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2026-02-24 11:04

退屈がもたらす苦痛

今読んでいる「苦痛の心理学」から退屈についての部分を引用し、考えてみました
#読書 #心理学 #思考
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サマリー

本エピソードでは、「苦痛の心理学」という書籍を参考に、退屈がもたらす苦痛について考察する。退屈の中でも特に自立性を失う状況が苦痛を感じやすく、実験では人々が電気ショックという苦痛を選ぶほど退屈を避けることが示された。これは、退屈時に自己に溺れ、不快な思考に陥ることを避けるためだと分析する。一方で、スマホ時代の哲学では自己対話のために退屈を推奨しており、退屈を避ける現代において、自己と向き合う時間を持つことの重要性を説いている。

「苦痛の心理学」との出会い
こんにちは、midoriです。今回は、退屈がもたらす苦痛について話したいと思います。
これはですね、あの今読んでいる苦痛の心理学っていう本がきっかけで考えたテーマなんですけれども、
そもそもこの苦痛の心理学っていう本は何かと言いますと、なぜ人は苦痛を求めるのかっていうキャッチコピーでですね、
人って例えばホラー映画見るとか、激辛料理食べるとか、まあそういうね、自ら痛めつけに行くようなことをしたりですとか、
あとはですね、あの人生において、あの様々なね、辛いこととか苦しいこととかっていうことを経験することもあると思うんですけれども、
まあそれについての人の心理状態であったりとか、まあその苦痛を乗り越えた先の功用みたいなことについて話している本です。
私はですね、このなぜ人は苦痛を求めるのかっていうキャッチコピーに惹かれてジャケ買いしたんですけれども、
ちょっとね高くてね、あの最初躊躇したんですけれども、結果買ってみてよかったなと思ってます。
まだちょっと途中なんですけれども、すごい面白くて今読んでおります。
その中でですね、あの基本的には様々なパターンでの苦痛を求める心理とか、まあそれによってどういう人間にとって効果があるのかみたいなことを話していくんですけれども、
人が避ける苦痛と退屈の苦痛
あの人が求める苦痛っていうところが冒頭にあって、その後ですね、あの人がじゃあ避ける苦痛って何なのかみたいな話があったんですね。
避けるべきものとして当然ですね、取り返しのつかない喪失だったり、身近な人を亡くしてしまうであったりとか、または身体的なダメージとか金銭的なダメージでも回復できないレベルの深刻なダメージっていうのはもちろんそうなんですけれども、
あの身近なところだとですね、吐き気っていうのが一つ避けたい苦痛として挙げられてまして、これはねあの座りを経験して本当によくわかる話なので、
これはこれですごく興味深いところだったんですけれども、もう一つですね、退屈がすごくあの人間にとっては耐えがたい苦痛になるっていうことを話してました。
退屈が苦痛となる実験
これがすごい印象的だったのでそれについて話したいと思います。 まずですね、あの退屈の中でも自立性を失う退屈っていうのが一番人間にとっては苦痛を感じやすくて、
で、とある実験が紹介されていたんですけれども、その実験ではですね、何も持たされずに何も見るものもなくて部屋の中にはただ椅子が置いてあるだけで、ただ座っているだけ。
で、事前にいつ終わるのかっていうのも知らされていない状態で、被験者はそこに入るんですね。
そうすると多くの人が落ち着きを失ってしまって、で、ちょっとそわそわしちゃうというところが実験でわかりました。
っていうのがまずあって、で、さらにたぶん別の実験なんですけども、別の実験ではその被験者に部屋に入る前にまず電気ショックを与えるかどうかみたいなアンケートを取るんですね。
で、電気ショックを与えないためにそのお金を払いますかってアンケートを取るんですけども、大体の人が電気ショックなんて受けたくないのでお金払いますって言うんですけども、
実際に実験が始まってみると、結構多くの方が自分から電気ショックを受けるっていう選択を取ったそうです。
これどういうふうにやったのかちょっと詳しいことは書いてなかったんでわかんないですけども、たぶん電気ショックの発生する装置が中に置いてあって、
本当に何もない状態でずっとその部屋の中で待ってると、もう暇つぶしにですね、その電気ショックを受けるっていうふうに選択する人が結構いたそうなんですよ。
もう本当受けずに済むならお金払うまで言ってたのに、最終的にはですね、190回も自分から電気ショックを受けた人もいたそうです。
なのでですね、この実験でわかるのは、人は本当に何もない退屈よりも、ちょっと痛くても刺激を選ぶっていうことがあるということがここでわかったんですけども、
これはなぜかというと、本の中では何もせずにただそこにいるのが不快な気持ちになる。
それって何にも注意を奪われずに思考が自由になることで、思考が不快な方向に行ってしまうんじゃないかということを言ってたんですね。
これはどういうことかというと、退屈になってくると自己に溺れるしかなくなる。自分に溺れるしかなくなってくるから、思考が不快な方向に行くんじゃないかっていうふうに言ってたんですよね。
アガサ・クリスティ作品に見る退屈
すごくこれが腑に落ちて、この一節を読んでて思い出したのが、アガサ・クリスティの春にして君を離れという小説なんですけれども、
まずこの小説についてちょっとあらすじを紹介するとですね、主人公は子育てを終えた主婦で、末の娘が病気になってイギリスからイラクのバグダットまで主人公がお見舞いに行くんですけども、
そのお帰りにですね、列車のトラブルにあってしまって、中東のとある町で足止めを食らってしまうんですよ。
もともとはですね、お見舞いに行ってすぐ帰ってくるつもりだったので、その分ぐらいの暇つぶししか持ってなくて、周りに知ってる人もいなければほとんど言葉も通じないので、
