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シュウとショウの未知の理への道のり。
この番組は文字通り、シュウとショウの気が向いた時に、
適当に好きなことを話しながら、まだ知らないことはないことわり、
つまり、つまり、未知の理を探していく道のりを描く番組です。
下手をしたら、下手をしたら、二人の持ちっぷりを探すだけの気のままな旅。
ゆるーゆるくお付き合いいただけたら、嬉しいです。
前回からの続き。
えっとですね、僕の、いいですか、さっきの。
しおすさんのお話を、僕が認識している認識で言うと、
ある足の速い動物が、今、現存しているという話だったかな。
現存しているか、現存していたか、わかんないんですけど。
で、草食動物で、めちゃくちゃ足が速い。
で、そんなに足が速い必要がない状態らしいんですよ、今は。
少なくともその観測時点からわかるんですけど。
で、だいぶ前に、その天敵というか、ある天敵的な相手動物から逃げるために、
そのぐらい足が速かったらしいと。
その時点で、なんかためにがある時点で、僕はちょっとまたそこでつまずいてるんですけど。
まあ、それ置いといて、ごめんなさいね。
それ置いといて、ただその天敵的な動物がもう滅びてしまったと。
で、滅びてしまったのに、その足の速さは残っていて、
だからその、それこそさっき言った敵王になるんですかね、それも敵王として、
速くなった足が、今は不必要にその能力が残ってしまっているみたいな状態があるから、
それをしおすさんは、そのびびりというもの、恐怖心を感じるっていうのが、
適切な量の感じ方なのかどうかっていう文脈にそこをつなげられて話されてたっていう。
そういうことですね。
はい、僕の認識はそういう感じなんですけど。
いや、ちょっと僕もしっかりちょっと聞けてなかった。
ああ、いやいやいや。
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ちょっと誤解してたかもしれないですけど。
しおすさんの方を聞いたらそれ感じられたかもしれないですけど、
僕の説明では多分確かわかりづらかっただろうなと思って。
ああ、いえいえ。
まあその、そういう意味からすると、そこで最敵王をしてないところが不自然みたいな意味合いなんですかね。
そこもその、敵王っていうのがどういう意味かっていうところで考えるかだと思うんですよね。
一回その、だからどういう基準かっていうのがあくまでそれはそれこそ最初疑問に思われてたその、
天敵がいるから速くなったみたいなところがそもそも引っかかるっていうところが、
その基準で考えたらその後に敵王してまた、
あのなんかそんな足速くなくていいのにっていう話につながるって話なんで、
どういう基準でそれがなってるかっていうのがこうわからないからですね。
結局まあ僕の表現で言うなら全然この何の根拠もないんですけど、
例えばその進化とかそういうふうにこういろいろ世代を超えて足が速くなるとか、
そういう変化ってすごくパワーのいることだと思うんですよね。
で、そういうふうな変化が起こって、でその後そういうやつがいなくなったとしたときに、
その変化自身をじゃあそのいなくなったから大丈夫だからっていうふうな方にこう変化していくかっていうと、
そっち側にまたエネルギーを費やすみたいなことをあえてするっていうのは、
そういう目線からすると必要ないじゃないですか。むしろ適応的じゃない。
まあ仮にそういうふうな考え方をすると、そういう基準ではその方向は適応とは言えないっていう、
適応する側とは言えないっていうだけの話で、
そういった類の話としても言えるのかなって今話してて思ったり、
逆に僕がちょっと捉え違ったんですけど、
退化をしてるっていうふうな動物が仮に今度は適応してたけどまた戻ったみたいな動物が仮にいたとしたら、
仮にいたとしたらその退化っていう方向性は不適応というか、
機能的に落ちる方向に行くような感じだけど、
そっちの方向が同じくさっきみたいな内容で何をもって適応というかっていうところがあるから、
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それが人間が知覚できてない範疇の何か基準の中で適応的な方向性なのかもしれないっていうふうにも言えるから、
だからいずれにしても何かそういう何かしらの大元のシンプルな法則があるとすると、
それの基準に従って適応をするっていう風な方向性でいけば別に何が起きても何ら不思議ではないな、
逆に人間の基準で考えるからあれみたいなのが出てくるだけなんかなみたいな話に感じるなというところですね。
そうですね。
ふわっと、ふわっと、ごめんなさいね、ふわっとってしょうもさんの表現をふわっとっていうんじゃなくて、
