2023-07-05 11:16

078.新五千円札の肖像に選ばれた津田梅子について

いつもありがとうございます。

今回は、新五千円札の肖像に選ばれた津田梅子さんがどういった人なのか話していきます。


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世界に多くの喜びを提供しよう。起業家たちの心構え。
はい、こんにちは、尚人です。今日は、2024年度に新しく紙幣が変わるんですけど、その新五千円札の肖像に選ばれた津田梅子さんのお話をしていきたいと思います。
これまで日本紙幣の肖像に選ばれた女性は前例が少なくて、今の五千円札の樋口一葉さんだけになっています。
また肖像ではありませんけど、2000年に発行された二千円札では、裏面に源氏物語の作者である紫色部の絵と詩書が採用されました。
肖像の選定基準は、詳しく定められているわけではないそうですけど、
日本国民の間で一般的によく知られており、人物像の写真や絵画が入手できることが条件になっているそうです。
ちなみに五千円札の樋口一葉さんは、日本の社会で女性の地位が向上し、男女共同三角社会が進むなど、新しい時代の流れを表すという理由で選ばれたそうです。
そして今回紳士兵に採用された津田梅子さんは、津田塾大学の前身である女子英学塾を設立した方です。
日本人女性の教育に一生を捧げたと言われる津田梅子。
当時の日本女性が置かれていた環境や、彼女の生涯について詳しく見ていきましょう。
津田梅子が生まれたのは江戸時代の終わり頃、1864年の東京です。
桜藩の爆心だった父・津田仙の勧めで、1871年にイワクラ施設団の女子留学生としてアメリカへと留学します。
当時の津田梅子はまだ8歳だったそうです。
5人いた女子留学生のうち最年少だったと言います。
この時の女子留学生には津田梅子以外にも、後に日本初の看護婦学校を設立に携わる大川捨松や、
ピアノを学び日本の洋楽教育に貢献する潤茂子といったその後の歴史に名を残した人物たちもいました。
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アメリカに渡った津田梅子は、その後実の親よりも影響を受けることになるチャールズ・ランマンス妻の下に預けられます。
ランマンス妻とは生涯にわたり文通を行い、高齢になった夫人の自宅へと掃除に向かうケアなどを行い、深い交流があったそうです。
ランマンス妻の下で生活するようになって1年を過ぎる頃、津田梅子にはキリスト教への信仰心が芽生え始めます。
ランマンス妻、夫人や周囲のアメリカ人女性の多くが聖書から道徳を学んでいる姿勢に影響を受け、自らキリスト教の洗練を受けたそうです。
津田梅子にとって、アメリカにおけるアメリカ人女性たちの社会的な地位は、日本における日本人女性の社会的地位よりも高いと感じられました。
こうしたアメリカ留学での経験は、津田梅子が女性の社会的地位向上のために、教育へと人生を懸ける土台になったと言えると思います。
留学期間は当初10年の予定でしたが、1年の延長を申請して留学してから帰国までは11年間、18歳になるまでアメリカで初等・中等教育を受けて過ごしたそうです。
当時女子留学生たちは政府から留学費用として、1年で1000ドル、さらに往復の力費や学費、生活費なども給付される好条件だったようです。
給付される金額は日本で一家が裕福に暮らせるだけの額で、一人の少女にとってはあまりにも高くでした。だからこそ政府が自身にかける期待を知った津田梅子は、母国の発展に貢献したいという思いを強く持つようになったそうです。
アメリカでの留学経験を生かし、日本の社会に貢献したいと決意を抱いた津田梅子でしたが、しかし帰国後に見たアメリカと日本における女性への扱い方の差に大きく落胆してしまいます。
例えばアメリカでは電車の座席に座っていた男性が立ち上がって、女性に席を譲る場面はよく見る光景でした。
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一方で日本ではほとんど見かけなかったそうです。
また当時の日本ではアメリカとは異なりお見合い結婚が一般的でした。
そのため結婚までにお互いのことを深く知らずに婚約が成立していました。
さらに津田梅子は結婚では特に男性側が女性を選び、女性は一方的に従うものだという価値観を強く感じたと言います。
他にも女性のための働き口が日本の社会にはほとんどなく、大きなカルチャーショックを受けます。
ではなぜこのように日本では女性の地位が低いのか、その原因は女子のための高等教育が重要視されていないことにあると津田梅子は考えたそうです。
日本人女性の地位を高めるためにはまず男性と同じように教育を受ける環境を作ること。
津田梅子はその実現に向け伊藤博文の案内もあって、家族女学校に教授として赴任することになります。
そして1889年、津田梅子は人に教えるためにもさらに深く西欧の思想を理解する必要を感じ、再びアメリカへの留学を決意します。
金銭面での不安はありましたが、教鞭をとっていた家族女学校の校長から留学中の2年間も給与の支給を続けてもらうことが決まります。
不安が解消された津田梅子は2度目の留学で少人数制の質の高い教育を受講します。
さらに女子教育についても深く調べるために1年間留学を延長しました。
在学中には1回目の留学で接点のあったモリス夫人の協力を得て、8000ドルを集め、自分の後に続いてアメリカへ渡る日本人女性のための奨学金制度、
日本婦人米国奨学金委員会も設立しています。
そして留学期間が終わりに近づくと津田梅子はブリンマー大学の教授から、大学に残って研究を続けないかと言われたそうですが、その申し出を辞退します。
日本女性の教育を自身の天命と信じ、帰国することにしました。
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1892年、帰国した津田梅子は家族女学校の教授として再び教団に立ち、女子高等師範学校教授も兼任します。
それだけでなく女学生の自宅で預かり、教育を行っていたようです。
さらに女性教育へと熱意を注ぐ津田梅子は、国が設置した教育機関とは異なる私塾を設立したいとも考えていました。
一定の枠にはまらずに個性を尊重しながら、女性へのより高度な教育を実現したかったようです。
そのため1900年に35歳になった津田梅子は、私塾の設立のために家族女学校教授を辞任します。
その後、幼少期の留学で共にアメリカへ渡った大川捨松や有隆重子、2度目の留学でお世話になった森津夫人など、多くの人に協力してもらいながら、ついに念願だった私塾、女子英学術、つだ塾大学の前身を設立することができたそうです。
開校式では津田梅子は、「真の教育には教育の熱心、学生の研究心が大切であること、学生の個性に応じた指導のためには少人数性教育が望ましいこと、さらに人間として女性としてオールラウンドでなければならないこと。」と語りました。
この言葉は女子英学術の教育精神として生徒たちに受け継がれていったと言われています。
はい、ありがとうございました。今日はこれで終わりたいと思います。
それでは良い一日をお過ごしください。直人でした。
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