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【早川】こんにちは、早川洋平です。今日はですね、東京都、江東区の東京大空襲戦災資料センターで、橋本代志子さんにお話を伺います。
【早川】橋本さん、よろしくお願いします。 【橋本】どうぞよろしく。
【早川】橋本代志子さんは、1921年、大正10年のお生まれで、今年92歳になられます。
【早川】あのね、先ほど私何歳だと思うというふうに聞かれて、本当に70代くらいかなと思ったんですけども、
【早川】でも、それでは戦争体験しているとなるということで、わかったら92歳ということで本当に驚きなんですけども、
【早川】今日は本当にありがとうございます。 【早川】私がね、東京大空襲戦災資料センターという場所で取材させていただいているのもきっと意味があると思うんですけども、
【早川】橋本代志子さん、吉子さんが、この戦争体験を語られているというのをちょっと伺ったんですけども、いつぐらいからどのくらいの頻度でやっていらっしゃるんですか?
そうですね、正確に考えたこともないし、感じをしたこともないんですけれども、
私の命のある限り話していかなければいけないんじゃないかなと思っております。
だから、意識ないですね。知らぬ間にどんどん年月が経っていってしまったという感じですね。
当然きっかけがあって、ここでお話しされるようになったんですよね。
でも、それにはもう何世紀も、私の半世紀以上、空襲の中にどっぽりと使って、そして暮らして、暮らしの中で決して毎日忘れたことがなく暮らしてきましたね。
振り返るとね、やっぱり私の人生何だったんだろうっていう、考えることがありますけれどね。
でも、知らない間に導かれて、この運動をずっと続けてこられたというのは、やっぱり亡くなった人が忘れられては困るというような思いがあるんじゃないかなと、
私、この頃につくづくそれを思っておりますけれどね。やっぱりそれにはね、若い人への伝承、伝え、これが一番大事だと思って、この頃は若い人、顔を見ると空襲の話をするようになりましたけれどね。
とにかく東京の大空襲、2時間30分で10万も亡くなっているんだという事実をね、やっぱり知っている人は、なかなか確実に正しく伝わってはまだまだいませんしね、
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日本はどこと戦争したのっていう質問がまだ若い人たちの中から出てきますのでね、戦争は二度としてはいけないし、東京大空襲なんてとんでもないことが起こるようなね、世の中ではいけないんだっていうことを、若い人にぜひともね、これだけは私、言い終えてあの世へ行きたいと思います。
さっき始まる前にも、私も東京というか横浜が長いんですけども、恥ずかしながらやはりその大空襲があったっていうのはもちろん知っているんですけども、やっぱりそのすごい、じゃあ具体的にどういうことがあってどのくらいの方が被害を受けたのかっていうのは恥ずかしながらきちんとは知らなかったんですけども、
改めて調べると、東京の空襲自体が100回以上あって、3月10日の時には本当にさっきおっしゃった2時間半で、横浜の方も見ると10万人ですよね。単独の都市を攻撃された空襲では世界最大の一番悲惨なっていうことも正直全く知らなかったので、東京にきっといらっしゃる方も、特に若い人はその辺はやっぱり知らずに。
こういう企画を取り上げてくださったということは、私は今日は本当にいい日だなと思っておりますよね。
私も両親と妹と一人の妹を失いましたけど、やはり忘れたことがない。毎日忘れたことがないって言ったら信じない人もいますけれど、必ず空襲、仕事が仕事ですからね、当たり前だけれども。
でも二度と戦争してはいけないんだっていうことを常に常に忘れたことがありませんしね。そして自分がそれまで歩んできた道はこれで良かったんだという思いがします。
とにかくどうこれからね、私の中にあるのはどうこれから若い人たちにずっと伝えていったらいいだろうかという思いでいっぱいですね。
というのはやっぱり負の負けの負の事実のことはやっぱり賑やかな楽しいこととは違うし、戦争のことですからね。どうして日本は馬鹿な戦争をしてしまったのかっていうことを正しくね、これから胸がいっぱいで何も言えなくなりますけれども。
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正しく伝えて、また伝えて自分たち若い人たちに伝えていってほしいなと思いますね。
そんな中でね、吉子さんが先ほどおっしゃったように、特に空襲のあの日3月10日も含めて忘れたことは一度もないとおっしゃっていましたけれども。
考えの中にね、まとめてくればよかったと思いますけれどね。私ね、子供がいるんです。3人おります。1人は空襲の炎の中を助かった子ですけど、あと2人は戦後になって生まれた子供ですね。
その子供と一緒に暮らしているうちに、やっぱりいろんなことを考えさせられる人生になりましたけれどね。
大きくなって図書館へ絵本を借りに行ったりなんかする母親の一人なんですが、ある日図書館へ行きました。
とても忙しくて、江東区の場合は子供は家内工業が多いところですから、本を読んでやる暇もありませんでしたけれども、図書館を利用している一人の母親でしたけれどね。
とても忙しくて、図書の方も貸し出しの方が忙しくて、江東区の場合は移動図書館というのを図書館の方でやったんですね。
映像出てる?