僕の理解の意味でふわっとなんですけど、ふわっとで知った、
あ、いやいやいや、大枠ではそんな同じような感覚を持っているなっていう感じなんですよね。
そこをもうちょっとふわっと度合いを、もうちょっと、もうちょっとというかこの道のりでちょっとずつ狭めていきたいみたいな、
勘で喋ってるくせにそんなことを思っていたりして。
逆にちょっと今日僕が配信をしてたんですけど、
そこで思ったのが、逆のアプローチを取ったらちょっと解像度が高まったりすることもあるんじゃないかっていう話で、
例えば今の適応っていう話からすると、反対を安易に言うなら不適応じゃないですか。
自由と多有の話ですね。
なのでじゃあ今適応っていうのを考える上で、適応の対義語って何だろうかっていうところをちょっと考えてみると面白いかなと思います。
配信の時も思ったんですけど、自由は多有があるっていうのを聞いたからイメージできたんですけど、他のが難しいですよね。
幸せの対義語も不幸せ以外に僕は思いつかなくて。
そこに関して言うと僕もあれからちょっと考えて、幸せ自身がかなり抽象的な概念で、
ちゅうさんが言うように不幸せしか自分の中で言葉が出ない。
だからこそ逆に対義語がないんじゃないかみたいな発想にちょっと行ったんですよ。
幸せっていうのに反対はなくて、基本幸せはあるものみたいな。
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幸せっていうのが結局相対的なものだと思ってるんですけど、
何かしらどっかの基準を見てそこより上だと自分が思ったら幸せだと感じるし、
そうじゃなくそこより下だと思ったら幸せじゃないって感じるっていう風な感じだとすると、
幸せっていう言葉がそれにノットをつける形でしか表現できないものは全て相対的なんじゃないかなと思って。
ってことは逆に相対的だからですね、絶対的な対義語みたいなものがないと。
そうだとするとこれはもう全部認識次第なわけですよね。
だから結局ある基準にとってそこより上だったら幸せと見れるんであれば、
結局どこにいてもその基準自身を見方さえ変えてしまえば絶対幸せは感じれるみたいな考え方ができるんじゃないかなっていう風に思ってて。
だからその反対語としてノットをつけるしかないみたいな考えた結果そうなるものは、
おそらく相対的なものでしかないんだろうなみたいなことはちょっと考えたりしましたね。
そうですね。
それ言ったら全部なのかもしれないですけどね。これもちょっと言葉遊びなところもあるんですけど。
難しいですね。
自由と多有のところで若干僕が思ったのって、自由に対して不自由っていう言葉もあるけど、自由の対義語として多有の方がいいんじゃないかっていうあれでしたっけ?
不自由って使うのがあんまり良くないんじゃないかっていう言い方だったかな。
いいんじゃないかっていうよりも、不っていうのをつけてしまうと、例えば自由で言うと自由自身が自分ではっきりこういうものだっていう風に定義できてなくても、その反対だって乱暴にいけちゃうじゃないですか。
ひっくり返したみたいに。ひっくり返したやつだよねみたいな。
ってことは、自由に対して考えが止まっちゃうというか、それがどんなものであるかっていう自分の中の定義、解像度を上げていく作業っていうのが止まっちゃう。
そうじゃなくて、その対義語自身をノットを使わない形で考えると、その反対のものの解像度が上がっていくと、結局そうじゃないそれと反対に位置するものの解像度も共に上がるじゃないですか。分けられるわけですよね。
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ナッチさんが仰ってたような、分かるっていう話。その反対のものの解像度が上がっていけば、結局その表のものの解像度も上がるじゃないですか。
それに対して表のものが自由っていう表のものがあったときに不自由って使ってしまえば、それとそれの反対だよねみたいな感じで捉えてると、解像度を別に上げなくても済むというか。
だからあえてその不を使わない、ノットを使わない形でどう表現できるんだろうかみたいなところを一回踏んでみると、それぞれの解像度、理解度みたいなものがちょっと深まるんじゃないかなっていうことが言いたかっただけですね。
対優を使ったほうがいいっていうよりも。
その自由と対優で言うと、自と他の話なのかなと思ったんですよね。自由の対義語の話でもありつつ、自に対して他っていうことですよね。
自由は同じですもんね。
そうですね。
だから自っていうものが解像度が高ければ他の解像度も上がるっていう話ですよね。今の話って。
あ、違う。ごめんなさいね。
そうですね。自由対優を置いておいて、文字に着目したときに自っていう解像度が高まれば他の解像度が高まる。他っていう解像度が高まれば自っていう解像度が高まるっていうことでいいと思います。
