森というものになっていくと、それは何が起こるかがわからない、だから面白いんです。一寸先は何が起こるかわからない、だから子どもたちも夢中になることができる。
これを保育者の計画で埋め尽くしてしまうならば、ひとたびそれを計画で埋め尽くしてしまうならば、たちまち森というものは魅力的なものではなくなってしまう。
これもダメ、あれもダメ、そうではなく、やりたいことを見守り、やりたいことをじっと応援をする、そんな姿勢も見られたんですね。
お話を伺っていると、そんな自分がコントロールすることができない森、この森は非常に怖いものだと職員側が言っていく。そしてその職員が森が怖いと言ってやめてしまう、そんな事実だってあるのだそうです。
その森が怖いという事実は持っていて叱るべきです。しかし、だからこそ面白いんだと思う人たちが、この縁に残り森の保育というものを毎週毎週実践をしていくのではないでしょうか。
子供はもっと遊べるよ、もっと自分たちで遊べるよ、楽しいことは先が見えなくて、いつも危険をはらんでいることなんだ。しかし、この危険を、危険をも持て遊ぶことができること、例えば火、火って怖いですよね、でも火を使って遊ぶということは非常にワクワクもするものであります。
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また、高いところを歩く、これも非常に怖いことではありますが、だけどこの先がどうなっているのかがわからない、だから面白いものです。このワクワク、そして緊張、そしてそれが、自然がそこにあるということが美しさとして子供たちも大人たちも受け取ることができる、だから面白い。
この森の保育という活動は何もこの場所だけで行われているのではありません。日本全国津々あうら、いろんなところで行われているでしょう。その場所によって行われていることは違います。
大人と一緒に楽しむという時間がある場所もあれば、大人コースと子供コースが分かれていって、そして最後に合流をして一緒に楽しむという時間もあるのだそうです。大切なことは何かというと、子供だけが楽しむものではない、大人も一緒に楽しみ、そしてその偶然に身を委ねるということなのではないでしょうか。
僕はですね、これを非常に今回感じました。そして今この現代という社会の中で、世界の中でこの森の保育を行おうとすると、どうしても必要となってくるのが危機管理ということです。危機管理というのは非常に難しいですよね。
僕もですね、先日遊びの場所を作ってくださいと依頼を受けました。しかしそこで言われたことがまず一つ目が刃物を使ってはなりませんということです。
刃物というものは非常に幅広くて、ハサミ、それから切り、穴を開けるものですね。そういったものを刃物に含まれていきますよね。この刃物というものを使うことで子供たちの活動というものは非常に大きく広がっていくものだし、楽しさも、そしてもちろん危険も緊張もある。
だからこそ楽しいという思いがある。しかしそれらを使わないでほしいという話をいただきました。これは大人のスタンス、姿勢というものが非常に求められる事例だと思いました。
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大人が全てダメダメダメとあれも使ってはダメという風にして安全な道に導くのか、それともそういった道具も使いながら安全性を図っていくのか、これでは全く違った結果が出てくるのではないかと思うんですね。
次に、時間の質、その子が受ける教育の相対、これがカリキュラムです。このカリキュラムの質というものが大きく変わっていきます。出来上がるものが例え同じものだったとしても、そこに子供たちが道具を選ぶという楽しみがあるのか、初めて使うものがあるのか、そういったものがあるかどうかで大きく変わっていくのがこのカリキュラムという考え方なのです。
いかがだったでしょうか。最後まで聞いてくださったあなた、ぜひいいねやフォローで足跡を残していってくださいね。
今日はですね、教育の相対、それはカリキュラム、偶然で出来ている人生とは偶然なのである。だったら教育の世界も保育の世界も偶然というものをもっと大切にせねばならないよね。そんなお話をさせていただきました。
しかしですね、僕たちの世界はこれを考えていくと、どうもですね、偶然があるものほど値段がつかず、偶然がなくてしっかりしているものほど価値が高い、値段がつくというふうに思われているのではないかと僕は感じるんですね。そうではないでしょうか。
森に連れて行きますよ。これはもう、それはもう、素晴らしく偶然に満ち満ちた、学びに満ち満ちた、そんな時間でございます。しかしながら、森に連れて行くよりもオンラインでの講座、受講動画、そういったものを教える方がはるかに価値が生まれやすいというか、
値段がつきやすい、金額がつきやすい、こんな世の中になっているのです。本当にこのままでこの世界は正しいのでしょうか。僕はこの世界の、この世界のですね、どこか、どこか、いびつさを感じざるを得ないということなんです。
だからこそ、僕たちはですね、どんどんどんどんがんじがらめの、そしてコースが決められたものというものを作り出していきます。人がですね、人が工夫をする余地がないものというものを作り出していこうとしてしまいます。しかし本当にそれが僕たちの生きる道なのではない、なのでしょうかということは、これからも考えていきたいことだなと思う次第でございます。
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いかがだったでしょうか。お時間が来てしまいましたので、今日はこの辺でお相手は薬膳師であり森林インストラクターであるもうちゃりがお送りいたしました。またお会いできることを楽しみにしております。今日も素敵な一日をお過ごしくださいませ。
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