出てないですよ、全然。
移動図書館というのがあって、ステーションがあってそこへ借りに行くという形をとっていたんですね。
手薄になって忙しいので、誰か手伝ってくれないかなと図書館の人が言って、じゃあ私みたいなのも手伝えますともと言って、自動車のお世話をすることになったんです。
ある日、自動車の人にお手伝いしていました。
佐乙女勝元さんという、今はもう空襲の記録運動で有名な人ですけれども、その方がまだまだ若い時だったんですね。
図書館にいらして、何をしに来たかと言いますと、
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江東区の東京の空襲の被害を調べに来たんだという東京空襲を調べに来たんです。
とにかく東京の空襲はひどくて、そして江東区の場合は死者10万の3分の1が江東区に占められていたんです。
江東区民だったんです。
それなのに広島長崎の原爆にはたくさん資料館もあるし、いろんな本もあるし、皆さんが原爆のことはよくわかっているけれども、
東京空襲のことについてはほとんどの人が知らない。空襲にあった人は別として知らないですよ。
実は門前中町というところで、かつてそこが防空壕だったらしいところで、遺体が掘り起こされていたんです。
私は空襲の遺族が出てきたところで、お話を聞きに記録を残そうと思って行ったんですけれども、
やめてくださいよ、もう遠い昔のことだからと言って、遺族の人がお話をしてくれなかった。
でもやっぱり僕は空襲の記録を残さなければ心が済まないとおっしゃって、
記録橋本さん見てごらん、こんなにたくさん本があっても東京空襲の本はほとんどないでしょと。
本当になかったんですよ、私が。僕は記録を残そうと思っているとおっしゃっていた。
とにかくここで空襲の体験者の話を聞かなければならないとおっしゃっていたんだけれども、
いないんですよね、話してくれる人がね。
私は自分はひどい目にあっているのはよく分かっていました。
けれども人の前で自分の空襲のことを話す勇気というのはなかなかなかった。
けれどもやっぱりこんなに熱心に取り組んでくれる先生がいるんだから、
私は一生懸命話そうと思ったんです。
12:02
夏の暑い日でした、空襲の自分があった空襲のことをお話したら、
涙ぐみながらペンを走らせていました。
橋本さん、記録を残す運動をしませんか、一緒に。とおっしゃられて。
それで佐穂富さんに傾倒して、そして集め出したんですね。
そして当時、都政の先生に東京大空襲の話をして、
ぜひとも東京空襲の本を出したいからということで、運動が始まったんです。
そこが原点だったんですね。
そして東京大空襲、戦災死、前後感というのが、
私の一人の主婦の願いですけれども、それができたのがそこに並んでいます。
それで東京の空襲のことがわかったわけですね。
そしてこれを原点にして、各東京、横浜でも空襲があって、
横浜もひどい思いをして、同じような日本の主な都市はすべて焼けてしまった。
たくさんの死者が出て、忘れないで、これは伝えていかなければいけないんじゃないか。
そこでできたのが東京大空襲、戦災死。
今は横浜にももちろんあるし、各主な都市には必ず空襲の記録が残るような、
少し一人の主婦のやることがね、小さなことしかできませんでしたけれども。
振り返ってみると江東区にはやっぱり何一つ、お城一つないのが江東区の区民の3分の1は亡くなって、空襲で亡くなっているのに、
お地蔵さん一つないというのが立場だったんです。
そこで私たち主婦たちは、お城づくりの運動を始めたんです。
とにかく大変なことだったんです。なかなかスムーズにはいかなかったんですけれども、
頑張って10年かかりました。そしてお地蔵づくりの運動をやりました。
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気がつくと江東区の方々の運河の橋のいろんなところにね、お地蔵さんがあったことに気がついて、
そしてそれをまとめて出版したりして、そんなことをしながら取り組んでいったんですね。
そして残念ながらそういうことはやれたんですけれども、資料館一つないというのが東京の予想でしたね。
資料館を作ってくれといまだに運動をしていますけれども、東京空襲の資料館一つないのが現状ですね。
小さいながらもここは皆さんの寄付で建ったところですけれども、