言いたいことの意味合いとしては。
ただ単に、例えばそこで自じゃなくて、不自みたいな言い方をすると、自分じゃないみたいな。
それが結局意味合い的には他ではあるんですけど、
ブラックボックス化できるので、字みたいな字がですね、例えばそれを細かく考えない。自分とは何かみたいなのを細かく考えずに、
ふわっとした状態。ブラックボックスって言いましたけど、中身がしっかり見えない状態でも、不っていうのをノットをつけてしまったら自分じゃない。
それで言い回すことができるじゃないですか。
表現として、ノットをつけると、表のものにノットをつけるだけで、頭に不とか、そういう否定形をつけるだけで、そうじゃないものみたいな感じで言えちゃうので、
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まさに自分みたいなのが分かってなくても、細かく自分で分かってなくてもそうじゃないものっていう表現は可能だから、何て言いたいんだろうな。
何か言いたいこと伝わってますかね。
いや、そこは多分ずっと伝わってるんですけど、じゃあ使わずにどうっていうところが、まだしっくりきてないのかもしれないですね。
その自由と多有の例は、なんとなくわかりやすい感じはしたんですけど、結局やっぱり自ってちゃんとわかってないなっていうのが僕の今の感覚なんですよね。
それでいいと思うんですよ。自っていうのが。それはその自由と多有の文脈でですか。
自由と多有の文脈は置いといて、その自っていうのが。
自由と多有が結局は自と他に行き着いちゃうなって思ったから、その後のところでつまずいてるだけなのかな。
結局そこを細かく言った時に、意味合いとしては自と他とは何ぞやっていうことの方の話ですよね。
そっかそっか。じゃあ、有が一緒だとしても、そこだけじゃなくて自由と多有はその解像度が上がったみたいな見方ができるっていう感じでいいんですかね。
僕が言いたかったのは、自由と多有っていう熟語として、不自由じゃなくて多有を使ったことで、ちょっとそれぞれの言葉の意味合いに意識的になれたっていうだけの話で。
なので、この中で考えた時に、しゅうさんは自と他っていうところの帯域に関してどういうふうに考えればいいかっていうところが、そもそも自と他っていうのがそもそもノット関係にあるような感覚を受けるからちょっと混乱してるっていう感じですかね。
いやいや、ごめんなさい。ちょっとね、多分違くって、自由と多有は、なんかしょうまさんの配信聞いてる限りでわかりやすかったっていう感じが今でもしてるし、その時も感じたんですけど、本当にわかってんのかなっていうのがまだ自信が持てないというか、それがその自と他の話だよねっていうふうに深掘っていった時に、
結局そこがちゃんとわかってないっていうところに行ったから、なんかこう、自由不自由の話、その不をつけると境界線が曖昧なまんま、わかってるかわかってないかわからないよねっていう話と、自由不自由がわかった気にはなったけど、本当にわかってるのかっていうところに、
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言うが同じなんだから、自と他がわかってないとわかったっていうのはおかしいよなみたいな感覚を持ったときに、結局どっちも本当はわかったような気がしたけど、わかってないかもしれないなみたいに今なってるっていう。
もう一段階いかれてるってことですね。
一段階なのかな。ただ。
僕はもうあそこの漢字は、自由っていう熟語があらわすものと、その対義語があらわすものっていうのの分析、解像度をあげようと思ったら、頭に安易に不をつけて表現するよりも、不じゃなくて、そこで例をあげたのは対右みたいな漢字にしたほうが、
それぞれの認識の度合いというのが自分で上がるよなっていう、ただ単にそれだけの話で、そこから本当にそれを理解しようっていう風にしゅうさんみたいに入り込んでいくと、
おっしゃるように言うが同じで、自と他がはっきりわかってるのかっていう一歩踏み込まれた疑問なわけですよね。
そうなってきた自と他っていうのは、否定を用いた、自に非を否定をつけた不自とかっていう話ではなく、他っていう話だから、その方向性で言った他とは何ぞやっていうのを、それで考えないといけないと思うんですけど、
熟語に比べて、自と他とかっていうのは本当に自分ともそうじゃないものみたいな、もうその漢字時点でノット関係にあるので、だからそこがなんか難しいなと思いましたね。
そこ自身はすでにノットみたいな感じでのその認識しかできてないので、だからそこが自と他って何だろうっていうのをかなり見ていくとなると、またすごい難解なのかなと思いますね。
そもそもだから、自由を不自由としか表現できないことが制限されている状態と同じというか。
ごめんなさい、今ちょっと難しい。
