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2025-01-23 16:30

My story ①小中高から看護師時代の話まで

日本の大阪でシャイな子ども時代を過ごした私が、シドニーでセラピストになるまで。自分の人生を振り返って語ってみる配信を始めてみます。アイコンは西宮神社で福笹ゲットした時のもの。自己紹介配信しばらく続きます✨ #自己紹介 #シドニー #セラピスト #フリーランスの働き方
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こんにちは、シドニーのセラピストみもざです。
今日は、昨日、今年こんなことやりたい、あんなことやりたいということを話したので、
早速、今日は時間があるので、話していこうかなと思っています。
今後の情報発信につながるような内容。
まずは自己紹介というか、私はなぜシドニーに来て、セラピストという職業をやっているのかとか、
そもそもどこで生まれて、どこで育って、どういう仕事を日本でしていたのかとか、
そういうところを話して、どこまで話すかまだ決めていないんですけど、
一回でね、どこまで話せるかまだわからないので、手探りでやっていくんですけど、
そういう私のヒストリー的なものを話せたらいいかなと思って、
今日はちょっとやってみようかなと思っています。
台本を書こうかなと思ったんですけど、台本を書いている間に熱が冷めてしまうような気がするので、
勝手にちょっと思い出しながら、しゃべってもらおうかなと思っています。
私は今オーストラリアのシドニーに来て、今年で17年に来たので、8年目になります。
その前に2015年にワーキングホリデーで1年間過ごしていたので、
トータルで言うと9年目なんですけど、ややこしいので今は8年目と言っています。
ワーキングホリデーに来たのが30歳の時で、今年2015年が30歳で、
今年2025年が40歳になる年です。1985年生まれですね。
大阪の平方というところで生まれて、
本当に公立の小中高とずっと出元の高校まで普通に学校生活を送っていました。
今こうやってラジオとか、ちょこちょこFacebookとかInstagramとかで発信をするようになったんですけど、
そんなことをするような子ではなかったです、昔は。
もうシャイだし、人前に出てなんかするっていうのも苦手だったし、
本当に地味な子だったなって自分でも思います。
全然目立つことも好きじゃなかったし。
私名前が三本田って言うんで、それが嫌でも目立てたんですね。
まだ私らの時代は、名前に女の子だったら子が付く子が多いような時代だったんですね。
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だからクラスのたぶん半分くらいはなんちゃら子っていう名前の子だったり、
あとは本当に今となっては普通の名前、さやかちゃんとかゆきちゃんとかゆうかちゃんとか、
そういう子が多い中、今もし私が小学校とかに入ったら全然珍しくないんだろうけど、
その当時は本当にそんな変わった名前がいなかったので、
私はかなり浮いてましたね、名前の面で。
だからそれもあって、ずっと自信がなかったなって思います。
自信がなかったというか、なんで私こんな変な名前なんやろうってずっと思いながら生きてた。
小中、中学、高校くらいでそういうのもなくなってきたし、
徐々に認めてたかなとは思うけど、なんでこんな名前なんやろうっていうのは。
昔はね、今もあるかわかんないですけど、名簿とかありますよね。
名簿にバンって名前が出ると、私カタカナなんでめっちゃ目立つんですよね。
漢字の中にカタカナ一人おったら、それだけで入学前に噂なるみたいな感じ。
それも本当に嫌に感じてる、そういう地味な子でした。
大人になるとね、割と名前がどうとかっていうのも関係なくなって、
普通に名前でみんな呼んでくれる子も増えたし、それも自信になったかなって思うんですけど、
高校卒業した後は看護学校の専門学校に行きます。
それは地元を離れて別の市なんですけど、大阪府内の看護学校。