おかげさまで東京の空襲をまた若い人たちが、だんだん高校生、中学生、層がね、だんだん暑くなってきて、
空襲のことはやられたやられたっていう戦争の話や、やられた日本は、日本の国はね、やられたんだって、ひどい原爆でやられたんだっていうことだけをね、言っているのではなくて、
戦争というものは一体どういうものかということ、若い人たちが本当にそれを真面目に正しくそれを分かってくれるような、
そして、じゅうたん爆撃だっていうことを、日本のね、じゅうたん爆撃っていうのも、銃刑で日本が一番初めにやったことなんだっていうようなこと、被害者と加害者をしっかりと教えなきゃいけないんじゃないかと思いますよね。
片方だけじゃなくてですよね。
それで、平和っていうことをね、いかなきゃならないし、その原因でいうのか、戦争の原因は貧困だけじゃなくて、いろんな要素が戦争にはあるんだっていうことも、すべてそう思わなきゃ。
やっぱりまず子どもたちの情操的なものが、受け取る情操的なものが育っていなければ、いくら戦争の話をしたって、いくらどこをやったって、やっぱりまずいわね、できないし。
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情操的っていうと、例えばもうちょっと具体的にどういうところを感じますか。
いじめのない相手の立場を考えてあげるとか、労働するのが美しいんだっていうことだとか、日本にいっぱいいろんな、たくさんいいものがいっぱいあるはずなのに、それをかもし出してね、いかなきゃいけないんじゃないかと思うんですね。
まず優しい心、人を愛することが一番考えていかなければいけないんじゃないかと、子どもたちにも。まずそこから始まるのが平和運動じゃないかと、私の後は生意気なこと言ってますけどね。
吉子さんから見て、その情操的な部分が大事っていうのは今理解できたんですけども、この68年見ていて、そういったものってやっぱり失われつつあると思います。だから逆にこう伝えていかなきゃっていうのは昔よりも。
そうですね。やっぱり大人の責任っていうのは大きいでしょ。だからやっぱり賢い大人にならなきゃならないと思いますよね。
私は一番自分が本で子どもを育てたもんですからね。やっぱりいいものは子どもに与えるとか、音楽でも文学でもね、いいものを与えて、その中で子どもは育っていったらば、私はいいと思うんですよね。
これが私の家の家族なんです。
吉子さんは?
ここにいます。24歳でした。
若い。若いですよね。
これが、私の棘の下が千恵子。
妹さん。
19歳です。
私の千恵子の下に越子。越子の下にこの子が一番末っ子です。
女の子4人。
みなさん女の子。
全部生きてたら8人ぐらいいるんですけどね。交通事故とかいろんなことで亡くなりましたからね。4人残って、4人が女の子です。
母はダブルフト。うちはメリヤス屋でした。
あ、そうなんですね。
隅田川ですね。近くに亀沢という町があります。そこの出身です。
父の時代はメリヤス工場を経営していたんですけど、戦争でもって企業合同させられて、立ち行かなくなって辞めたんですけどね。
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企業合同というのは勉強不足で。
企業がありません。合同させられるんです。
何年もメリヤス屋があるでしょ。
企業が合同させられて、そこでメリヤス屋の大きな工場で軍需品を作るわけです。
国の意向で。
今みんな鉄工場を戦争するとそうですよね。鉄工場を合同させて大きくして、そして兵器を作るとかね。
そういう形を取りますね、戦争。平和なんですね。それこそ家庭だったですね。
男の子がいないで、私を母は特別扱いと言ってもいいくらいに後取り娘として盛んにいって、他の子の手本になるように厳しかったですね。
ものすごく厳しい。物差し持っていつもピシッとやられるような。
そういう事情でした。そんな生活をしていましたけれど。
一つ母の願いは男の子がいない。後取りがいないということが一番お母さんは大変だった。
おばあちゃんがおさんの見舞いに来て、おやおやまた男の子かいって言って、男の子じゃないね、女の子だよって言ってね。
女を軽蔑するような教育を。その当時は両妻憲武の教育でしたからね。
そんなような教育の仕方さえされましたけれども。