話し相手もいないし、周りに特に何かあるわけでもないのでやることもない。その状態で何日も過ごさなきゃいけないっていうところから物語が始まります。
最初はですね、主人公も持ってきた本だったりとか、あとは紙とペンでいろいろ考え事をしてみたりとかというふうに暇つぶしを工夫してみるんですけれども、
だんだんにもう暇になりすぎて、言い合おうなく自分の過去を思い出してしまうんですね。
それまで主人公って自分は完璧な人生を送ってきたっていうふうに自負していて、
しかも自分は周りから愛されていて、夫にも子供にもすごく愛されてるし、頼られてるし、善良な自分っていう自己像を持ってるんですけれども、
だんだんに自分の過去を振り返るにつれて、本当はそうじゃなかったかもしれないという可能性に気づいていってしまうんですよ。
だからあの時の夫の言動って実はこういうことだったんじゃないかとか、
あの時の子供たちの反応って、実際には自分は母として慕われているのではなくて、
子供たちからこう思われているんじゃないかということを考えてしまうんですよね。
だんだんに自分が信じていた、善良で愛されている自分というのが崩れていって、自分の人生の土台自体が崩れていってしまうような、
すごいゾッとするような話なんですけれども、この話から思うのがですね、退屈っていうのは単なる暇じゃなくて、
自分から逃げられなくなってしまう時間であって、それが行き過ぎてしまうと時にアイデンティティを揺るがしてしまうようなことにも繋がってしまう。
これをアガサ・クリスティが理論として知っていたかはわかんないんですけれども、そのことを体感で知っていたからこそ、こういう話がかけたのかなというふうに思います。
スマホ時代における退屈との向き合い方
なのでですね、あの退屈って、本当にやることがないことが単純に嫌なんだっていうふうに思ってたんですけれども、
実際にはそういうね、自分と向き合わざるを得ないっていうことが不快なんだなっていうことがここまででわかりました。
はい、なんですけども、一方でこの本の直前にですね、スマホ時代の哲学を読んでいたんですけれども、
スマホ時代の哲学では自己対話の機会を持つために退屈になれようっていう提案がされているんですよ。
ここともちょっと対比して考えてみたいと思うんですけれども、
そもそもスマホ時代の哲学では、私たちは義務に身を置くことで自分から逃避しているっていうふうに、ニーチェの言葉を引用して本の冒頭で言われているんですけれども、
確かに本当その通りだなと、私もちょっとした隙間時間があったらすぐにスマホを手に取ってSNS見たりとか動画見たりとか、
あと本読んだりとかもしているので、とにかく何かで頭をいっぱいにすることで自分から目を反らしているなっていう感覚はすごくよくわかります。
なので、春にして君を離れみたいに本当に何もない状態で自分を置いて、自分のアイデンティティを徹底的に壊すまで向き合う必要はないと思うんですけれども、
ただ本当に自分を帰り見る時間がなさすぎるっていうのが現代の問題なのかなと思います。
本当に最近の風潮としても、暇っていうのがなんとなく悪いことみたいなのがあるような気がしていて、だからこそ情報で埋めたりとか仕事で埋めたりとか、何かしらの刺激で埋めるっていうことを多くの方がしているんだと思います。
そういうことで常に何かを見たり聞いたりして、自分のこととは違う話題に目を背けて、自分とは違うことで頭をいっぱいにすることで自分から逃避しているっていうのがこの冒頭で言われていることだと思うんですけれども、
そのようにして私たちが避けているのって退屈そのものじゃなくて、退屈の中で自分と向き合うっていうことを避けているのかなというふうに改めて感じたんですよね。
自分のことを振り返った時、自分の経験を振り返った時に、例えばですけども、キャンプで焚火を眺めたりとか、夜空を眺めてぼーっとしている時間って、
本当に何か情報が新しく入ってくるわけでもなく、本当に目の前にあるものをただ見つめているだけなんですけれども、そういう時に浮かんでくる思考って、結構それまで見えてなかった感情がふーっと出てきたりとか、
あとは思い込みとか凝り固まってた考えがちょっとほどけてきて、違う視点が出てきたりすることがたまにあるんですよね。
それがすごくポジティブな気づきにつながることも多いんですけれども、たまにですね、そういう可能性に気づきたくなかったなとか、そういう自分を見たくなかったっていうことに思考が向くこともあるので、これって結構怖い時もあるんですよね。
だから自分と正面から向き合うのって、いい時もありますけど、簡単ではなかったりとか、見たくない自分を見ることもあるので、あんまりいいことだらけではないなというふうにも思います。
だからこそですね、それを体感でなんとなく知っているからこそ、私たちは無意識に退屈を避けて、何かのコンテンツで自分の頭を埋めてしまうということをしてしまうのかなと思います。
退屈を避けることの代償と成長の機会
はい、なんですけれども、自分もその例に漏れず、常に何かのコンテンツで頭を埋めてしまうということが多いんですけれども、
でも退屈から逃げてしまうと、やっぱり見えてなかった自分に出会うこともないな。
そうすると、自分を見直して自分を更新する機会、成長する機会とかも失ってしまうことにもつながるのかなというふうに今回考えました。
なのでですね、本当に暇っていうのは不快だからこそ切り捨てたくなる部分だと思うんですけれども、
その苦痛をですね、本当に不快だからといって切り捨てていいのかなっていうのは今回改めて思ったことです。
聞いてくださった方はこれについてどう思ったか、ぜひどうもご意見を伺えればと思います。
それでは聞いていただいた方ありがとうございました。
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