今はその学校なくなっちゃって看護大学に行ったんですけど、
私たちの時は3年生の看護学校でした。
19、20、21になる年に3年間看護学校生をやって、
22になる年から系列の大学病院で勤務を開始しました。
それが社会人1年目。
21歳の時、社会人1年目。
看護師に晴れて慣れて、
最初は確か内科勤務を希望したんですけど、
何でか本当に分からないんですけど、
手術室勤務に命じられて、
私は外科系が本当に感覚なんですけど、
あまり好きじゃないなって思ってて、
内科系のゆったりした感じがいいなって思ってたんで、
内科勤務を希望したんですけど、
なぜか分からないけど手術室に命じられたので、
そのまま手術室に行くことになりました。
今思うと手術室で本当によかったなって思うし、
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すごい楽しかった思い出の方が多いんですけど、
最初はやっぱり手術室かみたいな感じで、
結構緊張してたし、
学生の時って手術見学あるけど、
多分1回だけだったんですね、当時は。
受け持ちの外科の患者さんの手術を見に行くみたいな感じで、
本当に手術室の端っこで見とくっていうだけ何をされてるかとか、
でもそんなん見たって何されてるかとか全然分からないんですけど、
ただ手術室の雰囲気を見て、
どんな感じでみんなが動いてるかを見るみたいな見学があったっきりで、
それ以来だったんですね、入ったのが。
最初は本当に手洗いとか、
あと掃除とか、
清潔、不潔だったりとか、
本当に基本的なそういうところから習ったのと、
私が当時勤務していた手術室は、
機械出しから1年目はやるってことだったんで、
比較的簡単な眼科だとかジビッカとか、
あとは整形外科の手術が結構多かったんで、
整形外科の手術だとか、
本当に小っちゃい病院だったんで、
そんなに難しい手術はなかったんですけど、
ベーシックなものからついていって、
その後、回復手術といってお腹を開ける手術だったりとか、
整形もいろんな種類があると思うんですけど、
小さな手とか足とかの手術から、
徐々に脊椎の手術とか、
あと股関節系の手術だとか、
そういうのに使わせてもらったような、
1年目は本当に覚えるっていうのがメインだったような気がします。
2年目とかになって、
ようやく外回りっていって、
水薬の管理だとか、
手術で使う薬とか、
あとは手術、
術屋に必要なものを外からヘルプするっていう、
外回り、全体を見る仕事ですね。
だから清潔、
術屋に入る手洗いよりも、
もっといろんな知識が認められて、
総合的に見ないといけないっていう仕事も徐々に、
2年目、3年目っていう風にやらせてもらったかなって思います。
トータル手術室は、
6年ぐらい多分いて、
その3、4年目ぐらいで、
一応病棟経験もあります。
ちょうど私が行ってた大学病院が、
移転するってなったので、
なんか、
てんてんとしたんですよね。
その3年目、4年目ぐらいで、
移動を何回かしました。
このいった科は、
いろいろあって、
貧乳期間、
貧乳期間、
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腎臓期間、
腎臓内科から、
腎臓の慢性疾患の人、
だとか、
腎臓の癌だとか、
貧乳期間の膀胱癌だとか、
そういう人、
手術、
化学療法、
放射線、
あとは本当に透析とか、
そういうのを見る科だったりとか、
そこに多分半年ぐらいいて、
透析が、
総合内科みたいな、
なんでもいるみたいな、
それこそ腎臓内科もいるし、
腎臓内科、
消化器腎臓、
腎臓、
あと自己免疫の人とか、
糖尿病とか、
そういう人たち、
全般、
高級器内科もいたような気がします。
あとマッキーの人とかも、
なんでもいるみたいな、
なんでも総合内科ですね。
っていうところに、
気がします。
3、4年目で、
トータル2年ぐらいは、
内科、外科系を経験して、
その後、また手術室にね、
人が足りないから、
かなんかで、
私は多分希望してたと思うんですよ。
手術室に戻りたいなって、
希望してて、
希望してるんだったらどう?