とにかく相当私は活発な人間だったものですからね。
だから何かに反発するんですね。矛盾があるの。
伸び伸びと生きたいのにね、あの時代は。
いとこの人と手をつないででも有名になっちゃう街を有名にするんですからね。
そういう面もありましたしね。男女関係もそうだし。
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相手の人もいろいろあってね。
活発なところのお嫁さんになんて、お婿さんになんて誰が食うものだったかっていう風景だったんですけどね。
この時はもうご結婚されてたんですか。
結婚したのはね、21の時でしたね。
南支派遣軍といってベトナムの方ですね。
ベトナムの方に兵隊に行っていて、夫になる人はね、帰ってきて、そして結婚したんですよね。
見つけたったら召集になって、また兵隊に出て、だから元気で帰りましたけどね、運がよく。
でも落ち着く暇もないし、なかなか結婚も大変な時代でしたね。
ご主人になる方と結婚する前には、例えば当時はどういう経緯でしたか。恋愛結婚とか。
恋愛してる暇がないんです。
お見合いとも違う。
お見合いとも違うし、いろいろお友達に聞いてみると、お見合いとか、それから兵隊に行くからね、結婚させてやりたいという親心も。
親心の人もありますしね。
それから、だから、いろいろありますよね。
男の人も気の毒ですよね。
これが夫です。
そうなんですね。
兵隊、戦場から。
その時、お名前はご主人は。
はい。
文作っていう。
文作さん。
当時、やっぱり20代前半?
いえ。若く見えますけど、30以上です。
本当ですか。全然っていう言い方がいいかわからないですけど。
でもそうです。
よしこさんより上、歳は。
そうです。9歳上です。
そうなんですね。
だから子供扱いですよ、本当に。
女の人の方が増せてましたけどね。
それは今の世の中でも一緒だと思いますけど。
でもいつまでも兵器っていうのがついてますからね。
そうですね。戻られて3ヶ月いてまた行っちゃったわけですよね。
それで帰ってきていろんな話を、戦場とか兵隊とかいろんな話をしてくれましたけど、
やっぱり軍隊っていうものの恐ろしさありますよ。
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戦争になったら若い人はどうなるのかっていうことぐらい、やっぱり知っておくといいかと思いますよね。
なってからじゃ遅いですからね。
どこまでも。
うちの夫の場合はほとんど青春時代は、現役でもって20歳の時があるでしょ。
あとは軍人でしょ。だからほとんどね、戦争ですよね。
一番ね、青春というか青年時代の時ですよね。
その人たちはみんなお国のためだっていうことで、みんな戦死しますもんね。
特攻なんていうのはもう、チランへ行くと私涙がこぼれてあそこはとても入れませんよね。
校庭、そうか。小20年の頃は文作さんはそうか。
それで18になると軍事工場へ行かなければならない。
女の人はほとんどね、18歳まで、私は軍事工場へ連れて行かれますからね。
普通18歳の女性はお店でもって使えない。使用人に使えない。
どういうふうに人間をね、兵器に、私もよく言えないけれども、
とにかく18歳以上の人は普通のうちは何かに使用人として使えないんです。
そういう法律があってね。
指導書というものを通して、そして軍事工場ならばOKだけど、
普通一般の仕事にはつかない。
貸しなものは全部統制で。
だって赤ちゃんのお乳を私、取らなくて行くと、ミルクの糸缶を買うのに大変だったんですよ。
大変だった。
で、まず病院へ行って、このお母さんはお乳が出ませんという証明をもらわなければ。
まずそこから。
それから今度隣組の組所さんの範囲。
それから区役所の範囲。
もちろん行って、ちゃんと見てもらって、先生に見てもらって。
そして糸缶のミルクを手に入れるんですよね。
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そういう思いして子供は育てて。
さっきも言いました、この子供を見ても。
決してベトナムの子ではないんです。
一瞬ね、日本じゃないって思ってますね。
知らないでしょ、今の子供はね。
ここへ来ると、このシワシワになっているのは痩せてるし、栄養必要で。
お腹がポンポンで、お腹はみんなポンポンして。
これもみんな栄養必要ですね。