自由っていうのを他有って表現した方がなんかわかりやすそうな感じがするじゃないですか。
それに対してその他有っていう表現が使えずに、自由と不をつけた不自由っていう表現でしか、表現を強いられた状態で考えないといけないっていうのが強いられてるっていうのとちょっと似てるじゃないですか。
自と他で考えるっていうのは。
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そもそも漢字としては違うんですけど、今意味合いとしてはシンプルな漢字として、自と他っていうのが一般的って言うとちょっとどうかいいのかわかんないんですけど、
多分辞書とか引いたときにその他とかは多分自の否定みたいな感じの説明になってると思うんですよ。
だからそれはそこで、しゅうさんみたいにそれを考えようってなったら、そもそもノットをつけた表現、漢字一字の他が字にノットをつけた漢字としてあるので、自由、他有みたいな形で考えやすいような分解がもうできないわけですよ。
だから字に対して否定をつけたような漢字の考え方を強いられてるような状態になるから難しいんかなっていうふうに思ったんですけど、
その一方で、たぶん自と他っていうのが、他が字の否定としての意味合いとして捉えず、他とは何だろう、自とは何だろうみたいな話はかなり哲学的なところでいろいろ考え売れると思うんですよね。
それこそ仏教の話とかまで入っていきそうな話なのかなって思うんですよ。
そしてしゅうさんがたぶんそこでわかんないっておっしゃってるのが、たぶんそういう事故の拡張みたいなところの意識が結構深いから、だからこそその字と他がはっきりわからなくて、そこから自由と他有って本当にわかったんかなみたいな疑問にまで行かれたんじゃないかなっていうふうに想像してます。
深掘るとそこの部分はそうかもしれないですね。
まあそこまでしっかりは自分でも意識できなかったんですけど、そこで、だから自由と他有、熟語に比べてってしょうまさんもさっきおっしゃってくれたんですけど、熟語の話でもわかりやすい気がしたけど、本当にわかってるかが今わかんなくなってる、熟語の方でもわかんなくなってるっていう感覚があるんですよ。
わかんなくなっているのは別にそれでいいと思うんですよね。自由と他有みたいなのが、そうすることでわかりやすくなるんじゃないかというか、自分として認識するきっかけになるんじゃないかっていうだけの話で、他有って表現したらわかるっていう話ではないと思うので、
そもそもその自由、他有って言って、他をゆえんとするっていう話をしてたと思うんですけど、そこには結局どういうふうに考えられるか考えるきっかけになるっていうだけで、そもそもちょっとその後ツイッターで中茶屋さんとかと話したんですけど、
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それはいいんですけど、結局その他有って言っても、じゃあ他有じゃない状態が自由みたいなふうな考え方を完全に地面通りしてしまうと、それは違うかなと思ってて、
僕が考える自由っていうものは、その中にやっぱり他有も入ってるんですよ。何というか、自分をゆえんとするっていうことで、自分が行動だったりなんかする選択肢を持ってる、選択肢があるっていうことが自由って言えるっていうのはしっかりしてて、
やりたいのかやらされかみたいな簡単に言うと、そういうふうな話でやりたいことができる、やりたいことが自分で選び取れるっていう状態ぐらいの感じで、
例えばその、ただその中でも自分の社会的な責任だったりとか規範だったりとか、そういう他に由来する部分としては前提としてあるわけで、そこで自分のこの生き方とか信念とか、それに反しない反中で自由が規定されてるだけで、
その自由、あそこで言ってる自由の中に他有も多分に含まれてて、
ごめんなさい、ちょっと、ちょっと追いつけなくなってきたかな。
えっと、まあ、なんだろうな、ちょっとすいませんね。
いやいやいやごめんなさいごめんなさい。
何が言いたいかというと、あそこの話で、不をつけなければノットをつけなければそれぞれがはっきりわかるよっていう話が言いたいわけではなくて、
何かしらの言葉とか物事を考えるときに、
えっと、安易にその反対だからって言ってるか、ノットの形、そうでないとか、そうでないものみたいな形で捉えるんじゃなくて、その反対のものを真摯に見つめること。
それがその不を使わない表現をするってことだと思うんで、そうするとそれぞれへのこの理解度が増すきっかけになるよねっていうことが言いたいだけなので、
そういう自由多有っていう表現を使えば、その自由多有っていうのが確実にしっかりわかるとか、そうすべきだっていう話ではないし、そこでわかるべきだっていう話でもないし、