みたいな感じで、
さっと行かせてもらったような、
記憶があります。
はい。
後には掘りに行くんですけど、
なんかずっと辞めたいなっていう、
気持ちがあったんですね、その仕事。
いろいろ、別室だとか内科系か、
っていろいろ働かせてもらってて、
なんかずっと、
基本的にすごい
良い職場だったけど、
なんか毎日問題は起きるし、
毎日こう、
どっちを言ってるような、
私の働き方だったんですね。
誰々さんがどうとか、
このシステムが
いけてないとか、
なんか本当にそういう、
働き方っていうか、
そういう職場。
私の仲間というか、
先輩とか後輩とか、
仲がいい人は仲がいいけど、
なんか上の人が、
なんかこう、私たちの意見と
仕事って言ったら、なんであんなのやろうとか、
組織で働くってね、
そういうことなんかもしれないけど、
ちょっと嫌な先生がいたら、
またあの先生にこんな言われたとか、
で、
誰々さんで手術ってやっぱり、
大体は
普通に終わるけど、
時々やっぱ大量出血したりとか、
あと本当の、
亡くなりそうな人がね、
寸前じゃないかっていう人が、
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緊急で入ってきたりとか、
そういうこともあるし、
なんかこう、
手術がうまくいかないっていう、
その緊急事態とかもあろうがようで、
ちょっと急変しちゃって、
バタバタっていうこともあるし、
大体そういう状況なのに、
あと時間がね、
すっごい遅くなって、
夜中まで手術やってるみたいな時もね、
もちろんあるし、
環境そこまで悪くなかったけど、
やっぱり、
なんか辞めたいな、辞めたいなーって、
ずっと思ってました。
それでも辞めれなかったのは、
やっぱり毎年何か課題があるんですね。
看護師も成長していくために、
確かなだって言っちゃったと思うんですけど、
1年目の目標、2年目の目標、
毎年目標を設定して、
これをやっていくみたいなのがあって、
例えば委員会活動だったりとか、
あと奨励研究だったりとか、
下の子を育てるための教育の担当だったりとか、
いろんな段階があって、
私は、
もうちょっとやれば、
教育係っていうのになるっていう寸前で辞めました。
一通り看護研究とか、
委員会活動とか、
あとシスターっていう、
下の子を育てるお姉さん的役割、
みたいなのとかを、
一通り8年間でやってきて、
ここまでやったから、
もう辞めてもいいかもって思ったんですね。
ここまでやったっていうのがあれば、
1年間ワーホで行って、
1年ブランカーで行って、
2年間ワーホで行って、
3年間ワーホで行って、
4年間ワーホで行って、
1年ブランカーあっても、
また10年目から、
また31になって、
ワーホで帰ってきた時に、
またここまでやりました、
大学病院でこのかとこのかと、
これを経験してっていうのがあれば、
そこまで就職、
再就職難しくないかなと思うレベルまで、
自分が来たっていうのと、
ワーホで自体が、
31の誕生日までかなんかで、
その時、
結婚したのが28、29ぐらいの時、
結構ギリギリだったんですね。
だから、もう今行かないと、
掘りもできないし、
職場的にも、
もう辞めてもいいかなって、
辞めるのは寂しいし、
収入もなくなるけど、
ここしかないなっていうのを、
決めたので、
8年、丸8年ですね、働いて、
8年目が始まるっていう始末で、
辞めました。
そんな感じかな。
辞めた理由は、
ここまでやったっていうのと、
あとは、
この先が結構見えてたんですね。
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さっき言った、
次は教育係、
になるかなっていう、
手前だったんですけど、
次は多分この人みたいに、
先輩みたいに教育係をやって、
これはオファーがあるとかかもしれないけど、
副市長さんになって、
その次市長さんになって、
それかもしくは、
もうずっと中堅とかベテランで、
このまま60とか70になるまで、
やっていくみたいな、
もうずっとこれで、
しかも今の段階で、
もう愚痴とか言って、
仕事終わりに飲みに行って、
ぶち行って飲んで、
酔っぱらって寝て、
文句言ってみたいな、
その悪循環の繰り返しっていうのが、
もう疲れたっていうのもあったから、
それで、
辞めようって決意したし、
今本当に、
あの時辞めようって決意して、
良かったなっていう風に思ってるし、
多少、
働いたらどうなってたのかなとか、
っていう風に思うことはあるけど、
ずっと働いた方が良かった、
っていう風には、
全然思ってはないと。
ここまででもう15分ぐらい喋ってるので、
次に、
どうして忍を選んだのかとか、
海外にずっと興味があったのかとか、
その辺を、
喋れたらいいかなと思ってます。
それではさよなら。
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