これを読んでいます。
頭東京。
古事ですね。
はい、古事ですね。
千歳古事収容所の子供たちという写真ですね。
その子がね、どんなもの、人のものを取って食べたって何とも言えませんよね。
みんな今の大人になっている人は、そういう道筋を取っているんですもんね。
ただ我慢しているだけでね、分からない。
だから二度とそういう思いをさせたくない。
だからもっと戦争のことを正しく、その当時のことをね、知らせなきゃならないし、
大人はね、もっと子供にきちんと教えなきゃいけないと思いますね。
私も反省なんですけど、今子供もいるんですけど、やっぱり無関心が一番まずいけなくて。
でも明るく育てなきゃいけないですよね。
だから私この間も言ったように、何歳ぐらいから先生に聞くんですよ。
何歳ぐらいから空襲のお話と、それからこういう写真を見せたらいいですかって。
私はもうね、小さい時はね、徹底的に苦しいもの、嫌なものは排除して教えてきましたからね。
いくつぐらいからしっかりと教えることになると思いますけどね。
今ここに来る子供たちに、もう大きいから大きいっていう、6年生ぐらいになればね、もう理解しますからね、お話しますけどね。
小さい子にはかわいそうな話ししないんです。
そうして子供に、ひと缶のミルクだけならいいんだけど、穀粉っていう、穀って穀物の穀、粉は粉です。
穀物の粉、穀粉。
穀粉って言うんです。それも一緒に配給になるんですけどね。
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それなどトロトロに溶いて、そしてミルクの代わりに。
とにかく子供一人育てるのは大変です。
石鹸もなければタオルもないでしょ。
お風呂に入るのにも大変です。
朝起きるでしょ。
そうするとね、見回すんですよ。
今みたいに高層ビルはないでしょ、その当時は。
だからお風呂屋さんの煙突がね、高くたくさん見えます。
あそこの煙突は何とか言うだから、今日はやってるだろうからって言うので行くの。
それがまた大変なのね。石鹸なんてないでしょ。
だけど一生懸命子供のために、
闇っていう値段、2倍も3倍も高く作る闇なんですよ。
それとそれから大きな風呂敷。
それに自分の抜いたものを全部、そうしてくくるんですね。
なぜかって言うとね、ひらみとのみがいるのよ。
それでお風呂入ったら、のんびりするだろうととんでもないんですよね。
石鹸と、それからみんなそういったようなものがね、なくなっちゃうの。
取られちゃうの。
だからね、お風呂入っててこうやっているでしょ。
自分の品物からいつも目が離せない。
それは落ち着いて入れないですね。
そんなね、そういう庶民の生活っていうのはそうだったのよね。
それでも国のためだから、負けたら大変だっていうこと。
当時、やっぱりもう毎日空襲東京100回以上あったっておっしゃってたじゃないですか。
その時って、吉子さんのご家族とかっていうのは、
その中にいても毎日、例えば明日自分たちがどうなるかわからないみたいな、
死と隣り合わせみたいな感じでしたか。
深刻に考えないんですよね、割合に。
でもみんなね、そうなの。みんなそうだからしょうがないのよっていう感じね。
戦争慣れしてないんですよ。
天皇制っていうのはすごいなと思いますね。
新聞で油物なんかやった時に拭くでしょ。
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天皇の顔のあるところは別にしておくとか、そこはまた別に焼くとか。
そこまで。
実際、天皇が例えば車とか歩いてきた時は顔は見ちゃいけないとかって。
だから天皇制っていうのはね、やっぱり大変だったですね。
いまだにもう少しいろんなことを知ったらいい。
自分でももっと勉強したらなかったなって続くと思いますね。
だからこれから先ね、若い人たちが生きるまでに、
戦争なんてどう思うのか、反対に私たち聞きたいくらい、
戦争で兵隊に行くってどう思うのか、自分の人生っていうのはどう考えるのか、
国とは何なのか、もう考えることが山のようにあると思うのよ。
だからこれから大変だと思います。
私が無一本になって、戦争の焼け野原に立って何を考えたかって、
私の国って一体何なんだろうか。
それが一番初めに考えられた私のことだったですね。
答えって出ないかもしれないですけど、その時ってどう?