結果、その自由多有って言葉に触れて、それぞれの状況っていうのに意識が向いたから、その自由っていうのはこういうもんだっていう解像度が僕の中では高まりましたけど、
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そこでいう僕の中の自由っていうものには多分にその多有っていう状況は前提条件として含まれてますよっていう話です。
そこがちょっと難しいけど、なるほど。全体としては言いたいことが伝わった感じがしてます。
伝わりましたかね。
その多有が含まれるところだけちょっとあんまりわかってないかもしれないけど、そこは細かい話になっていますかね。
そうですね。なんというか、やしるさんが自由とか多有とかっていうのそれがはっきりわかってないっておっしゃってたんで、
そういう表現を使ったんですけど、言いたかったのは僕の自由の定義の中に、自由の反対は多有だってあの時に言ってましたけど、
それはあくまで言葉での話で、僕が考える自由の中には多有っていう言葉がその反対に置いてますけど、
その自由の中に反対語の多有って本来論理として入るべきじゃないじゃないですか。
自由の定義語が多有なんであれば、
論理としてはその入るべきじゃない。
はい、論理としては入るべきじゃないじゃないですか。
けど入ってるっていう話。
それは僕が捉える自由の中にはその多有に該当するようなのは前提としてありますよっていうだけの話ですね。
まあまあそこは論点の大事なところじゃないのかもしれないですけど、
なんか具体的に言うとどういう感じですかね、自由の中に多有が入ってる状態っていうのは。
まあ、えーと、例えば、そうですね、その日本の法律に従うとか、
その極端な話ですね。
なるほど。
だからその社会の中で生きていく以上、その社会自身がもう地の外なので、
そこをゆえんとして何かしらその選択肢自身に制限を受けるのは当然じゃないですか。
だから絶対その多有っていう言葉があるとすると、そこは多有に該当するじゃないですか。
意味合いとして。
その他から他に由来するものみたいな。
だからその僕がただその自由って表現している、僕が考える自由っていうものにはその多有の前提はありますよっていうだけの話で、
自由って呼んでいるものに多有が全く関わってないわけじゃないというか。
結局その言葉をどう定義するかだけの話なので、
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その解像度をそれぞれ高めるために自由、多有と分けて考えましたけど、
考えた結果、自分が考える自由っていうものの中に多有の成分は含まれているよね、結果的にっていうだけで。
結果としてその自分が考える自由の対義語は多有だっていう完全に僕は言わないっていう話です。
その論理を成り立たせるとすると、多有と言っちゃダメだなって思ってますってことです。
ごめんなさいね。
しょうまさんの言われる自由っていうのが、なんかざっくりとした今のしょうまさんの状況とか前提とかを含めた、
全体的な自由っていう意味で言われたときには多有が含まれるかなっていうイメージが持てていて、
ただその言葉上で、なんか言葉を使うときって大体文脈があるから、主語というか何にかかっている自由かっていう意味で言うと、
そのときに使う、何に対して自由だみたいなことを言ったときには、なんか自由と多有が成り立つような感じも受けていて、
全体として今の現実問題で一番広い範囲での自由みたいなことを言うと、その自由の中にも多有もいっぱい含まれてるんだけどねっていうことがあるっていう話ですよね。
ごめんなさい。ちょっとずれてましたね。
僕が言いたかったのはそういうことで、そもそも僕が捉えたい自由みたいなのがそういうオーバーウォールでの話なので、
極端に文脈を限定してしまえば、何かですね、今日何時に寝るかなんて自由っていう話で、ずっと寝ないで生活できないとか、
それは多有というか、もっと事件の話じゃないですけど、ちょっと例がおかしかったですけど、文脈を固定してしまえばそれぞれにあって、
そういう意味でも完全にきっちり言葉として成り立つからわかりやすいんですけど、自由とは何ぞやみたいなところで、
どういうものかっていう風な構造を整理したいその流度っていうのは、今説明した流度なので、
そこははっきり全部言語化はできないですけど、その流度の中に多有っていうのは前提としてやっぱり含まれてます。
ここで言う言葉として自由の大義語として多有を置いてますけど、自由の中に多有は入ってます。
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僕の中の定義の中でっていう話ですね。その流度で見た時に。
まだちょっと余裕はあるけど、また何か喋り始めるとちょっと半端なところになるかもしれないので、本当にすみません。
もう一回切って戻ってくる感じで。
次回へ続く。