自分で自分に問うた時に何か。
とにかく生きなきゃっていうことですよね。
だから生き残ったっていうことの嬉しさ、命の大切さ。
だから私の場合は妹たちを残して両親が死んでしまった。
その妹をどういうふうにするのか。
とにかくすごい何でも食べましたよ。
ザリガニなど毎日食べてる。
茹でてね、赤くなってね、それを。
そして干しておくとイタチが来て、イタチが食べるんですよ。
イタチがいたんですね。
食べるものをね、ものすごくあれですよ、何でも食べましたね。
タニシジャとかね、それからイナゴもバッタも食べたり、周りであらゆるものをね、食べましたね。
生きるっていうことはね、すごい。
食べ物がある程度、普通のものっていうのも変ですけど、
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食べられなくなってきたのは戦後どのくらい経ってからでした?
戦後、だいぶ経ってからですよね。
戦後も食料なんでしたからね。
とにかくよく食べ物を、ユリのネコまで食べて、
今は高級料理屋になるくらいだけど、
ヤマユリのネコだとかね、
それがやっぱり農村育ちの夫が生きるあれをありましたね。
ご主人は?
新潟県で生まれ育てて、
だから本当に農家のことを知っているから、雑草も知っているし、きのこも知っているし、
だからすごい自然の勉強になっていました。
ご主人はいつごろ戻られていたんですか?まさに終戦のタイミングで。
終戦になってから、それから間もなく帰ってきました。
帰ってきても、もう本当に商売もできませんし、
パッキングの仕事ですけどね、できませんし、
病みをやるし、話をいろいろ聞くし、
妹は病気になるし、
その病気は何か、栄養失調とか?
そういうね、なかなか、とにかくよく生きてきたって感じで、
本当、私だからみんなに言われるのよ。
すごいねって、生命力が。
でも本当、しっかりと生きていくことを子どもに教えなきゃダメね。
今、よしこさんの話を聞いていると、
生きていくとか生きるって、僕も使いますけど、全然説得力が。
しみじか、説得力ないでしょ。
違いますね、つまり。
僕が生きるっていうのと、
今のよしこさんがよしこさんの体験から生きるのが大事っていうのは、
やっぱり重みが違うなっていうのを。
すごい。
とにかく、すごい私、90いくつまで生きてきた。
生きてきたのは事実。
橋本さん、どうしてそんなに若々しく生きてられるの?って
お友達が聞くんですけどね。
でもやっぱり、気力っていうのかな、
生きようっていうことはやっぱり大事なこと。
簡単に、私子どもによく言うのは、地球が始まって以来ね、
命っていうのはさ、自分の命って考えたことある?って子どもに言うのは、ないなって言うけど。
42:04
だって、本当につながってるんですよ。
そんな不思議なことないですもんね。
本当にそうですね。
なんかよくね、生まれたのは奇跡だとか言われて、
僕も正直ピンときてなかったんですけど、
今回この戦争のこういうのを始めてお話が上がっていくと、
やっぱりそこで生きてきた方たちがいて、だから生まれてるわけで、
本当にそれはやっと意味がわかって。
だから子どもたちに話すると、今私は鶴を追ってるの。
鶴、はい。
鶴、ここにある紙の鶴ね。
これやっぱり平和っていうことがあるんですかね。
これは普通の鶴だとね、何でもない鶴でしょ。
だけど私の鶴はね、羽ばたくんだよって子どもに言うの。
ここに来るとね、みんな。
すごいすごい。
だからね、羽ばたくんだ。
もっとみんな大事にしなきゃいけないものっていうものを大事にしなすぎるのね。
正方形の紙でしょ。
それなのにこんなに動くのよ。
日本の文化ってすごいじゃないの。
鶴の形っていうだけじゃなくて動かすこともできる。
そうでしょ。
これは何ですか。
これはね、空襲で亡くなった人の遺骨。
遺骨だけどね、引き取り手がないの。
みんな亡くなっちゃったから。
引き取る方も。
引き取る方が引き取れないの。
だからね、子どもにね、私に、子どもに話しするときに、これは遺骨です。
空襲の3月10日に亡くなった人の遺骨。
戦争はいかに焼き尽くすかって、
アメリカは砂漠に下町を再現して、
畳から何からね、全部知らない子どもたちにね。
だから三尾さんがね、橋本さん、30分、30分よって。
30分で何にも話せない。
この人と。
だからね、違うものを持ってね、この子はお釜を持って逃げたんです。
そうなんですか。
お友達とか。
お友達は、写真帳にはないんです。
二三歩手帳って昔は言って、今は帽子手帳。
帽子手帳なんです。
東京府ですね、まだ。
府ですね。
一番上の水の中から助かった。
45:03
おそらくこれを持っているのは、私ぐらいなものですよ。
これは橋本さんのなんですよね、当然。
そうです。
このときも私、矛盾を感じるんです。
矛盾。
なぜかというと、この橋本宗次郎というのは父なんです。
それでこの手帳はね、母子家庭ではないんだけれども、
夫の名前を書く欄がないの。
ないですね。なぜ。
なぜですよ。家長制だから。
ああ、そうか。だからお父さん。
だから女の価値というのはやっぱりね。
そういう日本の国だったの。
ちょっと見せていただいてもいいですか。
ここにいろいろ書いてあるんですよ。
結構いっぱい書いてありますね。
おむつや何か、これがないともらえないの。
たどんなんて書いてあったってわからないでしょ、今。
そうですね。
炭があるでしょ、炭。炭がふるうと粉ができるでしょ、黒い。
それをね、土入れるんです。
土を入れてね、丸めて干すの。
へえ。
それをたどんだの。
それは何に使うんですか。
えーと、燃料。
燃料に。
ですからそれにお鍋や何かかけて煮物をしたりする。
ああ、そういうことか。理解しました。
わかりました。
そういうものなんですよ。
おそらく今日みたいに落ち着いて聞いてくださるとね、話してますけど大勢たくさん来て。
そうですね。しかもそれで30分は無理ですよね。
だから物を書くようになるし、書くと戦争と子どもたちとかいろいろありますからね。
ここへ来て読んでくれて子どもに、まず先生たちが戦争の話をよく聞いてくださると。
本当に教育とか子どもに何を伝えるかとか大事ですね、改めて。
それが全てな気がします。
だから話しさにしなきゃならないことが山にある。
この体力手帳というのはどういうものだか。
これは第2回の兵隊を養育するためのものです。
ここに書いてある。
本人保護者の心より。
小国民、国民。これは大事なもので、私が亡くなったら置いてきます。
これ軍隊手帳です。
48:00
すごい、これは。
兵隊はみんなそれを持たなければいけない。
これご主人のですか。
コピーするといいんですけどね、ごめんなさい。
いえいえ、とんでもないです。
こういうものをね、当時の若い人たちはそういうもので見よう。
若い人がね、ここのところを伝えようという声がね、かがってきたんですよ。
そうしまして、なかなかね、もうね、私などはもうじきあの世に行くけれど、
若い人たちはね、これからの若い子たちが戦争になるとね、やれないです。
すみません、1点伺いたいんですけど、105回か106回東京空襲があったじゃないですか。
やっぱりその3月10日の時は、明らかにその夜中の時からもう他の今までの空襲とは違うっていう感じだったんですか。
いえいえ、あのね、それまでにね、年中飛行機が来てた。
毎日のようにね、それでアメリカはね、高層寝てるわ。
さっきみたいにね、なんていうのかしら、飛行機、どんな爆弾がいいかとかね、
とにかく戦力でも、テレビでもね、よくご覧になっただろうと思う。
戦力やなんかだとね、何を考えたのかしら。
私みたいなね、おばちゃんがね、考えるのと違うでしょ、国を背負っている人が戦争なんだ。
何ででしょうね、いまだにどうしてかしらと思いますよ。
で、なるほどな、戦争っていうのはそういうもんだと思ったの。
本当に大きな網をかけて、人の命を何と心得たんだろうと思いますよね。
私の夫のお母さんなどは毎日毎日、お膳を作ってさ、息子の部員上級をやってますもんね。
あのお母さんがね、と思って、息子が元気だったらいいけれども。
8月15日の天皇陛下の玉音放送は聞かれました?どこで?
疎開先です。
疎開先はどこですか?
千葉県です。
千葉県の、私の家を話しするとね、あれだ。
1軒買ってね、家を借りて、少しはお金があった。
1軒買って、そこでね、疎開して東京からそこへ移っていこうと思った。
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そうしたら、空襲にあって、東京の家はみんな焼けちゃった。
そして、田舎の疎開しようと思ったうちには、人が入ってた。先生が。
そこにね、捜査っていう、捜査軍ってありますけどね。
捜査軍の、捜査高校の先生が入ってて、そして、出てくれない。
でも、六畳一間をね、出てもらうように交渉して、
そして出てもらって、そこに住むようになって、
そしてある日、玉君の放送があるから、天皇の放送があるから、
集まってくれというので、集まって。
男の人はね、さすがね、涙ぐんで拳で泣いてましたよね。
だけどね、私、私ね、嬉しかったの。ものすごく嬉しかったの。
戦争が終わるってことが。
それでもう、みんな泣いてるのに、私だけゲラゲラ笑えないから、隠れていましたけどね。
本当に、よかったなあと思ったの。
それまでね、とにかく中国の戦争っていうのを、夫は見てきたでしょう。
だから、戦争に負けるってことはどういうことかっていうのは、よく知ってんですよ。
それこそ今の南京逆説にはないけれども、ひどい目にあるんですよ。
ひどい目。
お腹を龍拳で刺されたりね、もうありとあらゆる地獄を見てきた。
戦争っていうのはそういうんですよね。
ありとあらゆる地獄を見てきた。
だから、そこからちょうど白石っていうところが、敵前上陸っていうか、
敵前上陸って上陸するんですけどね、そこから米兵が入ってくるってわけですよね。
だから、夫はね、そういうことを見てるわけで、
日本軍がやった。そこでもう、ひどい妊婦は刺されてるしね、
戦争の後っていうのは大変なもんだ、事実はね。
だから、日本もやられると思ったの。
だから、髪の毛も短くしてね、
54:01
そして、そういうことを言って、ボロまとってね、
そしてこの国道まっすぐ、新潟県の方へね、自転車に荷物を積んで、
行きなさいって言われたんですよ。
男はね、みんなここで戦わなきゃならないだろうからね。
決心したんですよね、夫は。
その矢先に玉砕、
終戦玉音放送。
だから、私は嬉しくて嬉しくて、本当に思えてます、今でも。玉とか。
天皇陛下の声って、結構はっきり聞こえました?
何だか初めで分かんない。
言う方多いですよね。
なんであんな、でも日本の国、悲しいからもうちょっと文化的じゃなきゃダメね。
というのは。
だって分かんないでしょ、あんな分かんない言葉を、いまだに。
分かんない。
いまだに分かんないでしょ。なんであるんでしょうね。分かんない。
それからね、生きるせいで戦いが始まったんですよね。
つまりその戦争中、戦争始まる前ももちろん大変だったけど、終わってからってことですよね、今の話。
大変ですよ。終わってからね。
で、みんな職業ないから、闇をやるわけよ。
いいとか悪いとかやってられない。
そうですよね、生きるまさにために。
だからそんなね、私なんて本当にね、引き上げ者がいるでよ。
朝鮮から引き上げた王子がいるでしょ。
そうするって、それから言うでしょ。だからね、4人ぐらいいて、それからあと家族でしょ。
大変ですよ。
だから雑草を摘んだりね、ありとあらゆるものを。
そこへ行くと野生のこと、知識っていうのは、人間の知識っていうのは大したもんね。
食べるものより強くてね。
最後に一つだけ伺いたいんですけど、この企画冒頭でも話したように、
この音声を撮って、これを世界中に配信します。
なので、まだ生まれてない子どもとか、僕も将来あの世へ行った後に聞く人もいるかもしれない。
そういう人も含めて、日本、世界まだ生まれてない人にも含めて、やっぱり誰よりも平和と戦争を両方知っている方だと思うんですけども、
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改めて一言、何か伝えたい。一言ってまさに難しいと思うんですけど、メッセージをいただけると最後に。
とにかく命を大事にしてください。そういう一言ですね。
今日ね、今までお話を伺っていたのに、その意味が多分皆さん誰よりも深く分かると思いますので、
本当にこのきっかけに僕も少しずついろんな活動を続けて、
同世代とかもっと若い世代に伝えていけるように頑張ります。
ありがとうございました。